悪しき運命(さだめ)のラセリア
第2部 サヴォイ砦の暗雲
8.夜の冷気の中で(前)
ラセリアの体力が回復し、一行は再びサヴォイ砦を目指し出発したが、モーリス大隊に追い着くことはできなかった。
モーリス大隊が砦に到着したその日、もっとも不運だったのが一兵卒のヘフナーだった。
ヘフナーは短躯(たんく)という表現がピッタリのずんぐりむっくりした体形に赤ら顔をした陽気な男。その彼が行軍最後の日に荷物の底に残っていた乾肉を見つけた。
少々カビてところどころ青黒く変色していた。やめておけばよかったが、大食漢のへフナーは空腹を我慢できなかった。
ええい払えば大丈夫と生来の意地汚さを発揮したのが運のツキ。ひどい下痢に見舞われ、脂汗流しながら行軍しては、道端の薮に駆け込んで用を足すことの繰り返しとなった。
いよいよサヴォイ砦に辿りついた頃には、もう出すものもない状態。すっかり青ざめてゲッソリした顔に、相変わらず脂汗を浮かべていた。
驚いたことに、ヴルディアにいるとばかり思っていたモーズリット卿が、いつの間にか先回りして皆を出迎えた。
しかも先行した2大隊の姿はない。辺境一帯の偵察に出動しているとのこと。残っているのは最低限の兵のみだという。これまでに前例のない状態である。
3大隊すべてがサヴォイ砦に集結するという異例の事態に、兵たちの間には様々な憶測が飛び交った。具体的な証拠は一切ないので、その内容はヴィンスたちが「瞬くカンテラ亭」で聞いた噂話と大差ない。
とにかく砦がもぬけの空ということで、やはり何ごとか勃発しているのでは、と兵士たちの間に緊張が走った。
ところがモーズリットたちは、落ち着き払っている。長旅の労をねぎらうといって宴会の準備までされていた。喜ばしいことではあるが、これまたかってない事態には違いない。
モーリス大隊の中には食料が十分に輸送されていないことを知る事情通が少なからずいた。そいつらは、サヴォイ砦では木の根をかじって暮らしているに違いないとうそぶいていた。
それが、到着早々の宴となったのだから、嬉しさ半分ではあるが、皆狐につままれたような表情。
しかも予想もしない豪華な食事と美酒を振る舞われて一同は感嘆の声を上げた。
といってもヘフナーは恨めしいばかり。御馳走を目の前にしながら、全く食欲がない。
せめて大好物の鴨のローストだけでも、と無理して口にしようとしたが、どうしても喉を通らない。身体が食物を受け付ける状態にないのだ。
まわりの連中はと言えば、行軍で疲れた身体にアルコールが沁み渡って、みんなすっかり出来上がっている。悔しいことにヘフナー独りがシラフなのである。
もちろん幾人かは酒の飲めない者もいる。そいつらも御馳走をたらふく腹に詰め込んで目をトロンとさせている。
むふう。ヘフナーは溜め息をつき、苦虫つぶした顔であたりを見渡す。
上座ではモーズリット卿がワインをチビチビやっている。
専用のビンテージ物なのか、一般の兵卒たちに供されているものとは異なる壜であった。
モーズリットが、しかつめらしく気取っているのは毎度のこと。解せないのは、豪快な飲みっぷりで酔うと大声を出し始めるミンスロー将軍までも今日は無表情で物静かなことだ。
更には、おべっか使いのダーネル准将が、薄笑いを貼り付けた表情で黙りこくっている。いつもであればモーズリットの周りをチョコマカとしている頃合だというのに。
おそらく、これらのことに気づいたのはヘフナーただ一人だろう。
他の連中は飲み食いに夢中で、お偉い方々のことなど眼中にない様子。
ヘフナーは体調が良くないので、と直属の上司である小隊長に申し出て一足先に引き上げることにした。
すっかり体力を消耗していたヘフナーは、ベッドに潜り込むとたちまちぐっすり寝込んでしまうのだった。
