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青い薔薇の血族
五章 第五日
2.暗転(1)
「これが東ヨーロッパに伝わる魔女ラスモーラの伝説です」蘭山は話し終えるとコップの水を飲み干した。
 聞いていた真紀も喉がカラカラに渇いていた。信じられない気分である。
 忌まわしい伝説の物語。これが本当に自分のルーツなのだろうか。そういえば、家族から母方の家系について聞かされた記憶がない。祖母は、母は、この事を知っていたのだろうか。
「確かポーランドは、その後1918年に共和国として独立するんでしたね」かすれた声で俊一が言った。彼も、この話に圧倒されていた。
「そうです。そして1939年にはドイツ軍の進攻を受けます。第二次世界大戦の始まりというわけですね」
 蘭山の言葉に、真紀は思い当たることがあった。
「お婆さまは第二次大戦中に来日したドイツ軍将校のメイドをしていたと聞いています。それを当時日本軍の大佐だったお爺さまが見初めたのだと」
 自分こそが、ラスモーラの血を引く人間なのか。恐るべき魔女の器として身体を乗っ取られてしまう運命にあるのか。
 信じがたい、そして信じたくない話だった。だが、パズルの断片がはめ込まれるようにピッタリとしている気がする。
 真紀の深奥にある何かが、この話を肯定していた。その感覚こそが自分に流れる魔女の血の証ではないのか。真紀は思わず身震いした。もし、ラスモーラに身体を乗っ取られてしまったら、本当の自分はどうなってしまうのだろうか。
 室内に陰鬱な空気が流れ、誰も口を開かなかった。それぞれが事態の重圧を感じていた。
「とにかく八ヶ岳に向かう前にできるだけ青薔薇教団の情報を探してみよう。わしの書庫を調べ直せば何か出てくるかもしれん」
 沈黙を破ったのは蘭山だった。一刻も無駄にはできない。強敵であるだけに少しでも戦いが有利になるよう全力を尽くすのだ。
「香奈くんには引き続きガードをお願いするよ」
「はい」相変わらず凛とした声で応える香奈。
 実のところ内心の動揺を押さえ込むのに懸命だった。今の伝説が真実を伝えているならば、敵は桁外れに強い。予想を遥かに超えた強敵である。
 修行中の身で勝機はあるのだろうか。とはいえ弱気になることは禁物だ。霊的な闘いで気が弱まれば、それは即敗北を意味する。
 ラスモーラが完全に覚醒する前であれば、勝ち目はあるだろう。もしラスモーラが復活してしまえば、それ自体が敗北である。青い薔薇の魔女の復活は、すなわち真紀の喪失を意味するのだから。
「そろそろ水上さんが来ても良い頃だ」俊一が腕時計に目をやって言った。
 十時になれば警護を水上が交代する予定だ。研究所で水上と合流し、香奈を伴って予約してあるホテルに移動する手筈だった。あらかじめ隣室が蘭山たちのために押さえてある。
「森川さんに確認してみよう」
 俊一は席を立った。待合室に入ると森川が携帯電話で話していた。俊一に気づいた森川は通話を切ると声をかけた。
「加賀さん、カウンセリングの方は終わりましたか」
「ええ、おかげさまで。水上さんの到着を待って出発しようと思います」
「いやあ、それなんですが。水上さん、別件で取られちゃって。今、三時まで警護を延長するようにと指令が入ったところです。署も人手不足で、たまらないですよ。ホテルには私が同行します」
 森川は無精ひげで青っぽくなった頬をさすりながら言った。さすがに参ったという顔つきだ。
 俊一は背中がじっとりと汗ばんでくるのを感じた。不測の事態。森川が警護に当たっている間は香奈を同行できない。
 森川には悪いが、現時点で皆が必要としているのは香奈の霊能力である。敵には生身の人間もいるが、使い魔を送られたら銃さえ通用しないのだ。
