悪しき運命(さだめ)のラセリア
第3部 聖地シャグラムの呼び声
4.吉報と凶報、そして(前)
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 ヴィンスたちは森の外れにキャンプした。今日は気がねなく火を焚くことができた。パチパチとはぜる火に照らされながら乾し肉を焙る。香ばしい匂いが漂ってきた。
 ヴィンスの腹が鳴き声をあげる。ラセリアがクスリと笑った。だが、ヴィンスにはラセリアの様子がいつもより元気がないように見えた。
「どこか具合でも悪いんですか」顔色の優れないラセリアにヴィンスが声を掛けた。
「ううん、大丈夫。ちょっと熱っぽいけど、たいしたことないわ」
「風邪ですか。気をつけないといけませんよ。戦(いくさ)の前でもありますから」
「ムフウ、いざとなれば俺がラセリア様の盾になってやる」バムティが鼻息を荒げる。
「大げさなこと言わないで。たいしたことないって言ってるでしょ。それから様はやめて、様は」言いながらラセリアは苦笑した。エルフは風邪など引かないのである。
 悪寒は額に集中していた。ゴルワデスの紋章のあたりから、わずかに発熱しているようだ。
 ラセリアには、それが何かの予兆だということが理解できた。何が起ようとしているのかは、まだ分からない。
 凶事の前触れか、呪いが解ける時が近づきつつあるのか。ラセリアは期待と不安の入り交じった心持ちだった。
 いずれにせよ不死者軍団との決戦は迫りつつある。五千対二千。単純計算で軍勢は王国軍が圧倒的。
 作戦どおりジェリミオ草原に敵が踏み込んだところを包囲できれば、戦局はさらに有利に運ぶだろう。
「だけど油断はできないわ」ラセリアは鋭い目つきで言い放った。「確かに兵員数では有利よ。でも不死者は通常の人間が出し得ない力を発揮する」
 ヴィンスの脳裏に以前の会話が甦る。不死者を止めるには、その肉体を徹底的に破壊せねばならない。
 これは口で言うほどたやすくないことだ。普通の人間を倒すことに比べ、数倍の労力が必要となる。
 特に精神的負担は計り知れない。少なくとも相手は人の形をしたものだ。それほど残虐な行為を抵抗なくできる者など、滅多にいはしない。
 ヴィンスはブルリと身震いした。この戦いは軍勢の多さだけでは決まりそうにない。
 横に座しているバムティも手をきつく握り気合を入れている。
「でも、良かったこともあるわ」ラセリアが続けた。「ここにいるのがシャンダリアから来たギャズヌール王国軍ということよ」
 ヴィンスは、ラセリアの言う意味が分からず首をかしげた。
「もし、ここにいるのがヴルディア市兵であれば、その多くは不死者たちと顔見知りでしょう」
 ヴィンスは恐ろしい事実に思い当り、喘ぎ声をあげた。
「そう。例え頭の中ですでに人間とは違う存在と理解できていても、家族や隣人を攻撃することにはためらいを覚える。逡巡している間に多くの人が殺されるところだったわ」
 その通りだ。不死者には心がない。もともとは親友、肉親であっても、今の彼らにとって何の意味も持たないのだ。ヴィンスは背筋に冷たい汗がつたうのを感じた。
 もし、ここで不死者どもを食い止められず、バナウェイやヴルディアが襲撃される事態に陥ったら。不死者たちの中に親兄弟や恋人のいる者もいるだろう。
 おそらくグィルティズマにとっては、それも計算のうちなのかもしれない。肉親や恋人に殺される者たちの悲しみが、奴にとっては甘美な陶酔感をもたらすに違いないのだ。
 グィルティズマ!絶対に貴様の思い通りにはさせない。ヴィンスは強い決意にキリリと歯を鳴らした。

 翌朝、ギャズヌール軍に北と南両方向から知らせがもたらされた。伝令がやってきた方向と同様に、知らせの内容も両極端。まさしく吉報と凶報だった。
 吉報はヴルディア制圧に向かった王国軍からのもの。ほぼ無血の状態でヴルディアを降伏させることに成功したというのだ。
