一行は清里の下から出発して飯盛山の麓を通り野辺山でターンした。
 運転する俊一は、はやる気持ちを抑え、ゆっくりと車を走らせていた。香奈が邪気の流れを捉えやすくするためである。
 だが、今のところその成果は現れていない。すでに車は天女山展望台に到達していた。
 まだ2時だというのに空がすっかり暗くなっている。暗雲に覆われているのだろうが、どこか非現実的な様相をていしていた。
 雲が見えないのである。たとえ分厚い雲が陽光を遮(さえぎ)っても、雲そのものは地上の明かりを反射して、その存在感を失わない。
 今日の空は、あたかも天空全体が虚無となって、全ての光を吸収してしまっているかのようである。
 視界が奪われ、俊一はヘッドライトの明かりを頼りに運転しなければならなかった。気温も夏の薄着で来たことが悔やまれるほどに下がっている。
 天空から闇が降りかかっている威圧感が、一行の心に重くのしかかっていた。
 時間だけがいたずらに過ぎていく。三人は押し黙り、車中には張りつめた静けさが満ちていた。
 特に香奈は疲労と焦燥を募らせていた。辺りに立ちこめる邪気は、時間とともに間違いなく強さを増している。だが、その流れを把握することができないのだ。
「どうですか」俊一は出来るだけ落ち着いた声を出そうとしたが、努力は完全には実らなかった。短い言葉も、どこか尖った口調になってしまう。
「ごめんなさい。まだ掴めないわ」香奈はハンカチで額の汗を拭いながら言った。
 気を集中しすぎたため体温が上昇しているのだ。体温が高いうちはまだいい。反動で体温が下がり始めると危険が伴う。
 邪気は刻一刻と強くなっていた。しかし、それは一行が目標に近づいているからではない。薔薇の咲く時間が近づいて、邪気の力全体が増幅しているのだ。
 捜索範囲の広さに反して残り時間はあまりに短い。このまま無作為に車を走らせていても徒労に終わってしまうのではないか。もっと効果的な捜索方法はないのか。俊一の脳裏に思考が渦巻く。
 早くしないと青い薔薇が咲いてしまう。そうなれば真紀を取り戻すことは二度と出来ない。青い薔薇が咲いてしまう。青い薔薇が。俊一の頭を一つの言葉が巡っていた。
「そうだ。青い薔薇だ」俊一が叫んだ。閃きを感じたのだ。
「一旦麓に降りてマクロ植物研究所の方に出てみましょう。ラスモーラと真紀を繋いでいた邪気の流れは消えてしまった。しかし、青い薔薇とラスモーラの間には、まだ邪気が流れ続けているはずです」
 もう4時間も残っていない。これが最後の賭けになるかもしれなかった。俊一は祈る気持ちで車をターンさせた。

 マクロ植物研究所の周辺には、テレビ中継車を始めとする多くの車両が群がっていた。ヘッドライトや撮影用の照明が光の渦となっている。星のない真夜中のように暗くなった一帯で、ここだけが真昼のように明るい。
 遠目にも張りつめた空気が伝わってくる。青い薔薇の咲く時間が急に繰り上がり、いまだに収拾がついていないのだ。
 混乱に巻き込まれれば貴重な時間を失ってしまう。俊一は研究所に近づきすぎないよう、山側の道を東から西へ流していく。
 香奈の身体全体がびくりと震えた。
「流れを掴まえました。物凄い勢いで北西に向かっています」顔をしかめて香奈が言った。振り絞るような声だ。額にはプツプツと汗の玉が浮き出している。
 ついに邪気の流れを捉えた。気分が悪くなるほどの悪しき想念が、今や奔流となって流れていた。ラスモーラのアジトは、今まで捜索していた地域よりもずっと西に位置していたのだ。
 香奈の指示に従い、俊一はぐっとアクセルを踏み込んだ。4WDは獲物を追う猟犬のように山道を疾走していく。
 邪気の流れは、一度捉えれば見失う恐れはないほどに強い。香奈は別の意味で精神を集中する必要があった。
 悪しき霊力は人の心を侵し弱めてしまう。少しでも弱みを見せてはいけない。そこにつけ込んで精神を禍々しい負の想念で縛りつけようとして、虎視眈々と狙っているのだ。
 とはいえ車自体は邪気の中を突き進まずをえない。最短時間で敵のアジトを見つけなければならないのだ。香奈は自らの霊力を、負の想念を振り払うバリアとして発揮し始めていた。
「気を引き締めてください。邪気の影響を受けてしまったら、存分に戦えなくなります」香奈は眉間にしわを寄せ、張りつめた声で言った。
 霊感の弱い者も、邪気の影響を免れるわけではない。むしろ本人も気づかぬうちに敵の術中に落ちてしまう危険性がある。
 蘭山も邪気の流れを感じ取っていた。東京で感じたのとは比べものにならない強さだ。少しでも気を抜けば身体が冷え切ってしまいそうなほどの邪力。蘭山は邪気を追い払おうと精神を集中し下腹に力を込める。丹田と呼ばれるところだ。
 香奈はハンドルを握る俊一に目をやった。強い意思に瞳が輝いている。真紀を救い出すことしか考えていない。邪気のつけ込む隙などありそうもない。
 いや、それどころではなかった。不可侵の決意に全身から強いオーラを発していた。香奈が霊視をこらすと、俊一の強固な意志力が車中に渦巻く悪しき力を跳ね返しているのが見えた。
 霊能力とは違う。香奈が初めて触れる別の精神力だった。真紀を想う俊一の心。もしかしたら、この力が今日の闘いの鍵となるかもしれない。香奈は俊一の熱い心に触れたことで、自分自身が勇気づけられるのを感じた。
 香奈はキッと前方を見据える。その瞳は新たな力を得たかのように、キラキラとした輝きに満ちているのだった。
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青い薔薇の血族
六章 第六日
1.追跡行(2)