D.V.
10.暗雲
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 校門の前からはマスコミの姿が消えていた。警察の捜査が難行して新しい情報が出てこないこともあり、茶の間は早くも興味を失っていた。
 現在、報道陣は豊島区で発生したコンビニ強盗殺人事件の取材に集結している。
 殺害されたフリーターの子がタレント志望でプログに大量のコスプレ写真を掲載しいた。ワイドショーでは競って、その画像を放送している。死んで夢がかなったら、少しは供養になるのだろうか。
 学校は一見平静さを取り戻したかのようである。だが、犯人が捕まっていない以上、生徒たちに取りついた不安が一掃されたわけではない。
 父兄が送迎したり、示し合わせて集団で登下校する者は、まだまだ多い。落ち着いたように見えても、傷あとは根深く残っているのだ。
 その日は休み時間になっても事件のことを話す者は少なかった。これは事件の記憶が風化してきたのとは少し違う。むしろ事件が解決しない恐怖心から、口に出すことを恐れる者が多くなったためだ。
 今日一日は、なんとか無事に終わりそうね。午前中の授業が終わって弥生がそう思い始めたとき、ちょっとしたアクシデントが起きた。
 昼休みの終わりに、校庭で理沙が転がってきたテニスボールにつまずいて転んでしまった。おっちょこちょいの弥生ならともかく、運動神経の発達した理沙には珍しいことだ。
「あ痛っ」声をあげて理沙が座り込む。
 見ると膝小僧が少しすりむけて血がにじんでいる。
「保険室にいって消毒してもらったほうがいいわ」言いながら弥生は、ハンカチを取り出す。
「うわあ、エミリオ・プッチのブランド物じゃない。もったいないよ」ハンカチを目にした理沙が、素っ頓狂な声をあげる。
 よく見ると確かにイタリアのブランド物だ。カミーユのね。ちょっと似た色のを持ってるから、あわてて間違えちゃったんだわ。
「気にしない。気にしない」弥生は、そのハンカチを理沙の膝に巻きつける。
 もともと弥生にブランド志向はない。ブランド物だろうと、百円ショップ物だろうと、ハンカチとしての機能を果たさないんじゃ何の価値もないわ。
 弥生の判断は単純明解だ。それにどうせカミーユのだし。
「浅木さん、大丈夫」生徒の知らせを聞いた亜美先生が駆けつけてきた。
 亜美先生はテニス部の顧問ではないが、体育関係の教師が少ないため、実質上球技関係の運動部全般の面倒を見ている。
 それぞれのクラブに顧問はいるのだが、名ばかりでルールも知らない教師が多かったりするのだ。
「たいしたことありません。かすり傷です」余計な心配させまいと、理沙が元気良く返事する。
「でも理沙、保険室で消毒してもらったほうがいいよ」弥生が勧めた。タカをくくってバイ菌でも入ったらたいへんだ。
「そのほうがいいわ。二人で行ってきなさい。次の授業は何?担任の先生には、遅れてもかまわないように私から話といてあげる」
「ありがとうございます」理沙も亜美先生の言葉に甘えることにした。
「まあ、エミリオ・プッチ!私もファンなのよ」保健室にいくと、舞衣先生までハンカチに目を輝かせる。
 ブランド物に興味のない弥生には、どうもピンとこない。舞衣先生の親衛隊なら無理しても会話を盛り上げるところだが、弥生にそうまでする気はない。
 ボケッとしている弥生に代わって理沙が適当に話を合わせる。弥生は横で生返事の相づちを打つのが関の山だ。
 とにかく理沙は怪我を消毒してバンソーコーを貼ってもらった。
「じゃあ、ハンカチは洗って返すから」保健室を出た理沙は、そう言ってハンカチをポケットにしまう。
「別に気にしなくていいよ」とは言っても自分の物ではないので、あげてしまうわけにはいかない。
 ま、いいや。帰ったらカミーユに話そう。弥生はカミーユが柄にもなくブランド・マニアだったりしないことを祈った。
 放課後、理沙は用があると言って学校に残った。珍しく一人になって弥生は、ちょっと心細くなる。
 植え込みの影から獣人が目を光らせているような強迫観念に襲われた。