 最盛期の勢いは失ったとはいえ、未だ王国第一の自治都市。市民に大きな被害を出さずに解放させられたことは、快挙と言えた。
 ギャズヌールは、この日のため事前に百人を超える密偵をヴルディアに送り込んでいた。
 ヴルディアは貿易窓口として常日頃から人の出入りが多い。はなからよそ者に対する警戒は薄くせざるをえない。それだけの人数を潜り込ませることも、さほど困難ではなかった。
 王都シャンダリアからヴルディア制圧に遠征した兵士およそ3万。奇襲攻撃をかけるべく極力街道を避けて森の中を分け進む。
 いよいよ王国軍がヴルディアに迫った深夜、市内に潜んでいた密偵たちが一斉に行動を開始した。
 市をぐるりと囲んで建造された妨壁。その門をことごとく爆破してしまった。
 市内はパニック状態となり市兵軍は大慌てで出動準備にかかった。そこで兵たちは更なる不測の事態に驚愕することになる。
 密偵たちは武器庫にも忍び込んでいた。武器は使いものにならないよう念入りに破壊され、火薬は水浸しにされていた。
 王国軍の市内進入をなんとかして食い止めようと立ち上がった兵たちは、完全に出鼻をくじかれてしまった。
 この事態の報告を受けたクローディオは、大きく呻くと冷たい石の床に倒れ込んだ。ショックのあまり心臓発作を起こしたのである。
 すぐさま病院に担ぎ込まれたが意識不明の重体。闇に侵され心身ともにボロボロの状態に成り果てていたのだ。医師団は回復の見込みがないとの診断をくだした。
 お抱えの魔術士たちも無力だった。彼ら程度の魔力では闇の力に蝕まれたクローディオを治療することなどかなわなかったのである。
 おそらくクローディオが再び意識を取り戻すことは二度とないだろう。
 関係者には緘口令が敷かれたものの、悪い噂ほど早く駆け巡る。浮き足立った病院職員から始まり、あっというまに情報は広まってしまう。
 しかし、ヴルディアの兵士たちが戦意を喪失した最大の理由は、領主の危篤ではなかった。後になって分かったことだが、皆が軍神として頼む青騎士モーズリット卿の不在が最大の要因だったのである。
 モーズリットがグィルティズマに組しサヴォイ砦へと赴いていたことが、皮肉にも無駄な戦闘を回避したことになる。
 破壊された門のひとつ、王都シャンダリアに絡がるヴルディア最大の門戸に王国の主軍が殺到した。市民は震え上がったが、すぐに突入してくる様子はない。
 王軍は使者を送り、ヴルディアに降伏を促した。速やかに降伏すればヴルディアの自治権は認めるという。
 途方に暮れていた軍の指揮官たちにとっては渡りに船。いとも簡単に降伏を決めた。
 こうして王国軍は、あっけないくらいたやすくヴルディアを陥落させたのである。当初の破壊工作で少数名の負傷者を出したのみ。軍同士ではほとんど小競り合いもなかった。
 分けつが原の手前に陣をとった王国軍にもたらされた第一報は、ここまでである。
 国王にヴルディア支配の意向はない。今後は王国軍の将軍と政経学者をオブザーバーとして、市民から選出された代表者たちによる議会がヴルディアを統治することになるであろう。
 ヴィンスたちも一安心だった。詳細は分からないが、この報せに誤りがなければ地下組織のメンバーたちやクローディオ家の使用人たちも無事だろう。
 それだけではない。ヴルディアの人も街も、大きな損害を出していないようだ。ヴィンスの脳裏に、ヴルディアの街並み、そこに行き交う人々の姿が浮かんだ。
「よし、今度は俺たちの番だ」シャルムが目を輝かせる。「一度助かったヴルディアを不死者どもに蹂躙させてなるものか」
 どうやら同様の志しに燃える兵士は少なくないようだ。森のあちらこちらで鬨(とき)の声が上がった。
 だが、北で不死者軍団の偵察を行なってきた斥候からの報告は、これとは正反対の凶報だった。今盛り上がったばかりの士気に冷水を浴びせかけるような内容だったのである。