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青い薔薇の血族
四章 第四日
4.決意
 蘭山低は世田谷の一角、ごく普通の住宅街の中にあった。
 ひっそりと佇む二階建ての洋館。ぐるりを赤レンガの塀が囲んでいる。豪壮な邸宅というわけではないが、それでも六所帯が暮す水上のアパート全体よりも大きい。
 自宅兼オフィスなのだろうが、五代蘭山と達者な墨書きの表札が掛けられているのみだ。少々古びてはいるが、神秘学研究家の肩書きにはむしろ似つかわしい雰囲気をかもし出している。
 水上はインターフォンのスイッチを押した。答えた声は先程の若い男。水上が名のると、程なく門が開けられた。
 男は二十代前半で白いワイシャツにグレーのスラックス、スポーツ刈りの四角い顔。昔の書生という言葉が似合いそうなタイプだ。
 通されたのは十畳ほどの応接間。奇をてらった印象は全くない。応接セットは重量感のあるアンティーク、壁には山河を描いた風景画とカラフルな幾何学模様のタペストリが掛けられていた。
 本棚に並ぶ書物がひどく古びていることを除けば、普通の応接間と変わりない。よく見ると本の背表紙は、見慣れぬ文字で記されているものが少なくなかった。
 まあ、とにかく奇怪な民芸品を並べた悪趣味な装飾の部屋でなくて良かった。ソファに腰掛けた水上は室内を見渡しながら、胸をなで下ろした。
 それにしても自分がオカルトの権威を頼る日が来るとは思っていなかった。生まれてこのかた超常現象や心霊現象といった類(たぐい)には偏見を持ち続けている。
 長年の偏見が短時間で全て雲散霧消するわけもないが、あの魔物を目(ま)の当たりにしては考えを訂正せざるを得ない。
 ドアがゆっくりと開き、ステッキをついた老紳士が入ってきた。水上が以前見た新聞広告の写真とは全く違う印象だった。
 新聞の粗い印刷写真では険しい表情の陰鬱な老人と感じた。目の前の温厚そうな中にも威厳をたたえた老人と同一人物とは思えない。
 水上は立ち上がって名のった。
「よく来てくださった。実は同席させたい者が一人いるのだが、構いませんかな」
 水上は逡巡した。これから話そうとしていることは、上司への報告書にも偽った内容だ。知られる相手は少ないほうが良い。
 だが、蘭山が同席させたいというのは何者なのだろうか。一方で水上は好奇心をそそられた。
「どういった筋の方ですか」値踏みするような表情で水上は言った。
「日本でも有数な霊能者です。私だけでは、あまりにも力不足でしてな」
 水上は大いに興味を持った。高名な蘭山が頼りにする霊能者とは、いったいどんな人物なのか。水上は、いまだに真の霊能者が存在することすら信じていない。奇術師と同義の存在と思っている。本物がいるなら、ぜひ顔を拝んでみたいものだ。
「捜査上の秘密ということもありますが、口外しないと約束してもらえればいいでしょう」好奇心の隠し切れない口調だ。
 水上の言葉に、蘭山は廊下で待っていた美剣香奈を招き入れた。
 白い巫女装束に身を固めた美少女。いや、少女というのが正しいのかどうか。水上は年齢を推し量ることができなかった。
 化粧ッけのない白い肌に真紅の唇。童顔とも見えるが、全体の立ち居振る舞いは落ち着いて老成した雰囲気さえ感じさせた。意志の強そうな切れ長の目は澄んで輝き、後ろに束ねた髪は腰に達している。水上は神秘的な美しさに見とれてしまった。
「岩手にある橘神社で修行中の美剣香奈くんです。年は若いが、さっきも言った通り強力な霊能の持ち主でしてな。遠く離れた岩手の地で今回の件を察知して、私に協力するため取り急ぎ東京へと出向いてくれたのです」
 香奈を紹介する蘭山の言葉には、娘を自慢する父親のような響きがあった。
「初めまして、美剣香奈といいます」透明感のある美しい声だ。
「あ、ええと水上です。よろしく」
 めったにあがったりしない水上だが、思わず声がうわずってしまう。顔を赤くして咳払いをすると、気を取り直して蘭山に向き直った。
「鳴海によると、先生は何か奇妙な事件を予測していたそうですが」
「私は生来の霊能者ではありません。しかし長年にわたる修練のおかげで、ある程度気の流れを掴むことはできるようになっています。気を高めることにより卦をおこなって吉凶を占うことも多少できます」
 卦とは吉凶を占う古来の方法だ。占いといえば、誰にでもできると思いがちだが、正確な答えを得るためには霊能力が必要となる。蘭山たちが「大いなる宇宙意思」と呼ぶ存在、神霊と通じ合う能力があって初めて占いは効力を発揮する。
 もちろん蘭山が今回の異変に気づいたのは、その能力だけによるものではない。風水学や陰陽道など学問的な知識の積み重ねもあった。だが蘭山はあえて説明を省略した。学術講義を行っているわけではない。重要なのは流れ込んでいる邪気の正体を掴み災厄を避けることなのだ。
「この二週間ほど、邪気の流れが感じられ、それは次第に力を増し活性化していました。香奈くんも岩手の地で同様な凶兆を感じ取り、卦を行った。その結果、西からの邪気が昨日訪問した警察署の所轄圏内に流れ込んでいるらしいということが分かったのです」
 蘭山は、緊張した面持ちで続けた。
