前へ 目次 次へ
青い薔薇の血族
四章 第四日
1.閃光
 真紀は、うなされて目を覚ました。枕元の時計は深夜零時をまわっている。
 今夜はどうかしている。ベッドに入ってまどろんだと思った途端、悪夢に襲われて目を覚ましてしまった。それでいて夢の内容は覚えていない。
 部屋の空気がどんより淀んで感じられた。真紀に背中に冷たい感覚が走る。悪夢と現実の狭間が判然としていない。目を覚ましているのに悪夢の呪縛から逃げ切っていない気がした。
 俊一に泊まってもらうべきだったろうか。真紀は少し後悔した。俊一には月曜から開始する実験の下準備があった。教授の出張中にデータ取りする予定だ。
 真紀は警察が張り込みしているから大丈夫と、迷っている俊一を帰してしまったのだ。
 実を言うと警察の目を気にした部分もあった。若い二人としては、警察が監視する中で泊り込むことが照れくさかったのだ。
 すぐには寝つけそうになかった。こういうときは思いきって起きてしまい、温かいココアでも飲んだほうが良いかもしれない。そうも思ったが、実行に移す気にはなれなかった。全身がけだるい感覚に包み込まれていた。
 真紀は物憂げに寝返りを打った。レースのカーテンが掛かった窓。窓外が妙に明るい。月明かりだろうか。真紀は、ぼんやりとした頭で月齢を思い出そうとしたが、はっきりしなかった。
 窓の外に黒い影が浮かんだ。一瞬のうちに、その影は窓を覆いつくすほどの大きさになる。ガシャン。窓ガラスの砕け散る音とともに影の主が飛び込んできた。
 真紀はベッドを飛び出し壁際に立ちすくんだ。
 侵入者は人間ではなかった。背丈は二メートル以上で全身をダークグレーの毛が覆っている。顔つきは人間よりも、凶暴な犬に近い。目は全体が光を反射して赤く輝き、唇の薄い口は耳まで裂けていた。
 魔物は真紀を目指してにじり寄って来た。構えた両手には長く尖った黒い爪が突き出ている。
 あまりにも現実離れした光景。これも夢の続きなのではないだろうか。目覚めてしまえば恐怖の感覚だけが残り、内容の思い出せない悪夢。
 だが、これは紛れもない現実だ。真紀は認めてしまうのが恐ろしかったのである。
 迫り来る魔物。真紀は身動きできなくなっていた。まるで金縛りだ。混乱した思考は逃げ出せと慌てふためくのだが、運動神経に命令を伝えられない。
 魔物は真紀に掴みかかった。毛むくじゃらな外観とは裏腹に、そいつの手は氷のように冷たい。
 その冷たさで真紀は我に返った。悲鳴をあげ、身をよじって魔物の手を振りほどこうとした。びくともしない。がっしりと真紀を掴んだ魔物の強靭(きょうじん)な力には無駄な抵抗にすぎなかった。
 目の前に魔物の顔が近づき、冷たい息吹が真紀の顔にかかった。獣じみた生臭い息ではない。古びた墓場を連想させるカビ臭い匂いだった。
 魔物と目が合った。赤い目が不気味に輝度を増す。見つめられた真紀の目は逆に輝きを失っていった。抵抗をやめ、両手をだらりと下げて立ちつくす。意識を奪われた人形と化していた。
 魔物は、ぐったりとした真紀の体を軽々と抱きかかえ、窓に向かって歩き始めた。

 水上の全身に緊張が走った。ガラスの割れる音だ。何かが起こっている。覆面パトカーを飛び出して辺りを窺う。今はもう物音ひとつしない。
 真紀の住むマンションを見上げた水上は愕然とした。真紀の部屋の窓が破られている。路上にはガラスの破片が落ちていない。何者かが外側からガラスを割って侵入したに違いなかった。
「くそっ」水上は思わず舌打ちした。
 真紀の部屋は八階建てマンションの六階だ。どうやったら侵入できるのか。
