さすらい人幻想曲

第10章:サールナート    Sarnath

 ベナレスからデリーへ飛ぶ前にサールナートで半日を過ごした。ベナレスの町を出て、北東に9km  バスで走る。そうするとこれまでの町のざわめきがウソのように静かな並木道が続く。
「サールナート」 なんというやさしい響きだろう。
 ここは、2500年程前に釈迦が悟りを開いてから、それまで共に修行をしてきた5人の修行者に釈迦が悟った宇宙の心理を初めて説法した所である。5人の修行者達は釈迦の最初の弟子となり、ここで初めて「言葉」になった教えはその後、世界中へと広まり、何世紀にも渡って多くの人々の心に染み込んでいったのだ。
 サールナートの仏跡の門をくぐり広い芝生の上を歩くと、仏教のシンボルとして釈迦の時代からあるストゥーパとスリランカの僧達によって建てられたという真新しい寺院が見えてきた。
 ヒンズー教の聖地であるベナレスのすぐ近くにこの仏教の聖地があるというのは興味深かった。インドで生まれたはずであるこの仏教が、では何故、ヒンズー教のように国中に浸透しなかったのだろう。
 フランクがホテルの会議室でのレクチャーで言っていた言葉を思い出した。
「ミショナリー達にとってはインドは手強い国なんだよ。多神教にあまりにも慣れすぎているヒンズー教徒達にキリスト教を理解させるのは至難の業だ。アラーの神以外は一切受け付けないモスラムは、なおさらのことだ。」
 しかしここサールナートの仏教聖地を見渡すと、釈迦をひたすら慕って巨大なストゥーパを建て何世紀にも渡って礼拝してきた人々の「気」が満ちているのを感じる。インドは確かに釈迦の国なのだ。ここサールナートで仏教が生まれ、世界に羽根を広がっていったのだという実感が湧いてくる。
「土を盛り上げたもの」を意味するストゥーパは、後に「塔」と漢訳された。インドで生まれた仏教のシンボルが、その形を変えてチベットのパゴダ、ネパールのパゴダ、ビルマのパゴダ、タイ、中国の塔などと伝わり歩き、ついには日本の仏教寺院の五重塔や卒塔婆(そとうば)として広がっていったのだ。

 美しい花壇に囲まれた寺院の中に入る。広いドーム型の内部の壁いっぱいに釈迦の生涯を描いた大きな壁画が私達を包んだ。そこいら中がお香の香りで充満している。しかしここのお香はもう慣れてしまったヒンズーの寺院のそれとは少し違う。私の故郷の香りなのに気がついた。まさに仏教のお寺の香りなのである。
「この壁画は、戦前に日本の画家の手で描かれました。」
とガイドが説明する。巨大な壁画を眺めながら、私の心はなんとも言えない懐かしさで一杯になった。ガイドの説明なしでは、この壁画にある釈迦の生涯の意味がわからないアメリカの年配の女性達が不思議に思えた。彼女達はしかし時々質問をしながら熱心にガイドの説明に耳を傾けていた。まわりにこだまするガイドの声を背に、私は寺院の中の方へと進んだ。

 奥に仏像が祭ってある祭壇があり、その前にスリランカ人らしい女性の僧侶が一人座って寄付金を集めていた。私は彼女の前にあった箱にお金を入れた。彼女は1冊のノートを差し出して私に名前と住所を記帳するよう頼んだ。
私が「Japan」と書くと、「日本のどちらから?東京ですか?」と流暢な英語でにっこり笑って聞いてきた。
「いえ、もともと私は日本の北の方から来ました。仙台という町です。私にとってここは本当に意味のある場所です。私は禅、曹同宗の仏教のお寺で生まれ育ちました。」
 彼女は目を丸くして、嬉しそうに微笑むとこう言った。
「では、ここサールナートはあなた自身のルーツでもあるわけですね。ここでブッダが教えを説かなかったら仏教は生まれなかったし今のあなたはいなかったわけです。あなたがここに来られたのは本当にすばらしいことですね。あなたのルーツに出会えたのだから。」
 私は言葉を返すことができなかった。ここサールナートを私の「ルーツ」と表現するなどということは思いもよらないことだった。これまであたりまえのように見てきた故郷の寺の境内と僧衣を身にまとった父の姿が目に浮かんだ。胸の中に熱い塊のようなものがこみあげてきて、目の前にいる尼さんの顔がとたんに潤んできた。
 私は彼女から顔を背けて祭壇の反対側へ行くと、一番暗い場所を選んで、そこにひざまづいて合掌をしているふりをした。涙があとからあとから流れてきた。私はその涙にすっかり気が動転していた。まったく思いがけない感情だった。私は誰もここに来ないように祈った。少なくともこの涙が止まるまでは。ところが、ベナレスでの思いや旅の疲れも手伝って気が張り詰めていたのか、どんなに深呼吸をしても涙は止まらなかった。
「ノリコ!」
 祭壇の角からリバが顔を出した。私はバツが悪いのでその場で立ち上がり天井を向いて両手で顔を隠した。ほのかな香水の香りがしたと思うと、私は彼女にフワリと抱きしめられた。
「ノリコ、あなたがこんなに感動しているなんて嬉しいわ。その感動を私にも分けてちょうだい。」
と彼女は言って、両腕に力を込めた。私は涙でグショグショになった顔で、
「私は宗教のことでは、さんざん父に反抗してきたのよ。私、どうかしちゃったのよ。こんなところを父が見たら、きっと彼、私を指差して笑うと思うわ。」
と言い訳して彼女の肩に顔を埋めた。

