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霧雨の館(中)
 その隣の部屋には大きなテーブルが置かれていた。食堂のようだ。
 さらにその奥はキッチンだった。脇には勝手口があり、ドアの上にブレーカーが取りつけてあった。
「一応試してみようぜ」明がキッチンにあった丸イスに乗ってブレーカーのスイッチをONにする。
「あらっ、明かりがついたみたいよ」一番後ろを歩いていた愛理が素っとん狂な声を上げた。
 食堂の奥に明かりがもれている。先ほど電灯のスイッチをONにした広間の明かりが灯ったらしい。
 どうやら電気は通じているようだ。
 博は試しにキッチンの壁に取り付けてある電灯スイッチをONにSた。電球が切れているのか、反応がない。
 次に食堂の照明をチェックする。螢光灯の明かりが灯った。だが、それも一瞬のこと。ジジッと音がして暗くなってしまう。
「よし、上の階も見ておこう」博が懐中電灯で2階に通じる階段を照らしながら言った。
 一行は上階に移動する。それぞれにベッドの置かれた客室が4つだった。どの部屋も電灯は点かない。
 結局、明かりが灯ったのは一階の広間だけだった。すでに日は落ち、屋外は本格的に暗くなっている。
 トイレは各階に一つずつ、バスルームは一階の奥にあったが、残念なことに水は出なかった。
 屋外のどこかに水の元栓があるのだろうが、見当もつかないし、探すには暗くなり過ぎていた。
「仕方ない。朝までこの広間で過ごすしかなさそうだな」博がつぶやく。
「ああ、濡れずにすむだけでもありがたい」明が相づちを打つ。
 一行はぞろぞろと階下へ降りていく。
 博は皆が持っている食料と飲み物を集めてみた。
 水は全員がペットボトルのお茶やミネラルウォーターを携行していたので一晩くらいは問題なさそうだった。
 食べ物は少量のスナック菓子やチョコレートしかない。まさかこんな事態になるとは思いもよらず、昼食にほとんど平らげていた。
「まあ、別荘があるってことは道もあるってことだ。朝になって霧が晴れれば山を降りられる。一晩だけの辛抱だ」博が皆を元気づける。
「ねえ、ちょっと」広間を歩き回っていた早苗が声を上げた。大きく目を見開いて先ほどの肖像画を見つめている。
「どうした」明が駆け寄る。
「この絵。なんだかさっきと違ってない?」ちょっと怯えた声だ。
「う、ん」明は考え込む。
 言われてみれば最初に見たときよりも少女の顔つきが険しくなっているような気がする。だが、そんなはずはないという理性が働く。
「気のせいじゃないか。さっきは懐中電灯の明かりだったら、印象が変わって見えるんだよ」自信ありげに言う。
「そうかしら」確かに絵自体が変化するはずはない。それでも妙に引っ掛かる。
「そうよ。さっきもこんな感じだったわ」後ろから覗き込む愛理が明に同調した。
 早苗も確信があるわけではない。そう言われれば、もとからそうだった気になってくる。
「おい、夜は長い。トランプでもしよう」明が自分のリュックからトランプの箱を取り出して声をかけた。
「でもなんでこんな変な顔の肖像画を飾ってるのかしら」早苗は話題を変えて首をひねりながら壁を離れる。
 午後8時半、普段であれば寝るにはまだ早い時間だ。慣れない山歩きと雨の中をさまよった疲れが出たのか、信吾は壁に寄りかかって舟を漕いでいる。
 信吾と相変わらず無口で一人離れている清一を除く5人がトランプをしていた。
 雨はいつの間にか上がったらしく、窓外から月明かりが差し込んでいる。遠くのほうからフクロウの鳴き声が寂しげにしていた。
 明は場を和ませようと努力を続けていたが、白々しい雰囲気を増すだけに終わっていた。
 特に女子たちは不安と空腹を紛らわすため、無理にカードゲームに興じているように見える。
 そんな中、早苗は先ほどから清一の動きが気になっていた。
 肖像画に背を向けて座り込み、両手で膝を抱え込んでいる。聞こえはしないが、何かブツブツとつぶやいているような口の動き。ときおり振り返っては肩越しに肖像画を見ているのだ。
 おどおどとした態度で、顔の血の気が失せ、そのくせ目だけはギラついている。恐ろしくて仕方がないのだが、確認せずにはいられない。そんな様子である。
 ゲームの合間に清一を見ているうち、なんだか早苗自身も肖像画が気になってきた。
 セブンブリッジにひとくぎりついたとき、早苗はツッと立ち上がって絵のそばに歩み寄った。
「キャッ」思わず悲鳴をもらした。
 今度こそ気のせいではない。美少女の肖像画は明らかに変貌していた。
 いや、その顔つきはすでに美少女と呼べるものではない。妖気をはらんだ鬼女としか見えない呪われた肖像画に成り果てていた。
 青ざめた顔に血走った目をカッと開き、唇は左右に切れ上がっていた。怒り、憎しみ、見る者に負の怨念が伝わってくる。
「何よ、これ」早苗の叫びに近寄って肩越しに絵を見た亜紀がかなきり声を上げた。
 他のメンバーも集まってきて肖像画の周りで騒然としている。ただ一人を除いて。
「こ、こんなところには、もういられない!」声をふるわせて叫ぶと清一は、玄関に通じるドアに突進した。
 ノブにつかみかかるとガチャガチャと大きな音をたてる。
「あ、開かない」悲痛な声をあげてドアに体当たりするがびくともしなかった。
「おい、精一!落ちつけ」博が声をかけたが、精一はまるで耳に入らないかのようにドアと不毛な格闘を続ける。
 清一に気を取られていた早苗が肖像画に視線を戻し、再び悲鳴を上げた。
 他の者たちも一斉に振り向く。わずかな間に肖像画はさらに変容していた。
 その風貌は人間離れした悪鬼のごとくなり、髪は風にあおられているかのように逆立っている。
 絵の構図までもが変わってしまっていた。先ほどまで椅子に座った状態て描かれていたのに、今は何か枠組みの外から睨みつけている。
「ま、窓」早苗がつぶやいた。
 そうだ。この枠組みは屋敷の窓に違いない。フッと視線を部屋の窓側に移した早苗は、全身に戦慄の震えが走るのを感じた。
 窓の外から絵と全く同じ構図で妖鬼のごとき女が覗き込んでいたのだ。
 恐怖にひきつった早苗の表情につられて窓に目を向けた他の者たちも叫び声をあげる。
 鬼女は耳まで裂けんばかりに真っ赤な口をカッと開く。その瞬間、窓ガラスが砕け散った。
「ヒイイッ」ガラスの破片が降り注ぎ、皆が悲鳴をあげる。吹きすぎる突風に全員が血まみれで床に転がった。
 いつの間にか鬼女の姿は室内に移動していた。風に長い黒髪をたなびかせながら、天井付近にフワリと浮かんでいる。
 着ている物はピンク色をしたネグリジェのようだ。ヒラヒラと不自然なたなびき方をしている。
 釣り上がった目は黄色くランランと輝き、カッと開かれた口は血でも含んだかのようにネラヌラと赤みを帯びている。
 鬼女は血を流してうめく者たちの頭上を過ぎていく。広間の一番奥、ドア際の床に尻もちをついてもがいている清一を真っすぐ目指していた。
「うわっ、わっ、許してくれっ」清一は恐怖に顔を引きつらせながら喚く。
 ジタバタと足を動かして必死に後ずさろうとするが、すでに背がドアに付いているので無駄なあがきに終わった。
 そのとき、早苗の脳裏におぞましいイメージが飛び込んできた。