ハングリー・フィスト
3.ひとつの塔
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 運がいいのか悪いのか。今度も白バイやパトカーには出会わなかった。
 目の前には五重の塔がそびえたっている。三年ほど前に完成したばかりで真新しく綺麗だが、妙に薄っぺらい印象。なんだか映画のセットみたいだ。
 やっぱり歴史ある我が神妙寺とは風格が違う。雅志は初めて自宅の寺を誇らしく思った。
 三十郎は十五キロを五十分ほどで走ったが、息一つ乱れていない。ハンバーガーとポテトフライを食べ終えて満足そうな顔だ。
「日が落ちる前に片づけちまおう」三十郎は塔に向かって歩き始めた。
「茶碗は、あっちかもしれないよ」雅志は隣接して建てられた神殿風の建造物を指差して言った。
 三十郎はチッチッチッと人差し指を横に振ってみせる。
「格闘家は塔を見れば登りつめずにはいられない。悪の首領は最上階で待ち受ける。これが闘いの真理ってもんだ」
 全然分かんないぞ。雅志はあきれ果てた。でも横では日高が、うんうんと大きく頷いている。もう、勝手にしろ。
 大きな木の扉を押し開けて突入した。目の前には板張りの大広間。
「おおっ、これは立派な道場だ」
 感心してどうする。三十郎の声に、背を向けて正座していた信者たちが一斉に振り向いた。お揃いの白い道着を着て二十人ほどだ。
 正面の一段高くなった壇上には、先ほどの平家ガニ。こちらは位が上なのか青い道着だ。両手には太いバチが握られていた。横には大きな和太鼓。
「さあっ、神の家を汚す不心得者に天罰を下すのだっ」平家ガニがツバを飛ばして怒鳴った。ドンッドンッと太鼓を打ち鳴らす。
 信者に手を下させて天罰はないだろう、などと突っ込む余裕はない。信者たちが、わらわらと迫ってきた。皆そろって無表情なのが薄気味悪い。
 三十郎が信者たちの中に突っ込んでいく。舞うような動きで連続攻撃を繰り出す。さっきほどのスピードは出していない。素人相手に致命的なダメージを与えないよう手加減していた。
 日高も戦いの輪に加わる。こちらは本気でかかっていた。この程度の相手に引けはとらない。そもそも信者たちは数を頼りに掴みかかるばかりで、動きに全く切れがない。
 たった二人だが戦闘力の差は圧倒的だ。信者たちの攻撃をほとんど寄せつけない。
 だが、信者たちは幾度叩き伏せられても平然と起き上がってくる。まるで痛みを感じていないかのようだ。これじゃきりがない。
 平家ガニは壇上で太鼓を叩き続けていた。一定間隔で鳴り響く。
 あの太鼓なんか怪しい。雅志は乱闘の中をすり抜けて、こっそり近づく。平家ガニの背後から段に飛び乗った。素早く回り込んで太鼓を思い切り蹴り落とす。
「なにしやがるっ」平家ガニが蛮声を張り上げた。
 ただでさえ猛悪な面相が紅潮して赤鬼みたいだ。
 太鼓は床板をバウンドしながら転がる。信者たちは太鼓の音がやむと同時に動きを止めた。思ったとおり暗示をかけて太鼓の音で操っていたんだ。
 ぼんやり突っ立った信者が三人、太鼓に跳ね飛ばされた。まるでボーリングのピンだ。
 三十郎が太鼓めがけて渾身の蹴りを入れた。大きな破裂音とともに砕け散る。
 雅志に殴りかかっていた平家ガニは、大音響に振り向いた。目に入ったのは猛然と走ってくる三十郎だった。イノシシ顔負けの勢いだ。
「ひええー」平家ガニは顔に似合わぬ情けない叫び声を上げた。
 三十郎の体が宙に舞った。壇上で背中を向け逃げようとする平家ガニをはるかに超える大ジャンプ。平家ガニの脳天にかかとが炸裂した。
 一撃で平家ガニは床に這った。泡を吹いてピクピク痙攣してる。まさしくカニそのもの。あわれ名前も分からぬままの退場だった。
「ちっ、雑魚(ざこ)を団体で相手しても全然面白くない。つぎ行くぞっ」
 三十郎は憤然とフロア奥の階段へと歩を進めた。
 階段を上ると妙に甘ったるい匂いが漂ってきた。二階は赤い照明が毒々しい雰囲気を演出する異世界だった。
「オーホッホ、待ちかねたわよ」甲高い笑い声がこだまする。
 派手な顔に派手な化粧の女が、黒革のボンデージファッションに身を固めて突っ立っていた。足には網タイツ、黒革の手袋をはめた両手にそれぞれムチを持ってポーズを決めている。
 雅志は妖しい大人の世界に触れたような気がした。
「二階まで来た子たちは、このジャンヌ・ルクレチアが可愛がってあげる」
 何だ?ルクレチアって、どう見ても日本人の顔だぞ。
「さあ、かかってらっしゃい。このかかとをたっぷり味あわせてあげる」
 自称ジャンヌは尖ったハイヒールのかかとを踏み鳴らした。ものすごく痛そうだ。
「かかってこないなら、こっちからいくわよ」
 ジャンヌのムチはそれぞれが三条になっていた。都合六本のムチが生き物のように襲いかかるかと思えば、三本絡まって太いムチとなり空を薙(な)ぐ。まさに変幻自在だ。
 三十郎たちは、ムチの間合いを逃れて一歩また一歩と後退していく。
「おい、三十郎のおっさん、手も足も出ないのかよ」日高が叫んだ。
