悪しき運命(さだめ)のラセリア
第3部 聖地シャグラムの呼び声
9.開戦
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 王国兵とエルフ兵の混成軍は分けつが原を越えた森の中で息を潜め、闇の軍勢を待ち構えていた。敵は間近に迫っている。向うの森林から地響きをたてて足音が近づいてくるのが感じられる。
 さすがのシャルムも全身が汗ばむのを感じていた。修羅場をくぐったことは幾度もあるが、本格的な戦争は初めてなのである。
 ジャジールすら張りつめた表情。場馴れしていない王国兵の中には、腹痛に見舞われ脂汗を滴らせて情けない顔つきになっている者いる。
 ついに街道の向うから土煙をあげ、敵が進み出てきた。命なき者、取り憑かれた獣人、闇の世界よりいでしもの。ただでさえ異形の者たちは、長い行軍で全身が埃にまみれ見るもおぞましき姿と化している。
 気の弱い兵士は、思わず呻き声をあげて震え出してしまう。チッ、キリウスが舌打ちする。いくら数に勝っていても、こんな調子じゃ楽観は出来ねえ。
 行く手に潜む人間とエルフの混合軍に気づいてはいないのだろう。それにしても無警戒な行軍ぶりである。
 まさしくグィルティズマに操られている捨て駒ゆえの行動といえた。周囲を警戒する様子もなく、ペースを崩さずに分けつが原を進んでくる。
 王国軍の兵士たちは、じりじりとしながら森の中で命令を待っていた。敵をぎりぎりまで引きつけ、まずは両翼の兵士が進み出て囲い込むように攻撃を開始する。作戦は極めて単純であり、成功を疑問視する声もあった。だが、闇の軍勢は相手方の戦法など全く無頓着なようである。
 闇の軍勢は、分けつが原の真ん中を突っ切る街道を進んでくる。ついに号令が飛び、左右両翼の兵が作戦通り一斉に出撃した。この部隊はエルフ兵たちを中心に編成されている。
 低級の魔物たちとはいえ、中には魔法攻撃を仕掛けてくるものもいるだろう。まずは魔道士たちが魔法防御の呪文を唱え、守りを固める。
 続いて弓兵たちが、射程距離内に入った獣人めがけて矢を放つ。中には魔法のかかった弓を持つエルフ兵もおり、それらの者は魔物を標的にする。
 弓さばきの鮮やかさは王国兵たちが思わず歓声をあげたほどだ。バタバタと獣人どもが倒れていく。
 魔道士たちは破邪の魔法で攻撃を仕掛ける。この呪文は不死者どもにも有効であるが、王国兵たちにとって脅威となる魔物たちを狙うよう指示が出されていた。
 魔法を食らった魔物たちでも特にレベルの低い連中は、苦悶に顔を歪め、姿を陽炎のように揺らめかせて消滅していく。なんとかこらえた魔物も、かなりのダメージを受けてパワーダウンしている。
 げんきんなものでエルフたちの猛攻を目の当たりにした王国兵たちが気勢をあげる。先ほどまでの緊張ぶりが嘘のようだ。
 両側からの攻撃に対抗するため闇の軍勢が横に広がった。隊列の中に疎らな隙間が生まれる。そこに森の中に潜んでいた王国軍の主力部隊が突撃をかけていく。
 数に勝っているうえ、敵軍の乱れを突くことに成功した。
 こうして分けつが原における光と闇の決戦は、人間とエルフの混成軍が優位に立つかたちで戦端を開いたのだった。

 ラセリアたち一行は、シャグラムまで数時間の距離に迫っていた。ギリギリの状態まで馬をとばしていた。馬の全身に汗が吹き、塩をふったようになっている。
 先頭を行くラセリアが木の枝を避けようと身をかがめたとき、ピクリと全身が何かに反応した。ゴルワデスの刻印が新たな情報をもたらしたのである。
「遅かったわ。イヴィルガルドが闇の手に落ちた」ラセリアは、暗い目をして低い声で言った。
 その言葉で、ヴィンスとバムティは雷撃に打たれたほどの衝撃を受けた。
「くそっ」バムティが吠えるような怒声を放つ。
「ラセリアさん、イヴィルガルドは、すでにシャグラムから持ち去られたんですか」ヴィンスは、胸中に広がる喪失感を抑えて尋ねた。
「ええ、シャグラムから東の方角に運ばれているわ」
「すぐに追いましょう。何とか敵に追いついて奪い返さないと」ヴィンスが気負い込む。
