式は打ち返しそこなったが、敵の襲来は察知することができた。屋敷の中では俊一たちを迎え撃つため、ラスモーラの下僕が階上に向かっていた。
 屋敷の持ち主である老夫妻と中年の運転手。一見恐れるに足りない顔ぶれだが、その実態は違う。魔女に操られた人間たちは、常人にはない怪力を発揮することが出来るのだ。
 バタンと大きな音を立てて玄関のドアが開いた。ステッキを構えた蘭山が飛び込む。物音に敵が殺到していく。
 魔女の下僕たちは、人間とは思えない猛悪な形相で歯をむき唸り声をあげた。蘭山は必死にステッキを振り回し、敵を威嚇(いかく)する。
 老婆が猿のような素早さで蘭山からステッキを奪い取った。軽量のアルミ製とはいえ、簡単には曲がらない強度で作られている。そのステッキが見る間に折り曲げられ、ついには一かたまりのクズ鉄と化してしまう。
 もはや打つ手はない。蘭山はじりじりと後退する。老婆は蘭山の胸めがけて残骸と化したステッキを投げつけた。
 息が詰まるほどの衝撃。軽いアルミのかたまりだとは信じられない。蘭山は頭の中が真っ白になった。胸を押さえて倒れこむ。
 とどめを刺し血祭りにあげようと三人がにじり寄っていく。
 その時、屋敷の奥でガラスの割れる音が響いた。三人は首だけグルンと回して振り向く。俊一と香奈がダイニングルームのガラス戸を割って侵入したのだ。
 蘭山が囮となって引きつけた敵を俊一が食い止め、その間に香奈が真紀を取り返す。蘭山の捨て身の計略だった。
 三人は俊一たちに向かって取って返す。
 俊一は素早く大テーブルを倒し、ダイニングルームへの入口を塞いだ。身体全体を預けてテーブルを押さえ込む。
 敵がテーブルめがけて体当たりした。ズシンと響く。物凄い衝撃だ。長くは持ちこたえられそうにない。
「香奈さん、急いでください」俊一が叫んだ。
 香奈は地下につながるドアに飛び込もうとした。香奈にはドアが全てを飲み込もうと待ちかまえる貪欲な魔獣の口と思えた。
 その闇の奥から使い魔がぬっと姿を現した。巨大な手の一撃。香奈は横に身体をひねって飛びすさり身をかわす。鋭い爪が香奈の左腕をえぐった。
「チイィッ」香奈が叫ぶ。
 裂けた袖がみるみる朱に染まっていく。傷口を抑えてうずくまる香奈を尻目に、使い魔は俊一めがけて突進した。
 俊一は横っ飛びに飛んで、危うく使い魔の攻撃をかわした。標的を失った爪は、そのまま通路を塞ぐテーブルに突き立てられた。分厚い樫のテーブルが、一撃のもとに砕け散る。
 テーブルの残骸を蹴散らしラスモーラに操られた三人が、なだれ込んできた。
 先頭に立つ中年男が直径十センチはあるテーブルの足を素早く拾い上げた。香奈をめがけて頭上高く振りかぶる。
 香奈はまだ体勢を立て直せずにいた。よけられない。反射的に頭を両手でかばう姿勢を取る。かなりの重量がある木材、人間離れした攻撃力。香奈の細い腕が少しでも役立つようには思えない。死を覚悟した瞬間だった。
 銃声が轟き、中年男の手が血を吹く。手からすべったテーブルの足が男の後方に勢いよく飛び、使い魔の頭部を直撃した。グシャっという不快な音とともに、使い魔の頭が陥没する。さすがの使い魔も仰向けに倒れこんだ。
 香奈が振り返り後方を見た。割れたガラス戸のすぐ外に拳銃を両手持ちで構えた水上がいた。
 水上は緊張した面持ちでガラス戸のアルミ枠をまたいで屋内に踏み込む。どうにか間に合ったようだ。
「香奈さん、大丈夫ですか」水上は、香奈の裂けて血に染まった袖を見て取り言った。
「私は大丈夫、でも」香奈の目が大きく見開かれた。
 香奈の視線の先、部屋の隅で使い魔がむくりと身を起こしていた。陥没してへこんだ頭部が、見る間に盛り上がり復元していく。やはりラスモーラの使い魔に通常の物理的攻撃は効かないのだ。
「早く地下室に向かって」香奈が叫ぶ。
 俊一と水上は地下へとつながる入口に飛び込んだ。香奈も後に続くと向き直り、自らの血を人差し指と中指につけて入口の床に一条の線を引いた。
 香奈は低い声で呪文を唱えると前方を見据え、迫る敵を押しとどめるかのように手の平をかざす。魔女の下僕となった人間たちも使い魔も、線を越えることが出来ない。最も原始的な結界だった。
 正式な紋様を描き込んだ魔法陣の結界であれば、それ自体が効力を持つ。紋様と配置に魔力が秘められているのだ。だが、香奈が描いた血のライン、これ自体には何の効力もない。香奈の意志力だけが一条の血筋を結界たらしめていた。
 香奈の意志力が萎えれば、直ちに結界は破られ、敵は香奈を八つ裂きにするだろう。どれほどの時間持ちこたえられるか。香奈には自信がなかった。
「真紀さんを助けに行って。さあ、早く。水晶玉を見つけて破壊してください」香奈は前方を見据えたまま叫んだ。
 膠着(こうちゃく)した状況だった。香奈が全力を振り絞れば使い魔を打ち返してラスモーラに打撃を与えることが出来るかもしれない。だが、もし人間たちの呪縛が解けるほどのダメージをラスモーラに与えられなかったら。香奈には生き延びる術(すべ)が残らないのだ。
