ダイ・ハングリー
4.コック、ハイジャック・
アンド・ワン・フローズン・ボディ
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 冷凍庫の冷気にさらされ、あやに少しだけ冷静な思考が戻ってきた。一体なんで厨房でマシンガンなんか撃ったのだろうか。考えても結論の出ることではなかった。が、グレッグが問答無用で射殺されたのは間違いない。
 こんなことになるなら一言くらい口をきいてあげればよかった。「うるさい」とか「黙れ」とか。どんな人間も死んだら聖人なのよね。あやは、ちょっとグレッグが可哀そうになった。
 でもストーカーは完全無視が一番。一度でも甘い顔を見せると勘違いしてつけ上がるって雑誌に書いてあったし。って聖人じゃなかったのか。まだ混乱が残る、あやの精神状態だった。
 ところで外の二人はどうしているのだろう。あやが凍死するのを待つ気だろうか、それとも始末しようと中に入ってくるだろうか。どちらにしてもぞっとしない。
 冷凍庫の扉には中からロックを解除できる非常用のコックが付いている。いざとなったら外に出ることは出来る。
 だが外には血に飢えた二人の男がいる。あやは血に染まって倒れたグレッグの姿を思い出す。白目をむいて口からピンク色の血泡を吹き、ピクピクと痙攣している。現実とは全然違うが、まあ記憶なんてこんなものだ。
 だめだわ、恐くて出られない。銃弾でズタズタにされるくらいなら、このまま氷柱になったほうがマシかもしれないわ。私の美しい姿が永遠に保存されるのよ。妄想は果てしなく広がっていく。
 もし奴らが入ってきたら、奥に隠れていたほうが安全かしら。ふと我に返ってあやは冷凍庫の奥を見渡す。
 非常灯の豆電球がいくつか灯っているだけで薄暗い。白い霞を通してぶら下がった肉の塊が浮かび上がる有様は、荒涼としてなかなか無気味だ。牛、豚、鶏といった一般的なものからワニ、ダチョウまでストックしてある。
 あやは足元に注意しながら奥へと進んだ。中程まで見渡せるようになった。壁際に何か黒いものが寄りかかっている。肉塊ではない。
 目を凝らして近づいてみる。あやは心臓が止まりそうになった。人間だ!あぐらを組む姿勢で壁に寄りかかり、顔を心持ちうつむき加減にして微動だにしない。
 もしかして、さっきの犯人の犠牲者かしら。あやは、恐る恐る覗き込んだ。
 黒い作務衣のような服を着た長髪の男だ。かなりがっしりとした体格。全身にうっすらと氷が張り付いている。
 その時、男が目を開きギョロリとあやを睨(にら)んだ。
「ぐえっ」あやが思わず叫び声を上げる。
 ちっ、しくった。あやは後悔した。常日頃から絹を裂くような可憐な悲鳴に憧れていたのに、いざとなったらこの体(てい)たらく。まるで踏み潰されたガマガエルみたいな声出しちゃったわ。
 男は両手を思い切り上げて伸びをすると立ち上がった。思ったよりも背が高い。190センチ近くある。のっそり立ち上がったさまは、どことなく熊を連想させた。
 先程作務衣と思ったのは、どうやら拳法着の類らしい。白い帯をしている。どちらにしても豪華客船の、しかも冷凍庫には思い切り似つかわしくない出で立ちだ。
「こんなとこで野豚みたいな悲鳴上げて、一体どうしたんだ」男が髪や拳法着を手で払いながら聞いた。意外にも太くて通る美声だ。張り付いていた氷片がキラキラと輝きながら落ちていく。
 野豚とは何よ、野豚とは。自分でも先程はガマガエルと思ったのだが、そんなことは棚上げにして、あやは頬をふくらませた。
 いったい何してたんだか、こっちが聞きたいわよ。あやは思ったが、外には銃を持つ男たちがいて、いつ庫内に入ってくるか分からない。とりあえず先に状況を説明することにした。
「いきなり厨房で銃を撃ったりして、何が目的なのかしら」ひと通り説明を終えたあやが首をかしげる。よもや最強の男を捜しに来たとは思ってもいない。
「むふう、よっぽど料理が気に入らなかったんだろうなあ」男が腕組みして言う。「メシがまずいくらいで暴れるとは、修業の足りん奴らだ」一人で納得している。
 どんな仮説も自由だが、あやには絶対なさそうに思えた。あや自身は昨今流行りのテロリスト集団と考えていた。きっと敵対勢力の要人が乗客の中にいるんだわ。まあ、どちらにしても憶測に過ぎない。
「ところで、あなたはこんなところで何してたのよ」あやの聞く番がようやくまわってきた。
「おう、俺は飯を食いに来たんだ。何でも食べ放題と聞いたんでな」男は真顔で言い放つ。
 あやは思わず目が点になった。冷凍庫で食べ放題って、一体この人は。
「いや、密航者じゃないぞ。チケットもちゃんとある」
 あやの怪訝(けげん)な表情を勘違いしたらしい。男は慌てて懐から一枚のチケットを取り出した。あや自身ホワイト・ヴィーナス号の搭乗券なんか見たことがない。
 それでもあやは直感的に、この男が嘘をついていないという気がした。という事は直感が正しければ、本当にこの人は冷凍庫でヴァイキングしてたわけ?
