やがて俊一たちは南八ヶ岳の西、観音平に程近い別荘地帯へ到着した。
「かなり近づいています。スピードを落としてください」
香奈の言葉に、俊一はアクセルを踏む右足の力を緩めた。香奈は更に意識を集中して方向を確認する。
「ここを入ってください」
香奈が示したのは木々の間を抜ける轍(わだち)だった。辺り一帯は闇に包まれている。目視では、まず見過ごしてしまっただろう。よく見ると車一台ようやく通り抜けられるほどの幅だ。
一旦4WDを降りた俊一は、白いハンカチを出来るだけ目立つようにして木の枝に結びつけた。後から追ってくる水上への目印にするためだ。
俊一は轍に4WDを、ゆっくりと慎重に進入させていく。両側から覆いかぶさるように木が茂っている。例え晴天であっても薄暗いに違いない。狭い轍は十メートルほど続いた。
急に視界が開け、ヘッドライトの明かりに一軒の屋敷が浮かび上がる。誰かの別荘なのだろう。それほど大きくはないが、がっしりとした造りであることが見てとれた。小型の洋館といった風情がある。
本来なら人々に安息の時を与えるはずの別荘。それが今は闇に聳(そび)え立つ幽鬼の建造物のようだ。決して高くはない二階建てであるにもかかわらず、のしかかって来る威圧感を与えてくる。
「間違いありません。邪気はこの屋敷に流れ込んでいます」香奈が屋敷を睨みながら言った。
ついに辿り着いたのだ。真紀の元に。青い薔薇の魔女ラスモーラとの決戦場に。
俊一は、水上に最後の連絡を入れた。携帯電話の電波はかなり弱かったが、幸い通信不能ではない。
水上に屋敷の所在地を出来るだけ克明に伝える。轍のある山道までは迷わずに来られるだろう。轍の入口に残した目印さえ見落とさなければ問題ない。
水上はすでにインターを降りていた。順調に飛ばせば4時過ぎには合流できるだろう。
「敵に気づかれるとまずいので携帯電話の電源はこれで切ります。香奈さんが、これから屋敷の様子を探索するそうです。4時半まで待って、もし水上さんが間に合わないようでしたら、僕たちだけで踏み込みます」俊一は計画を伝えた。
屋敷の中には何が待ち構えているか分からない。味方の人数は一人でも多い方が良い。香奈の言葉によれば水上の精神力は重要な戦力になるという。俊一たちは、ぎりぎりまで待つつもりだった。
「心配するな。俺はそんなのろまじゃない。君たちが下調べを終える頃には到着するさ。勇み足をしないように気をつけてくれ」水上は力強い声で言い放った。
電話を切った水上は前方に目を凝らした。ヘッドライトの光芒が届く範囲を超えた先は、闇に呑み込まれていくかのように見えなくなっている。その前方に光の塊が見えてきていた。
闇の中で突然カーニバルに出くわした感覚。水上は心中で毒づいた。道の選択を誤ったようだ。マクロ研究所の混乱に巻き込まれてしまった。
研究所の警備員だけでは捌(さば)ききれず、地元の警察官も多数動員されていた。報道陣だけでなく野次馬まで集まってしまったのだ。ここに来ても青い薔薇が見られるわけでもない。テレビをのんびり見ていたほうが利口と思えるのだが。
ここさえ過ぎれば交通量の少ない山道になる。水上は車を徐行させ、人の群れを二つに分けながら少しずつ進んでいく。抜けるには、しばらくかかりそうだ。
水上は横目で研究所の入口付近を見た。報道関係者が慌ただしい動きを見せている。どうしたのだろう。青い薔薇が咲くまで、まだ二時間以上あるはずなのに。水上は、いやな胸騒ぎを感じた。
真紀の同僚という太ったカメラマンの姿もあった。巨体を揺すりながら研究所の中へと走り込んでいく。
水上はラジオのスイッチを入れニュース放送を探す。三つ目の局が青い薔薇に関する報道を流していた。
「というわけで青い薔薇は原因不明の急成長により開花時刻を再び早めた模様です。ただいま入った情報によると、新しい開花予定時刻は本日午後4時過ぎ。予定を更に2時間近く早めてしまいました。青い薔薇の誕生は世界中の注目を集め、各国への衛星中継を予定しているだけに報道関係への影響は大きく・・・」
なんと言うことだ。水上は血の沸き立つ感覚に襲われた。俊一たちは、この事を知らないはずだ。計画通りに自分の到着を待っていたら手遅れになる可能性が大きい。
水上が携帯電話を手にした時、車は研究所前の混雑を抜け出した。水上はアクセルを踏み込みつつ、俊一の携帯電話を呼び出す。
聞こえてきたのは空しいメッセージだった「この番号は電波の届かないところにあるか電源が切られています・・・」俊一は言っていたとおり、先程の通話を最後に電源を切ってしまったのだ。
「くそっ」水上は、今度は声に出して毒づいた。
アクセルを更に踏み込む。水上は心中で前言を撤回していた。俊一、早く屋敷に踏み込むんだ。急げ。
俊一たち一行は屋敷の玄関前に佇んでいた。建物全体が静まり返っている。霊感の全くない者には何の気配も感じられないだろう。
だが、実際には蘭山でも感じられるほどの邪気が、嵐で増水した川のような勢いで流れ込んでいた。
「私が式を打って中の様子を調べます」香奈は押し殺した声で言うと、巫女装束の懐から一枚の札を取り出した。なにやら呪文が書かれている。
