悪しき運命(さだめ)のラセリア
第1部 ヴルディアの青騎士
5.真夜中の物音
ヴィンスはフッと目を覚ました。
使用人たちとの宴がはねてから、ベッドに潜り込んで3時間も寝ただろうか。ほんのかすかな気配が、ヴィンスを揺り起こしたのだ。
耳をすませてみる。クローディオ邸はシンと静まりかえっていた。窓外からは涼やかな虫の音。
慣れないフカフカなベッドのせいだろうか。いや違う。確かに何かの気配を感じた。胸騒ぎがヴィンスを捉える。
スルリとベッドを抜け出し、素早く身支度を始めた。音を立てないよう細心の注意を払う。
皮鎧を着込み、ブロードソードを腰に着ける。
そっとドアを開いて廊下の左右を見渡すが、今は何の気配も感じられない。目をつぶり意識を集中する。右手のほうで、かすかな物音。
風に窓が揺らされただけかもしれない。だが、先ほどの胸騒ぎ。ヴィンスは自分の直感に従うことにした。もしクローディオ邸の者であれば、これほど巧みに気配を消す必要はないはずである。
スルリとドアを抜け出て、足音を忍ばせ暗い廊下を進んでいく。
2度角を曲がった。クローディオ邸の、かなり奥深くに入り込んだことになる。
あれから気配は感じていない。ヴィンスは山中に獣を追う感覚を呼び覚ます。
息を潜め獲物に飛びかかる跳躍の瞬間を待つ猛獣。その存在をを察知する研ぎ澄まされた感覚。一瞬でも気付くのが遅れれば命を落とすことになるのだ。
ヴィンスはハッとして左手のドアを見つめた。いる!この扉の向こうに。
相手も自分の存在に気付いている。扉越しに、こちらを伺っているのだ。
自分同様、かなり鋭敏な感覚の持ち主に違いない。数秒間、樫の木の分厚いドア越しに見えない相手との睨み合いが続いた。
このままでは埒が明かない。ヴィンスは意を決してドアに駆け寄り、素早い動作でパッと開く。と同時にブロードソードを抜き放った。
中にいたのは小柄な身体を黒装束で包み、頭にも黒い頭巾を被った盗賊。昼間の賊の小柄なほうに間違いない。
部屋は書斎のようだった。ほとんどの壁面が本棚に作られている。古い書物特有の匂いがヴィンスの鼻をついた。
賊は、その部屋の右側に配置されたチェストの脇に佇んでいた。物色の最中だったのか、引き出しが出されたままになっている。腰には短刀の鞘が認められたが、抜く気配は見せていない。
「誰かっ!くせ者だっ」ヴィンスは声を張り上げた。
問答無用で斬ってかかるのは、ためらわれた。かといって隙を見せれば精霊魔法で眠らされてしまう。
家人を集めて取り囲み、捕らえるのが最善の方策と判断したのだ。
ヴィンスは知るよしもないが、クローディオ邸のこの一角はモーズリット卿の居住部分となっていた。
「待って、私はあなたの敵じゃないわ」頭巾のためくぐもっていたが、明らかに若い女の声だった。
ヴィンスが前に踏み出す。賊は部屋の隅へと後退していく。月明かりが差し込み、窓を背にした賊は黒い影と化している。
廊下のほうでバタバタと物音がした。ヴィンスの叫び声を聞きつけたモーズリット卿が飛び出してきたのだ。
真夜中に叩き起こされたとは思えない、きちんとした服装。右手には剣を握りしめている。
グラナヴァルと呼ばれる名剣。魔法剣でこそないが、モーズリット卿が扱えば、その切れ味は圧倒的。石像すらも真っ二つにすると噂されていた。
ヴィンスの肩越しに賊を見とがめ、目を細める。
「これは昼間の!領主邸に忍び込むとは不届き千万」
言いながら部屋を見渡したモーズリット卿は、チェストの引き出しに気付いた。夕刻、間違いなく鍵をかけたのに、今は引き出されている。
一瞬、顔色を変えてチェストに歩み寄る。中にはヴィンスがクローディオに手渡した例の書状が収められていた。
新たな封蝋が押し直されている。クローディオの領主紋をかたどった封印。モーズリット卿は手にとって本物であることを確かめた。封蝋も手付かずの状態にある。
「フム、でかしたぞ、ヴィンス殿、こやつはまたしても仕損じたようだな」
モーズリット卿はニヤリと笑い、殺意のこもった視線を賊に送った。どうやら、この賊を生かしておく気はないようである。
