悪しき運命(さだめ)のラセリア
第2部 サヴォイ砦の暗雲
7.ゴルワデスの刻印(前)
ラセリアの身体がグラリと揺れ、そのまま崩れるように倒れていく。
レーニャの投げナイフに毒が仕込まれていたのだ。
「ラセリアッ!」ヴィンスは振り返って叫び声をあげた。
ラセリアの元に駆け寄ろうとするのだが、思うように手足が動かない。すべての動きがスローモーションの如く感じられた。
ヴィンスは、もどかしさに胸がはち切れそうな思いだ。
逃げ出しかかっていた暗殺者の一人ライカーは、この様子に気づいた。ヴィンスの隙をついて手柄をたてようと、功名心に駆られ踵(きびす)を返す。
短刀を腰だめに構え、背を向けているヴィンスに突っかかっていく。
ヴィンスは、気配を察した。
場馴れしているとはいっても、ライカーの腕などたかが知れている。ヴィンスは、第一撃をヒラリとかわした。
隙だらけになったライカーに構えた剣を振り下ろそうとする。だが、身体が硬直して動かなくなってしまった。
人間を斬るということへの恐れが、ヴィンスを金縛りにしたのだ。
相手は自分と同じくらいの若さ。だが、その正体は罪もない人の命を奪う暗殺者なのだ。
この男に慈悲をかける必要などない。心の中で理解していても身体が反応しなかった。
ライカーは猛悪な笑みを浮かべ、ヴィンスの左胸めがけて短刀を突き立てていった。
ヴィンスは低くうめいて目を覚ました。目の前ではラセリアが小さな寝息をたてている。
エミルカスに到着して4日目の朝を迎えようとしている。相変わらず一行はエミルカスの外側にはられたテント小屋で寝起きしていた。
それでも長老ジャジールは長い時間をラセリアの治療にさいていたし、水や食料も十分に届けられていた。
もっとも、それらを運んでくるエルフの村民たちは、皆おどおどと怯えた様子。やはりラセリア、というより彼女の額に浮き出た紋様に恐れを抱いているのだ。
ヴィンスは、この紋様がゴルワデスの刻印と呼ばれていることを知った。ラセリアのみではなく、エルフ族全体にとって忌まわしいものなのだという。
この紋様に面と向かって平静を保っているのは、エルミカスでは長老ジャジールのみのようであった。
ジャジールの調合した薬は如実な効果を発揮し、ラセリアの容体はすっかり安定している。
バムティは不眠不休の看病を続けていたが、ここにきてようやく安心した様子だ。ヴィンスの言葉を受け入れ、エミルカスに着いて初めて寝床に就いていた。
ほんの少しウトウトして悪夢にうなされてしまったのだ。
ヴィンスは脇の下が、かすかに汗ばんでいるのを感じた。暗殺者の若者を一刀のもとに斬って捨てたバムティの姿がヴィンスの脳裏から離れない。
ついに冒険へと乗り出すことになり、すでに暗殺団の襲撃を受けた。
今後、更なる危機に見舞われる可能性は極めて高い。
バムティがラセリアを守るために人を殺めるのを見たのは、これで二度目。
最初は街道でガディスから書状を奪おうとした時だ。そのバムティも傷付いたガディスに止どめを差すことには、ためらいを見せた。彼とて殺人に禁忌を持たぬ男ではない。
自分もモーズリット卿とグィルテズマの陰謀を砕き、ラセリアを守るためには鬼となれるだろうか。
ヴィンスは表情を曇らせ、ラセリアの寝顔をそっとのぞき込む。
と、ラセリアの目がスッと開いて青い瞳がいたずらっぽく輝いた。
「神妙になっちゃって、似合わないわよ」クスリと笑う。
「あ、いや」ヴィンスは顔を真っ赤にした。
「うなされてたわね」ラセリアは、急に真顔になった。
「ゴルワデスの刻印の影響かもしれないわ」ラセリアは額に手をやった。エルミカスに到着してからバンダナは外したままになっている。
この紋様は、確かに不吉なものを感じさせる。たが、周囲に影響を与えるほどの力を持っているかどうか。
ヴィンスは首を傾げた。そのような力を持っているなら、ラセリアがこれほど魅力的でいつづけられるはずはない。そんな気がしたのである。
「ごめんなさい。事情もろくに説明しないで、こんな事件に巻き込んでしまって」ラセリアは、いつになく大人びた面持ちである。
「気にすることはないさ。僕は自分の選んだ道を突き進んでいるだけのことなのだから」ラセリアの神妙な様子に、ヴィンスは少し身構えながら答えた。
「私もようやくふっきれたわ」額の印が顕になったことで、気持ちの整理がついたようだ。「モーズリット卿が私より年上だと言ったら、どう思う?」
一瞬、何を当り前のことをという思いがヴィンスの脳裏をよぎる。だが、ラセリアはエルフなのだ。見た目からは想像もつかない年月を生きている。
「ま、まさか」その事実に思い当ったヴィンスは、自分の声が震えるのを感じた。からかわれているのかという気分だ。
だが、ラセリアの態度は相変わらず神妙そのもの、ふざけている様子は微塵もない。すると奴は人間ではないのか。ヴィンスは戸惑いの表情を浮かべた。
「いいえ、あいつは人間よ」ヴィンスの思考を読み取ったかのようなラセリア。「でも、魔人と契約を結んでいるの」
「そうか!グィルティズマか」思わずヴィンスが声を張り上げる。
「モーズリットは低い身分の生まれで、少しくらい手柄を立てても出世することは難しかった。あいつは人一倍上昇志向の強くて我慢できなかったのね。それで魔人グィルティズマと契約を結んだのよ」
「それで不老不死になったのか」ヴィンスはゴクリと喉を鳴らす。
「そう。正確には契約の一部で、彼の野望が果たされるまで年を取らないということらしいわ」
ヴィンスも、その噂は聞いたことがあった。モーズリットがヴルディアに姿を現して十年、全く外見が変わっていないと言われている。
さすがはヴルディアの青騎士、活力が常人とは違うと民衆は感嘆の声を上げていた。その青騎士伝説が、実は暗黒の魔力の賜物だったとは。人々を愚弄するにも程がある。ヴィンスは憤りを感じた。
「彼の願いは、一国の支配者になることなの」ラセリアはフッと溜め息をついた。「思えば哀れな人間ね。魔族が人間との契約を守るはずないのに。奴ら魔族にとって、人間を欺き裏切ることこそ至上の快楽なの」
ラセリアの表情は沈んで、いつもモーズリットのことを口にするときに生じる怒りの色は見えなかった。
「欲望に目がくらんで、自分だけは例外と思い込んでしまうのね」ラセリアは、もう一度溜め息をつくと、彼女とモーズリットの物語を語り始めた。