悪しき運命(さだめ)のラセリア
第4部 亜空間城ガルベジア
4.結界の中で
前へ 目次 次へ
 ヴィンスとラセリアは、暗黒のイヴィルガルドが置かれた部屋に踏み込んだ。部屋の中央には闇の世界へと通ずる穴が穿たれ、強大な力をこの世界に送り込み続けている。
 その力を制御しているのが暗黒のイヴィルガルドなのだ。
 イヴィルガルドを中心に半径5メートルほどの球形をした結界が形成されている。その内側では黒灰色をした靄が蠢(うごめ)いている。イヴィルガルドの周囲には時折ピリピリと青白くて禍々しい電光が走っていた。
 結界を目の前にして二人は立ち止まる。中から伝わってくる邪悪な気配。特殊な霊感を持たないヴィンスすら、思わず息を呑んだほどの強い瘴気だった。
 ラセリアが、ゆっくりと手を伸ばす。人差指の先が結界の中に入った。
「痛っ」その瞬間、ラセリアは顔をしかめて手を引っ込めた。指先が赤く腫れている。
「結界の中は闇の力が強すぎるわ。光の属性を持つ者が入ったら、ひどいダメージを受けてしまう」ラセリアが顔を曇らせる。
「よし、僕が行こう」ヴィンスの声には強い決意が込められていた。
「無理よ。あなたも光の属性を持っているもの。同じことよ」心無しか、声が震えている。
「イヴィルガルドを目の前にして手をこまねいているわけにはいかない。グズグズしてるとグィルティズマが戻ってきてしまう」ヴィンスはラセリアの瞳をじっと見据える。
 ラセリアは、いつになくうろたえていた。頭の中では他に方法がないことを理解している。
 だが、常に理論的な行動を好むエルフにしては不可思議な感情が芽生えていた。
「大丈夫。急いで取って戻ってくる。なんとかなるさ」ヴィンスは、敢えてこともなげな口調。
 ラセリアは、生まれてはじめての胸を締めつけられる気持ちを味わっていた。バムティとの信頼関係とも違う、特別な感情をヴィンスに対して持ち始めていた。
 ヴィンスにもしものことがあったら、私はどうしたらいいの。切ない想いが不安となってラセリアにのしかかる。
「フン、あたしが行ってやるよ」
 突然の声に二人が振り向くと、不敵な顏つきのレーニャが立っていた。さすがの二人も、この事態と立ち込める闇の気配で気づかなかったのだ。
 それでもレーニャが殺気を放っていれば気取れぬはずはない。今の彼女は、ヴィンスたちに仕掛ける気は全くないようである。
「あたしみたいな闇に生きる人間なら問題ないんだろ」どうやらレーニャは、暫く前から二人の会話を聞いていたらしい。
「ええ」ラセリアは、レーニャの真意を計りかねて生返事する。
 暗黒のイヴィルガルドを狙っているのだろうか。この女がイヴィルガルドの力を手にすれば、かなりの強敵となるだろう。
 だが、万が一そうなったとしても、グィルティズマが無尽蔵に闇の力を得続けるよりはマシと思えた。対処の仕方はいくらでもある。
 レーニャ自身も、どうしてこのような心境になったのか判然としていなかった。モーズリットを人として逝かせたことへの借りを返す。彼女なりの落とし前のつけかたを示そうとしているのかもしれない。
「分かったわ。ヴィンス、ボウナシーの布を出してちょうだい」ラセリアは意を決した。不思議なことに今のレーニャは信じられるという気がしてくる。
 強い意志の現れか、その顔はいつになく妖しく美しい。だが、人を欺こうとしているようには見えなかった。
 ヴィンスは、ラセリアに促されて懐からの金色の巾着を取り出す。中には同じ繊維で作られた布が収まっている。
 ジャジールに渡された破邪の魔法がかけられたアイテムである。
「あの黒い玉、暗黒のイヴィルガルドをこれでくるむのよ。直接触っては絶対にダメ。例えどのような属性の者でも無事ではすまないわ」
 レーニャは、ラセリアの言葉にジグラスの哀れな末路を思い浮かべた。
「どうやらそのようね」レーニャは布を受け取ると、結界の中を睨む。
 相変わらずドス黒い瘴気が禍々しく蠢いている。
「気をつけなさい。特に危ないのはイヴィルガルドを取った後よ」ラセリアは、結界の淵へと歩み寄るレーニャに声をかけた。「制御を失なった闇の力が暴走を始めるでしょう。何が起こるか私にも予測がつかないわ」
 ラセリアが放つ言霊の力はレーニャにも効力を発揮した。たかをくくったら痛い目に会うということが、ひしひしと伝わってくる。
 さしものレーニャでも、その表情に逡巡の影がよぎる。だが、次の瞬間には迷いを振り切るように結界の中へと踏み込んでいった。
