ハングリー・フィスト
1.雅志はある朝突然に
「おぅい雅志、いつまで寝てる気だ」
日曜の朝くらいゆっくり寝させてくれよ。伊福部雅志(いふくべ・まさし)はごそごそと布団から這い出した。雅志は神妙寺の次男坊、高校二年生だ。
枕元の時計を見ると午前七時。ああ、もう少し惰眠をむさぼりたかった。
だいたい朝っぱらから叩き起こされたときに限って、ろくな用事じゃないんだ。
「ええい、呼んだらすぐに返事をせんかい」
雅志の父、雲光がドアを開けて首を突っ込む。雲光は僧名で本名は彦一。はっきり言って生臭坊主だ。アバウトな性格が人徳として評価される。強運の持ち主でもある。
「朝早くからなんだよ」雅志がブーたれた。
「なんだよじゃない。お天道様はとっくに昇ってるぞ。申し訳ないと思わんのか」
よく言うよ。飲んだ翌日は昼まで寝てるくせに。雅志は思ったが、口には出さない。どうせ言っても無駄だ。馬の耳に念仏。下手に口答えしても長い説教されるだけ。
これで浄土真宗にこの寺あり、と言われる名門の跡取りだから恐れ入る。境内の千年杉は、この寺の建造を記念して植樹されたって話だ。
「昨日、檀家の芝浦さんから電話があってな。家宝の茶碗。あれを来週のお茶会に使いたいそうだ。ひとっ走り届けてくれ」
この寺に代々伝わる家宝の茶碗。蓮如の愛用した利休の作。おいおい時代が合わないだろって。
こんなのが家宝として通用するんだから恐ろしい。坊主も檀家もアバウト。もちろんテレビ番組で鑑定しようなんて考えは金輪際ない。
「そんな用事なら、こんな早くに起こさなくってもいいじゃないか」
こんな時間じゃ先方だって寝てるぞ。
「いや、良い天気だから、ついでに庭掃除と廊下の雑巾がけも頼もうと思ってな。一仕事終えた後の朝飯はうまいぞ」
やれやれ、そんなにうまいんなら自分がやれよ。
そんなこんなで雅志は芝浦家に向かって自転車を漕いでいた。結局、昼を過ぎてしまった。自転車の荷台には、茶碗の入った木箱がくくりつけてある。
胸のポケットには一万円札が収まっていた。機嫌がいいと雲光は妙に気前が良くなる。雅志が、つい理不尽な言いつけに従ってしまうのもそのせいだ。金に媚びを売る自分が情けない。
とにかく早いとこお使い済ませて遊びに行こう。駅前のゲーセンに新しいマシンが入ったはずだ。
雅志はペダルを踏む足に力を込めた。
「よお、ご機嫌じゃねえか」
鼻歌まじりにペダルを漕いでたら、横から声がかかった。いつの間にか赤いバイクが並走している。雅志は赤いヘルメットの中を覗き込んだ。
いけない、日高だ。やな奴に出会っちまった。
日高は、雅志の通う私立真黒高校でも指折りの乱暴者。雅志より一才上だが留年して同級生になってしまった。
今日の日高は機嫌が良いらしい。虫の居所が悪いときは言葉より先に拳固が飛んでくる。
雅志は緊張した。自転車を蹴倒されて茶碗が割れでもしたら大変だ。
ポケットの一万円札は、あまり気にしなかった。日高がカツアゲしたって話は聞いたことがない。純粋な乱暴者だ。
「やあ、日高くん、何の用だい」我ながらギクシャクした口調だ。
思わず自転車の速度が落ちてしまった。時速十キロも出ていないだろう。日高のバイクは揺らぎもせずに速度を合わせている。雅志はちょっと感心した。
「なんだ、てめえ。用がなかったら声かけちゃいけねえのかよ」日高が目をつり上げて怒鳴った。
誰もそんなこと言ってないだろ。あっ、やばい。足が蹴りの体勢に入ってる。
雅志はびびった。しかし、日高は蹴りを中止してバイクにブレーキをかけた。もともと低速だったバイクはピタリと静止する。
えっ、どうして。思った瞬間、雅弘は衝撃を受けた。道をふさいだ黒いセダンにぶつかったのだ。
「ったく、トロいなあ」日高が前に乗り出して、バイクのハンドルに寄りかかる姿勢でボソリと言った。
ちぇっ、お前のせいで前方不注意になったんじゃないか。雅志は思ったが声には出さない。それが分別ってもんだ。
見ると、幸い車のボディは傷ついていない。茶碗のほうは大丈夫かな。調べようと雅志が自転車を降りたとき、車からも二人の男が降りてきた。
二人ともがっちりした体格で、ダークスーツと黒いサングラス。一人は長身で、髪をオールバックになでつけ口髭をたくわえている。なかなかの男前だ。もう一人は、背が低くずんぐりむっくりしたガニマタ。パンチパーマで、岩みたいにゴツゴツした顔だ。
