ファントム・イルージョン(後編)
ボンファイアは西の塔へと向かった。らせん状になった階段を上っていく。
西の塔の最上階にはブリジット姫が幽閉されているのだ。いや、違う。彼が求めているのは姫ではない。
ボンファイアは、いつしか勇者グレアム・ホーナーから自分自身へと戻っていた。彼には分かっている。頂上の部屋に誰が待っているのか。
脳裏に美しい面影がよぎる。5年間、忘れることのなかった微笑み。少しウェーブのかかった量感のあるブロンドの髪。
ボンファイアは飛ぶように階段を登りつめた。目の前には頑丈そうな木の扉。上下を鉄のベルトで補強してあり、小窓には太い鉄格子が嵌め込まれている。
扉の右側、少し離れた位置に打たれた鉄釘に鍵がぶら下がっていた。その古びた鍵を手に取り、鍵穴に差し込む。
固い。だが、一度力をゆるめてひねり直すとガチャリと音を立てて鍵は開いた。
ボンファイアは目を輝かせ、勢いよく扉を開けると部屋の中に飛び込む。そこには刺繍の入った白いドレスをまとった妙齢の女性が佇んでいる。
「リュミエール!」ボンファイアは思わず叫んだ。
呼び声に応えてリュミエールは再会に顔をほころばせた。白い歯がこぼれる。輝くような微笑。その容貌は5年前と全く変っていない。
ボンファイアの心は歓喜にとろけそうだった。その表情は、どこか呆けているようですらある。
リュミエールに駆け寄り、力の限り抱き締めるのだ。ボンファイアの心は春の嵐に巻き込まれた菜の花のように踊っている。
その時、声が響き渡った。
「ボンファイア、私はあなたを愛しているわ。でも、私は死んでしまったのよ」
その声はまぎれもないリュミエールの声だった。しかし、目の前のリュミエールが発したものではない。
声はずっと遠くの次元を異にした空間から聞こえたようでもあり、ボンファイアの耳元でささやかれたようでもあった。
部屋の中に佇むリュミエールは、相変わらず艶然とした微笑みを誘うように浮かべ続けている。
その笑顔はまぎれもなくリュミエールその人。だが、よく見るとその表情は人形を思わせる作り物めいた無機質さを秘めている。
ボンファイアは雷に打たれたかのように立ちすくんだ。心の中の春風は突然勢いを増し、荒れ狂う竜巻と化した。そして、彼自身が魂に築いた巨大な障壁をガラガラと崩し去っていく。
そうだ。リュミエールは死んでしまったのだ。封じ込められた記憶が甦ってくる。
ボンファイアが愛したリュミエールは勤め帰りにハイウェイでエア・カーの衝突事故に巻き込まれた。
彼女の乗ったエア・カーは大型の輸送車に追突され大破した。無残な圧死で身体は押し潰され原形をとどめぬ状態だったが、奇跡的に顔は無傷であった。
葬儀のとき、棺から覗かせていたリュミエールの死に顔。死化粧を施されたその表情は、まどろんでいるかのように安らかだった。
それがボンファイアの心に残るリュミエールの最後のイメージである。
もう二度と優しい笑顔で語りかけてくることがないなんて信じられない。この最後の印象が彼を狂気の淵へと誘ったのかもしれない。
ボンファイアは打ちひしがれ、次第に心を閉ざすようになった。リュミエールの死を認めまいとする感情が彼の行動を支配するようになっていく。
しばらくして彼は、それまでの生活すべてを捨てて荒涼とした宇宙空間をさすらうサルベージ業に身を投じた。
それは過去を振り切るための行為ではない。リュミエールの死を知る者たちから自分を遠ざけ、彼女の存在を心の中に守り続けるためだった。
今、ボンファイアの魂は津波に飲み込まれたも同然である。この数年間というもの置き去りにしてきた感情がせきをきって押し寄せていた。
確かにリュミエールは死んでしまった。決して変えることのできない事実だ。
それでは目の前にいるのは何者なのか。間違いなくリュミエールである。見間違えることなど決してない。
だが、それがありえないことも今のボンファイアは理解している。
ボンファイアの心は、ついにリュミエールの死を認めた。と同時に、相変わらず笑みを浮かべていたリュミエールに変化が生じる。