 私は気恥ずかしかったので、グループと一緒に敷地のとなりにあるという考古学博物館には入らず、スリランカの寺院から出て、そのまま反対方向に歩いた。リバは博物館の前でやっていたバザールを見るのを楽しみにしていたのだが、「またどこかでチャンスがあるわ」と言って私の横について歩いた。この日のあまりの暑さに彼女はいつものジーンズをやめてピスタチオグリーンの涼しそうなパンジャビスーツを着ていた。その薄い布地から太陽の光線の加減で、彼女の引き締まった足が透けて見えた。紫外線に気を使う彼女は雨傘を日除け変わりにさして歩きながらそれを私の頭上に持ってきた。
「私達って二人とも感激屋ね。私もガンジス川を見た時、涙が止まらなかったわ。ノリコがせっかくビデオを向けてくれたのにあの時は本当にそれどころじゃなかったのよ。I'm sorry.」
「私もあなたにあやまろうと思ってたのよ。リバ、なんだかあの時のあなたのかけがえのない時をビデオなんかで邪魔しちゃったなって、、。」
「だって、ノリコ、あれは私が頼んだのよ。結局一人一人、何かのきっかけで色々な人生経験や秘密を刺激されたりすると心の中がまったく無防備になる瞬間ってあるのかもね。ノリコの場合はこの仏教の聖地を見て、そして私の場合は、、、。」
いつもなら強い南部なまりの英語で果てしないおしゃべりが始まるのだが、リバは突然だまりこんでしまった。

 どこも日陰がない芝生の中に赤いレンガの土台が見えてきた。私は傘の下にいるものの、容赦ないインドの熱風にサングラスをはずして汗を拭うと、持っていたミネラルウォーターをがぶ飲みした。どこへ行くにもこのミネラルウォーターを飲みながらでないと、たちまち熱射病にかかりそうになるのである。
 レンガの遺跡の上に、古代アショーカ王が建てたという寺院の石の円柱がその基部を残していた。この見渡す限りのレンガの土台を眺めても、恐らくそうとう大きかっただろうアショーカ王の寺院が、いったいどんな建物だったのか知る由もない。
「リバ、あなたは結婚してるの?」
 お互いの沈黙を破るように遺跡の上をあてもなく歩きながら私は口火を切った。
「ノリコ、私はもう40歳を過ぎているのよ。こんな魅力的な女性が一度や二度、結婚してなきゃおかしいじゃない?」
 彼女はおどけて言った。旅の最中、私は自分のことばかり話して、ちっとも彼女の私生活について聞いていなかったことに気がついた。彼女のおしゃべりはいつもどこでどんな物を買ったなどというたわいのない物ばかりだった。

 暑さに絶え切れなくなった私達は、釈迦の最初の説法の記念碑がある菩提樹の大木の下まで歩いて生暖かい石の上に腰をかけて涼んだ。悟りを開いた釈迦が、緑の葉を豊かに四方に広げたこの菩提樹の木陰に座って最初の教えを説いた。仏教の世界において菩提樹は釈迦を象徴する大切な木とされている。ここで最初の言葉となって生まれた仏教が後に枝別れをしていってチベット仏教になり、果ては日本の中でも様々な宗派へと変わっていったのだ。