「それ以上場所を特定するのは、いかに邪気が力を増していようとも香奈くんが遠方にいては難しい。それに、いざ事が起これば私の力だけでは対抗できそうにない。それで香奈くんが東京に来たのです」
 信じがたい内容を淡々と語る蘭山の言葉を、香奈が引き継いだ。
「こちらに着いて驚きました。これほど強い邪気を感じたのは初めてです」
 凛とした張りのある声。香奈の顔つきに険が生じた。霊的に敏感な香奈にとって、今回の邪気は存在を口にするだけでも忌まわしいものなのだ。
「それで何が起こったのですかな。水上さん、あなたは鳴海さんから私のことを聞いて連絡してきた。正直言って鳴海さんが私の話を信じたとは思っていません。それでも私に接触してきたということは、かなり不可解なことが起こったためなのでしょう」
 鋭い指摘だった。蘭山の言葉に、水上は躊躇した。職務上の秘密を話すということには、すでに覚悟を決めていた。偽りの報告をしたときから、最悪の場合には警察を辞める事態になってもやむなしと考えていた。
 事件について専門家のアドバイスを受けるのは別に珍しくない。水上は割り切ることにしていた。今回特殊なのは、個人の判断により上司の承諾なしで動いていることに尽きる。
 迷いは別のところにあった。昨夜の出来事は誰にも話していない。警察内で話せば自分の正気が疑われてしまう。そう思ったからだ。
 だが、この二人なら信じてもらえるだろうか。もし、ここで話して信じてもらえなかったら。専門家たちにまで一笑にふされてしまったら。後は精神病医を頼るしかなくなってしまう。
「世の中には現代の科学で説明できないことが起こります」水上の葛藤を感じたのか、蘭山が説得を始めた。
「ところが常識を超えた事象を目の当たりにすると、人々は錯覚とか妄想とかで自分を納得させ事実を心の中に葬ってしまいます。そのため、ほとんどの心霊現象は解明されないままに終わってしまうのです」
 香奈は水上をじっと見つめていた。神秘的な印象を与える茶色の双眸(そうぼう)。その眼差しに水上は、ふと真紀の紫がかった瞳を思い出した。顔つきの全く違う二人だが、どこか似た雰囲気を持っている気がした。そういえば真紀の瞳もどこか神秘的だった。
「あなたは強い意志力を持っていますね。経験したこと、あなたの信じることをそのまま話してくれれば良いのです。私は決してあなたの話を疑ったり莫迦にしたりはしません」香奈の真摯(しんし)な言葉だった。
 今さら何を迷っているのだ。水上は反省した。神代真紀に身辺で起きている事件は常識の範疇では解決できない。そう判断したからこそ自分はここにいるのだ。
 水上は二度にわたる誘拐未遂事件のあらましを説明した。二人は質問もせず最後までじっと聞き続けた。特に香奈は目をつむり微動だにせず聞き入っていた。話の内容を心中でイメージ化しているのだった。
「毛むくじゃらの怪物というのは、おそらく式ですね」水上が話し終えると、香奈が目を開いて言った。
「式?」水上が聞き返した。この手の言葉については全く知識がない。
「陰陽道でいう霊的な存在で、強い霊能者であれば呼び出して操ることができます。仏法では護法、西洋魔術では使い魔、呼び名はいろいろですが、人でも扱える下級な魔物とでも考えてください。もちろん、弱い霊能者が操ろうとすれば、寝首を掻かれることもありますがな」蘭山が大雑把に説明した。
「香奈くんも含め、日本にも式を扱える霊能者は数人います」
「式は下級な魔物といっても、普通の人間に打ち返せるものではありません。真紀さんという人に会ってみたいわ」香奈が考え深げに言った。
 水上の話からすれば、式を打ち返したのは真紀と思えた。とすれば真紀は何らかの力を持っているということだ。今回の事件と関係があるのだろうか。霊能に関しては、力が力を呼ぶという傾向がある。
 真紀には本人も気づいていない秘密が隠されているのかもしれない。その秘密が明かされるとき、この事件の核心に迫れる気がした。
 水上は香奈の言葉にどきりとした。式が消滅したあと取り残された真紀は、放心状態で病院へと運ばれていった。
 真紀は今回の事件について、どのような証言をするだろうか。真紀も式を見た。真実を語って狂人扱いされる可能性もある。そうなったら自分も真実を話さなければならない。真紀をかばえるか、自分も狂人扱いされるか。結果は分からないが、他人を犠牲にしてまで嘘を通すことはできない。
「分かりました。やってみましょう。直接会うのは神代さんの意向を確認してからにしてください。今回ここを訪問したのは私の独断であって、当局の捜査方針とは関係ありません。ですから神代さんにも強制はできません。話せば納得してくれるとは思いますが」
「ぜひお願いします。ところでどうでしょう。現場に案内してもらえませんかな。霊的な力は痕跡を残します。香奈くんが現場を見れば、何か情報を掴めるかもしれません。今回の事件と邪気の動きが結びつくかどうかも分かるでしょう」蘭山が、水上の目をじっと見据えながら要請した。
 何かと目立つ二人を現場に連れて行って同僚にでも出くわしたら、どう説明するか。水上は逡巡したが、すでに乗りかけた船だ。ええい、ままよと承諾した。