ミトコンドリア1972
第4話 挑戦者カミカゼ(後)
「よし、新一。かかってきな」いきなりネリが姿勢を低くして身構える。
「へ」新一は急に言われても対応できない。
「実戦だよ、実戦。時間がないしな。ほら、全くのこれっぽっちも遠慮しなくていいからね」ネリは、なんだか嬉しそうだ。
そんな。小柄なネリに本気で殴りかかるなんて。一発当たったら砕けちゃうんじゃないか。新一は固まって動くことができない。
「なんだ。ビビッてんのか。心配しなくていいよ。オレはよけるだけで手を出さないからね」ネリは、新一の考えとはちぐはぐなことを言う。
「いや、そうじゃなくて」新一が口ごもる。
「じれったいなあ。いーから、かかってこいよ」ネリが眉間にシワをよせる。
この状況では、とりあえずネリの言葉に従ったほうが安全だ。
新一は、えいっと右の拳を突き出した。といっても、やっぱりネリを狙うことはできない。拳は、あらぬ方向に空を切る。
「ほら、ちゃんと狙って」ネリの言葉が険しくなった。
どうやら本気のようだ。このモードのネリには、とにかく従っておいたほうが安全である。
新一はネリの顎(あご)を狙って右手を突き出す。ネリは首をかしげるような仕草で軽くよける。
まだ遠慮気味でスピードのないパンチとはいえ、あまりにも簡単にかわされてしまった。
「続けて!どんどん入れてきなさい」
「お、おう」言われるままに新一は右、左とパンチを繰り出していく。
そのことごとくをネリは顔色一つ変えずにかわしてしまう。新一は、なんだか自分がからかわれているような気分になってきた。
最初のうちは遠慮がちでおざなりに突き出していたパンチだが、次第に夢中になって力がこもってくる。
新一は、いつの間にか本気になっっていた。それでも格闘技に縁のない彼のパンチなど、ネリにとっては他愛ないもののようだ。
軽いフットワークで身体を前後左右に動かし、いとも簡単によけていく。
もともと持久力のない新一は、15分も経つと目に見えて動きが鈍くなってきた。全身に汗をかいてゼイゼイいっている。
「よし、交代。次は茂くんね」20分をすぎたあたりでネリが交代を指示した。
結局、新一は、かすることも出来なかった。ネリは汗をかいてはいるものの、呼吸は全く乱れていない。
新一、茂、和夫と、ひと通り相手にして、それから少し回復した新一に戻る。
この繰り返しで新一たちは多少休憩できるが、ネリは一回も休まない。
みんなのために頑張っているというよりも、自分が少しでも長く楽しむために工夫を凝らしているというのが本音のようだ。
3巡目ともなると一人が続けられる時間は、めっきり短くなる。交代が早くて体力を回復することは困難になってきた。
体重がある茂などはハナッから足がもつれている有様。それに比べてネリのフットワークは相変わらず軽快だ。
こうなるとパンチが当たる見込みは全くない。
ネリは2時間半以上三人の相手をし続けて、新一が5回目の登板となった。全身汗だくで腕にも力が入らない。
それでもネリに向かっていこうとしたのだが、足がもつれてつんのめってしまった。バランスを崩して倒れかかる。
そこにネリがスッと入って新一の身体を受け止める。新一に比べてはるかに軽量の少女とは思えない安定感で支えた。
ふう、助かった。新一が安堵のため息をついた瞬間、ネリに足を払われて体がフワッと浮いた。ズシン、と背中から落とされる。
「攻撃しないって言ったじゃないか」新一は怒鳴りたかったのだが、叩きつけられたはずみに肺の中の酸素をすべて吐き出してしまったため、消え入りそうな声になっていた。
「手を出さないって言っただろ。足は別」言いながらネリはイタズラっぽくニマッと笑ってペロリと舌を出す。「ま、今日はこのくらいにしとくか」
5回目の対戦を免れて茂と和夫がフーッと溜め息をつく。
新一は公園の芝生に横たわったままでいた。太陽はまだ高い。疲労のあまり、このまま眠り込みたい気分になっていた。
「ほら、起きろって。たいした運動してないだろ」ネリは、こともなげな口調。かがみこんで新一の右手を引っ張る。
新一は渋々といった表情で身を起こした。立ち上がると、なんだか足が自分のものでないような感覚だ。
「さあ、気分いいから、駅前でラーメンおごるぞっ」ネリは元気よく右手の拳を上に突き出す。
「おお」食い気は人一倍の茂が、つられて歓声をあげた。
残る二人は疲れすぎて食欲も失っている。どうにも気勢のあがらない状態だった。
新一は、重い足取りでネリの後を追って歩き出した。
翌日、いよいよカミカゼとの対決を控えた朝。
いつもは自転車でネリんちに行く新一たちが、電車を使ってやってきた。三人が三人ともひどい筋肉痛に見舞われ、自転車をこげるような状態ではなかったのだ。
駅の階段を上り下りするだけで苦行と感じるほどだ。駅にはエレベーターどころか、エスカレーターすら影も形もない時代である。
「揃いも揃ってだらしないわねえ」こちらはビクともしていないネリが呆れ顔で言う。
「お前と一緒にされてたまるか。こちとら壊れ物だ」筋肉痛など不慣れな茂は特に機嫌が悪い。