 もう少しで壁際に追いつめられてしまう。
「俺をおっさんと呼ぶな。手も足も出るが、女に手を出すのはどうも気が進まん」
 そんなこと言わないでくれよ。ハイヒールのかかとは味わいたくないよう。
「オーホッホッホッホ」ジャンヌの笑い声は、さらにテンションを上げた。2ランクぐらいレベルアップしたようだ。
「オーホッホッホッホッホ。さあ豚ども私の前にひれ伏すのよ。たっぷりいたぶってあげる。あーやって、こーやって、それからあれもこれもオーホッホッホ」
 白目をむいて完全に危ない大人の世界に突入しちゃってる。
 三十郎にゾクリという感覚が走り、両肩に鳥肌が立つ。パチン。三十郎の頭の中で何かが切れた。瞳に炎が宿る。
 ジャンヌは、ひさびさの獲物に激昂していた。若い男が三人。ムチで絡め取って、たっぷり楽しませてもらうわ。
 じわじわと追いつめていく。もう少しで壁際。さあ、ここからが詰めよ。ジャンヌが真っ赤に塗られた唇をピンク色の舌でチロリと舐めたとき、視界から三十郎の姿が消えた。あわてて左右を見渡すジャンヌ。三十郎の姿はどこにもない。
 三十郎はムチの死角をついてジャンヌの頭上へと跳んでいた。背後の壁を一蹴りして宙を舞ったのだ。膝を抱え、くるりと一回転。その勢いでジャンヌの後頭部に蹴りを入れた。
 三十郎を見失って狼狽するジャンヌは、突然後頭部に衝撃を受けて前に吹っ飛ぶ。完全に油断して無防備だった。何が起きたのかも理解できないまま、顔面から木の床に激突した。目から火花が散り、涙と鼻水を流してのたうち回る。
 しまった。女相手に思い切り蹴っちまった。あまりの気色悪さに我を失ったんだ。俺としたことが。三十郎は一瞬後悔した。
「ああっ、負けた。負けてしまったのね。三人におもちゃにされるんだわ。あんなことされて、こんなことされて。それからあれもこれもっ」
 勝っても負けても異常な女だ。のたうち回りかたも妙に悩ましげになっている。三十郎は後悔したことを後悔した。鳥肌が背中一面に広がっていた。これ以上関わり合いにならないほうが良さそうだ。
 三十郎は、とにかく上階を目指すことにした。雅志と日高も後に続く。三人とも忍び足でジャンヌの傍らをすり抜けた。
 くそっ、俺は強い相手と戦いたいんだ。三十郎のフラストレーションは増す一方。次のフロアに期待が高まる。
 三階は、ピンクの壁に安っぽいシャンデリア、花柄のソファに動物のぬいぐるみが並んでいた。ジャンヌのフロアとは、また違った悪趣味さだ。
 奥の天蓋付きベッドから人影が立ち上がった。永渕京一だ。ピンクの道着に着替え、ジャンヌに負けず劣らずの厚化粧。だったら髭剃れよ。
 三十郎は全身から力が抜けていくのを感じた。こいつの弱さはもう分かっている。いまさら戦いたくもない。早く倒して上に進もう。肩を落として進み出た。
 永渕とて一度負けた相手に正面から挑むほど愚かではない。『輝きの拳』の教義では負けることが罪であり、勝つためには手段を選ぶ必要がないのだ。神に祝福された者には、だまし討ちすら許される。
 永渕は隠し持った黒い玉を床に投げつけた。煙玉だ。ドンという音とともに煙が噴き出す。一瞬で部屋中に充満した。何も見えない。
 ベッドには熱感知スコープ付きガスマスクとボウガンが隠されていた。永渕は、素早く取り出してガスマスクを装着した。ボウガンを構えてフロアを見渡す。
 赤とオレンジでまだらになった人影が二つ。ガキどもだわ。こいつらはいつでも始末できる。格闘技野郎はどこ?視線を左に振った永渕の視界が赤で埋め尽くされた。なによこれ?
 三十郎は、永渕めがけて跳んでいた。空中に浮かんだ体勢から三連の蹴りを繰り出す。三発とも永渕の顔面に見事ヒットした。永渕は後ろに吹っ飛ぶ。ガスマスクは外れ、鼻血が飛沫となって散った。五メートル後ろの壁に後頭部から激突した。
 どうしてアタシの居所が分かったの。永渕は、自分とは桁違いな三十郎の強さに恐怖した。立ちつくす三十郎に目をやる。三十郎も永渕を睨んでいた。鬼のような形相だ。ああっ、こっちに来る。三十郎は大股で、ズンズンという擬音が聞こえてきそうな勢い。
 とどめを刺す気なの。永渕は、うろたえた。恐怖と激痛で立ち上がることもできない。
 お願い許して、もう悪の手先はしません。霊感商法もやめます。だから命ばかりはっ。叫ぼうとするが極度の緊張で声が出ない。口をパクパクさせて両手を振り回す。三十郎はもう目の前だ。
 永渕は股間が生暖かくなるのを感じた。ひええ、漏らしちゃった。ほええ、大きい方も。
 三十郎は、永渕には目もくれず横の階段を昇っていく。
 ああ、アタシにとどめを刺そうってんじゃなかったのね。永渕は安堵のあまり気を失ってぐったりとした。
 雅志と日高は、異臭を放つ永渕を横目に三十郎の後を追う。
 今度は三十郎が我と我が身を呪っていた。くそっ、煙幕張りながら気配も消せない半素人め。何でこんな奴らばかり相手にしなくちゃならないんだ。目はつり上がり鼻息は荒くなっていた。