 現状を打開するには魔女を葬って真紀を奪い返すしかない。自分が身動きできない今、俊一の真紀に対する想いに賭けるしかなかった。
「俺はここで香奈さんと戦う。加賀、早く行け」水上は俊一の背に怒鳴るときびすを返し、香奈の右横で銃を構えた。
 大量に失血した香奈は青ざめ、ふらついている。それほど長く結界を保つ力が残されていないことは明白だった。見殺しにするわけにはいかない。
 使い魔はともかくラスモーラに操られている人間たちには銃が効きそうだ。どのような素性の者たちであるかは分からない。おそらく魔女に利用されているだけなのだろう。出来れば深手は負わせたくない。それでも香奈に危害が及ぶとなれば容赦なく発砲する覚悟だった。
 香奈の左腕は出血を続けていた。自分の治癒能力を使えば傷口を塞ぐことぐらいたやすい。だが今は結界に全神経を集中しなければならなかった。香奈は意志力が少しずつ弱まるのを感じていた。失われた血の量に比例して集中力が奪われていく。
 このままでは結界が保てない。香奈の脳裏に新たな作戦が浮かんだ。自分が使い魔を打ち返し、同時に水上が人間たちに発砲すれば状況を打開することが出来るかもしれない。
 結局、香奈はこの考えを否定した。三人は魔女に意志を奪われて操られているに過ぎない。問答無用で発砲するわけにはいかなかった。
「水上さん、私に肩に手を置いて、そして祈ってください。敵が決してこの結界を越えられないようにと」香奈は眼前の敵を見据えたまま水上に言った。この状況で出来る限りの言霊を込めた声だった。
 水上はとっさに香奈の目的が理解できなかった。だが、何か深い意味があるに違いないことは言霊が伝えている。とにかく香奈の指示に従おう。左手を香奈の肩に添え、結界が守られるように精一杯念じる。
 霊能こそないが、水上は強固な意志力の持ち主だ。香奈は、自分の身中に水上の意志が力となって流れ込むのを感じた。血を失って冷えた身体が体温を取り戻していく。香奈の精神力は蘇り、結界が強化された。これでしばらくは保つだろう。あとは俊一次第である。

 俊一は暗い廊下を駆け抜け、地下室へと躍り込んだ。台座に上に横たわる真紀の姿が目に飛び込む。
 駆け寄ろうとして俊一は足を止めた。台座の手前にひれ伏す人影に気づいたからだ。青いローブを着た人間だった。
 ローブの人間はムクリと立ち上がり、振り返って俊一と向き合った。どうやら女らしいが、目深にフードを被っているために顔つきは分からない。女はいきなり無気味な笑い声を上げ始めた。暗黒の淵に吹き荒れる烈風のように耳障りな笑い声だった。
 俊一は香奈の言葉を思い出してローブの女を警戒しつつ水晶玉を探す。奥の祭壇の上に祀られているのが目に入った。
 磨きこまれた水晶玉。見事に透き通り、その球中には一点の濁りもない。あれだ、あれさえ破壊すれば。
 俊一は素早く女の脇を回りこもうとした。その時、女の背後で何かが蠢いた。真紀だった。台座から降り立った真紀は、俊一の行く手をさえぎるように立ちふさがる。
「真紀!」俊一は思わず叫んだ。
 我を忘れて真紀の両肩に手を掛け、もう一度名を呼ぶ。
 真紀の顔を覗き込んだ俊一の心に戦慄が走り抜けた。真紀が、今まで見せたことない表情で笑い始めたのだ。口の両端をつり上げてニタニタと笑う様子には、本来の真紀なら絶対にありえない邪悪さが満ちあふれていた。
 悪意を込めて造られた真紀のパロディを見せられているようだった。真紀であって真紀ではあり得ない。おぞましい存在と化していた。
 茫然自失で立ちつくす俊一を突如激痛が襲った。身体に焼けた鉄棒を突っ込まれた感覚が走る。
 青いローブの女が背後から俊一に短刀を突き立てたのだ。ラスモーラに支配された者の力は人間離れしている。銀色の刃は根元まで俊一に突き刺さっていた。深々と刺さった刃先が、肋骨の間を抜けて肺を貫く。
 俊一は震えながら、もう一度真紀の顔を見つめた。真紀は禍々しい笑いを顔に貼り付けたまま何かつぶやく。日本語ではなかった。俊一の聞き慣れない外国の言葉。
 言葉を受けてローブの女が、俊一の背中から突き出している短刀の柄を力まかせに捻(ひね)った。あまりの激痛に俊一は顔を歪めて叫び声を上げる。真紀は満足そうに喜悦の表情で笑い声を上げた。
 床には見る見るうちに血溜まりが拡がっていく。俊一は全身から力が抜け落ちていくのを感じた。
 間に合わなかった。真紀の精神は消滅し、肉体は奪われてしまった。風前の灯となった自分の命よりも、真紀の喪失がショックだった。
 俊一はがくりと膝をついた。顔を上げ最後の力を振り絞って真紀の名を叫ぼうとする。無慈悲にも俊一に、その力は残されていなかった。肺から溢れた血が口から噴き出し、ゴボゴボと嫌な音を立てただけである。
 そして俊一の意識は、闇の深淵へと呑み込まれていくのだった。
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青い薔薇の血族
六章 第六日
3.死闘