 とにかく急がねばならない。水上はビル管理会社から借りてあったIDカードを手にエントランスへと走った。
 IDカードをリーダーに差し込もうとしたその時、水上は背後に気配を感じた。何かが飛び降りてきたのだ。
 振り向いた水上の目に飛び込んだのは、何者かの後姿とそいつに抱きかかえられた真紀だった。真紀は意識を失っているらしく、ぐったりとしている。
 なんて馬鹿でかい奴だ。こいつは女一人抱えて地上六階から飛び降りてみせたのか。暗灰色の毛皮コートを着た大男の後姿を、水上は呆然と見つめた。
 着地した大男は体勢を整えると脱兎のごとく駆け出した。水上も我に返って後を追う。
 水上は足に自信がある。学生時代は柔道の選手だった。新入部員の頃は走り込みばかりやらされたものだ。おかげで刑事に必要な足と格闘術両方の基礎が出来ていた。
 それにしても目の前を走る犯人の速さは尋常でない。とても人一人抱えてのスピードとは思えなかった。
 水上との距離は広がる一方だった。短距離走を全力疾走するスピード。水上の全身から汗が吹き出し、心臓は早鐘のように鳴っていた。
 それでも水上は走り続ける。ここでへばったら誘拐を黙認したも同然ではないか。職業意識だけではない。自己のプライドが許さなかった。
 なんとか距離が縮められたら、思い切ってタックルしてやるのだが。水上の思いとは裏腹に距離はさらに広がっていく。二十メートル以上離されてしまった。
 見失うか、走れなくなるか、どちらにしても時間の問題だった。水上を絶望的な敗北感が襲う。その時、前方で犯人が立ち止まるのが見えた。
 袋小路だ。どうやら犯人に土地勘はなかったようだ。水上は喉をぜいぜい鳴らしながら自分の幸運を祝福した。
 犯人は対決の覚悟を決めたらしい。真紀を路地の脇にそっと降ろす。やはり真紀は犯人にとって特別な存在であるようだ。
 水上は、ゆっくりと振り返る犯人の姿を見た。激しく打ち続ける心臓が、今度は急停止しそうになる。我が目を疑った。犯人は毛皮を着込んでいたわけではなかった。全身毛むくじゃらの本皮。現実に存在してはならない魔物だった。
 水上は全身を滝のように流れる熱い汗が一瞬で冷え切るのを感じた。夜目ではあったが作り物とは思えない。
 常識を超えた存在が今確かに水上の眼前にあった。体型は人間でも顔つきは獣。顔の上部に尖った耳が突き出て、白い牙を剥き出した口は耳まで裂けていた。赤く光る目は、こいつが忌まわしい存在である証と思えた。
 魔物は両手を大きく広げて迫ってきた。押し潰される圧迫感。水上はとっさに拳銃を抜く。
「動くな。止まらないと撃つぞ」言葉の通じる相手かどうかも分からなかったが、水上は叫んだ。恐怖のために声が震えてしまう。
 魔物は近づくにつれて威圧感を増す。水上は魔物が巨大化して覆いかぶさってくる錯覚に襲われた。
 黒く尖った爪を剥き出した巨大な手。人間など一撃でボロ布のように引き裂いてしまうに違いない。
 水上は恐怖心に負けて発砲した。辺りに銃声が轟く。
 至近距離での銃撃。弾丸は魔物の左胸を見事に貫いた。
 魔物は被弾の衝撃に一歩後ずさる。それだけだった。すぐに体制を立て直し、何事もなかったかのように再び前進を始める。一滴の血も流さず、ひるんだ様子すらない。
 水上は更なる恐怖に叩きのめされた。一歩一歩近づいてくる魔物は、今や水上にとって死そのものである。
 一方、路上に横たわっていた真紀は銃声に意識を取り戻していた。先ほどの濁った目つきではない。ぼんやりとはしているが、明らかに自分の意思を持つ目の輝きを取り戻していた。