真夜中になってヘフナーは、ふと目を覚ました。あちらこちらでイビキが聞こえている。
ひと眠りして回復したのだろう。激しい空腹感が襲ってきた。
もともと大食漢のヘフナー。こうなったら我慢できない。よし、厨房に忍び込んで何か食い物を調達しよう。
彼がサヴォイ砦に駐屯するのはこれで4度目。事情通のヴェテランなのである。
ヘフナーは、これまでにも何回か仲間達と厨房で酒や肴を盗み出したことがあった。見つかって営倉に放り込まれたことも一度ある。
寝返りを打つふりをして周囲の様子をうかがう。どうやら、辺りの者は全員ぐっすりと寝込んでいるようだ。彼はスルリとベッドを抜けて靴をはく。
木枠に安手のマットをはめ込んだベッドが並ぶ中を、足音を忍ばせて進む。
部屋の出入口に達したヘフナーは、ドアを僅かに開けて通路の様子を見る。通路は角ごとに獣脂を使ったランプが灯されているが、芯を絞って炎が小さく調節されており、かなり薄暗い。
一歩踏み出そうとしたヘフナーは、隣室からの物音にハッとして戻った。隙間から覗くと、一台の台車が運び出されてきた。
この真夜中に何の作業をしているのか。いぶかしんだヘフナーは台車に乗せられたものを見てドキリとした。
仲間の兵隊が6人無造作に積み上げられているのだ。ヘフナーは、思わず声を上げそうになるのをこらえ、さらに観察を続ける。
皆、意識を失ってぐったりしていた。どうやら息はしているようだ。
その台車を押している者を見やって、ヘフナーはもう一度息を呑んだ。偵察に出ているはずのギルバート大隊兵だったのである。
ヘフナーは、バナウェイの酒場で幾度か彼と居合わせたことがあった。確か名前をキュロスといった。歌の上手い陽気な男だったが、今は別人のようだ。
どんよりとした目つきに生気のない肌。酒をあおって高笑いしていたキュロスの面影は、ここにはない。
キュロスは、ヘフナーに背を向け通路を反対方向へと台車を押していく。やがて左に折れて姿を消した。
いったい今のは何だったんだ。ヘフナーの背筋にザワリとした感覚が走る。
こうなると、つまみ食いどころの騒ぎではない。空腹感もどこかに吹っ飛んでいた。
動転したヘフナーは、出入口近くで寝ている親友のレンドールに声を掛けた。
「おい、レンドール起きてくれ」耳もとで囁くが何の反応もない。
今度はレンドールの肩を揺すってみた。やはり、起きるそぶりは見せない。いくら行軍の疲労がたまっていたにしても、さすがに不可解である。
先ほどの台車に積まれても眠りこけている男たちといい、あまりにもおかしい。
ヘフナーは、あることに思いいたって心臓が凍りつきそうになった
眠り薬を盛られたに違いない。晩餐の酒や料理、どれかに強い睡眠薬が仕込まれていたのだろう。
全く口にしなかったのは、おそらく自分一人。ヘフナーは、背中を冷や汗が伝うのを感じた。
いったいこのサヴォイ砦で何が行われているのか。心の中に好奇心がムクムクと頭をもたげてくる。そして、恐怖心とせめぎあいを始めた。
そうこうするうちに通路から物音がしてくる。キュロスが空になった台車を押して戻ってきたのだ。
ヘフナーは身構えた。こちらの部屋に入ってくるようなら、どれかベッドの下に潜り込んでやりすごさねばならない。
彼の心配をよそに、キュロスは今度も隣の部屋へと入っていく。
数分間、息を殺して待ち続けた。ヘフナーには、その数分が一時間にも感じられる。やがて、先ほどと同様、眠り込んだ6人の兵士を積み上げた台車が出てきた。
すでにヘフナーの心は好奇心に支配されている。キュロスが左に曲がって見えなくなると、彼は部屋を抜け出し足音を忍ばせて後を追い始めたのだった。