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霧雨の館(後)
 2年前の夏、1年生だった清一は一人この山を訪れた。いつもと同様に気ままな散策。
 自信過剰だったのだろう。道を外れ森の中を歩き回っていた清一は、山中で日暮を迎えてしまった。
 さすがに心細くなってきたころ山荘の明かりを見つけ、玄関のチャイムを鳴らした。
 その山荘にいたのは肖像画の美少女と年老いた執事の二人きり。少女の両親は3年前、交通事故で亡くなっていた。
 少女は独りになっても、毎年両親と真夏を過ごした山荘に来ているのだという。
 二人は道に迷った清一を歓待し、泊って行くように勧めた。
 夕食は執事の手によるものだったが、玄人はだしのフレンチだった。
 ワインを飲みほろ酔い気分になった清一は、あてがわれた客室のベッドで邪悪な妄想に取りつかれた。
 食事のときの少女の微笑み。あれは俺を誘っていたに違いない。
 少女の寝ている部屋は分かっていた。先ほどまで清楚に振るまっていた少女が、艶然とした態度で淫らな笑みを浮かべている幻想が清一の頭をよぎった。
 清一は眼を血走らせて部屋を抜け出ると少女の部屋に向かう。顔の肌が脂汗でヌラヌラとてかっている。
 そっとドアを開ける。少女は安らかな寝息を立てていた。
 清一は目をギラつかせ、獣のような顔つきで少女にのしかかっていく。
 少女の反応は、彼の邪念とは全く違うものだった。悲痛な悲鳴を張り上げ、力の限り手足を振り回す。
 思わぬ抵抗に動転した清一は、とっさに少女の喉元を締めつけた。
 そのとき、少女の叫び声を聞きつけた執事が駆け込んできた。紺色の寝巻きを着たままである。
 執事は二人の様子を見てとると、あわてて清一に掴みかかり引き離そうとした。
 清一は鬼のような形相で執事の手を振りほどき、力一杯突き飛ばした。
 バランスをくずした執事はヨロヨロと後方に倒れ込み、レンガ積みの暖炉で後頭部を打ちつけた。
 ゴンと鈍い音が響く。崩れるように床に転がった執事は、そのまま動かなくなった。頭部の下に血溜りが広がっていく。
 人を殺してしまった。清一は全身から血の気が引くのを感じた。
 青白い顔を少女に向ける。少女は怯えきって涙をポロポロと流していた。
「助けて、助けて」か細い声で命乞いを続けている。
 もはや清一は性欲など失っていた。彼の頭には事件を葬り去ることしかない。
 清一は無慈悲な態度で再び少女の喉に両手をかけ、渾身の力を込めて締めつけていくのだった。
 2つの死体は、山荘の裏手にある松の根元に埋めることにした。物置で見つけたスコップで穴を掘っていく。
 人ふたりを投げ込むのに十分と思える穴を掘り上げるころには、東の空が明るみを帯び始めていた。
 清一は二つの死体を放り込み、穴を埋め戻そうとスコップを拾い上げる。
 その時、清一の右足首がガクッと引っ張られた。心臓が止まる思いで足元を見る。息を吹き返した執事が清一の足にしがみつき、這いあがろうとしている。
 赤黒い血にまみれた顔面。クワッと見開かれた目は、明けかけた空を映して青白い妖気を放っている。
「うわっ、うわっ」清一は顔を引きつらせ、手にしたスコップを執事の頭めがけて振り下ろす。
 幾度も。幾度も。

「ヒイイッ」早苗は思わず叫び声をあげた。これだけの恐ろしいイメージが一瞬で脳裏を駆け巡ったのである。
 あまりのおぞましさに全身を悪寒が走り、ガタガタと震える。
 鬼女と化した少女の姿は今や清一の頭上に達していた。
 それを見上げる清一は、ほうけたようにアウアウとうめきながらよだれを垂らしている。
 少女の霊がスーッと清一に覆いかぶさるように降りていく。
 清一の叫び声が広間に響き渡った。同時に早苗も気を失ってしまった。

