青い薔薇が咲いた日から一週間が過ぎていた。
香奈は、見舞いと別れを告げるため俊一の病室を訪れた。今日の香奈は白いワンピースを着ていた。私服でも、どこか神秘的な印象を感じさせている。明日には修行を再開するため橘神社へと戻る予定だ。
俊一は、すっかり回復していた。あと数日で退院許可が下りるだろう。治療に当たったドクターがたまげるのも無理はない。肺を引き裂かれた重傷のはずが、病院に運び込まれたときには傷口が塞がっていたのだ。実のところ香奈にとっても驚異だった。
「香奈さん、本当にありがとうございました。俊一さんもすっかり元気になりました」
真紀は深々と頭を下げた。真紀は、あの日のことを殆んど覚えていない。ラスモーラを滅ぼしたのも、俊一を救ったことも、香奈の力だと思い込んでいた。
あの日の記憶が香奈に蘇える。瀕死で横たわる俊一の額に右手をかざし、魂に呼びかけて何とか息を吹き返させようと呪文を唱えた。
すでに香奈は、ひどく消耗していた。そして俊一は瀕死の重傷である。命を救うのが、やっとの状態。
俊一には長い養生が必要となるだろう。後遺症が残るかもしれない。
それでも真紀から俊一を奪うことだけは決してさせない。香奈は悲壮な決意を固めていた。
ところが俊一は驚異的な速度で回復した。信じられないほど強大な力が俊一に働きかけたのだ。
香奈は、あの時の感覚を一生忘れないだろう。
一時的に覚醒した真紀の力だった。俊一を助けたいと願う真紀の情念が無意識に力を放出していた。その力は、香奈を媒介として俊一に流れ込んだ。肩に置かれた手から香奈の胸を通り俊一へと。
制御されない真紀の力は瀑布となって香奈の体を駆け抜けた。今思い出しても、身体がブルリと震えるほどの衝撃。香奈のかって経験したことのない圧倒的なパワーだった。
その力は、いとも簡単に香奈の傷をも治してしまった。傷跡が残ることを覚悟していたのだが、今はもう跡形もない。
俊一が息を吹き返すと同時に、真紀も意識を取り戻した。本来の自分に戻ったのだ。憑き物が落ちた表情で辺りを見回していた。ホテルの駐車場で襲われてからの記憶が欠落していた。一時的に覚醒した霊力も、再び真紀の深奥へと引き戻されていた。
事件については、皆で話し合って世間に受け入れられそうなストーリーを作り上げた。死の儀式を行おうとした狂信者集団の犯行として片付けたのだ。その生け贄として偶然選ばれたのが真紀だったということにした。
邪教集団の信仰対象が真の魔女だったとは誰も想像しないだろう。それでなくとも謎の多い事件として世間を騒がせているのだ。
集団のリーダーと目されるのは19才のイギリス人女性。その死体は干からびて老婆のようだった。なぜこのような姿になったのか、検死解剖でも原因を突き止めることはできなかった。
ラスモーラに操られていた三人は、記憶障害を起こし事件の記憶を完全に失っていた。既知の常識を超える強力なマインド・コントロールが施されたのではないかと話題になっている。
水上は、当局に無断で一般人と捜査を行ったかどで始末書を提出させられた。本人は全く気にしていないようだ。水上は今回の事件について真相を話せば、下手をすれば病院送り、良くても退職勧告とふんでいた。
それを思えば始末書の一枚や二枚何てことはない。これまで書いた多くの始末書に追加が出来ただけのことだ。
今日は新しい事件の捜査に駆り出され、水上は来ることができなかった。電話でしきりに残念がっていた水上の声を思い出すと、思わず香奈の顔に微笑みが浮かぶ。
蘭山は警察の事情聴取を終えると、負傷と高齢を理由に箱根に引きこもり静養していた。実を言えば、たいした怪我ではない。騒がしいマスコミを避けるための行動である。実情を知る香奈たちは何も心配していなかった。
香奈は真紀を見つめた。俊一のためにリンゴをむいている。枕元のサイドテーブルには青い薔薇を生けた花瓶が置かれていた。
第一世代の貴重な青い薔薇。香奈は因縁めいたものを感じずにはいられない。事件は青い薔薇が咲いたのと同時刻に研究所とさほど遠くない地域で解決した。
たまたま、その事実に着目した真黒社長が、記者会見で見舞いを表明したのだ。本人はマスコミを引き連れて直接病院を訪れ薔薇を贈呈したがったのだが、さすがにそれは丁重に辞退した。
青い薔薇は、もう真紀に影響を及ぼすことはなかった。魔女ラスモーラは間違いなく滅んだのだ。
香奈は迷った。真紀に真実を告げるべきか否か。真紀が、香奈をも上回る霊力を秘めていることを話すべきかどうか。
結局、香奈は秘密を胸に秘めたまま去ることにした。手柄を独り占めする気など毛頭ない。真紀に感謝の目で見られると、恥ずかしくて穴があったら入りたいほどだ。
真実を知ることが真紀にとっての幸福とは思えなかったのだ。魔女の末裔(まつえい)であるという事実だけでも真紀の心は傷ついている。
このうえ常人にない力の持ち主であると知ることは、あまりに過酷に思えた。真紀は一生悩みながら暮らすことになってしまうだろう。
青い薔薇の魔女が滅び去った今、もしかしたら真紀が力を発揮することは二度とないかもしれない。香奈は、それを願うしかなかった。
だが、封印はすでに解かれてしまっている。香奈は自分の願いが、儚(はかな)いものである気がした。真紀の力は半端なものではない。いつかどこかで噴出せずにはいられないのではないか。再び覚醒すれば、たやすく制御することの出来ないパワーを生み出すだろう。
俊一にリンゴを食べさせる真紀の幸福そうな表情。二人の絆は、恐るべき青い薔薇の魔女すら退けた。心配することはないのかもしれない。この二人ならば、どのような苦難も乗り越えられる。香奈は、そう信じることにした。
窓から差し込む暖かい夏の陽光。目の前の二人からは、この日差しにも負けない暖かさを感じる。
縁(えにし)というものがあれば、再びこの二人と出会うこともあるに違いない。香奈は、眩しい思いで二人に別れを告げるのだった。
青い薔薇も血族(完)
青い薔薇の血族
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