 レーニャですら背筋に冷たい感覚が走るほどの邪悪な気が満ちている。ラセリアのようにダメージを受けることはなかった。それでも決して長居のしたい場所ではない。
 足早に中央の台座に歩み寄り、イヴィルガルドに布を被せる。思い切って布ごとイヴィルガルドをつまみあげた。
 その途端、ゴウという音が響き渡り結界の中に竜巻が起こった。よろけそうになったレーニャは、慌てて体勢を立て直して踏みとどまる。
 暴走を始めた闇の力は、予想を上回る激しさだった。
 振り向くと、結界の外で心配そうに見守るヴィンスたちは髪の毛一本乱れていない。
 早く戻らなければ危険だ。レーニャは結界の淵を目指すが、思うように進むことが出来ない。体全体を前に傾けながら、一歩二歩となんとか踏み出す。
 わずか4メートル。通常の状態であればレーニャがひと跳びにしてしまう程度の距離。それがひどく長く感じられた。
 結界の中央に向かって吹き荒れる魔風は、激しさを増している。
 あと一歩というところでレーニャは引き戻されそうになった。なんとか踏みとどまり、崩れかけたバランスを持ち直す。
 上半身を思い切り前に傾け、イヴィルガルドの包みを握りしめた右手を精一杯突き出す。
 肘のところまで結界の外に出た。ヴィンスは、すかさずレーニャの手首を両手で掴み、結界の外に引っ張り出そうとする。
 ビクともしない。まるでレーニャが闇の力が発する磁場に捕われてしまったかのように動かなかった。
「クッ」ヴィンスは腰を引き全体重をかけて引く。ラセリアもヴィンスの腰に両手を回して引っ張る。やはり動かない。
 あと一歩進めば自分は脱出できる。だがそれは自分にとって果てしない距離と同じこと。レーニャは悟った。
「もういい。黒い玉を取って私をお放し」レーニャは吹きすさぶ魔風の中で精一杯声を張り上げる。
「だめだ。そんなことできない」ヴィンスが首を横に振る。
「どうせ捕まれば死刑になる身よ。どこで死んでも同じことだわ」もともと生への執着が薄いレーニャだったが、自分でも不思議なほど落ち着いた気分になっていた。
「嫌だっ。それでも見放すことはできない」ヴィンスの声には断固とした決意に溢れている。
 いつの間にか結界の淵が肘から10センチのところまで遠ざかっている。レーニャが引きずり込まれたのではない。
 暴走する闇の力が結界の領域を拡大させているのだ。
 レーニャの両足が床を離れた。今やレーニャを支えているのは右手だけである。ヴィンスは必死の形相で歯を食いしばり持ちこたえる。
「フン、光とともに歩む連中か。バカな子たち。世界に危機が訪れているってのに、こんなあたしのために必死になって」レーニャは遠ざかりつつある意識の底で冷笑的な思考をめぐらす。
 その時、ヴィンスが握りしめる手首から力が流れ込んでくるのを感じた。
 これが光の力!なんて暖かい。
 レーニャの意識がフッと戻った。目をカッと見開く。左手を腰の後ろにまわして、隠し持った短刀の柄を握った。それをグッと振りかぶる。
「レーニャ、やめろっ」レーニャの意図を悟ったヴィンスが怒鳴った。
 レーニャの決意は翻らない。渾身の力を込めて短刀を振り下ろす。一撃で見事に肉を斬り骨を断った。
 ヴィンスの両手に手首だけを残し、レーニャは結界の中央に開いた闇の世界への穴に吸い込まれていく。彼女の身体が呑み込まれた瞬間、肉体がひしゃげる嫌な音が響いた。
 だが、ヴィンスにはその最期の一瞬レーニャが満足げな微笑を浮かべたように見えた。
 残された右手の指をこじ開け、中身に触れないように細心の注意を払って布にくるまれたイヴィルガルドを取り出す。
 破邪の力を持ったボウナシー製の布にくるまれていても、邪悪な気が周囲を漂うように感じられる。ヴィンスは、それを巾着に収め懐にしまった。
 ヴィンスは、レーニャの右手を結界の中へと差し込んだ。手は主(あるじ)を追うかのように闇の穴へと吸い込まれていった。
 この僅かな時間にも闇の結界は拡大している。二人は壁際に寄っって結界に触れないようにしていた。
 ヴィンスとラセリアは壁に背中をこするようにして扉へと向かう。
「早く元の世界に帰りましょう。闇の力が暴走を続ければ、やがてはこの亜空間ごと押しつぶしてしまうわ」ラセリアは険しい表情。
 額につけられたゴルワデスの刻印は、そのままである。モーズリットを倒し、暗黒のイヴィルガルドを取り戻した今もラセリアの呪いは解けていなかったのだ。