その意思を察したヴィンスは、モーズリット卿を止めようとした、その時、入り口から新たな声が響いた。
「モーズリット殿、いかがいたした」恐ろしく低い響きを持った、身震いするほど冷たい声音。それは地獄に通ずる風穴から洩れ来る魔風を思わせた。
ヴィンスは室内の気温が急速に下がったように感じた。背筋を走る悪寒に突き動かされ、賊の存在も忘れて振り向く。
心臓が止まりそうなほどのショックに襲われた。モーズリット卿の背後にうっそりと佇む大男。
深緑の鎧を装備し、濃い紫色のマントを羽織っている。鎧には見たこともない異様な紋様が刻み込まれていた。
いや、男という表現が正しいのかどうか。
そいつは明らかに人間とは異質の存在だった。コボルトやオークといった獣人族とも違う。
テカテカ光る青黒い肌、不気味に輝く黄色い目。額からは2本の角が突き出している。全身から瘴気を発散しているように感じられた。
身長は2メートルをゆうに超えている。長身のモーズリット卿ですら小柄に見える。
ヴィンスは、こいつが闇の存在、魔界の者であることを直感した。始めて目の当たりにしたが、それ以外には考えられない。
モーズリット卿は顔をしかめた。グィルティズマめ、余計なところにノコノコ出てきおって。こいつは人間の都合というものを軽視しすぎる。
先刻も今宵は客人が泊まっているからと引き取らせようとしたのだが、居座ってしまった。
事を起こす前に、領主邸に魔人が出入りしてるなどと噂がたっては一大事だというのに。
賊を切り捨てれば、ことは片付くはずだった。だが、見られてしまったからには仕方がない。
二人とも口封じしなければならなくなった。モーズリット卿の黒い瞳に冷たい炎が宿る。
「モーズリット卿、そ、そいつは」さすがのヴィンスも気が動転していた。声が上ずっている。
魔界の者が、どうして領主邸にいるのか。何故、高名な青騎士モーズリット卿と行動をともにしているのか。ヴィンスは混乱で頭の中が真っ白になった気分だった。
「これが青騎士モーズリット卿の正体よ。崇高な騎士様を装いながら、裏では魔界の者と手を組んで、私利私欲のために悪事を重ねているんだわ」女が叫んだ。ヴィンスほど動揺はしていないが、魔人を眼前にして興奮気味だった。
「チッ」舌打ちしたモーズリット卿はグラナヴァルを構えた。みなぎる殺意を隠そうともせず、全身から殺気が放たれている。暗がりの中で白銀の刃が血に飢えて輝く。
女の力強い声で我に帰ったヴィンスも、ブロードソードを構えた。今度こそは覚悟を決めていた。
モーズリット卿は確実に自分を抹殺する気でいる。切り抜けるしか道はないのだ。
だが、あまりにも格の違う相手だ。生きて朝日を拝むことができるのだろうか。弱気な心がヴィンスに宿っていた。柄を握る両手に脂汗がにじむ。
そのヴィンスの肩越しに、女が素早く呪文を唱えた。モーズリット卿とグィルティズマに向けて眠りの精霊魔法を放つ。
魔法耐性の強い魔人はともかく、モーズリット卿はこれで動きを封じることができるはずだ。
だが、モーズリット卿は、何事もなくヴィンスににじり寄っていく。
女盗賊がひるんだ様子を見せた。
それを見たモーズリット卿の面に、またしても冷たい笑みが浮ぶ。
「備えあれば憂いなしというやつだ」二人に向かって左手の甲をかざして見せた。
その薬指には、指輪が鈍い光を放っている。昼間、ガディスがはめていた対魔法の指輪だ。
街道でモーズリット卿は、ガディスの手に指輪を戻すふりをした。その実、自分の手中に握りこんでいたのである。
「ちきしょう、何が青騎士モーズリット卿だ。とんだイカサマの盗人野郎じゃないか」思わずヴィンスが声を荒げた。いつになく激昂している。
「フン、人聞きが悪いな」モーズリット卿は動じた様子もなく言い放った。「預けてあった物を返してもらっただけのこと」
そうか。最初からガディスが魔法で攻撃されることを予測していたのか。死を賭して書状を守らせるために指輪を持たせたに違いない。そして、その思惑はまんまと図に当たったわけだ。
ヴィンスはモーズリット卿の冷徹な計算に、背筋がゾクリとするのを感じた。
