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青い薔薇の血族
二章 第二日
2.白昼の衝撃
 会社自体は週休二日、土曜も休みだが真紀の部署は別だ。曜日など関係ないかのように活気に満ちていた。スタッフの中には昼夜すら関係なく仕事に没頭する者もいた。完全にワーカホリックである。
 さすがに真紀は今日中に原稿をまとめてしまい、日曜は休息をとるつもりだった。
 パソコンのワープロソフトを起動し原稿を打ち始めた。青い薔薇開発成功の発表からこれまでの経緯、昨日取材した技術的解説、それにまつわる苦労話。真紀は手際よくまとめていく。
 一通り打ち終えて読み返してみた。うまくまとまってはいるが、何か物足りない。アクセントに欠けているのだ。
 そうだ。記事の冒頭に青い薔薇に関する過去の逸話を載せてみよう。長い年月にわたって切望された青い薔薇だ。調べれば面白いエピソードがあるに違いない。
 真紀は早速インターネットで調べてみることにした。ネットの検索サイトに接続する。
 まずは「薔薇」と「青」をキーワードに検索した。表示された検索結果の件数は七百万を超えている。
 青い薔薇がどれほど注目を集めているかの証明だ。真黒社長は笑いが止まらないことだろう。真紀は思わずため息をついた。人気があるのも良し悪しだ。
 まあ、しかたない。試しに一件ホームページを開いてみる。仲間内で青い薔薇に対する意見を述べ合っていた。
 無条件で青い薔薇を心待ちにしている者、遺伝子操作はとにかく反対という者、逆に技術革新大歓迎という者、たかが花に世間が大騒ぎするのはバカらしいという者。
 特に目新しい意見はない。真紀が探そうとしている青い薔薇に関する逸話とも趣旨が違っていた。
 別のホームページに移動してみる。青い薔薇を讃える自作の詩を掲載していた。歯の浮くような甘い言葉の連続。少年の情熱を失っていないと言ってあげたいが、真紀には気恥ずかしさの方が先に立つ。最初の五行で遠慮することにした。
 これでは埒(らち)が明かない。真紀は早くもうんざりし始めていた。キーワードを増やして絞り込んだ方が良さそうだ。
 真紀が追加するキーワードを考えていると、吉岡が声を掛けてきた。
「昼飯を食いに行かないっすか」
 真紀はディスプレイ隅の時刻表示に目をやった。いつの間にか十二時をまわっている。そうと分かったら軽い空腹感を感じてきた。良い傾向だ。今朝の目覚めが良かったせいだろうか。食欲があるのは体調が戻ってきている証拠だ。
「そうね、行きましょう」にっこり微笑んで真紀は立ち上がった。
 本人は意識していないが、真紀の笑顔は本当にチャーミングだ。心が癒されて温かくなるような気がする。
 吉岡は何だか嬉しくなった。真紀はこのところ沈み込みがちで、この笑顔を見たのは久しぶりだ。恋愛感情があるわけではないが、吉岡は真紀の笑顔に接すると自分まで嬉しくなってしまうのだ。
「じゃあ、表で待ってて、車をまわすから」
 愛車の4WDはビル裏手の駐車場に停めてあった。吉岡は早速取りに行く。うきうきした気分で丸い身体を弾ませていた。

 出版社はオフィス街の外れに位置していた。大通りに道一本へだてた路地に面している。裏道とはいえ、平日であれば食事に出た多数のサラリーマンが往来している時刻。だが、今日は土曜とあって人気がない。
 ビルの玄関に出た真紀は、不思議な感覚に襲われた。デジャヴというものだろうか。つい最近、別な場所で同じ光景を見た。そんな気がしたのだ。
 真紀は辺りを見回した。車だ。左手前方に黒塗りのセダンが停まっている。
 思い出した。今朝、自分のマンションを俊一と出たときだ。マンションの正面左、同じような位置に似た車をちらりと見た。その光景が記憶の片隅に残っていたのだ。
 さほど珍しい偶然ではない。どこにでもあるような黒塗りのセダン。朝見かけた車と目の前の車を結びつけるという発想は起きない。ただ心に引っかかった糸がほどけて、すっきりした気分だった。
 セダンに興味をなくした真紀は、吉岡の4WDが来るはずの方向に視線を移した。
 セダンの中では、朝と同じ二人が真紀の様子を窺っていた。彼らは昨晩から真紀が一人になるのを待ちかまえていた。そしてついにチャンスが到来したのだ。
