悪しき運命(さだめ)のラセリア
第3部 聖地シャグラムの呼び声
2.分けつが原の向うに
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 サヴォイ砦を離れた翌日の明け方、ヴィンスたちは森の中にキャンプして眠りに就いていた。前日は少しでも不死者たちを引き離そうと日が暮れた後まで走り続けた。
 二人乗りによる馬の疲労がなければ、夜半まで歩を進めたかったくらいである。
 なにしろ不死者どもは休憩を必要としない。腹が減ったり眠くなったりすることすらないのだから始末に悪い。ヴィンスたちが休んでいる今この時も進軍を続けているのである。
 ヴィンスは得体の知れない気配を感じて目を覚ました。素早く起き上がって傍らのブロードソードに手をのばす。
 北の茂みから、木の葉がこすれるかすかな物音がしてきた。剣の柄(つか)に右手をかけて音のした方向を見やる。すると今度は背後から物音がした。
 ヴィンスは心臓が飛び出しそうな衝撃を受けた。続いて右も左も。いつの間にか囲まれてしまったのか。
 暗闇の中に不死者どもの目が赤い燐光を発して不気味に輝くのが見えた。おびただしい数である。
 ヴィンスは、隣に寝ているバムティを起こそうと肩に手をかけた。何かトロリとした感触。手の平を見ると赤黒い液体がベッタリとこびりついている。
 血!
 いつの間にかバムティは血まみれになって横たわっていた。その向こうではラセリアがやはり血に染まって目を剥いている。
 さらに周りを見渡すと三人の傭兵たちも同様に血の海の中で息絶えていた。ヴィンスは、何事が起こったのか理解できず、頭の中が真っ白だった。
 不死者どもが茂みを抜け出してくる。灰色で無表情な顔の集団。八方からヴィンスに殺到してきた。
 ヴィンスは狂気と紙一重の絶叫をあげた。
「ウウ」ヴィンスはうめき声をあげ、今度こそ本当に目を覚ました。覗き込んでいたラセリアと目が合う。
「随分うなされていたわね」ニコリと笑いながら言う。
「あ、ああ。いやな夢だった」ヴィンスは、右手で顔に浮いた脂汗を拭いながら答えた。
 不死者の軍団とは決して追いつけないだけの距離を引き離してある。頭の中で分かってはいても、昼夜休むことなく行軍を続け迫って来るという事実が脅迫観念を生み出しているのだ。
「すまない。起こしてしまったんだね」ヴィンスは、溜め息をつきながらいった。
「気にしないで。私は4、5日寝なくても平気だから」ラセリアは、ニッと笑みを浮かべて続ける。「寝つかれないのは皆同様よ。豪胆なキリウスさんなんて一睡もしてないもの」
 少し離れた右手の方からゴホンと咳払いが聞こえた。見るとすでに全員が身を起こしている。
「どうやら全員気が急いているようだな。こうなったら早めに出発しよう」シャルムが意を決したように言った。
「そうしたいのはやまやまですが、馬のほうが心配です」シャルムの言葉にヴィンスが反発する。
 先を急ぎたい気持ちは同じだが、二人乗りの強行軍で馬にはかなりの負担がかかっている。
 途中で馬がつぶれてでもしたら、にっちもさっちもいかなくなる。ブルディアには行き着けず、不眠不休で進み続けている不死者どもに追いつかれてしまうだろう。
「大丈夫。馬も一通り休んで回復しているはずだ。あとは様子を見ながら途中で休憩を取ればいい」シャルムは自信満々で言い切る。
 強引な態度に不信感を抱いたヴィンスは、そっとラセリアに目配せした。ラセリアも目立たないようにうなずき返す。
「分かったわ。早めに出発しましょう。その代わり休憩も早めに取って馬を休ませるのよ」
 ラセリアは、シャルムを牽制しながらも従うことにした。少しでも先に進もうということ自体に異存はない。
 無理な強行軍で故意に馬をつぶして妨害しようとしている疑いはなくもない。しかし、今のところそれを言い切るだけの根拠もなかった。
 こうして六人は夜明けを待たずして再び馬上の人となった。

 一行はジェリミオ草原へと差しかかっていた。
 別名、分けつが原。その名の通り、ヴルディア北部と辺境との境をなす草原である。実際にここを越えれば、その生態系も変化してくる。森の木々も寒冷地の針葉樹から広葉樹が多くなる。
 鳥の鳴き声すら陽気に聞こえ、気候までが穏やかに感じられるのだ。
 辺境を越えて、この草原に達した旅人たちは旅の終わりが近づいたことを感じて安堵するという。