 ゴソリ、何かが動いた。ドキッとして弥生が立ち止まる。植え木の下の暗がりに二つの黄色い間が光った。
 弥生の歯がカチカチ鳴った。ニャオと鳴いて灰色の子猫が這い出してくる。
 ふう、何怯えてんのよ。弥生は臆病風に吹かれた自分自身に毒づく。妙に冷たい風が吹き抜けた。
 日が傾き、あたりは薄暗くなり始めていた。すっかり秋めいて日の落ちるのが早くなってきている。
 それにしても、ちょっと早いわ。時計を見ると日没までまだ1時間近くあるはずだ。
 弥生が空を見上げると、分厚い暗雲が一帯を覆っている。つい先ほどまで晴れ渡っていたのに。
 雨でも降るのかしら。弥生は胸騒ぎを覚えて、ブルリと体が震わせる。やっぱり嫌な感じだ。思わず足取りを早めた。

 ダイニングキッチンに入ると、カミーユがガラス越しに空を見上げていた。日没前ではあるが、暗雲で日が翳(かげ)ったせいか力強い様子をしている。
 キッと吊り上がった目が金色の光を帯びたように見えた。錯覚だろうか、弥生は思わず緊張する。
「あら、お帰りなさい。弥生ちゃん」弥生の気配に気づいたカミーユの瞳が、スッと穏やかなものになった。
「どうしたの。なんだか怖い顔してた」弥生は心持ち身構えながら問いただす。
「いえ、なんでもないの。やな雲が出てきたと思って」カミーユがフッと視線をそらす。
 霊感の強いカミーユは、弥生以上に剣呑(けんのん)な予兆を感じていたのだ。
 その時、氷堂家の小さな庭先に何か黒い物がヒラヒラした。ガラス戸に背を向けていたカミーユはすぐさま振り返る。
 弥生には羽音が聞こえたと思えなかったが、その物がカミーユの超感覚に働きかけたらしい。
 カミーユがガラッと引き戸になったガラスを開けると、飛び込んできたのは1羽のコウモリだった。
 いや、正確にはカミーユの放った使い魔と言うべきだろう。目を赤く光らせ、妙に人間くさい顔つきをしている。
 ドアホンのチャイムが鳴った。弥生が受話器を取り上げる。
「ちょっと、早く開けなさいよ。使い魔が戻ったでしょう」いきなりヴァネッサがまくしたてる。
 なんて早いの。いんたーぽーる、侮れないわ!弥生はインターポールが何者なのかも分からないまま感嘆の声をあげた。
 まさか氷堂家の前で見張り続けているとは夢にも思わない。ちなみにインターポールが手配したヴァンは大使館ナンバーを取得しており、駐禁監視人の魔手も及ばない。
「め、名探偵コナン?」玄関を開けた弥生が間の抜けた声をあげる。
 今日のヴァネッサは、格子縞のインヴァネス・コートに鹿撃ち帽。自国のヒーロー、シャーロック・ホームズの服装である。
 原作にインヴァネス・コートは出てこないようだが、一般的なイメージとしては間違いない。
 残念なことに弥生は英国の名探偵など知りもしなかった。ようやく頭に浮かんだのは弟が読んでいた「名探偵コナン」第1巻の表紙だった。
 ホームズも知らないのかこいつは。自分のプライドを傷つけられたかのように顔を曇らせたヴァネッサだが、すぐに気を取り直す。
「とぼけても無駄よ、使い魔の持ち帰った情報を教えて。隠し立てするとためにならないわよ」声を張り上げて恫喝(どうかつ)する。
「隠したりはしないわよ」カミーユが冷たく尖った声を出す。
 いつになく人間離れしたオーラを放っていることが弥生にも感じられた。何かあったんだわ。
「なにが起こったの」弥生はカミーユに詰め寄った。
「いつも一緒にいるあなたのお友達が狙われているそうよ」カミーユが唇をかみしめる。
「えっ」弥生は驚きに呻き声をあげた。理沙のことだわ。どうして理沙が。
「何か嗅ぎつけたに違いないな」ヴァネッサが割って入る。「ヴァンパイアが身に着けたものには独特の霊気がしみこむ。感覚の鋭い吸血獣人はそれに気づいたんだろう」
 弥生が恐ろしさに身体を震わせる。
「私と一緒にいたから弥生ちゃんに私の霊気が移ってしまったのかしら」カミーユの目つきが。どことなく悲しげになった。
「おかしいわね。それなら本人が襲われるんじゃないかしら」ヴァネッサが首をひねる。
 弥生は思い当たった。ハンカチだわ。あのハンカチがいけなかったのよ。後悔の念に、こみ上げてくる涙を弥生は必死にこらえるのだった。