悪しき運命(さだめ)のラセリア
第2部 サヴォイ砦の暗雲
11.裏切りのサヴォイ砦
その夜はバムティとカーニットが不寝番に就くこととなり、ヴィンスとラセリアはシャルムのテントで眠っていた。エルミカスを出て以来野宿が続き、星を見ずに寝るのは久方ぶりである。
夜明けまであと1時間というとき、シャルムがスウッと起き上がった。気配を消し物音をたてず、周囲の様子をうかがいながらテントを抜け出ていく。
だが、ヴィンスはクローディオ邸に忍び込んだラセリアに気づいたほど鋭敏な感覚の持ち主。さすがのシャルムもごまかしきることは出来なかった。
ヴィンスは、シャルムがテント幕の外に姿を消すまで、じっと様子をうかがっていた。頃合いをはかって身を起こし、テント幕を少しだけめくって顔を覗かせる。
目を細めて夜の戸張を透かし見た。南側の鬱蒼(うっそう)とした茂みの間を抜けていくシャルムの後ろ姿があった。
一見すると、ふらりと散歩に出たかのようなさりげない歩み。だか、ヴィンスにはシャルムが周囲に細心の注意を払っていることが感じられた。
追うか追わないか。ヴィンスは躊躇した。辺境の森はひっそりてして、ときおり遠くから夜行性猛禽類の鳴き声が聞こえてくるのみ。
剣の腕前を直接見たことはない。それでも、普段の身のこなしからシャルムが並みはずれた実力の持ち主であることは察しがつく。
うかつに追いかければ気取られてしまうに違いない。
「もうしばらく泳がしましょう」
唐突に声をかけられてヴィンスはドキリとした。前方のシャルムに気を取られて、背後への注意を怠っていたのだ。
振り返ったヴィンスに、ラセリアがニッと笑いかける。まるでヴィンスの心中を見透かしているかのようだ。クローディオ邸で一本取られたお返しのつもりなのかもしれない。
「前からシャルムは、何かを隠していると感じていたのよ。傭兵にしては、金のことに無頓着すぎるのも気になったし」ラセリアは目を細める。
「シャルムは、いったい何を企んでいるんだろうか」ヴィンスは、これまでシャルムを頼もしい先輩格と思ってきた。今の出来事は、彼をすっかり混乱させてしまっていた。
「さあ、まだ正体は分からないわ。でもモーズリットの手先ではないと思うの。もしそうだったら、組織がこれまで無事でいられたはずがないもの。それに、うさん臭いところはあっても、彼から闇の気配を感じ取ったことは一度もないの」
その時、ラセリアの瞳がこれまでにない冷たい光を宿すのをヴィンスはみとめた。シャルムたちがモーズリットに組する者であれば、生かしてはおかない。暗い決意を感じさせる眼差しだった。
シャルム、そしてラセリア。ヴィンスは、二人の知らなかった側面に触れた気分になっていた。
「さあ、戻りましょう。ぐっすり眠っていて何にも気づかなかったっていうフリをしなくてはダメよ」ラセリアは、一瞬でいつもの少女っぽい顏つきに戻りヴィンスにウィンクしてみせる。
ヴィンスは、中に残っているキリウスを起こすまいと抜き足差し足で入っていく。その姿を見たラセリアがクスクス笑う。
「そんなに慎重にならなくても大丈夫よ。呪文をかけたから、あと30分は起きないわ」ラセリアは、もう一度ウィンクしてみせるのだった。
「グィルティズマ、それでは約束が違う」その日の昼近く、サヴォイ砦の南側にある司令官室でモーズリットの怒りの声をあげていた。
砦の中で最も日当りの良い部屋なのだが、今は分厚いカーテンが引かれている。その暗がりの中にモーズリットとグィルティズマが対峙していた。
不死者の軍団は一路王都シャンダリアへと向かう。時を同じくしてヴルディアからもクローディオ指揮のもと市兵軍が出陣してシャンダリアを挟撃、一気に攻め落とす。
これが当初の計画だった。もちろん、その後でクローディオを亡き者としてモーズリットが王位に就くのである。
そうしてついにモーズリットとグィルティズマの契約が果たされる手筈だった。
だが、時ここに及んでグィルティズマは兵をヴルディアに向かわせると言い出した。国王軍の戦力は圧倒的である。しかも戦闘が長引けば近隣諸国の援軍が集結してしまう。
魔界から魔物たちを呼び出して戦闘に加えるので、戦力の差は問題ない。これまでグィルティズマはモーズリットに対して、そのように納得させていた。
だが、実のところグィルティズマといえども暗黒のイヴィルガルドなしでは限られた力しか発揮できない。現時点では王軍に対抗できるほど強力な魔物を操ることはできなかった。グィルティズマ本人は、それを承知していたのだ。
まずはヴルディアを攻め落として時間を稼ぐ。その間にグィルティズマは暗黒のイヴィルガルドを手にいれる腹づもりなのである。
イヴィルガルドのパワーを身につければ、人間どもの軍勢などおそるるにたりない。
まず捕らえたヴルディア市民を片っ端から不死者化して軍を増強する。さらに魔界から呼び出した強力な魔物を加えれば天下無敵。王国全土の制圧も思いのままとなるのだ。
魔人グィルティズマが支配する領土に人間の国民など必要ない。戦いを生き残った人間どもは、その大半を不死者にしてグィルティズマの軍に組み入れる。
一部の者たちは、生きたまま奴隷とする。使役そのものは不死者どもでも差し支えない。奴隷たちは、悲しみや絶望によってグィルティズマに悦楽を与える道具となるのだ。
「バカな、治める国民のいない王になどなって、何の意味があるというのだ。わしの望みは、そのようなことではなかった」モーズリットは目を吊り上げる。
支配こそがモーズリットの野望。付き従う民がいなくては権力など無価値となってしまう。
「愚か者め。我が人間ごときとの契約を守ると思っているのか。どのみち貴様に与える領地などないのだ」
モーズリットの激怒は、グィルティズマにとって極上の美酒より甘美だった。グィルティズマは、モーズリットの怒りを弄び悦楽に浸っている。
ぐぐっ。言葉に詰まったモーズリットの面は、憤怒のあまり赤黒く変わり悪鬼のようだ。
グィルティズマは、愉悦のあまり珍しく相好を崩してニタリと笑う。
それはモーズリットが心に燃え上がらせた炎に油を注いだ。
居合いの雄叫びとともに愛剣を抜きはなつ。鮮やかな太刀さばき。間合いも完璧で、間違いなく致命傷を与えるはずだった。
だが、グィルティズマは平然としている。グィルティズマにダメージを与えることができるのは、魔力の込められた武器だけ。通常の剣で傷つくことはない。
グィルティズマは、今日という日が来ることを予測していた。モーズリットが魔法剣を手にすることがないよう仕組んだのも、グィルティズマの奸計だった。
さしものモーズリットも茫然として立ち尽くす。グィルティズマは踏み出し、一瞬にして間合いを詰める。
スッとグィルティズマの手がモーズリットの左胸に差し込まれていく。
全身の血が凍りついたのではないかと思えるほどの冷気が駆け抜ける。モーズリットは、悲鳴とも怒声ともつかない雄叫びをあげた。
その叫び声は、今や生ある者が一人としていなくなったサヴォイ砦に響き渡るのだった。
第2部 終わり