2 音士別再訪

 私は音士別を離れたあと、中学・高校を札幌で、大学は埼玉で、そして現在再び札幌で暮らしている。 音士別では私が転出したあとも細々と同窓会のようなものを行っていたと聞くが、年々人が離れていく ためにいつの間にか開かれることはなくなっていったようだ。私もしばらくは音士別に残っていた友人と 電話や手紙のやり取りを続けていたが、高校や大学の受験の忙しさやお互いの転居、転勤等もあり、 次第にそれもなくなってしまった。思えば私が転出する際、当時は国鉄神威駅から空知炭鉱鉄道が音士別 駅まで走っていたので、先生やクラスメートが駅のホームに並んで見送りをしてくれたものである。当時 大好きだった女の子から花束をもらったり、みんなの寄せ書きを読んで涙をボロボロ流したり、今でもその 光景は頭の中に焼きついている。
 音士別を離れて違う地で生活をしていても、その時のさまざまな思い出は私の体や心の中に染み込んだ ままであった。だが私が大学生の頃、ある新聞記事を読んで愕然としてしまった。

「故郷が沈む………北海道・音士別」
 かつて炭鉱で賑わいを見せていたひとつのマチが今、ダムの建設・完成により
水底に沈む運命にある。
 北海道神威市音士別。音士別炭鉱の閉山後、急激な過疎化が進むこの地区に、
ダム建設の話が浮上したのは3年前。札幌・石狩・空知圏の新たな水がめ候補地
として選定され、今年の4月に建設が決定した。これに伴い現在居住している住
民は、全員が市の用意する日西炭鉱跡地に建設中の市営住宅に転居することが確
実となった。小学校の鐘の音もかすかにきしんだ音がするだけである。

 今、実家が札幌にあるためにほとんど訪れることのなかった、本当の故郷である音士別がダムに沈もうと しているなんて………当時の友達の顔が頭の中を駆け巡る。炭鉱住宅がひしめき合っていたあの街がなくなる ………自分の生まれ育った場所が………。音小は…音小の丘は…音の鐘はどうなるんだろうか。
 とりあえずまだ音士別には住民がいるとの事なので、この目で実際に確かめるべく、大学の講義をさぼって 北海道へと飛んだのであった。新千歳空港に降り立ち、肌寒い北国の秋風を感じながらJR、バスを乗り継ぎ ようやく音士別へとたどり着いた。バスの運転手によると、音士別への運行路線ももう間もなく廃止になるようだ。 昔は札幌駅前からの直通便があったり、滝川や芦別からもバスが走っていたのを思い出したが、今では神威市役所 とを結ぶ2時間に1本あるかないかという非常に寂しいダイヤであった。


音士別バス停

 バス停から見た風景は私の心を痛く貫いた。音士別駅舎は解体され、市役所支所・音士別郵便局・消防署・ 映画館などあらゆるものが朽ち果てたまま建っており、ずらりと炭鉱住宅が並んでいた場所は茶色くかれた草 木が生い茂る荒地となっていた。先に市役所で住民課の職員に聞いたところによると、現在音士別地区の人口 は12戸34人という。お年寄りもいれば、小さな子どもも生活しているらしい。彼らは皆、駅前通りの音士 別元町地区に住んでいるとの事である。寒い秋風の吹く中、しかも何もないこの街の中を歩いているのは私一 人だけ、そう思うと無性に寂しい気分になった。そして、本当にこの地は自分の生まれ育った街なのかという 疑問さえ出てきたのである。

音士別駅跡
音士別郵便局跡

 ただ、その疑問はすぐに打ち消された。駅跡から南に向かった国道沿いのあの小高い丘……そこには私の 記憶そのままの音小が建っていたからである。私は無意識のうちに涙を流していた。そしていつの間にか、 音小に向けて走り出していた。
 緩い砂利の坂道から見あげたかつての正門の門柱はすでに撤去されており、土台なのか破片なのかコンクリ ートが散らばっていた。しかし正門のあった場所から見た音小の姿は昔のままであった。8年近く帰ることの なかったこの地に今ようやく自分がいること、それが何かしら悔しかった。まるっきり昔の面影のない街並み もそう、当時の友人たちと連絡を取り合っていなかったこともそう、故郷がこれほどになるまで帰らなかった 自分に対する憤りがこみ上げてきたのである。でもそん自分を音小は前と変わらない佇まいで私を見つめてい る。少し色褪せてしまったけど………。(つづく)




*執筆中*