ダイ・ハングリー
8.色男ミシェルの更なる災難
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 モフセンは空いている右手を伸ばした。手にしたのは金属製の筒。下部にはツバ状のものが付いて、全体的な形状はシルクハットに似ている。
 サイズはかなり大きい。たいがいの者が被ったら、スッポリと頭ごと入ってしまうだろう。
 名付けて空飛ぶギロチン。モフセンが、香港映画で見て作らせた特注のレプリカだ。
 手投げで敵の頭にスッポリ被せ、ツバの部分から刃が飛び出して首をちょん切るという処刑武器。
 映画では、投げたときの回転による遠心力で刃が飛び出すように見えた。その仕掛けは無理だったので、投げた五秒後にバネ仕掛けで刃が飛び出すようになっている。
 それほど強いバネではないので、実際に首を切断したりはしない。それでも首に刃が食い込めば、簡単には頭から外せないはずだ。うまくすれば戦力を一人分削ぐことが出来る。
 モフセンはミシェルに狙いをつけた。本当は裏切り者のハリソンを血祭りに上げたかったのだが、あいつは顔がデカすぎる。空飛ぶギロチンが頭に引っ掛かって本当のシルクハットになりかねない。
 このギロチンも、父アミルによって召使いへの使用を禁止されている。だが、モフセンはマネキン相手に常日頃から訓練を重ねていた。
「えいっ」掛け声とともに、慣れた手つきでスナップを効かせヒョイと投げる。
 ラジコン戦車に気を取られていたミシェルは、ソファの背後から飛び出したギロチンに気づくのが遅れた。何かが飛んでくる、と思った途端に目の前が真っ暗になった。
「何だ、こりゃ」ギロチンをスッポリと被ってしまったのだ。
 やった。命中だ。モフセンは小躍りした。
 だが、ミシェルはギロチンのツバに両手をかけ素早く持ち上げてしまった。
 ジャキーン、音をたてて刃が飛び出したとき、ギロチンはすでにミシェルの頭上にあった。
 ちっきしょう、悔しがるモフセン。ところがミシェルの姿を凝視した途端に大笑いを始めた。
「ギャハハハハ」部屋中に笑い声が響きわたる。
 ミシェルとハリソンは一体何事かとあっけに取られた表情。思わず顔を見合わせた。
「ブハハハハハ」その途端、今度はハリソンが笑い出した。
 怪訝な面持ちで頭に手をやったミシェルの表情が変わった。間一髪で外したと思ったギロチンの刃は、ミシェルの頭頂部の髪を見事に刈り取っていた。自慢の長髪が、いまやカッパ頭と成り果てていた。
 ヒェエー、ミシェルはムンクの叫び状態。
 燃え尽きて白い灰になるかと思えたミシェルだが、笑いが止まらないモフセンのダミ声に我に返った。怒りにメラメラと燃え上がる。
 普段の伊達男ぶりからは想像もつかない赤鬼のような形相。文字通り頭のてっぺんまで真っ赤になっていることが、まんま見て取れる。鼻の下に先ほどの鼻水の跡が二筋付いているのが情けなさを更に増す。
「うおおおっ」雄叫びをあげると銃を連射。今は中央に位置を移してミシェルとハリソンを交互に攻撃していたスーパーコブラを撃墜した。
 さらにミシェルは怒りに任せて突進。
 まずい。さすがのモフセンも顔色を変えた。ラジコン戦車は急に方向転換できない。
 退却だ。とっさに判断したモフセンは、身を躍らせて自室とは反対の右奥にある浴室へと駆け込む。
 意外な身の軽さで脱衣場へと滑り込み、素早く分厚い鉄扉を押す。ガチャリと重い金属音がして扉が閉まった。
 続いて壁に取り付けられた赤いスイッチを押す。ウィーンというモーター音がして、カチャリと3箇所のカンヌキがロックされた。
 この脱衣場と浴室は、アミルの指示により装甲が施されている。扉だけでなく壁の間にも特殊鋼が仕込まれ、バズーカ砲でも穴は開かない。
 モフセンは密かに、この部屋のことをパニック・ルームと名付けていた。
 このパニック・ルーム、何かと敵の多いアミルが5人の妻と酒池肉林の最中に襲われてはかなわん、というまことに不埒(ふらち)な動機で作られたのだ。
 ワルガキとてもガキはガキ。モフセンに酒池肉林の何たるかが分かっているわけではない。それでも父の留守中、美人の侍女に背中を流させて愉悦にふけるくらいのお楽しみは実践している。
 モフセンは洗面台の脇にあるスイッチを押した。正面の鏡がモーター音とともに下がっていく。