 足元を改めて見直すと、確かに骨だの食べかけの肉塊だのが転がっている。あやは呆れ果てて声も出ない。
「どうした。そんなに驚くことはないだろう。チケットを貰うときに、ちゃんと聞いたぞ。食べ放題ってな。ま、実を言うと賭け試合に勝って手に入れたチケットだがな」男が豪快にワハハと笑う。
 賭けでチケット手に入れて乗船してって、どこかで聞いた話だ。そんな奴が乗ってるから、氷山にぶつかったりテロリストに襲われるんだわ、きっと。あやは思ったが、言いがかりをつけても仕方がない。
「食べ放題は上のレストランよ」肩を落としてそれだけ言った。
「なにっ、しまったあ。どおりでお茶も出ないと思ったぜっ」男が大声を上げる。本気で勘違いしてたのかこいつは。
「ま、まあ、それで腹ごしらえしてるうちに閉じ込められてな。仕方ないんで、とりあえず冬眠してたところだ」さすがの男も動揺を隠しきれない様子で言う。
 それにしても冬眠って、やっぱりこの人は熊の親戚なのかしら。あやは男の第一印象を思い出した。
 あやは男のとんでもない話に気を取られて、自己紹介もしてないことに気づいた。
「私は武満あや、あなたは?」
「おう、俺の名前か」男は、あごを撫でて辺りを見渡す。
「俺の名前は豚足三十郎だ。まだ年は二十代だがな」腰に手を当ててワッハッハと笑う。
 こらこら、偽名使うにしても、もう少し真面目に考えなさいよ。
 あやは、ブルッと震えた。いつの間にか身体が冷え切っている。バカな話に気を取られているうちに大分体力を消耗してしまったようだ。何だか急に眠くなってきた。
「おい」その様子を見た三十郎が声をかける。
 お願いだから、そのたくましい腕で、眠っちゃダメだ、バシバシバシなんてのはやめてよね。あやは、ぼうっとした頭で考えた。思考能力も少々乱れ始めているようだ。
「冬眠するなら、食ってからのほうがいいぞ」三十郎が真顔で言う。
 だから普通の人間は、冬眠なんかしないんだって。
「そうだ。素人は、とりあえず生の豚肉は避けたほうがいいな」三十郎が、したり顔で右手の人差し指を振りながら続ける。
 豚の生肉に素人も玄人もあるもんですか。ああ、なんだか今ので決定的に力を失ったみたい。あやは、何だかどうでもよくなってきた。目がトロンとしてくる。
 その時、ガチャリと音がして冷凍庫のドアが開いた。犯人が様子を調べに入ってきたのだ。
 ふうっと暖かい空気が流れ込んでくる。あやは少しだけ気力が戻ってくるのを感じた。ぶら下がった肉の影から様子を覗う。入ってきたのは黒人一人のようだ。という事は外に一人控えている。男をやり過ごして逃げ出すことは出来ない。
「ねえ。どうする」あやは、小声で三十郎に声をかけた。横を向くと姿がない。
 やだ、あたしを置いて逃げちゃったの、卑怯者。あやは、むくれたが銃を持った相手に立ち向かえとも言えない。
 手を上げて降参すれば、命は助けてくれるかしら。犯人は三十郎のことを知らない。自分が捕まれば三十郎は助かるかもしれない。でも、グレッグは問答無用で殺されたし。
 考えあぐねていたあやは、シドニーに見つかってしまった。
 漆黒の顔に目が白く浮かんで見える。ああっ、もうだめだわ。
 あやが運を天に任せる思いで両手を上げたとき、すうっとシドニーの背後に三十郎が現われた。音もなく忍者みたいだ。
 三十郎はシドニーの首筋に手刀を入れる。軽くトンと叩いたようにしか見えなかい。だが、シドニーの巨体は糸の切れたマリオネットの如く崩れ落ちた。
 あまりの鮮やかさに、あやはポカンと口を開けて立ち尽くす。
 三十郎は、シドニーが着ている制服の襟首を掴むと一気にグイと引き上げた。巨体が軽々と持ち上がる。まるで子猫を持ち上げるようにさりげない動作。
 もしかして本当に熊の親類なんじゃないの、この人。あやは感心しつつも、あきれていた。