 中年男がアクセルを踏み込む。セダンは滑らかに動き出した。獲物に忍び寄る猛獣のように。真紀が気づいたとき、セダンはすでに目の前にすべり込んでいた。
 若い男が素早くドアを開けて真紀に掴みかかった。真紀は、あまりにも急な出来事に反応が遅れてしまった。左の手首をきつく掴まれ、思わず悲鳴を上げる。
 男は真紀を強引に引きずり込もうと、手首をぐっと引いた。
「いやっ」
 真紀はセダンのボディに右手をかけ、渾身の力で抵抗した。男と視線が合う。真紀の背筋に冷たい感覚が走った。
 単なる無表情というのとは違う。どんよりと曇った生気のない眼差し。白昼の路上で人一人誘拐しようとしているとは思えない、緊張感に欠けた顔つきだった。
 そのミスマッチが、真紀にいっそうの恐怖を引き起こす。
 真紀の手首にかけられた力は尋常なものではなかった。全体重をかけて逃れようとするが、びくともしない。
 男は更に力を加えた。真紀はついにバランスを崩した。上半身が後部座席に引きずり込まれそうになる。
 その時、背後からけたたましいクラクションが響いた。
 男は無表情のままであったが、それでも多少は気を取られたようだ。真紀の手首にかけられた力が僅かにゆるんだ。
 チャンスだ。真紀は身体ごとねじって手を思い切り引く。男から逃れることに成功した。
「真紀さん、大丈夫っすか」4WDから身を乗り出して吉岡が叫ぶ。
 襲われている真紀を目にして、とっさにクラクションを鳴らしたのだった。
 男が再び真紀に掴みかかった。真紀は素早くかわすと身を翻(ひるがえ)して駆け出す。いきおい吉岡の4WDとは逆方向に向かうことになった。男はセダンを飛び降りて真紀の後を追いかける。
 土曜のオフィス街で人気が少ないとはいえ、大通りに出れば通行人がいるだろう。真紀は希望にすがって全力で走った。足には自信があるが、若い男にはかなわない。少しずつ距離を詰められてしまう。
 背後に迫る男の気配。真紀は振り返りたい欲求を抑え、大通り目指して走り続ける。
 吉岡と中年男は、それぞれの車で二人を追おうとした。吉岡の4WDがセダンの前方に回りこむ。そこに急発進したセダンが追突した。4WDは路地をふさぐ格好でエンストしてしまった。吉岡は、あわててキーをひねりアクセルを踏む。かからない。
 やむを得ず吉岡は4WDを降り、走って二人を追うことにした。前方の二人は、もう大通りに達しようとしている。日頃の運動不足に加え体重超過の吉岡は、心もとない走りで大通りを目指す。
 真紀はようやく大通りに出た。かろうじて追いつかれずにすんだ。誰か通行人はいないか。周囲に気を取られた真紀は歩道の段差に足を取られてしまった。
 全速で走ってきた勢いで身体が宙を飛ぶ。車道に思い切り叩きつけられた。息が詰まり全身に痺れるような痛みが走る。
 なんてドジなの、倒れている場合じゃない。真紀は必死の思いで痛みをこらえ、上半身を起こした。その目に大型トラックの凶暴な姿が飛び込む。トラックは真紀に向かって真っ直ぐに突き進んでいた。
 トラックの運転手は必死の形相でブレーキを踏み込む。タイヤが悲鳴をあげる。道が空いていたためトラックは制限速度を大幅に超え疾走していた。
 だめだ、間に合わない。運転手は絶望の虜(とりこ)となりつつも空しくブレーキを踏み続けた。
 真紀は全身を打ちつけた痛みと身のすくむ恐怖で動くことができなかった。自分の動きも迫り来るトラックも、全てがスローモーションに感じられた。
 不思議な夢、自分を狙う正体不明の男たち。不可解な出来事の連続だったが、よもや自分の人生がこのような形で終わろうとは思ってもみなかった。
 突然、若い男が突っ込んできた。人間離れした怪力で真紀を突き飛ばす。真紀の身体は車道の端へと転がった。
 打ち身に痺れた身体に再度の衝撃。全身がバラバラに砕けたような激痛。真紀は涙のにじむ目で男の姿を捜した。
 男は一瞬前まで真紀のいた場所に膝をついていた。真紀には男の行動が理解できなかった。トラックに気づいていないとは思えない。
 男と目が合う。次の瞬間、鈍い衝突音とともにトラックが横切り、男の姿は真紀の視界から消えた。映画の画面がワイプして切り替わるような非現実的感覚。真紀は、その場で気を失い倒れ込んだ。