年度 ; (1973)
 監督 ; 東陽一
 脚本 ; 東陽一、前田勝弘
 音楽 ; 
 出演 ; 緑魔子、河原崎次郎、山谷初男、佐藤慶、吉行和子、渡辺文雄、織本順吉
東陽一2作目の監督作品。民話を元に現代を描写した異色作となっている。
昔、人間の考えを読んでしまうサトリという妖怪が棲んでいた。サトリは人間の考えを次々と言い当てて追い詰め、考えることはなくなると殺してしまうのだった。
ある日、木こりが焚き火をしているとサトリがやってきて考えていることを言い当て始めた。あせった木こりは辺りの物を焚き火にくべながら様々なことを考えていった。やがて思考が途切れ始めて、サトリがいよいよ襲いかかろうとしたとき、焚き火の中の栃の実がはぜてサトリの片目を潰した。サトリは人間という奴は思いも寄らぬことをすると叫んで逃げていった。
あや(緑魔子)は、恋人の内田がサトリに取り殺されたといって、精神科医の竹田(佐藤慶)にかかっていた。彼女が恋人を亡くしたのは二人目だった。
竹田は、全ての精神病患者は犯罪予備軍だという過激な思想の医者だ。
あやは水族館の切符売り。彼女は一人の青年ものぐさ太郎(河原崎次郎)と知り合う。
あやは自分の中が一杯になって、それが他人に伝わらないときサトリが現れると考えていた。
あやが自室にこもっていると、部屋の隅に片目のサトリ(山谷初男)が現れ、何故という問いは人間にはなくなり、ではどうしてという問いしか残されていないと言う。
ある日、あやは酒場で太郎と再会する。サトリは、あの男の思考は読みにくいと言った。
二人はヒッチハイクでトラックに乗って温泉に行く。いつもは物憂げなあやが楽しそうに旅をする。
太郎は、あやの元にサトリが現れるのは、胸の中でチロチロと焚き火が燃えているからだと言う。
金のなくなった太郎が路上で物乞いのまねをしていると、地元の青年二人が絡んでくる。彼らは理想国家建設の資金作りに紅白の羽を売っていた。
二人が焚き火をしているとサトリが現れる。この辺りは自分のねぐらなのだ。
翌朝、二人は死体を発見する。外傷はないのに言語中枢が壊滅した怪死だった。この死に方は連続して起こっており、調査には竹田も加わっていた。
サトリの能力を持った男を、国際スパイとして利用しようと考える社長(渡辺文雄)も出てきた。
作品中ではよく分からないが、芸能プロダクションの社長という設定らしい。
サトリは犯行は自分ではなく、もう一匹別のサトリがいるのかもしれないと考える。
太郎は別のサトリなどは存在せず、一匹のサトリが自分を持て余しているのだと考えていた。
あやに赤い靴を買うため物乞いをする太郎。金は集まらず、彼は泥棒を働いてピンクのカーネーションを買う。太郎も結局人間社会のしがらみから逃れられない。
サトリは国家権力に組し、思想犯から情報を得る活動に利用されていた。
ジレンマに陥るサトリ。
サトリは、あやの悲痛な心の叫びに誘われてこの世に出てきたのだと言う。
赤い靴を買おうと再び物乞いをする太郎。そこに立派なスーツを着た紅白の羽基金の二人が現れる。太郎は、この二人に夜の公園で襲撃され角材で殴り殺されてしまう。
あやの元を訪れ、太郎の死を告げるサトリ。あやは太郎の死を信じなかったが、彼が戻ってこないことを悲しんでいた。あやは妊娠していた。お祝いにおもちゃと赤い子供靴を万引きしたサトリ。追いかけてきた警備員と揉み合ったとき、紅白の羽がサトリの目に刺さってしまう。失明したサトリは「栃の実がはじけた」と叫んで走り去る。
一人残されたあやだが、病院通いをやめ、たくましく生きようとしていた。
民話的な設定だが、作品自体はシュールな印象だった。細部を語らないので表現不足なところもあるが、それが逆に不可思議な魅力を与えてもいる。
日本妖怪伝というタイトルだが、物の怪サトリでさえ呑み込んでしまう現代社会そのものが妖怪という気がしてくる。
思考を読み取るサトリは孤独なあやにとって唯一の理解者であったのかもしれない。
音楽は、既成のクラシックなどを使用しているため、クレジットがない。丸山圭子作曲による主題歌「裸のわたし」のメロディも印象的に使用されている。
その他、下川辰平、蟹江敬三、石橋蓮司が脇を固めキャストも充実している。
日本妖怪伝サトリ