悪しき運命(さだめ)のラセリア
第2部 サヴォイ砦の暗雲
8.夜の冷気の中で(後)
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 通路に出た途端にヘフナーは、ブルリと身を振るわせる。空気が冷え切っていた。
 この辺境地帯は夏でも夜は気温がかなり下がる。それにしても、この寒さは異常と思えた。
 角から頭だけ出して覗くと、キュロスは辺りに注意を払う様子もなく台車を押し続けている。さらにもう一度左へと曲がった。
 ヘフナーは、ゴクリと喉を鳴らし思いを巡らす。この先は地下へと続くドアがあるのみ。
 行き先は見当ついたが、いったいそこで何が行われているのか。
 彼は角の壁にピッタリと背をつけ、曲がった先をこっそり覗き込む。
 やはりギルバート大隊の兵士が一人立ちつくしていた。細身で黒い髪。顔は見覚えあるが、名前は知らない男だ。
 まさに仁王立ちという状態。キュロスが近づくまで微動だにしない。まるで銅像のようだ。
 台車が足元まで来ると急に動き出す。ヘフナーは、からくり人形の動作を見せられているような違和感を覚えた。
 その兵士とキュロスが台車の前後に手を掛け、ヒョイと持ち上げる。
 台車の上には兵士が6人、中にはかなり大柄な者もいる。全体で500キロ近い重量になるだろう。
 その台車を、二人は顔色ひとつ変えず軽々と地下へ運んでいく。
 二人の姿が消えるのを見計らって、ヘフナーは階段に近づいていった。最上段から、そっと見下ろす。
 地下へと暗い階段が続いている。二人の姿は、すでに見えない。再び恐怖心が湧き上がってきた。全身から冷や汗が吹き出す。
 だが、あまりに不可解な出来事を目の前にして、好奇心が自己防衛の本能を麻痺させていた。
 ヘフナーは様子をうかがいながら、一段また一段と階段を降りていく。
 降り立ったところでは、観音開きの扉が左側だけ開け放たれている。ヘフナーは閉ざされている側の扉に身を隠す。
 地下は広い倉庫となっており、従来は食料や水から各種の日用品などが積まれている。
 目を凝らして仄暗い中を見透かそうとする。倉庫には2メートルほどの高さの燭台が左右2ケ所に置かれているのみ。
 その燭台にはさまれて、手術台を思わせる台が並べられている。3台ずつ2列、黒い布が敷かれ、見ようによっては祭壇のようでもある。
 キュロスたちは、その台に運んできた男を一人一人横たえていく。両脇と両足を持って無造作に軽々とした動作で並べていく。
 またたく間に台車は空になった。キュロスは無言で台車を押し、ヘフナーのいる扉へと向かってくる。もう一人の兵士も後ろに付きしたがっている。
 心臓が口から飛び出しそうになったヘフナーは、慌てて周囲を見回す。
 隅に樽が置かれていた。彼は、その背後に身を隠してうずくまる。緊張のあまり震えだしそうになるのをなんとかこらえ、二人をやり過ごそうとする。
 大人一人隠れるには少々狭い隙間。彼らが目を凝らせば簡単に見つかってしまうだろう。
 だが、二人ともどんよりとした目つきで周囲を警戒している様子はない。ヘフナーの前を真っ直通り過ぎて階上へと上っていく。
 深く息を吐いてヘフナーは再び倉庫の中を観察し始める。思わず叫び声をあげそうになり、右手で自分の口を押さえた。
 いつ現れたのか、左端の台の後ろに二つの人影があった。
 一人は他ならぬモーズリット卿。ヘフナーが驚愕したのは、もう一人の方だ。大柄なモーズリットよりも二まわりは大きい魔人グィルティズマがうっそりと佇ずんでいたのである。
 黒ぐろとした皮膚に角の生えた頭部。目を赤く爛々と輝かせた様は、この世のものとは思えない。正体を知らないヘフナーにも、邪悪な存在であることは一目瞭然だった。
 ヘフナーの身体に、またしてもブルリと震えが駆け抜ける。もちろん恐怖からのものであるが、室温が急速に下がったことも事実だった。
 心の底には、「早く逃げ出さなくては」という警報が鳴り響いている。
 だが、実際には身じろぎもせず、目はグィルティズマの一挙手一投足に釘づけだった。
 グィルティズマは、低い地獄の底で吹き荒れる暴風のような声で陰欝な呪文を唱え、一歩前に歩みでた。
