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青い薔薇の血族
六章 第六日
1.追跡行(1)
 翌朝、俊一は夜明けと同時に起き出して身の回り品をバッグに詰め込んでいた。起き出した、とは言ってもほんの1、2時間まどろんだに過ぎない。不安と興奮が交錯した眠れぬ一夜だった。
 青い薔薇が咲くまで、三日間の勝負。余計なものはいらない。最低限の着替えと洗面用具、懐中電灯と登山ナイフを持っていくことにした。
 携帯電話のメロディーが鳴った。デイブ・ブルーベックの演奏で知られる「テイク・ファイヴ」。真紀の同僚の吉岡からだ。
 吉岡には青い薔薇について何か新しい情報が入ったら、ただちに連絡をしてもらえるように頼んであった。
「もしもし、加賀さんすか、吉岡っす」相変わらずの独特な口調。だが、吉岡のまくし立てる声にはいつにない切迫感があった。
「こんな早い時間に電話して申し訳ないっすけど、今日はもう電話してる時間がないかも知れないんす」
「大丈夫だよ。もう起きてたんだ。それより何があったんだ」
「例の青い薔薇なんすけど、昨日から急に成長が早くなったそうなんす」
「何だって、ということは」
 俊一は愕然とした。一瞬、目の前が真っ暗になった気がした。
「三日後の予定だった青い薔薇の開花が、いきなり今日の夜6時になったって通達があったんす。今日の今日ってことすから、マクロ社や衛星中継いれてたテレビ局なんてもう大パニックってことっす」
 事情を知らない吉岡は野次馬根性で舞い上がっていた。
 俊一は息苦しいほどの緊張感に襲われていた。あと三日あるはずだったのに、今の話では今日の夕方には青い薔薇が咲いてしまう。真紀の命を奪う青い薔薇が。
「俺も、これから準備して記者の谷村さんと現場に向かうんす。青い薔薇の記事、本当は真紀さんの担当だったのに、こんなことになって」吉岡の口調が湿っぽくなった。
「無事に見つかるといいんすけど」
 真紀の心配をしてくれるのはありがたいが、俊一の心中はそれどころではない。吉岡への礼もそこそこに電話を切ると蘭山に連絡を入れた。
「ううむ、神代さんを手に入れたことでラスモーラに力が増したのかもしれん」蘭山が呻くように言った。
 さすがの蘭山も今度ばかりは切羽詰った声だ。残された時間はあまりにも少ない。
「大至急出発しよう。悪いが大至急迎えに来てくれんか」
 八ヶ岳には俊一の車で向かう手筈になっていた。愛車の4WD。型は古いが吉岡の4WDより馬力のある車種だ。

 俊一たち一行は清里の手前にある別荘地帯に到着した。午前10時をまわっている。青い薔薇が開花するまで、あと8時間もない。
 上空を厚い雲が覆い始めていた。辺りが妙に薄暗い。朝に聞いた天気予報では、今日一日快晴となるはずだった。すでに何かが狂い始めている。
 4WDを降りた三人は思わず身震いした。夏も近いというのに異様に気温が下がっている。闇の力が本格的に始動している証拠だ。
 蘭山の友人が所有する別荘は、ダイニングキッチンの他に客室4部屋と遊戯室を備えており、手入れも行き届いていた。利用するのは年数回程度だが、月に二度管理人が清掃している。
 レジャーにはうってつけの環境であるが、今回の三人にはどうでもいい事だった。すぐに真紀の捜索に出なければならない。
 俊一と蘭山は途中で買ったサンドイッチを無理して腹に詰め込んでいた。これからは強行軍だ。ラスモーラとの決戦も控えている。食欲はないが少しでも力を蓄えておく必要があった。
 香奈は、あえて食事をとらないことにした。多少空腹のほうが神経が研ぎ澄まされ、集中力を高めることができる。香奈は冷水のシャワーで身を清め、新しい巫女装束に着替えることにした。
 幸いこの別荘の水道は地下水を汲み上げたものだった。シャワーを浴びる香奈は、全身に大地の力が注ぎ込まれていくのを感じた。清冽な感覚だった。
 香奈は目を閉じて気を集中させた。いつになく力は高まっているのに邪気の流れを捉えることができない。真紀が捕らえられたため、昨日まで流れていた邪気が途絶えてしまったのだ。
 この場所でも邪気が辺り一帯に淀んだ澱(おり)のように溜まっているのは感じられた。この地域であることは間違いない。目的地にもっと近づけば再び邪気の流れを捉えることができるはずだ。香奈は身体を拭くと、真新しい巫女装束を着始めた。
 俊一は水上に連絡を入れた。こちらに向かう車中からも幾度か呼び出してみたのだが、かなり多忙な様子で捉まえることが出来なかったのだ。
 ようやく電話口に出た水上に今朝からのあらましを伝えた。水上も急な展開に少なからずショックを受けた様子だ。
「午前中の勤務を終えたら俺もそちらに向かう。薔薇が咲く時間には間に合うだろう」
 水上は、何とか休暇をとりつけていた。本来なら休める状態ではなかったが、強引に押し通した。普段から言い出したら聞かない性格のためか、意外とあっさり上司が譲歩したのだ。
「お互い長い一日になりそうだな」水上はため息をついた。
「現実に一日が長くなるなら大歓迎ですがね。青い薔薇が咲かないなら、今日が永遠に続いたって構わない」俊一には珍しく皮肉な口調だった。
「熱くなるなと言っても無理だろうが、気をつけろよ。香奈さんも言ってた、心を乱すとつけ込まれるってな」
 おやおや俺が他人に説教めいたことを言うとは、水上は思わず照れ笑いした。今度は香奈の顔が浮かんで、いっそう顔が赤くなるのを感じた。
 目の前を若い婦警が奇妙なものを見る目つきで通り過ぎていく。いけねえ、タフガイの面目丸つぶれだ。
「とにかく何かあったら、すぐに連絡してくれ」
 水上は電話を切ると照れ隠しに茶碗のお茶を飲み干した。
「薔薇がどうしたって」
 口やかましい上司の部長刑事が陰険な目つきで話しかけてきた。地獄耳だ。それとも水上の地声がでかすぎるのか。
 部長刑事は水上の急な休暇願に少々機嫌を損ねている。御しがたい部分があるとはいえ、行動力のある水上が捜査から外れることは彼にとって大いに痛手なのだ。
「あ、いや今話題の青い薔薇、あれが今日咲くっていうんですよ。実はダチに青い薔薇なんか絶対に咲かないってのがいましてね。賭けをしてるんですよ。どうです部長も一口?」水上はとっさにでっち上げた。
「ばっかもん、警察官が賭けとは何事だ。休暇まではまだ時間があるぞ。きっちり働いて来い」
 部長刑事のカミナリが落ちた。慣れきった水上にとっては痛くも痒くもない。刑事部屋の隅で「水上さんが青い薔薇ですって、似あわなーい」とか言ってクスクス笑っている婦警たちの言葉の方が痛いくらいだ。
「じゃ、聞き込み行って来ます」
 水上は苦虫つぶした表情の部長刑事を尻目に署を飛び出していった。