悪しき運命(さだめ)のラセリア
第3部 聖地シャグラムの呼び声
8.イヴィルガルドの洞窟(後)
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「へへっ、これが目的のお宝ですかい」アルカズがニタリと笑って近づいていく。
「アチッ」無造作にイヴィルガルドを掴み上げたアルカズは、次の瞬間、悲鳴を上げた。
 装飾を施してカモフラージュしてあるが、台座の周囲には円を描いて12ヶ所の小さな穴が開けられていた。イヴィルガルドが台座から離れると、その穴から針が飛び出す仕掛けなのである。
 その1本がアルカズの右手首に傷を付けたのだ。傷痕に小さな赤い点となって血がにじむ。
「ちきしょう。へんな細工しやがって」言い終えないうちにアルカズの手が変色し始めた。
 アルカズは、ギョロリと目を剥いて紫色になった自分の手を凝視する。
「おい、アルカズ。お前・・・」ジグラスが青ざめながら言い淀む。
 見る見るうちにアルカズの顔までもが紫色になってきたのだ。さすがのレーニャさえ戦慄して背筋に悪寒が走るのを感じていた。
 エルフ族のみが知るという幻の台地に咲くビルシェムの紅い花から抽出した猛毒が塗られていたのだ。
 その毒は極めて早くまわるため、解毒剤を飲んでも間に合わない。即座に熟練の魔道士が解毒の呪文を唱えるしか助かる道はないと伝えられている。
 アルカズは苦しげな呼吸音をたてると喉を掻きむしり始めた。グフッと嫌な音をたてて口から赤黒い血泡が溢れ出す。
 アルカズは、そのままバッタリと倒れて断末魔の痙攣を始めた。ものの30秒ほどの出来事だった。
 その掌から暗黒のイヴィルガルドが転がり出た。コロコロとジグラスのほうに転がる。それは何か意思あるのものの動きのようにも見えた。
 ジグラスは、身をかがめて足元のイヴィルガルドを拾い上げた。さして興味もなさそうな顔つき。どうしてこんな薄汚い玉に大騒ぎするのか。全く理解できずにいた。
 次の瞬間、彼はビクンと身体を震わせた。イヴィルガルドの強大なパワーが全身を駆け抜けたのだ。
「よこせ」モーズリットが敏捷な動きでジグラスの手からイヴィルガルドを奪い取る。
 ジグラスの手中にイヴィルガルドがあったのは、ほんの数秒のこと。しかし、すでにジグラスの心はイヴィルガルドの持つ闇に浸食されていた。
 目的を達したモーズリットは、ジグラスの変容を知ってか知らずか、ニタリと薄笑いを浮かべる。レーニャもジグラスも眼中にないかの様子で洞窟の出口を目指す。
 すでに事切れたアルカズには見向きもせず、レーニャとジグラスも後を追った。
 ジグラスは、モーズリットの後ろ姿に血走った眼で憎悪に満ちた視線を向けている。
 あの黒い玉を手にした瞬間、俺の全身に力がみなぎった。天下無敵になった気がした。あれさえあればどんな大仕事も思いのままだ。
 それをあいつは取り上げやがった。モーズリットの野郎め。あいつが憎い!
 レーニャが俺になびかないのも、あいつがいるからだ。あいつを始末して玉を手に入れれば、レーニャだって俺のものにできる。
 あいつが憎い!あいつが憎い!