突然リュミエールの姿が、異質な物へと変貌した。それは彼女を模して作られた蝋人形のようにも見える。その物は見る間にボロボロと崩れていき、土塊(つちくれ)も残さずに消滅していく。
同時にボンファイアの心に築かれた壁に残された最後のブロックも崩れ落ちた。彼は絶叫を上げ、うずくまる。
やがて彼が面(おもて)を上げたとき、一面の光景は変わり果てていた。草原も森も城も、すべてが消失し、荒れすさんで赤茶けた不毛の大地が果てしなく広がっている。
ところどころに岩が転がり、建造物は一切ない。その荒野にポツリポツリと宇宙船の残骸が見受けられる。300メートルほど離れたところには、ブライトフォースの機影もあった。
さらによく見ると、地表のそこここには白骨化した死体が転がっている。多くはヒューマイノイド・タイプの生物のものだ。
中には明らかに非人間タイプの知的生命体と思われる、見たこともない形状の骨格も混じっている。
いったい何が起こったのか。ボンファイアは急激な変化に混乱した。むしろ、先ほど草原や城を、いとも自然に受け入れることができたのが不思議である。
その時、背後で何かが動いた。素早い動作で振り返る。同時に右手にはビームガンを構えていた。ほとんど条件反射に近い。危険と隣合わせの仕事で身についた機敏な動作である。
目の前を両生類のように緑色の肌をした生物がコソコソと歩いている。身長70センチほど、伝説に出てくるゴブリンのようなおぞましい姿。目が赤い血の色をしている。
ソウルイーター。
発達した知的生命体を獲物として狙う、精神感応能力を持った凶悪生物である。
ターゲットが心の底に持つ追憶を利用し、作り出した幻覚の中に獲物の魂を閉じ込めてしまう。そして、抜けがらとなった肉体を、ゆっくりと食い尽くすのだ。
ボンファイアはすべてを理解した。
しかし、その幻術が破られてしまえば非力な化け物にすぎない。ソウルイーターは怯えた目つきをしながら少しずつ後ずさり、逃げ出すタイミングをうかがっている。
ボンファイアには、こいつを逃がす気など毛頭ない。大切な思い出を汚されたという激情に突き動かされていた。
抑制することなどできない渦巻く感情のままにビームガンの引き金を引き絞る。
最初の一撃がソウルイーターの頭を撃ち抜き、怪物は絶命した。
引き金にかけられた指は、それ自体が強固な意志を持っているかのように力を緩めない。すでに生命を失ったソウルイーターの身体に熱線が堰(せき)を切ったかのごとく浴びせ続ける。
彼がようやく指を緩めたとき、ソウルイーターはほとんど炭化して、くすぶり続ける黒い塊と化していた。
ボンファイアは乾いた地面に座り込んだ。昂ぶっていた感情が一気に抜け、放心状態に陥っている。憑き物が落ちたようでもある。
やがて血の気を失っていた顔面に生気が戻ってきた。心のバランスを取り戻したのだ。
思えば皮肉な話である。ボンファイアを幻想世界の虜にしようとした化け物が、結果的には彼の魂を堅牢な檻から解放したのである。
ボンファイアは5年の歳月を経てリュミエールの死を受け入れた。だが、あのとき彼をソウルイーターの幻から救い出した声。
間違いなくリュミエールの声だった。
今は亡きリュミエールの声が、幻覚の迷宮へと誘い込まれたボンファイアの魂に一筋の光明を投げかけ救い出した。
あの声は現実を認めさせようとする、彼自身の深層心理が作り出した幻聴だったのだろうか。
ボンファイアはそう思いたくなかった。
肉体は滅んでも魂は永遠の存在なのかもしれない。時間と空間を超えた時空から見守り続けているのかもしれない。
数年来、彼を責めさいなんだ孤独感が薄れていく。顔に笑みが浮かぶ。
リュミエールの死後、身についた唇を歪めるだけの皮肉な笑いではない。ボンファイアが陽気な青年だった頃よく見せた穏やかな笑顔だった。
ボンファイアは立ち上がるとブライトフォースに向かって、ゆっくり一歩一歩踏みしめるように歩き出すのだった。
完