 今一番頼りになる香奈を欠いて行動することは、あまりにも危険と思える。
「そうですか。ちょっと持ち帰る資料をまとめてきます」
 善後策を打ち合わせる必要があった。俊一は言いつくろうと皆の待つ会議室に取って返す。
「何か起きましたか」
 人の気の乱れを感じ取ることができるのだろう。俊一が部屋に入るなり、香奈が不審げに声をかけた。
「何か別の事件が起きて水上さんが来られなくなったそうです。失敗しました。森川さんに、そろそろ出発すると言ってしまいました」
 時間稼ぎにも限界がある。水上を待ち続けるわけにもいかない。
「仕方がない。今さら我々のことを説明しても納得せんだろう」蘭山が腕組みして言った。
 警察に対して秘密で行動するには、ある程度の不都合は覚悟しなければならない。
「ラスモーラは一日半ほど前に式を打ち返されています」香奈が一同を見渡しながら言った。
 西洋の魔女ラスモーラが放つ魔物は使い魔と呼ぶ方が正確なのだが、香奈は使い慣れた呼称を使った。
「そうだ。式を打ち返されたので、送った主もかなり強いダメージを受けているはずだ」香奈の言葉を蘭山が引き継ぐ。
「つまり敵はまだ行動できる状態にないと?」俊一が目を輝かせた。
「並大抵の敵であれば。今回に限っては油断しないほうが良いでしょう」
 香奈の表情は厳しい。ラスモーラと名乗った邪悪な顔を思い出していた。香奈を挑発するかのように不敵な思念を叩きつけてきた。
 十分に回復していない状態で、あれだけの力量。通常の霊能者に対して抱く通念は当てはめないほうが無難といえる。
「これを持って行ってください」
 香奈は懐から緑色の勾玉(まがたま)を取り出した。翡翠(ひすい)のようだ。
「この勾玉には破邪の霊力が込めてあります。ラスモーラの回復が十分でなければ、襲われてもこれで撃退できるでしょう」
 俊一は、藁(わら)にもすがる思いで勾玉を受け取った。
 正午をまわった頃、俊一と真紀は森川の運転でホテルへと向かった。香奈と蘭山は別行動を取ってタクシーでホテルに行き、真紀たちの隣室で待機する手筈である。
「それで検査っていうのは、どうだったんですか」セダンを滑らかに走らせながら、森川が後部座席に座る二人に聞いてきた。
「事件続きでしたからね。念のために精神的ショックの状態を検査したんですよ。ストレスで多少疲労していましたが、特に問題はありませんでした」俊一がごまかす。
 どうやらこの森川刑事は医学に詳しくないようだ。いざとなったら専門用語を並べたてて煙にまくつもりだった。
「それは良かった。二度も襲われるなんて本当に災難でしたね」
 幸い森川に深く突っ込んで聞く様子はない。そうこうするうちにホテルが見えてきた。セダンは地下の駐車場へと滑り込んでいく。
 駐車場が妙に薄ら寒い。冷房によるものとは違う。邪気が立ちこめ、負の力が働いて温度を下げているのだ。
 森川の目つきが鋭くなった。刑事の勘が働いたのだ。セダンを駐車場の空きスペースに入れると、探るように周囲を窺う。特に異常は見られないが、胸騒ぎは収まらない。
「ちょっと様子を見てきます。私が戻るまでドアはしっかりロックして、何かあったらクラクションを鳴らしてください」
 森川は駐車場へ降り立った。通路の中央に歩み出る。ぐるりを見渡すが誰もいない。
 気のせいだったかと息をついたとき、右奥の物陰で何かが動く気配がした。森川は慎重な足取りで近づいていく。俊一たちも、その様子を車中から見つめていた。
 奇怪な物体が、ぬっと現れた。森川は目を疑った。この世に存在するはずのない代物。薄茶色の皮膚をした人間大の魔物だった。
 顔は大山椒魚のように平べったく、胴体は細かいウロコに覆われている。爪の生えた巨大な手の平。指と指の間には水掻き状の膜が張っていた。ラスモーラの新たなる使い魔に違いない。