 ガラス越しに朝の陽射しが差し込んでいた。森の中からは鳥のさえずりが聞こえてくる。
 広間の床に倒れ伏していた早苗は、フッと目を覚ました。額に右手をかざし、まぶしそうに目をしばたきながら身を起こす。
 昨夜割れたはずの窓ガラスには何の異常もない。思わず自分の手に目をやる。
 傷ひとつない。飛び散ったガラスの破片で傷だらけになっていたはずなのに。
 今度は顔をさする。スベスベとした感触。やはり傷はないようだ。
 すべては夢だったのだろうか。
 まわりを見渡すと他のメンバーが広間のあちこちに倒れ伏している。
 早苗は、一番近くにいた愛理の肩を揺すった。彼女にも傷はない。昨夜は確かに愛理も血まみれだったのに。
 愛理は小さく呻いて目を覚ました。
 日の差し込む窓を見てギョッとした表情になり、次に手や顔をあらためる。キツネにつままれたようなキョトンとした面持ち。
 恐れに青ざめていた表情に安堵が浮かぶ。
「あたし、恐い夢見ちゃったみたい」早苗に向かって照れ笑いする。
 早苗は胃に鉛が詰まったような気分に陥った。自分と同じ反応。もしかして同じ夢を見たのだろうか?
 いや、そもそも本当に夢だったのか。
「みんなを起こそう!」早苗は立ち上がって部屋の中央に横たわる明の肩に手をかける。
 明は揺すられると簡単に目を覚ました。催眠術のショーで合図とともに目を覚ます実験台のような様子だった。
 愛理も隣に倒れている博を揺さぶり起こす。目を覚ました者たちの反応は皆同様であった。
 最後に早苗は、玄関に通じるドアの近くに向こうを向いて横たわっている清一に近づいていく。
 昨夜の幻覚が早苗の脳裏に甦ってくる。伸ばしかけた手がためらいがちに宙で揺れる。
 意を決して清一の肩に手をかける。清一の身体がゴロリと転がって仰向けになった。
 その形相はすさまじいものだった。黄色く濁った両目をギョロリとむき、口は大きく歪めて開かれていた。清一は、その顔全体に恐怖を張りつかせて息絶えていたのだ。
 館の中に早苗の甲高い悲鳴が響き渡った。

 1時間後にはバトカーと救急車が到着していた。
 昨日はずっと圏外のままだった携帯が、なぜか問題なく通じたのである。
 警察官立ち会いのもとで裏手にある松の根元が掘り返された。
 そこには2体の白骨死体が眠っていた。その片方は頭蓋骨が無残に砕かれている。スコップのような硬くて大きなもので執拗に叩かれたに間違いない。
 清一の死因は心臓麻痺であった。
 八重垣清一は、かって凶行に及んだ館で被害者となった少女の肖像画を目にした。そして良心の呵責(かしゃく)に耐えきれなくなり、ついに自らの犯行を告白したあと心臓発作を起こしてしまった。
 それを聞いてショックを受けた友人たちは、道に迷ったストレスも加わり、集団催眠の状態に陥り全員が同じ幻覚を見た。
 おそらく最初に幻覚を見た者の言動が他の5人の心理に影響を与えた結果によるものと推察される。
 後日になって作成された警察の報告書には以上の内容が記されていた。
 そして肖像画は、椅子に腰掛けて穏やかな表情をした少女の姿に変わっていた。その笑みは、どこか満足げに見える。
 今では早苗たち残された6人全員が、あの夜のことは集団催眠などではなかったと確信している。
 事情聴取のため、6人は2台のパトカーに分乗して麓の警察署に向かうことになった。
 その直前、亜紀が昨夜の肖像画を携帯で撮影していたことを思い出したのだ。
 清一が騒ぎ出す直前に撮ったのだという。携帯の液晶に画像を映し出す亜紀の周りに他の5人が集まってくる。
 ディスプレイを覗き込んだ早苗はヒッと呻いた。他の者たちも同様に声をあげる。
 青白い顔に吊りあがった黄色い眼、左右に大きく裂けた口。その画像は、まさしく昨夜彼らを襲った鬼女だったのである。
 だが、それは一瞬のことだった。画像は6人が凝視するその前で瞬く間に変貌していく。
 あっという間に壁にかかっているのと同じ、穏やかな笑みを浮かべた少女に変わってしまった。
 しかも最後に少女はニコリと白い歯を見せて笑ってみせたのである。
 6人は血の気を失って立ちつくしていた。
 これが明邦大学山歩き同好会最後となったイベントの顛末(てんまつ)である。