香奈が札に向かって呪文を唱えると、札は風に舞うようにフワリと香奈の手を離れた。獲物に飛びかかる猛禽の正確さでスルリと玄関ドア下の隙間を潜り抜け、屋敷中に入っていく。
札は玄関のたたきで姿を変え、この世には存在しない生物となった。全体的にウサギを思わせる形状と大きさ。ウサギと決定的に違うのは、手足の指が猿のように長く器用そうなことだった。
式は音も立てず玄関のドアに飛びつく。片手でノブにぶら下がると、残った手でドア・ロックとチェーンをはずした。香奈の命令で進入路を確保したのだ。
次に式は廊下に飛び降り、あたりをキョロキョロと見回した。目はエメラルド・グリーンに輝き、好奇心に満ちた小猿を連想させる。
式の見たものは、そのまま香奈の脳裏に伝わっていた。香奈は屋外にいながら屋敷内を探索しているのだった。
廊下の両側には木のドアがそれぞれ二つずつあった。それぞれが宿泊者の個室になっているようだ。式は一つ一つドアの前で立ち止まり、中の様子を窺う。どの部屋からも怪しい気配は感じられない。
式は廊下の先へと進んだ。突き当たりはガラスのはめ込まれた引き戸になっている。磨りガラスであるため中を覗くことは出来ない。
引き戸の中からは、やはり何の気配もない。式は音を立てないよう慎重に引き戸を開けた。妙に人間くさい神妙な顔つきになっている。中はゆうに二十畳はあるダイニングルームだった。
室内には誰もいない。中央には重量感のある樫のテーブルが置かれ、五脚の椅子が取り囲んでいた。
正面は屋外に面したガラス戸。戸外は漆黒の闇に閉ざされ何も見えない。
左手には二階への階段があった。式は階段の下に立ち、首をかしげる仕草で階上を見上げた。ここも気配がない。
むしろ階段の裏に怪しい気配が感じられた。式が回りこむと、階段裏の暗がりには開け放たれたドアがあった。その奥には地下への階段。
階下から邪悪な気配が立ち昇っている。地獄へ続く階段と言われても納得できそうなほどだ。
式からの情報を受けていた香奈は、あまりの悪寒に身が震えるのを感じていた。一瞬、集中力をそがれて式の輪郭がぼやける。香奈は、気を取り直して意識を式に集中した。
階下は常人の目では何も見えないほど暗い、式は危なげなく階段を下っていく。降り立った正面は突き当たりで、右に折れて通路が続いていた。
通路を見渡すと、今度は完全な闇というわけではなかった。通路先端の左側から仄かに明かりが漏れている。
式は静かに通路を進む。明かりが近づくにつれ、式の輪郭がより大きくぶれ始めた。耐え難いほど邪気が強くなっている。
屋敷の外では香奈が、震える声で俊一と蘭山に状況を逐一伝えていた。顔は青ざめ、背中を冷や汗が伝うのを感じていた。
香奈は歯を食いしばり式の存在を維持し続けた。万一式を打ち返されたら手ひどいダメージを受けてしまう。あと少し。あと少しで真紀の居所が確認できるはずなのだ。
それにしても何という邪気の高まりようだ。香奈の心中には疑念が沸き起こっていた。魔女の復活まで本当にあと2時間もあるのだろうか。このままでは手遅れになってしまうのではないだろうか。
式は通路の突き当たりに達した。開けっ放しになっている室内を覗き込む。漏れ出る明かりは燭台に挿された蝋燭の炎だった。
部屋の奥には祭壇が祀られていた。邪教の忌まわしい祭壇。その祭壇には水晶玉が飾られ、禍々しい青い光を放って妖しく輝いている。
その手前には無気味な彫刻を施した台座が設けられていた。黒檀で作られた生贄の台座。表面は磨きこまれ蝋燭の炎を反射して、テラテラと濡れたように光っている。その上に横たえられた一人の女。真紀だった。
真紀は目を開いてはいたが、意識があるようには見えない。青いドレスを着せられた真紀は、身動きもせず生気のない眼差しでじっと上を見据えていた。
台座の手前には四人の男女がひれ伏し、無気味な呪文を唱え続けている。
その時、式は無気味な気配を感じて横を見た。ウロコに覆われた薄茶色の胴体が目に入る。ラスモーラの使い魔が身構えていた。
式の目がギョッと開かれる。しまった。真紀に気を取られて油断していた。
「戻って、早く」香奈は必死の思いで唱えた。
使い魔は長い爪の生えた手を横に薙(な)いだ。一瞬早く式の姿が消え、使い魔の一撃は空を切った。
呪文の書かれた札がひらりと宙を舞う。札は、そのまま空中に溶け込み消えていった。
香奈は大きなため息をついて額の汗を拭っていた。かなり消耗したが最悪のダメージは免れることができた。真紀の居場所が確認できたのだ。探索は成功といえる。
「敵に気づかれました。突入しましょう」香奈は決意のこもった声で言った。
敵に体制を整える時間を与えたくない。いや、それだけではなかった。この邪気の高まりはただ事ではない。いずれにしても、すぐ行動を起こさなければ危険と感じていた。
俊一としても真紀を発見したからには、これ以上手をこまねいていることは耐えがたかった。水上の言葉には反するが、もう時間を無駄にしたくない。
式によって、すでに玄関は開けられている。俊一はノブに手をのばした。
「待ちたまえ」制止したのは蘭山だった。
「やみ雲に飛び込んでは、かえって時間を失う。私に良い考えがある」蘭山の目は強い決意に輝いていた。
青い薔薇の血族
六章 第六日
2.探索