ファントム・イルージョン(前編)
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 ジェームズ・ボンファイアは銀河系を股にかける運び屋だ。
 洗いざらしのブルージーンにダークグレーのシャツを着込み、力強そうな顎の周りには髪と同じ茶色の無精ヒゲを生やしている。
 まさに昔ながらのタフガイ。しかし、その少し灰色がかったブルーの眼差しは感情の輝きを失って冷え冷えとしており、外観の力強さとは裏腹の印象を与えていた。
 ボンファイアは愛機ブライトフォースで3回目のワープを終えたところだった。
 ブライトフォースは、12年前にトクガワ社が大ヒットさせた小型輸送ロケット”パワーモンガー”を彼自身が改造した。薄汚れた外見同様、内部もくたびれてきている。
 屑鉄にされようとしていたジャンクを、彼が買い上げて自ら修理したのが4年前だから当然と言えば当然のこと。だが、何と言っても無二の相棒であることは間違いない。
 そこまでの航行は極めて順調だった。あと2回の小ワープで目的地に到着する。
 ボンファイアは、次のワープ空域を算出していた。狭いコックピットの古びたシートが、今はもう身体にすっかり馴染んでいる。
 こんなに歩の良い仕事はめったにない。彼らのような一匹狼の運び屋にまわってくるのは、たいがい危険で汚い仕事なのだ。
 危険宙域で遭難船から積荷を引き上げたり、暴れだしたら檻など気休めにもならないと思える獰猛な宇宙生物を輸送したり。
 緊張感という言葉も忘れてしまうほど、神経のすり減る仕事ばかり。
 ボンファイアは、他のパイロットたちがワリに合わないと断る依頼でも引き受けることで名が売れていた。
 だが、今度の仕事は違っている。依頼主は旅行中の老富豪夫婦。費用に糸目はつけないから、孫のいる星までバースデイ・プレゼントを運んでほしいというのだ。
 目的地は定期航路がないというだけで、さして問題のないルートにあった。日数的にも余裕がある。
 確実にワープを続ければ、誕生の前日には到着できる予定だ。
 気前のよい老夫婦は前日に到着した場合、リゾート地として名高いその星で最高のホテルに泊まれるよう手配してくれた。
 その名もホテル・シャングリラ。プレゼントは誕生パーティの始める夕刻に届ける手筈だ。昼いっぱい優雅な泊り客として過ごせるわけである。
 照りつける太陽、透き通った水がキラキラと輝くプールに、よく冷えたビール。
 いや、シャンパンとキャビアを注文しても老夫婦は気を悪くしたりしないだろう。約束どおりプレゼントを受け取って喜ぶ孫の姿を収めたディスクを送付すれば。
 こんな楽な仕事のボーナスとしては出来すぎと言っても良いくらいだ。普通の運び屋なら手放しで大喜びするだろう。
 だが、ボンファイアはその話を聞いても表情ひとつ変えなかった。彼は一切のことに無関心である。5年前から心を感情に動かされるということがなくなっていた。
 あえて危険な仕事を選ぶわけではないが、楽な仕事や儲かる仕事に喜ぶということもない。
 その時、コンソールのランプが点滅してアラーム音が鳴り始めた。
 液晶パネルに表示されたメッセージを目で追ってアラームの原因を捜していく。こんな事態は慣れっこである。
 真に危険な状態というものは、肌で分かるようになっていた。いや、今の彼は最悪の事態に陥っても同じ態度で臨んだかもしれない。
 それは冷静沈着と表現するには値しない。自己の存在に対する価値観の欠如によるものだった。
 故障箇所はすぐに分かった。エンジン制御系ボードの一枚にエラーが発生したのだ。
 とりあえずの通常航行には差し支えなさそうだ。とはいえ、このままの状態でワープに突入するのはボンファイアにとってすら無謀な行為である。彼とて自殺志願者ではないのだ。
 運悪くボードは船外のパネルを外さなければ交換できないものだった。
 気密服を着こんで船外活動をおこなうより、一旦着陸して修理したほうが効率的で早い。ボンファイアはコンピューターで周囲の星の情報を調べ始めた。
 ブライトフォースのすぐ右側に浮かぶ星が手ごろのようである。大気の成分、重力ともに問題ない。この情報通りなら気密服なしで作業できる。