 昼過ぎに短い休憩を取ったのみ。もう日は西に傾いている。馬の疲労はピークに達していた。ヴィンスは、長時間の休憩が必要なことを察していた。
 シャルムは、馬の状態など気にもかけていないかのそぶりで飛ばし続けていた。馬の状態を理解できないほど無能な男では決してありえない。それゆえ、ヴィンスは不信感を募らせていた。
 よし、この草原を越えたところの森で無理にでも休みを取ろう。さもなければバナウェイに辿り着けなくなる。ヴィンスは意を決してジェリミオ草原の中央を抜ける道を踏み出していく。
 その草原を5分の1も過ぎないうちに、ヴィンスの顔つきが険しくなった。手綱を引き締めて馬を止める。
「馬を止めろ!シャルム」と同時に先行するラセリアとシャルムに怒鳴った。
 声が届いたのか、ヴィンスが馬を止めた様子に気づいたのか、シャルムも10メートル程先で馬を止めた。
 シャルムの後ろに乗っているラセリアも異状に気づき、眉をひそめて辺りをうかがっている。
 ヴィンスは再び馬を走らせ、足踏みしているシャルムの馬の前に回り込んだ。バムティも、さりげなくシャルムの背後に馬を付ける。彼もまた、異状を感じ取っていた。
 同時にヴィンスは、自分の背中にも注意を怠らなかった。なにしろ後ろにはシャルムの配下カーニットがいるのである。
 今のところ、何かを仕掛けてくる素振りはない。張り詰めた空気が6人と3頭を包み込む。
 ヴィンスはシャルムを牽制しつつ、行く手の森をジロリと見やった。
 やはりいる。森の中から無数の人馬の気配が漂っていた。数十という数ではない。数百、いや数千の人馬が森の中にひそんでいることが察しられた。
 罠にはめられたのか。疑心暗鬼のヴィンスは、視線を移してシャルムをにらむ。
 バムティは一色触発の状態。顔面を紅潮させて、剣の柄を手が白くなるぼど握り締めている。
 後ろのキリウスは顔をこわばらせて身動きひとつしない。下手に動けばバムティの攻撃を受けることを悟っているのだ。
「ハハハ、驚かせてやろうと思ったが、やはり勘が鋭いな」シャルムが大口開けて破顔した。
 場違いなくらい屈託のない笑い声が草原を吹き抜ける風にのった。バムティは毒気を抜かれてキョトンとしている。
 だが、ヴィンスはキッと目を吊り上げた。小バカにされた気がしたのだ。
「いや、すまん。今までずっと身分を偽っていて申し訳ない。任務で仕方なかったんだ」ヴィンスの真剣な表情にシャルムも態度を改めた。
 真顔になると人差指と中指を口に含み、ヒュウッと口笛を吹く。
 すると行く手の森の木々の間から数百の兵士が姿を現した。その背後、鬱蒼とした森の中では数千に及ぶ気配が蠢いている。
 ヴィンスは緊張の面持ちでゴクリと喉を鳴らす。
 騎馬の者、徒(かち)の者、皆武装している。
 ラセリアの瞳に妖しい光が宿った。もし、自分たちが罠にかかったのであれば。もし、この兵たちが敵ならば、目の前にいるシャルムを人質に血路を開く決意をしていた。
 だが、3人の傭兵は神妙に構え、相変わらず何かを仕掛けてくる様子はない。
 街道が草原の中央を突っ切って森に吸い込まれている辺りから、騎馬の兵士が3名こちらへと進み出てきた。
 先頭は精緻な細工を施した白銀の鎧を身にまとった大柄な武者。またがる馬も堂々たる体格で艶やかな黒い毛並みをしている。
 おそらく、背後に控える軍隊の司令官なのだろう。
 その右手につけているのは、神秘的な輝きを放つ緑色の鎧を身につけた魔法騎士。ブルーグレイにブチ模様の俊敏そうな雌馬を駆っている。
 まだ顔付きまでは判然としない距離だが、しなやかな身のこなしと風になびく長い黒髪からみて女性と分かる。
 そして左側を走る馬上には、黒っぽい鎧の旗手がまたがっていた。
 栗毛の馬を操りながら旗竿を掲げ、見事に背筋を伸ばしている。
 風に翻るその旗。向き合った火竜と水竜が王冠を支えている。ギャズヌール王国の紋章である。
 目の前に展開しているのはギャズヌール王国軍だった。
「あっ」ヴィンスが小さくうめいた。距離が狭まり魔法騎士の顔が見分けられたのである。ベルーカだった。傭兵グループから去ったはずのベルーカが王国軍に参加しているのだ。
 魔道士の傭兵という仮面を脱ぎ捨てた彼女は、唇を一文字に結び、揺るぎない眼差しをこちらに向けている。見違えるほどの凛々しさだった。
「私はクローディオとモーズリットを監視するために王都シャンダリアから派遣されたギャズヌール王国軍特殊行動隊の将校なんだ」シャルムは、ついにその正体をヴィンスたちに明かしたのだった。