 左端の台に横たわる兵士は、悪夢にうなされたかのように、うめき声をあげて顔をしかめた。近づく者の邪悪な波動を感じ取ったのかもしれない。
 グィルティズマは右手を突き出した。手のひらを、掴みかかるように下を向けてに大きく広げる。
 黒く長い爪を持った手全体が、獲物に襲いかかろうとする巨大な猛禽(もうきん)類のようだ。
 魔人は、その手を振り下ろす。爪の先から兵士の左胸に吸い込まれていく。男は、大きくビクビクッと痙攣して動かなくなった。
 殺された!ヘフナーは、目を剥いて息を呑む。まさしく断末魔の痙攣と見えたのだ。
 寒気を感じているにも関わらず、全身が汗でビッショリだった。
 グィルティズマは、スッと手を引き抜く。一滴の血すらしたたらない。兵士の胸にもシャツにも傷ひとつついた様子はなかった。
 次の瞬間兵士の目がカッと開いた。だが、その瞳からは完全に生気が失われていた。不自然な動きで起き上がると台を降りる。強張った表情で倉庫の奥へと歩いていく。
 ヘフナーは、これまで台上の出来事に気を取られ、奥には注意を払っていなかった。今は暗がりに目が慣れ、奥まで見通せるようになっていた。
 目を凝らしたヘフナーは、異様な光景に息を呑む。倉庫の奥には数えきれない人数の兵士が身じろぎもせずに立ち尽くしていた。
 なにしろ薄暗いので、ヘフナーに顔の判別はつけられないが、そのほとんどが偵察に出ているはずのギルバート大隊とクレイトン大隊の兵士たち。そして前列の方に今夜加えられたモーリス大隊の兵士たちがいる。
 今立ち上がった男は、最前列に並ぶと完全に動きを止めた。初めて見たのなら、蝋人形と言われても疑いはしないだろう。
 ヘフナーは、その光景からおもちゃ屋の店先に並べられた人形を連想した。魔人によって操り人形と化した兵士たち。それはオモチャ屋の悪夢的パロディーといえた。
 グィルティズマは、次々と台上に横たえられた兵士に術を施していく。
 最後の一人を操り人形にしてしまうと、グィルティズマは頭を上げ、ヘフナーの隠れる扉の方に一瞥した。
 ヘフナーの心臓が縮み上がる。魔人の冷たい瞳が、自分の存在を見透かしているように思えたのだ。
 一刻も早く、こんなところからトンズラしなければ。恐怖に駆られたヘフナーは、地上に繋がる階段へと踵をかえす。
 振り返った彼の行く手に、キュロスともう一人の兵士が立ちふさがっていた。
 二人は、これまでとは見違えるほどの素早い動きでヘフナーの左右に回り込む。次の瞬間には両脇の下に手を差し込んで、ヘフナーを軽々と持ち上げていた。
 我に返ったヘフナーは、両足をバタバタさせてもがくが、二人の力は常人のものではない。万力で固定されたかのように押さえ込まれ、逃れることなど到底できない。そのままグィルティズマの真ん前に運ばれてしまう。
 あまりの恐怖に歯の根も合わない状態。ヘフナーは、目を剥いてアワアワと喘ぐのみ。
 無表情なグィルティズマであるが、その目は喜悦に輝いている。
 多人数を速やかに処理するため今回は睡眠薬を使ったが、本来は人間の恐怖と絶望がグィルティズマに最大の快楽をもたらす。魔人は心持ち目を細め美酒を味わうかのように、ゆっくりした動作で手を広げヘフナーの左胸にめりこませていく。
「うああ」ヘフナーの恐怖は頂点に達した。目玉がこぼれ落ちそうなほど目を見開き、自分の胸にグィルティズマの大きな手が吸い込まれていく様を見つめる。
 服も身体も傷つけられてはいない。グィルティズマの手は、まるで実態のない幻であるかのようにヘフナーの身体に滑り込んでいる。
 それでいて何かが自分の身体に突き刺さったいるという感触はあるのだ。
 グィルティズマは、一気にヘフナーの心臓をわしづかみにした。全身に凍りつくような冷気が駆け抜ける。
「グワアァァー」地下倉庫に悲鳴が響き渡る。
 断末魔の瞬間、ヘフナーの脳裏に浮かんだのは「好奇心は猫を殺す」という言葉だった。それを最期にヘフナーの魂は消失した。
 残されたのはグィルティズマの思念によって動く生ける屍。こうして彼もグィルティズマの不死者兵団の一兵卒と成り果てたのである。