真紀の魂は深い闇の底に幽閉されていた。閉ざされた永遠の暗黒。静寂が支配する世界の中で、真紀の魂は偽りの安らぎに満たされていた。
 真紀の魂は、闇の底に全裸で膝小僧を抱えて座り込む真紀の姿として投影されていた。自我が失われつつあり、その姿はすでに半透明になっている。
 もう自分の名前すら思い出せない。このまま安寧(あんねい)の闇に居続ければ全てを失ってしまう。魂の存在そのものが薄れ、闇と同化して消え去ってしまう運命にあった。
 その闇の中に俊一の叫びは届いていた。声にならなかった必死の叫びは、闇の天井に小さな孔を穿(うが)った。深い闇に開いたその孔は、あたかも明けの明星のごとく煌(きら)めいている。
 その孔から差し込む一条の光が、闇の底に身をかがめる真紀の魂を暖かく照らす。真紀の魂は面(おもて)を上げ、頭上遥かで瞬く小さな光を見つめた。
「真紀―っ」
 真紀の魂の中に、直接俊一の叫びが響く。懐かしい、とても懐かしい声。マキ、まき、真紀。そうだ、それが自分の名前だ。
 真紀の魂は自我を取り戻した。ぼやけていた輪郭が見る間にはっきりとして闇の中で輝く存在となる。魔女の仕掛けたまどろみの罠から、俊一の叫びによって呼び戻されたのだ。
 闇の遥かな天井で輝く小さな光。真紀を呼ぶ俊一の声。あの光こそ、俊一の真紀を想う心が、閉ざされた闇に穿った唯一の通路なのだ。
 今抜け出さなければ再び闇に閉ざされ、真紀の魂はやがて消滅してしまう。すでに光は周りの闇に押し戻され小さくなり始めている。
 真紀の魂は光に向かって舞い上がった。閉ざされた闇の世界を脱出しようとみるみる加速していく。今や真紀の魂は、闇を切り裂いて進む一筋の光り輝く矢と化していた。永遠とも思える闇の中を、めまいがするような速度で飛翔し続ける。
 これが最後のチャンスだ。現実世界に戻って自分を取り戻すのだ。あの光が失われないうちに、再び闇に閉ざされないうちに、暗黒世界を飛び出すのだ。そして、俊一の元に返るのだ。
 真紀の魂の中で白熱の光がスパークしていた。
 闇の侵食によって輝く孔は、ますます小さくなっていた。もう針の糸穴ほどにすぎない。
 その最後の煌(きら)めきの中に、真紀の魂は突っ込んでいった。

 ラスモーラは激しい衝撃に目をくらませた。自分の身に何が起こったのか、とっさには理解できなかったほどだ。
 これまで味わったことのない激痛。青い薔薇を焼かれて水晶に引き戻されたときも、使い魔を打ち返されたときも、これほどのダメージではなかった。
 ラスモーラの霊体は、地下室の床に投げ出されていた。真紀の魂が自分の身体を取り返し、ラスモーラは弾き出されてしまったのである。
 油断していた。自我を奪って闇の世界に葬った魂が還ってくるとは。だが、青い薔薇の力は絶えていない。
 そして、ラスモーラを完全に滅ぼす術はラスモーラ自身しか知らないのだ。
 激しく消耗したラスモーラの霊体は、苦しまぎれにアマンダの肉体に飛び込んだ。
 アマンダは歓喜した。ついに崇拝するラスモーラと一体になることができた。強大な力を自分の内側に感じる。しかも自我を失ってはいない。不滅の生命が手に入った錯覚にとらわれていた。
 その歓びは、長くは続かなかった。アマンダを、これまでにない感覚が襲う。苦痛と快楽の入り混じった感覚に激しく身をよじる。あまりの陶酔感に表情がだらしなく弛み、身体全体を小刻みに震わせる。
 ラスモーラが力を回復しようとアマンダの精気を吸い続けているのだ。アマンダの意識は深い淵を落ちていく感覚にとらわれていた。果てしない落下感覚、暗い絶頂感。立っていることすら困難だった。
 アマンダは異変に気づいた。あまりにも激しい脱力感。両手に目をやると、そこには皺だらけの枯れ枝と化した二本の腕が震えていた。鉤形に曲げられた指は細く萎(しな)び、黄ばんだ爪が死人のようだ。
 アマンダはヒィッと呻いた。老婆のごとくしわがれた声。自分の運命を呪う呪詛のように聞こえた。
 ラスモーラは飢餓感に駆られるあまり限界を超えてアマンダの精気を吸い取ってしまったことに気づいた。だが、後悔の念など全く感じはしない。ラスモーラにとって自分の血を受け継ぐ者以外には何の価値もなかった。全て使い捨ての道具にすぎないのだ。
 アマンダは床に倒れこみ、薄れ行く意識は絶望に埋め尽くされていた。
 ラスモーラの魔力は、アマンダの精気を吸い尽くして急速に回復した。霊体となってアマンダの身体を抜け出す。然るべき器に戻って再び復活を果たすのだ。
 精気を吸い尽くされ抜け殻となったアマンダは床に横たわって息絶えた。その姿は干からびたミイラと成り果てている。恨みをたたえて醜く歪んだ顔、突き出された右手の指は宙を掻きむしるように曲げられていた。