和夫は新一の背後にかくれて様子をうかがっている。未だに恐怖心が克服できずにいた。
「とにかく、こんな状態じゃ決闘どころの騒ぎじゃないよ」新一には、もともと本気で決闘する気などさらさらない。
軽く手合わせして適当にお茶をにごし、負ける予定だった。しかし、その気力すら失せてしまったのだ。
昨晩は夕食もそこそこに部屋に引き上げてベッドに倒れ込み、そのまま寝込んでしまった。いわゆるバタンキューというやつである。茂も、食欲が落ちていなかったことを除けば同様の状態。
多少なりとも遅くまで起きていたのは和夫のみ。飲み慣れないブラック・コーヒーをあおって頑張り、無事キング・クリムゾン特集を聴き通すことができた。
今朝の和夫の頭に決闘のことなどない。今度こそ小遣いを貯めて「クリムゾン・キングの宮殿」を買おう。そのことで頭が一杯だった。
「そっかあ。ま、いいや」今日のネリはやけにあっさりしている。
もともとスポーツは見るよりするというタイプ。ヒマをもてあまして野次馬根性を出し、決闘騒ぎに乗った。それが昨日自分が身体を動かしたら、他人の決闘などどうでもよくなってしまったのだ。
争いごとが嫌いで腕っぷしにも自信がない新一は胸をなでおろした。たとえ決闘するハメになっても、怪我とかする前に負けてしまう心づもりではあった。
それでも一発で致命的なダメージを負ってしまう危険があった。なにしろ相手はスポーツ万能のカミカゼ。鍛え方が違うのである。
「決闘は中止にしても、上川先輩をほっとくわけにはいきませんよ」これまで様子を見守っていた和夫が口をはさむ。ラジオの恩があるので、待ちぼうけを食わすのは気が引けた。
「そーだな。一応行ってみるか」全身からサロンパスの臭いをさせている茂も納得する。
「じゃあ、散歩がてら行くとするか」ネリは、もうどーでもいーという態度だ。
とにかく一同揃って大黒川に向かうことにした。
「な、何だと!決闘を中止にする?そんなバカな」いつもはクールなカミカゼが珍しく情ない声をあげた。「無条件でミトコンドリアを選ぶというのか」
カミカゼは顔を真っ赤にしてトンチンカンなことを言う。人生最大の屈辱という表情である。
「ヘーンだ。だいたいオレを決闘の賞品にしようっていう根性が気に入らないんだよ」ネリはすっかりガキ・モードに入ってアカンベをする。
「そんなっ、困るよっ」カミカゼが身をくねらせた。なんかいつもと違う。「今まで男にしか興味のなかったボクが、根島にだけは惹かれるものを感じたんだ。他の女じゃダメなんだ」
思いがけないカミカゼの告白に、新一たちはたじろいだ。
その手の趣味の男がいることは知っていたが、実物にお目にかかるのは初めてである。しかも、それが野球部キャプテンにして女子生徒の憧れの的、カミカゼなのだ。
カミカゼは悲壮感たっぷりの表情。カミング・アウトなんて表現すら使われていない時代。
中性的魅力を売り物にするピーターや丸山明宏、手術までしたカルーセル麻紀。芸能界では珍しくないものの、一般ではまだまだ認知度の低い世界だ。
まあ「薔薇族」なんて専門雑誌まで存在するのだから、実は意外と人口が多かったりするのだろうが。
それにしても今のカミカゼの発言。ネリを女の子として見ていないってことじゃないか。新一の顔からスッと血の気が引いた。
確かに美少女という言葉より美少年という表現のほうが似合っているネリではあるが、面と向かって言うのはヤバすぎる。
気持ちは分からないでもないが、頭脳明晰をもってしたカミカゼとしてはあまりにも無謀な行動だった。暴挙に出てしまったというほかない。
近ごろ新一たちと仲の良いネリの姿を見てカン違いが爆発。我を失ってしまったに違いない。
ネリが目を吊り上げる。鈍感なネリだが、さすがにカミカゼの言葉が意味することに気づいてしまった。キリッと歯をかみしめる。
冗談半分とはいえ乙女のロマンなどとはしゃいでいたのだ。まさしく天国から地獄に落とされた気分。茶色い瞳に怒りの炎が宿ったように見える。
ザワッとした感覚に襲われて新一が一歩退く。茂がゴクッと喉を鳴らす。和夫は顔面蒼白になり歯の根が合わずカチカチ音をさせている。
「根島ぁ」完全に血迷ったカミカゼが駆け寄ってくる。今や灯火に飛び込む夜の虫程度の冷静さも欠いてしまってたようだ。
鼻息も荒くネリが右足を蹴上げた。無防備に近づいてきたカミカゼの股間に見事食い込む。
「はぎあっ」カミカゼの端正な顔が苦痛に歪んだ。
ピョンピョン跳ねる余裕もなく、ゴロリと背中から倒れ込んだ。
「また、つまらないものを蹴ってしまった」フッと溜め息をついて身をひるがえし、ネリは立ち去っていく。
慌てて新一たちも後を追う。堕ちたヒーローの傍らにはいたたまれない気分だった。
和夫は立ち止まって振り返る。ラジオの恩もあるし、このまま見捨てるのは申し訳ない気がした。
まだカミカゼは激痛にピクピク身体を震わせている。しかし、その動きは、どこかしなを作っているようになまめかしい。
もしかしてヘンな快楽に目覚めちゃったんだろうか。ドキリとした和夫はブルッと身震いすると、すでに河原から道路へと出た三人を一目散で追いかけるのだった。
第4話おしまい