 鏡の裏から現れたのは4台のモニター。室内に3台、通路に1台仕掛けられたカメラに対応している。モフセンは1台のカメラを操ってパニック・ルームの扉を映し出した。目をつり上げたミシェルが暴れている。
 ミシェルは鋼鉄の扉を力まかせにガンガン叩くが、びくともしない。激昂してワルサーをぶっ放すが、これも通用しない。ようやくカスリ傷が付く程度。跳弾が背後のハリソンをかすめた。
「バッカヤロウ、頭を冷やせ。目的はサザンクロスだ。ガキなんかほっとけ」ハリソンは凄みを利かせたつもりの表情。でもやっぱり、つぶらな瞳がキラキラしている。「どっちみち時間の問題で海の藻屑(もくず)なんだからな」
「チッ」ミシェルは舌打ちすると、最後にドアを一蹴りした。
「イテテテテッ」鋼鉄のドア相手に力一杯蹴りすぎたようだ。ミシェルは右足を痛めて跳びあがった。今日はとことん厄日らしい。
 ハリソンは悠々と金庫を開けにかかる。電子錠とシリンダー錠を組み合わせた最新式金庫。金庫破りのプロも敬遠するほど難易度の高いものだ。だが、ハリソンは余裕の表情。半年に渡る潜入の間にナンバーを入手済みなのである。

 横浜海上保安部には、ようやく関係者が集まり始めた。休日だった職員も呼び出され、外出先から私服のまま駆けつけた者も多い。
 職員はマスコミへの緊急連絡にかかっていた。すでにホワイト・ヴィーナス号から半径500メートルに渡り空中海上両面が封鎖されている。
 嗅ぎつけたマスコミが誤って海域に入り込むことだけは、避けねばならない。詳細の説明は後回しにして、早急に協力を取り付ける必要があった。
 間もなく第一回の合同会議が始まる。寺田は、先ほどまでとは打って変わったかいがいしさで動き回っていた。
 大事件とあって、各方面からお偉方が出動している。粗相があってはならない。特に上座の席数席順に間違いのないよう、細心の注意を払う必要があった。
「草壁くんも頑張ってくださいね。会議を上手くまとめて、お偉いさんの印象を良くすれば、出世も早くなりますよ」
 寺田が親切心で言っているのは分かるが、草壁は釈然としなかった。事件の対策どころか、分析すら進んでいない。12時間の猶予も、この調子ではあっという間に過ぎてしまう。
 ふと見ると寺田が難しい顔をして、なにやら書類を覗き込んでいる。ようやくやる気になったのだろうか。
 草壁はツカツカと近づいた。机上に載っていたのは和菓子のパンフレット。
「いやあ、草壁くん、会議で出す茶菓子は何が良いかねえ。どれにしたらいいか、迷ってしまうよ」
 耳を疑ったが、寺田は本気で考え込んでいた。
「めったにないチャンスだからねえ。こういうときに顔を売っておけば、後々良い事があるかもしれないよ」
「事件解決で活躍した方が、目立つんじゃないですか」さすがに腹に据えかねた草壁が声を荒げた。
「だめだよ、そんな事しちゃ。それは、お偉いさんの見せ場だからね。見せ場を取っちゃいけませんよ。どっち道こんな大事件、私に手が負えるわけないですからね」寺田はシラッとした調子だ。
 その時、寺田の直通電話が鳴った。外線の呼び出し音。ダイレクト・インでかかってきたのだ。
 受話器を取った寺田の顔がパッと輝く。
「これはこれは、長官のご様子はいかがですか」
 海上保安庁長官の秘書官からだった。寺田は、今にも揉み手を始めそうな調子だ。その表情が一瞬にして翳(かげ)る。
「キミ、長官はたいへんご立腹でいらっしゃる。ゴルフを続けていたことがマスコミにばれてしまってね。危機管理能力が問われることは間違いない状況だ」秘書官は、冷たい口調だ。
「いや、それはどうも」寺田は、お気の毒と言いそうになったが、僭越な気がしたので言葉を呑んだ。
「長官は、ハイジャックされた客船に各国の要人が乗っていたとは、報告を受けなかったとおっしゃっている」
 寺田は言葉が出なかった。イの一番で秘書官を通じて事件を報告した。その時、おおよその乗客数、乗組員数を伝えてある。
 確かに第一報では乗客の名前までは出していない。だが、さすがにそれは本末転倒に思えた。日本人の旅行者のみなら、ゴルフを続けても問題ないということにはなるまい。
「とにかく、この責任は取ってもらうことになりますから、そのつもりで」
 秘書官は、突き放した口調で用件を伝えると、一方的に受話器を置いた。暗い表情でフウと溜息をつく。先ほど長官本人から、同じセリフ回しで怒鳴られたばかりなのだ。
 責任転嫁は下へ下へと付け回すことが、官僚の掟なのである。
 ヒェエー、寺田はムンクの叫び状態だった。