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 ロマンに満ちたわが町戸山の歴史
 この戸山団地戸山・駒込地区は、あの三内丸山より早くから生活の場に選ばれ、その後何度も生活の場所に選ばれていたそうです。
 現在の戸山団地周辺は住みやすい場所であったと考えられます。

どこの町や村にも,遠い先祖から脈々と築かれてきたそれぞれの歴史があり、
秘められた変遷の譜があります。いま、開発がすすみ
近代化され都市化されてゆく各地の山林原野にも、先史時代まで
さかのぼる程の古い人間の生活の跡をみることがあります。
この戸山団地付近も、はるか縄文の大昔から、この地に生きた人間の歴史があります。
めぐまれた自然環境、新しい文化が息吹き、さらに急テンポで飛躍発展する
わたくしたちの戸山団地。そこにたたずんで周辺の野山をながめるときふと、
ロマンあふれるこの地の歴史の音がきこえてくるような気がします。
戸山市民センター展示物 戸山市民センター展示物 稽古館の尖底土器

貴重な遺跡 戸山団地付近
 青森付近で発掘された先住民の遺跡のほとんどは、山岳、丘陵地帯に多く、それもそのはず、旧市内は、大昔は海で、そこに八甲田を源とする河川が運ぶ土砂が堆積して平野を作り、現在のような地形ができあがりました。大昔の海岸線は地名によく表れており、金浜・波立て・浜田・浜館・浪打などは、それをよく物語っています。
 そのために、先史時代には青森旧市内よりも、青森市内を取り囲む周辺の丘陵や山岳の地帯に、村落が早く形成されたと考えられます。
 戸山団地の周辺も、縄文時代から平安時代にいたる、,数多くの住居跡や出土品が発掘された貴重な遺跡で、この付近の大昔を人々をしのぶことができます。壙

蛍沢遺跡
 駒込から沢山に向かう途中、つまり現在すでに戸山団地として新しい住宅が建ち並んでいる地区です。団地造成計画のために、昭和五十年に市教育委員会が発掘調査を行いました。その結果、、縄文から弥生の全時代にわたる遺構が検出されました。土壙・竪穴住居跡・フラスコ状ピットなどがそれで、土器・石器類も数多く、土偶・岩版などもくわえて、多量の遺物が検出発掘されました。
 また先史時代以降のものとしては、平安の頃のものと見られる土師器や須恵器、さらに鏃・刀子・斧・手斧・鋤・鍬・紡錘車などの鉄製品と、多数の炭化米や、スギ・クリ・サクラなどの炭化材も発見されています。県立郷土館の展示物
 まさにと山団地付近は、約一万年もの大昔から脈々と人間の歴史がきざまれた貴重な文化財なのです。
県立郷土館 蛍沢遺跡コーナー (平安の頃の想像絵)
県立郷土館 蛍沢遺跡コーナー (平安の頃展示物)


玉清水遺跡(駒込月見野)
 月見野霊園に向かう途中から右手に入ったところが玉清水で、冷たい出水があり小川が流れています。この小川の北東側が玉泉の本遺跡で、,南西側が玉清水遺跡です。
 青森市教育委員会の調査により、この遺跡からは縄文晩期の炉址や精製土器・粗製土器が出土し土偶をはじめ勾玉・岩偶・岩版・円形土版などが発見されました。石器は石匙や石鏃など狩猟用のものが多く出土しました。この付近を散策しますと、大昔の人々が清水の湧く泉のほとりで生活を営み、獣のをとらえ木の実を拾い集めて野山をかけめぐる姿が想像され、ふるさとの遠い遠い歴史をさかのぼった情景を思い起こすことができます。
県立郷土館 玉清水遺跡から出土した遮光器土偶(頭部)

戸山」は、むかし「砥山」
 団地の東側に位置する戸山本村、現在では青森市大字戸山となっているこの戸山の地名は、近くの砥取山から砥石を産出したことから、「砥山」になったと伝えられています。この標高一六五メートルの砥取山には、今でも砥石を採掘した跡が見られます。。江戸時代の民俗学者で、全国を行脚して紀行文を残した菅江真澄もこの地に立ち寄っており、遊覧記「すみかの山」に…
 雨になりそうなのでためらって昼から出発し、道をわずかにくると、砥山という村があり、(中略)ここにある研磨石は、青砥山にあるこまかい砥山にもまさるよい石であるが、神のおられるところであるから、祟りがあるのをおそれて掘り取らず、質のよくない砥石を砥崎(戸崎)の境から堀り使用するのだ…と村長がいった。(内田武志・宮本常、編訳による)と記しており、砕石すれば荒天になると信じられていたようです。また津軽塗りの研磨に使用する砥石は、戸山の石が最もよいとして津軽藩に納められていたことも伝えられています。

戸山の斧懸神社と斧かけの松
 戸山赤坂に大山祇神を祭神とする斧懸神社があります。延暦二〇年に坂上田村麿御草創とも伝えられ、一時はその創建者である田村麿を祀ったこともあると伝えられています。「青森史」によりますと、元文元年(一七三六年)に戸山村と戸崎村が再建したとされており、また明治初期に青森県が編纂した新撰「陸奥国史」の社寺縁起旧期の中にも、この神社について砥山神社と記されており、「元は斧懸神社と云う」とあります。菅江真澄は「すみかの山」で…
(前略)砥山という村があり、斧掛明神という神社があった。その由来をたずねると、斧かけの松というのが御社のかたわらにたっていた。むかし木こりが宮木を切ろうというとき、まず斧にみてぐら(弊帛=神への奉献物)をとりそろえて、これにかけ奉ったという。
と記しております。
斧懸神社鳥居

 むかし戸山から戸崎への道は荒磯入り江などの海岸で、坂上田村麿が率いる兵が、その崖づたいにゆききしたので兵人越(ひょうどごえ)、あるいはひょうひょう越という名が伝わっておりました。また、戸崎からつづく桑原には鯨森というところがあり、、ここの稲荷の社の由来は、鯨がよってきたところに神を祀ったと言われており、菅江真澄もこの伝承を記録しております。
 さて、戸山の斧懸神社はその後、文化が開け平和卿となるにしたがって山子たちの信ずる所となり、山に木を伐りに入る者は、境内の老松に祈りを込めて、斧の形に枝を払った木を放り投げみごと松の枝にひっかかった者だけが山に入ることを許される習慣があったと言うことです。
 また、そのむかし、まだ青森平野が海であった頃漁師たちは斧懸神社の老松を、はるか沖合いから帰港の目印にしたものだそうです。今も、八十余段の石段を登りつめると、陸奥湾や津軽半島の山々と青森平野を一望できます。
 斧懸の老松も、いまでは山子ばかりでなく、戸山や近郷の人々の嫁とり婿とりの占いの樹に様変わりしているとか。神社をおとずれてこの松ノ木に、天高く枝を放り投げて、自分の吉凶を占ってみるのも、夢のある楽しい郷土史探索となるでしょう。

 時が流れ、時代が変わって、戸山付近は一大住宅地帯に変貌しつつありますが、遠いと遠い縄文時代からのロマンあふれるこの地の歴史や伝承に思いをよせながら、戸山団地の近辺を散策するのも、興かもしれません。 

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