孝を名付けて戒となす
曹洞宗管長
大本山永平寺貫首
宮崎奕保(みやざきえきほ)
「正法に不思議なし」という言葉があります。「正法に不思議なしということを知れりといえども不思議中に正法有ることを知らず」とも言います。頭で考え、心で考えることができることを思議と言いますが、私たちの持っている目や耳や知覚は決して確かなものではありません。棒の先に火をつけて回せば火が輪になって見えるように不完全なものなのです。
お釈迦さまは「釈迦牟尼仏はじめに正覚を成ず」と言われているように、大宇宙を体とし大宇宙を心としてお悟りを開かれました。そして「一仏成道して天地乾坤(けんこん)を見わたして見ると、竒(き)なる哉(かな)、竒なる哉、一切衆生皆如来の智慧、徳相を具有す」と申されました。このお言葉の中の「竒なる哉」の「竒」という字は「立」という字と「可」という字が組み合わされていますが、「立」という字の下の横棒と「可」という字の上の横棒が共通しています。ですから「竒」という字を分解すると「上立たんと欲せば下可ならず、下可ならんと欲せば上立たず」といって「竒なる哉」というのは「不思議だ」ということです。この横棒一本が「修証一如」なのです。
お釈迦さまは「有情非情同時成道(うじょうひじょうどうじじょうどう)」と申されました。心あるものも心のないものも私が悟ってみると、すべてが仏の智慧、徳相を備えていた、と申されたのです。
大宇宙の真理を体現されたお釈迦さまを応身の仏と言い、「人間の如来は人間に同ぜるが如し」と申します。そのお釈迦さまは「釈迦牟尼仏、無上正覚を成じ、初めて菩薩の波羅提木叉(はらだいもくしゃ)を結し、父母、師僧、三宝に孝順せしむ」と言われました。「波羅提木叉」とは戒法のことで、人間として生活する上で最も大切な規則です。そしてそれは、父と母、正しい教えに導いてくださるお師匠さま、仏法僧の「三宝」に孝行することが「波羅提木叉」であると示されました。さらに「孝順は至また道の法なり、孝を名付けて戒となす、亦(また)制止と名付く」孝行が戒法であり、そこに心を落ち着け自分本来の姿にたちかえることを「制止」と申されたのです。孝順の最初は父母です。今かりに、私という一人の人間が生まれるには必ず父と母が存在します。その父母にも、それぞれに父母がいます。一人の自分に二人の親、二人の親には四人の親と、その数は倍増しになって過去世へとさかのぼります。三十代さかのぼると十億人を超えます。私たちのご先祖は、三十代や五十代ではありません。私一人の体に、途方もないご先祖の血が通っています。お釈迦さまは、そのご先祖に孝行することが「戒」だと申されました。人一人の生命の尊さ、重さが分かります。殺すことのできないのが生命です。
昨今、国内は言うに及ばず世界各地で殺伐な事件や紛争が跡を絶ちません。お釈迦さまの教えを実行することが仏道です。世界各国にその国の憲法や法律がありますが、それらはその国にしか通用しません。しかしお釈迦さまの教えは時を超え、国境を超え、人種を超えた大宇宙の真理のお悟りです。
今こそ「体解大道」が児孫のつとめと心得ねばなりません。