「そうだ。何としてもグィルティズマの企みを阻止してくれる」バムティも気合い十分。拳を振り上げて声を張りあげる。
「いいえ。イヴィルガルドはひとまず置いて、私達は別のところへ行かなければならないわ」
 ラセリアの意外な言葉にヴィンスとバムティは怪訝な面持ち。
 モーズリットは、不死の存在と化したホワイトアローを駆って一気に目的地を目指している。
 ラセリアたちの馬は疲れきっていた。早い時期に休息を取らなければ、つぶれてしまうほどの状態。どう頑張っても追いつくことは不可能なのである。
 ゴルワデスの刻印は、その真実まで見通しているのか。
 そこまで思い及んでいるわけではなかったが、ラセリアはゴルワデスの刻印から与えられたメッセージに従うつもりだった。
「私たちの目的地は変わりません。このままシャグラムに向かいます」ラセリアは凛とした声で言った。
 ラセリアに課せられた呪いを解くことは、この地上を闇の勢力から守ることでもある。
 暗黒のイヴィルガルドは、ついに封印を破った。そのイヴィルガルドが持ち去られたことで、今度はシャグラムが本来の力を発揮し始めたのだった。
 何事が待ち受けているのかは分からない。だが、ヴィンスたちはラセリアの言葉に絶大な信頼を寄せていた。
 三人がシャグラムに到着したとき、太陽はすでに真上に達していた。高台になったシャグラムは、初夏のまばゆい陽射しを受けていた。エルフ兵の小屋は、早くも悪臭を放ち始めている。
「残念だけど、今の私たちに彼らを弔っている時間はないわ」ラセリアは、地面に転がる番兵たちの無残な骸(むくろ)を見て言った。「私たちに出来ることは、何としてでも暗黒のイヴィルガルドを取り戻して、彼らの霊に捧げることだけ」
 ラセリアは、ヴィンスとバムティを祠の中へと促す。
 祠の入り口でラセリアが明かりの呪文を唱えた。三人の頭上に光る球体が出現し内部を照らす。
 ラセリアは、はっと立ち止まった。女神像が涙を流しているように見えたのだ。近寄ってみると、どうやら光線の加減で錯覚したらしい。女神ルヴァーナは、これまでの数千年と同じ穏やかな眼差しで三人を見下ろしていた。
 三人が奥の洞窟に進もうとしたとき、一陣の風が吹き抜けた。行き止まりになった洞窟でなぜ風が起きたのか、それは分からない。
 風音は、悲しみに震える嗚咽のように聞こえた。ラセリアが振り返ると、やはりルヴァーナ像は嘆きを湛えた悲しみの表情に見えた。
「どうかしましたか」思わずたじろいだラセリアをみてヴィンスが声をかけた。
「いえ、なんでもないの」ラセリアは平静を装って洞窟へと踏み込んでいく。
 落とし穴には梯子が掛けたままになっていた。三人はそれを渡り、モーズリットによって切断された無数の槍をまたいで進んでいく。
 かっては暗黒のイヴィルガルドが封印されていた最深部へと到達した。床には紫色に腫れ上がったアルカズが転がっている。
「ムフウ、ここが突き当たりか」バムティが、あたりを見渡して言った。
「いいえ、この洞窟にはまだ奥があるのよ」ラセリアはツカツカと歩いて台座の裏側へと回りこむ。
 裏側の一箇所だけ、台座の石材が取り外せるようになっていた。ラセリアは、その石を引き抜くと、ポッカリ開いた空洞にしなやかな手を差し入れる。
 一個のレバーが、そこにあった。ゴルワデスの刻印からもたらされた情報の通りである。ラセリアは、それをぐいと引く。
 カチャッという音がした。続いてザアッと何かが大量に流れる音が響いてくる。と思うと今度は部屋の奥側に位置する一枚岩の壁がズルズルと下がり始めたではないか。
「おお」バムティが思わず雄叫びを上げた。
 この壁は、砂を詰めた溝の上に嵌め込まれていた。レバーを引くと砂が流れ出し、壁が下がって奥への通路を開く仕組みになっていたのである。
 この隠し通路は袋小路になっている。にもかかわらず再び風が吹き抜けた。聖なる霊気に満ちた突風。
 祠に淀んでいた瘴気が払われ、聖地本来の神聖な霊気が満ちていくのが分かった。
「さあ、この中よ」ラセリアが先頭にたって踏み込んでいく。
 その顔は緊張感のため蒼白になっていた。この中で何が起きるのか。刻印も、そこまでは示してくれなかったのである。