とにかく二人とも、とても危ない雰囲気をかもし出している。雅志は思わず後ずさった。できるだけ関わりたくないタイプの連中だ。
「あんたらも急に飛び出したんだから文句言うなよ」日高が先制していちゃもんをつけた。
相手見て行動しろよ。分別ないぞ、お前。
「引っ込んでな、ガキ!」背の低いほうが、サングラスを外すと日高をにらんですごんだ。
かなつぼ眼(まなこ)っていうのか、知性を感じさせない猛悪そうな目つき。どことなく平家ガニを連想させる。
「てめえ、この俺に喧嘩売るとは良い度胸だ」日高が、スラリとバイクを降りた。指をポキポキ鳴らす。
どっちが喧嘩売ってるのかよく分からない。とにかく、こういう場面になると日高は生き生きしてくる。いきなり平家ガニのボディめがけてパンチを繰り出した。
平家ガニはひらりと身をかわし、勢い余ってつんのめった日高の胸を膝で蹴り上げた。日高の上体が跳ね上がる。平家ガニは、すかさず顔面にストレートを叩き込む。
日高の体が後ろに吹っ飛ぶ。3メートルは飛んだぞ。
高校生とはいえ喧嘩慣れした日高が一瞬でこの有様。やっぱりこいつら只者じゃない。
「おとなしくお宝を渡しな」平家ガニが今度は雅志をにらんで言い放つ。
ええっ、こいつら、あの茶碗を狙ってたのか。何か勘違いしてるんじゃないの。
雅志は迷った。個人的には、あんな茶碗くれてやっても一向に構わない。でも親父が怒るだろうなあ。小言食らうのはかなわないぞ。
「坊や、お友達みたいになりたいの」口髭がサングラスを外してボソリとつぶやく。
涼やかな眼差しと言いたいが、こいつブルーのアイシャドー差してるぞ。睫毛(まつげ)も妙に長い。付け睫毛か。ある意味、平家ガニより不気味な存在だ。
坊やじゃないし、こんな不良とお友達でもないぞ。雅志は不平を胸に隠しつつ男の言葉に従う。
ゴムバンドを外して茶碗の木箱を持ち上げる。ついでにちょっと振ってみた。何も音はしない。お、ラッキー、割れてないみたいだ。
「何やってんだ。早くしろ」
平家ガニが箱をひったくると、すばやく車に乗り込んだ。
「長居は無用だ。行くぜ」口髭を促す。
「待ちやがれっ」
ようやく復活した日高が、今度は口髭に飛びかかった。口髭は軽く身をひねってパンチをかわし、日高の首筋に手刀を叩き込む。さほど力を込めたようには見えなかったが、日高はどうと崩れ落ちた。
「オホホ、手加減してあげたわよ」
やっぱりオネエ言葉。やだなあ、オカマが髭はやすなよ。
二人を乗せて車は走り去った。
雅志は途方にくれた。ドジだ。急な出来事にナンバーを見忘れた。雅志は大きな溜息をつく。まあ済んだことは仕方がない。とにかく親父に連絡して、警察に通報して。
「おい、乗れっ。行くぞ」再度復活した日高が怒鳴った。
行くって何処へ?雅志は、あわただしい展開に思考がついていかない。
「追いかけるんだよ。やられっぱなしにはなんねえぞ」
無茶だよそりゃ。手も足も出なかったじゃないか。本当に今日はフラストレーションのたまる日だ。思ったことが全然口に出せない。
「あ、あの、一人で行ったら?僕は警察に通報しなきゃいけないし」
日高の目がギラリと光る。雅志は言葉を途中で飲み込んだ。
「俺は警察が大っ嫌いなんだよ。第一、お前が来なきゃ意味がない。俺が最後には勝利したっていう証人になってもらうんだからな」
負けたのがよほど悔しかったらしい。思ったより執念深い性格だ。
日高は自分の赤いヘルメットを雅志に無理矢理かぶせると、バイクに乗るようせかした。雅志はしぶしぶ従う。
バイクは風のように疾走する。景色が後方に飛んでいく感覚だ。雅志には初めての体験だった。別な時で、こんな奴と一緒でなければ爽快だったに違いない。
今回はそれどころではなかった。日高はノーヘルだし、スピード違反だし。白バイに捕まったらどうしよう。事情を話せば大目に見てくれるかな。雅志は気が気でない。
小高い丘を越えて隣町に向かう一本道だ。追いついちゃったらどうなるんだろう。
相手は素人じゃない。じゃ、何のプロかって聞かれても答えられないが、関わり合わない方が身のためだってのは確かだ。
茶碗がなくなって説教されても良いから無事帰れますように。雅志は拝んでいた。神様仏様じゃない、仏様仏様だ。