 真紀の姿を目の前にしてラスモーラの霊体は戦慄しブルリと震えた。真紀は目を閉じ両手を差し出して無心に呪文を唱えている。ラスモーラを屠(ほふ)る唯一の呪文。極限状態の中で真紀に秘められた霊能力が一時的に覚醒したのだ。
 真紀は無意識の状態にあった。魔女を滅ぼそうとする想念が、強大な原動力となって真紀を突き動かしているのだ。
 ラスモーラは自らの犯した過ちに気づいた。飢えを満たそうと貴重な時間を失ってしまった。器を弾き出された激しいショックと急激な力の喪失に我を失い判断を誤ったのだ。
 青い薔薇の魔女を滅ぼす秘術はラスモーラ本人しか知らない。
 だが、目の前にいる女はほんの少し前までラスモーラ自身だったのである。唯一の弱点を掴まれてしまった。ラスモーラを絶望的な後悔の念が襲う。何をおいても第一に真紀の魂を始末するべきだったのだ。
 霊気が真紀の周りを白熱した光の粒子となって取り巻いていた。光の渦は強固なシールドとなり、まだ回復が不十分なラスモーラの力では、真紀に干渉することすら出来ない。
 真紀の目がカッと開かれた。紫色の瞳が妖しく輝く。
 ラスモーラは初めて真の敗北感を味あわされていた。なすすべがない。真紀の呪文は、ついに完成した。
 祭壇に祀られていた水晶玉がふわりと浮き上がった。宙を滑るように移動し、差し出された真紀の手の平十センチほど上に停止する。
 地下室にラスモーラの絶叫が響きわたる。ラスモーラの霊体は水晶玉の中へと引きずり込まれていった。
 ラスモーラは水晶玉に封印された。水晶玉の中で三本の青い薔薇がきりきりと舞っていた。閉じ込められた虫が出口を探すような動き。三本の薔薇は次第に絡まり始め、ついには一つの丸い球形となってしまった。
 次の瞬間、水晶玉が白い光を発して砕け散った。無数の破片がキラキラと輝いて宙を舞う。その破片も、やがて陽光に照らされた霞のように空中に溶け込み消えていった。
 ついに青い薔薇の魔女は葬られた。時間を越えて生き続けた魔女ラスモーラは永遠に滅び去ったのだ。

 香奈は奇跡が行われたことを知った。
 使い魔は輪郭がぼやけて歪むと、そのまま消えていった。ラスモーラに操られた三人は、糸の切れた人形のように倒れこんだ。三人とも意識を失っていたが、どのみちずっと前から自分の意志で動いてなどいなかったのである。
 香奈の精神を締めつけていた邪気も、今はもう感じられない。表が明るくなっていた。つい先程まで暗黒に包まれて真夜中のようだったが、実際はまだ四時半を回ったに過ぎない。雲ひとつない青空を取り戻し、太陽は初夏の日差しを送っている。
「水上さん、蘭山先生をお願いします。私は地下室を見てきますから」
 事態の急変に呆然としていた水上は、香奈の声で我に返った。
「しかし、一人で降りるのは危険では」
「大丈夫です。もう邪悪な気は感じられません。私たちは勝ったのです」香奈は、水上を安心させるため言霊の力を込めて言い放った。
 水上は頷くと玄関へと向かった。蘭山は、まだ胸を押さえてかがみ込んでいる。
 香奈は階段を駆け下りた。ようやく出血は止まっていたが、かなりの血液を失ってしまった。青ざめた顔。それでも意志力を振り絞り、しっかりとした足取りを保っている。
 半分が血で染まった巫女装束の裾がはためく。ここにも魔女の気配は全くない。それなのに嫌な胸騒ぎがする。いったい地下室で何が起こったのか。
 勝利を確信しているにもかかわらず、未だに心の平穏が得られない。傷ついた左腕がズキズキと痛む。
 自らの治癒能力を使えば痛みくらいはすぐに治まる。だが、今の香奈にその余裕はなかった。香奈は不安に駆られ、暗い廊下を跳ぶがごとく走り抜けていく。
 地下室に飛び込んだ香奈が見たものは、泣き崩れる真紀と血まみれで横たわる俊一だった。真紀は、ぐったりとしてぴくりとも動かない俊一の横に膝を突き、俊一の胸に顔をうずめている。
「私に診せてください」
 香奈は俊一の傍らにかがみ込むと、俊一の額に手をかざす。体温はすでに失われていた。肉体は仮死状態だ。
 香奈は、祈る思いで俊一の魂を探し求めた。魂が繋ぎとめられていれば、魂が肉体を離れていなければ助けられる。目をつむり霊能の触角をめぐらしていく。
 見つけた。香奈は俊一の魂を探し当てた。俊一の魂は瀕死の肉体にかろうじて繋がっていた。
 何としても命だけは助けてみせる。でなければ七年にも渡って辛い修行に耐えてきた意味がなくなってしまう。かなり消耗していたが、香奈は残る力全てを振り絞る覚悟だった。目を閉じ意識を集中させて治癒の呪文を唱え始める。
 お願いだから俊一を助けて。真紀は全身全霊をかけて祈った。香奈の霊能力だけが最後の頼みなのである。
 真紀は香奈の肩に右手をかけ、尽きることのない涙を流しながら俊一の生還を願い続けるのだった。
前へ 目次 次へ
青い薔薇の血族
六章 第六日
4.闇と光と