「なんて卑劣な奴だ。仲間が犠牲になることもいとわないのか」
「あんな奴を仲間と思ったことなどない」モーズリット卿は吐きすてるように言った。尊大な顔つきは、今や人間離れして氷の仮面のようだ。
剣を構え、じりっと踏み出すモーズリット卿。ひるむまいと必死に踏みとどまるヴィンス。
黒装束の女は、やり取りの隙を見て懐から小さなガラス玉を取り出していた。ただのガラスではない。透明な球体の中で白い靄のようなものが蠢いて見える。
その玉をヴィンスとモーズリット卿の中間点に投げつける。絨毯の敷かれた床であるにもかかわらず、玉は粉々に砕け散った。
白い閃光が部屋中に満ちる。ガラス玉は、光の精霊呪文が込められた使い捨ての魔法アイテムだった。
それは単なる目くらましの光ではない。光の属性を持った聖なる輝きの力を周囲に発散している。
女とヴィンスは影響を受けていないが、モーズリット卿は明らかにたじろいで一歩引き下がった。やはり闇に近しい存在なのだ。
魔人のほうは更に顕著なダメージを受けていた。ぐらりと上体を傾け左手で顔面を覆いながら、唸り声をあげて後ずさる。
明らかに虚を突かれていた。呪文を唱えずに効力を発するアイテムを使った判断が功を奏したのだ。
「さあ、今よ」女はヴィンスに声をかけると、身をひるがえす。
優雅さすら感じさせる軽やかな動作。呪文を唱えながら窓を目指して駆け出す。
女が右手の平を前に突き出すと、ゴウと室内に突風が巻き起こった。
バリン。大きな音を立てて窓ガラスと窓枠が吹き飛ばされる。ぽっかりと開いた黒く四角い空間。
女は吸い込まれるように飛び込んでいく。バランスを崩すこともなく着地すると、一度振り返り様子を窺う。
一瞬見とれていたヴィンスは、我に帰って後を追う。手早くブロードソードを鞘に戻して駆け出す。
ヴィンスが後に続くことを確認した女は、再び走り出した。一目散に一方向を目指す姿は、あらかじめ逃走方法を決めていたことを物語っている。
暗がりの中を確かな足取りで疾駆していく。飛ぶような速さ。ヴィンスが全力疾走しても距離を縮めることができない。
背後からは物音を聞きつけた家人の声や犬の吼え声が聞こえてくる。
二人は裏庭を走り抜け、うっそうと茂る林の中に姿を消した。
室内を照らしていた魔法の光は急速に弱まっていった。
「くそっ」立ち直ったモーズリット卿は、毒づきながら窓枠に手をかけて庭を睨みつけた。
「私が仕留めてこよう」背後からグィルティズマが言った。いつも通り抑揚の少ない口調だが、その奥には女にしてやられた怒りがにじんでいる。
「ええい、これ以上余計なことはするな」モーズリット卿は怒声を上げた。
こいつが姿を見せなければ、こんな大事にはならなかった。
いや、これくらいのことは、どうにでも後始末できる。彼が危惧するのは、これ以上多くの者にグィルティズマの姿を見られてしまうことだった。
すでの屋敷のあちこちで家人たちが起き始めている。犬を放って曲者を追う気配すら感じられた。
今日はレーニャたちも泊まりこんでいる。油断できないあの連中に自分の尻尾をつかまれては、それこそ身動きできなくなってしまう。いよいよ事を起こそうという時だ。慎重に動かなくてはならない。
「若造のほうは素性も知れているし、ならず者の女など取るに足らん」モーズリット卿は虚勢を張って言い放つ。
「後始末は私に任せて、今日のところは引き取ってくれ」
グィルティズマは無表情な中に、どこか皮肉な笑みを感じさせる面持ち。モーズリット卿の窮状を楽しんでいるようにも見受けられる。闇の存在にとって、人間とは味方すら嘲りの対象だとでもいうかのように。
魔人の背後に闇の粒子が集まってきた。部屋の中に黒い空間が広がっていく。グィルティズマは、その中に姿を消していった。
モーズリット卿は苦々しい表情で目をつむり溜息をついた。だが、それも一瞬のこと。カッと目を見開くとそこには、いつも通りの威厳に満ちた青騎士モーズリット卿の顔があった。
早急に手を打つことだ。ちっぽけなゴミどもに自分の計画を邪魔されてなるものか。
モーズリット卿は二人の消えた方向を見据えて、キリリと歯を鳴らすのだった。