 辺りに響きわたった銃声も、気を失っていた真紀には遠雷が聞こえた程度だった。ようやく目を覚ましたばかりで、夢と現実の区別が瞬時にはつかない。霞のかかった視界に、おぞましい魔物の姿が映った。
 自分は悪夢の中に取り残されてしまったのだろうか。いつも目覚めとともに忘れてしまう悪夢。自分は今その中にいるのか。現実感が剥離(はくり)してしまっていた。
 真紀は、ついに悪夢を思い出した。目の前の魔物。夢の中で自分を襲ってきたのは確かにあいつだ。
 だが、どこかに違和感があった。いつもは自分を襲ってくる魔物が、今は背を向けている。自分以外の誰かに襲いかかろうとしているのだ。
 真紀は魔物の前方に目をやった。そこには塀際まで追いつめられ、尻もちをついた男の姿。銃を構えてはいるが、震えのため狙いは定まらない。恐怖に打ちのめされた青ざめた顔。真紀は夢うつつのまま記憶の糸をたぐった。そうだ刑事の水上だ。
 魔物は水上に必殺の一撃を加えようとしていた。
 真紀は一瞬で失っていた現実感を取り戻した。全身に電流が走る感覚。確かに自分は魔物に襲われたのだ。夢ではない。
 妖しく光る魔物の目の輝きに惑わされ、意思を奪われてしまった。それ以降の出来事は定かではないが、水上は自分を救おうと試みたに違いない。また自分の身代わりに人が命を落としてしまうのか。
 魔物は大きく手を振りかぶった。巨大な指先から生えた黒い爪が、血を求めて街灯の明かりにギラリと反射する。水上にとっては、まさに絶体絶命の瞬間だった。
 真紀のアドレナリン分泌量が頂点に達し、頭の中で爆発が起きた。白い閃光が真紀の意識を呑み込んでいく。真紀はもう何も知覚することができなかった。ただ自分が叫び続けていることだけが分かった。
 声を張り上げて叫んでいるわけではない。感情そのものが叫んでいるのだった。その魂の叫びは、辺りを覆いつくす白い閃光となってほとばしっていく。
 いったい何が起こったのか。水上は呆然としていた。魔物自体が水上の理解を超えた存在だった。そのうえ今起きたことは更に信じられない。
 魔物は目前に迫っていた。塀まで追いつめられ腰を落とした水上に魔物は覆いかぶさってくる。水上は全身が恐怖に麻痺して動けなかった。すでに死を受け入れたも同然の状態。
 その時、音のない爆発が起こった。白い閃光の爆発。女の叫び声が聞こえた気もするが、幻聴だったかもしれない。
 視界の全てが白い輝きに呑み込まれ、一体化していく。魔物も光に包まれていた。輝きの中で、のたうちながら魔物はその姿を消失していく。水上には、まるで光が影をかき消していくように見えた。
 やがて光が消えた時、魔物の姿は跡形もなく消え去っていたのである。
 水上は銃を構えたままの姿勢で路上にへたり込んでいた。何が起きたのかさっぱり分からないが、とにかく助かったらしい。辺りを見回した。やはり魔物の姿はない。
 水上の他には、仔猫のように怯えきった真紀だけだった。両手で自分の肩を掴み小刻みに震えている。無理もない。刑事としていくつかの修羅場をくぐった水上でさえ震え上がる体験をしたのだ。真紀は、ひどくショックを受けていたが、怪我をしている様子はなかった。
 遠くにサイレンが聞こえた。銃声を聞きつけた近所の住民が通報したのだろう。
 とにかく真紀が助かって良かった。水上は、銃をホルスターに収めると立ち上がって真紀に近づく。震え続ける真紀の肩に、水上は自分のジャケットを掛けた。
 安堵感が去り、水上は再び現実が身近に感じられてきた。だが、いったい現実とは何だろう。自分自身でも信じられない出来事。この体験を誰かに信じさせることが出来るだろうか。ほんの数分前の出来事が遠い昔のように思えた。
 サイレンは身近に迫っていた。