 ボンファイアは迷わず、その名も知らぬ星に機首を向けた。大気圏に突入すると、その星全体が濃密な霧に覆われているのが見てとれた。
 もともと宇宙船の離着陸は無視界が基本である。現実的な支障はないはずだ。にもかかわらず、肉眼によって確認できないと言いようのない不安に襲われてしまう。人間の心理とは微妙なものだ。
 だが、ボンファイアは例外である。センサーでスキャンされた地表図を見て、ためらうことなく凹凸のない地点の一つを着陸地点と定めた。
 何かに吸い寄せられているかのような滑らかな動作で、ブライトフォースはその地点に近づいていく。
 ボンファイアは的確なタイミングで機体下部の離着陸用ノズルを噴射させる。ブライトフォースの船体が激しく振動する。スロットルを徐々にしぼっていく。ズンと腹に響く衝撃とともに着地を完了した。
 コックピットの外部は分厚い霧のカーテンに覆われている。外界は、わずかに濃淡のある灰色一色だった。コールドスープを思わせるトロリと絡みつくような霧である。
 ボンファイアは再度、大気、気温、重力をチェックした。やはり問題ない。安全ベルトを外し、左手に工具箱を提げてコックピットを出る。ドアを開けると短い通路になっている。
 その両側は狭いながらも居住部分をなしていた。船室、簡易キッチン、シャワー、トイレといった設備が整えられている。
 この通路の突き当たりに梯子段があり、それを降りれば貨物室だ。通常のフライトでは、すぐに満杯になってしまう手狭なスペース。
 しかし、今回はバースデイ・プレゼントを収めた1メートル四方ほどの合金製ケースがワイヤで固定されているだけである。
 貨物室の右隅に外へとつながる気密ハッチがある。ボンファイアはハッチの左横に埋め込まれたテンキーから七桁のコードを入力した。
 第二ハッチがギシギシときしみながら開いていく。1年ほど前まではスムースに開いていたのだが、宇宙海賊との戦闘に巻き込まれたときに受けた衝撃ですっかりガタがきてしまった。
 このハッチは気密室をはさんだ二重構造となっており、外側が第一ハッチと呼ばれている。
 ボンファイアはハッチが開くと気密室に踏み込む。自動的に第二ハッチが閉じられていく。彼がスイッチを押すと、ファンが作動して外気が吸入される。
 もしかしたら分析結果に誤りがあって、毒性の空気が入ってくるのではないか。さしものボンファイアも緊張する一瞬。
 旨い。ボンファイアは思わず深呼吸した。
 地球とは多少成分の違う大気なのだが、長時間密閉された船内で過ごしてきた身には、とにかく新鮮で旨い。
 身体が無意識に反応したのだろう。ボンファイアの目に一瞬生命の輝きが甦った。
 しかし、それも束の間のこと。彼は再び無機質な表情に戻り、第一ハッチを開ける操作に取りかかった。
 第一ハッチは下部を接点に開いていく。内側には、そのままタラップになるよう段が作り込まれていた。
 気密室まで霧が充満する。肌が湿ってくる感覚に襲われた。
 ボンファイアはタラップを降り、この星の大地を踏みしめる。
 足元まで霧が漂い、周囲は全く見えない。まるでスモークをたきすぎた田舎芝居のステージのようだ。
 それでもボンファイアは、いっこうに気にするふうではない。淡々とした態度で修復作業に取りかかろうとする。
 と、その時突風が起こった。春を告げる風のような暖かい強風が走り抜ける。
 ボンファイアが思わず頭を下げて屈み込んでしまうほどの勢い。彼が上体を起こして周囲を見回したとき、景色は一変していた。
 あれほど濃かった霧が、瞬(まばた)きするほどの間に一掃されていた。雲一つない青空が広がり、暖かな日差しが身体を包み込むように照らしている。
 目の前には広大な草原が広がり、陽光を受けて風にそよぐさまは、キラキラと輝く緑色の海原のようだ。
 ボンファイアは、その中に踏み込んでいく。かぐわしい大自然の香りが彼を包む。
 大地を踏みしめているにもかかわらず、波間に身を任せているようなリラックスした気分になる。
 失っていた感情が戻ったというのではない。むしろ自我そのものが消え失せ、頭の中が空白になった気分だ。そして、その空白の中にある思念が流れ込んできた。
 ノスタルジックな感覚。それはボンファイア自身が持つ遠い過去の記憶のようでもあり、全く他人のものであるようにも感じられた。