 イヴィルガルドの虜となったジグラスの心をドス黒い妄執が襲う。狂気は次第に昂まり、ついには抑えがたい殺人衝動へと育っていく。
 ジグラスの心は、もはや別人と化していた。先ほどはビクビクと渡った梯子も、意に介さず一気に渡っていく。
 洞窟を抜けると、暗がりに馴染んだ目に陽光が眩しい。チッ、思わず目を細めて舌打ちするジグラス。憎悪が最高値に達していた。
 ジグラスは、無言のまま短刀を抜き、いきなりモーズリットに襲いかかった。
 レーニャは、先ほどからジグラスの不審な様子に気づいていた。しかし、その彼女すら全く対処出来ないほどの唐突な動きだった。
 ジグラスは青く輝く鎧を避け、モーズリットの首筋目がけて短刀を突き立てる。イヴィルガルドの影響を受け、力も強化されていた。
 短刀はモーズリットの首に根元まで食い込む。レーニャは顔面蒼白となって喉をヒッと鳴らしナイフを抜いた。
 だが、モーズリットは何事もなかったように平然と振り返った。短刀は突き刺さったままで、首の反対側から先端が覗いている。一滴の血も滴ってはいない。
 その顔つきを見たジグラスがヒイッと悲鳴を上げる。レーニャも愕然と目を見開いて後ずさった。
 顔面はどこか金属めいて黒光りし、目は黄色くギラついている。口からは牙が覗いていた。
 グィルティズマなど見たこともないレーニャとジグラスだが、目の前にいるモーズリットが人間以外の忌まわしい存在に変貌してしまったことは理解できた。
 ジグラスはガタガタと震える。あまりの恐怖にイヴィルガルドから得た偽りの自信も消し飛んでいた。
 モーズリットは、右手でジグラスの首を鷲掴みにする。そのまま軽々とジグラスの身体を持ち上げてしまう。
 ジグラスの両足が弱々しく揺れる。彼は、すでに絶命していた。
 モーズリットの万力のような握力が、ジグラスの気管も首の骨も、一瞬にして粉砕してしまったのだ。モーズリットは、グッタリとしたジグラスの死体を事も無げに放り出す。
 ジグラスは7メートル背後の地面にドサリと落下した。首があらぬ方向に捻じれ、見開いたままの瞳が恨めしげに空を見つめている。
 レーニャは、あまりにもおぞましい光景に身動きできずにいた。モーズリットは、そのレーニャを振り返ってスラリとグラナヴァルを抜く。
 この際、用済みとなったレーニャも一緒に始末してしまおうというのだ。
 冷たい刃の白銀の光を目にした刹那、レーニャは我に返った。モーズリットは、まさしく鬼神のごとき形相で一直線に迫ってくる。レーニャは、うめき声を上げて反対方向に駆け出した。
 後を追うモーズリットは歩調も変えていないのだが、女としては俊足のレーニャが距離を離すことができない。
 レーニャは、小高い丘の淵へと追い詰められてしまった。モーズリットは、黄色い目を光らせ、血に飢えた肉食獣のように迫ってくる。
 私の人生もこれまでか。レーニャの心に諦めにも似た気持ちがよぎる。
 だが、次の瞬間自分の中のもう一人の声が聞こえてきた。「本当にこんなところで死んでいいの?たとえ命を落とすにしても、もっとふさわしい死に場所があるんじゃないの」
 何故このような想いが浮かんだのか本人にも分からない。レーニャは、一転してここでは死ねない、という想いに取りつかれた。
 モーズリットは、必殺の一撃を加えようとグラナヴァルを振りかぶって眼前に肉迫してきた。
 空を引き裂く音とともに切りかかる。レーニャ持ち前の反射神経が発揮された。
 まさしく紙一重で切っ先をかわす。その時レーニャの足元が崩れた。レーニャの身体は、もんどりうって土煙をあげながら丘の下へと転げ落ちていく。
 モーズリットは丘の淵に仁王立ちして下方をのぞき込む。レーニャは、どうやら気絶したらしい。白茶けた土にまみれて身動きしない。
 モーズリットの瞳は、興味をなくしたかのように、フッと輝きを失った。
 首筋に刺さったままでいたジグラスの短刀を引き抜くと無造作に放り投げる。赤黒い傷痕は残されているが、やはり血は流れなかった。
 元の姿に戻ったモーズリットは、クルリと身を翻してシャグラムの方向へと戻っていく。
 彼は、いまや死霊の馬と化したホワイトアローにまたがると、すでに用済みとなったシャグラムを一顧だにせず走り去っていくのだった。