 石の上に釈迦が言葉にしたという説法の一部が数ヵ国語で刻まれていた。これが世界の仏教の基の基とも言える言葉なのかもしれない。
「この世において怨は怨だけでは静まらない、怨を捨ててこそ静まる。これは不変の真理である」
「心は遠く走り独り動き形なくして胸にひそむ、この心を制する者は魔の束縛より免がれん」
 リバは、それを自分に言い聞かせるように読むと大きくため息をついた。
「私には娘が一人いるの。アリエール。いい名前でしょ?今15歳で本当に美人なのよ。でも彼女には父親がいないも同然なのよ。可愛そうなアリエール、、。私はとんでもない人と結婚しちゃったの。あんなに結婚相手は慎重に選ぼうと思ってたのに、、。私ぐらい結婚に夢を描いてた女はいないのよ。それなのに幸せだったのは最初の1年ぐらいだけ。最低の男よ。女遊び、暴力、アルコホーリック、男の悪い物を全部兼ね備えてた男だったわけ。それでも4年我慢したわ。別れた時は本当に清々した。彼はそれから1度だってアリエールに会いに来なかったわ。すぐに次の相手を探して結婚したのよ。彼は誰とだって長続きしない運命なのよ。心が病んでる人は他人に幸せを求めたって無理な話なのよ。彼は今4度目の結婚をしてるのよ。きっとそれだってあと1年と持たないわ。」
 彼女はそんなつらい話を信じられないくらい明るく単調に話した。その合間に、そばをインドの男が通りすぎると、ヒューっと口笛を鳴らしたので、私は彼女の気の毒な話に同情する余地もなかった。
「インドの男もネパールの男も、なんてハンサムなの!私カトマンズでネパールの男達を見た時つくづく思ったわ。離婚してからあまりにも長い間シングルで居すぎたって。」
 二人は一瞬顔を見合わせてクスクスと笑った。その時の私は、幼い頃インドの話をしてくれたという彼女の父親について好奇心で一杯だった。でもせっかく戻った明るい雰囲気をまた暗い質問で壊してしまいたくなかった。私の好奇心が彼女に伝わったのか、しばらく石に刻まれた釈迦の言葉を眺めた後、ミネラルウォーターをがぶ飲みして喉の方までこぼれた水を手で拭いながらリバが放心したように言った。
「怨を捨ててこそ静まる、、。ブッダの言う事はもっともだけど、どうしても怨みから逃れられないとしたらどうやって真の心の平和を得るの?」
「リバ、あなた何に対して怨みを感じているの?」
「私が怨みに感じていたのは、、世の中の輪廻そのものなのよ。ブッディストもヒンドゥーも人生を前世のカルマという見方をするんでしょ?もしそうなら私のカルマはもっと見近なものなのよ。私の人生がそのまま私の母の人生の繰り返しなの。だから私は母も別れた夫も私自身の人生もみんな怨みの対象になっていたわけ。少なくともインドへ来る前はね。」
「リバ、ちょっと待って。なんかとてもヘビーな話みたいだけど、私にはちょっと理解できない。」
 リバは肩をすくめると、「気にしないで。」と言って立ち上がろうとした。私の好奇心は極限に達していた。私は彼女のパンジャビの裾を引っぱり、まだ時間は充分にあるわと時計を見せてふたたび私の横に座らせた。
「ねえ、あなたは何故インドに来たの?亡くなったお父さんの霊を慰めるため?お父さんはインドが大好きな人だって言ってたわよね。」
「私にとっては最高の父だったのよ。父の影響で私もインドは憧れだった。 ドクター・ボンナムから『南アジアの聖地を巡る旅』の話を聞いた時、まるで亡くなった父の霊がドクター・ボンナムを通して私に話しかけているような不思議な感じがしたわ。だからすぐここへ来る決心をしたのよ。私の旅の目的は、そうね、、インドでガンジス川をこの目で見ることで、私の運命を素直に受け入れたかったから。この世には自分の力では変えられないどうしようもない輪廻が渦巻いていて、それがつらければつらいほど、逆らうのじゃなくて一緒に川のように流れていけば、きっとそのうち明るい方向に運命は変わって行くんだって、、。実際ベナレスで悟ったことを今言っているのよ。あの川を見て、まわりにいる不幸な人達を見たら、そう思ったの。父は私にとっては最高だった。でも母とは憎み合ってたの。そう。母にとっては最悪の夫だったのよ。気の強い妻の毒舌に言葉で返せなくて、最後には暴力で返す夫だったの。だからますます父は一人娘の私を母の代わりに愛したのよ。私はどっちに味方したらいいのかわからなくていつもつらい思いをして育ったわ。父がもう少し威厳のある人で、母がもう少し穏和な人だったらと何度も思った。
でも不思議よね。母のいやだった性格を私はそっくりいただいちゃったみたい。」
「リバ、お父さんは何故亡くなったの?」
 リバはとたんに大きくため息をつくと、近くを通った絢爛なゴールドのサリーをまとった美しい女性を見て、インドを出るまでにあんなサリーを買うわと言った。しかしいつもの陽気な彼女の顔は消えて重苦しい雰囲気が漂った。私はなぜか、彼女の一番つらい所を突いたような気がして今の質問をしなければよかったと思った。
「リバ、答えなくていいわ。暑いからそろそろ行きましょうか?皆が戻るまでバスの中にいましょうよ。きっとガンガン冷房が利いてるわよ。」
 私達は、スリランカの寺院を背になるべく並木道の日陰をつたって出口に向かって歩いた。リバが傘をさしてくれたので、私は彼女の肩に手をまわしてギュっと力を入れた。彼女は下を向いたまま、相変わらず軽い口調で言った。
「ノリコ、私の父はね、母に殺されたのよ。私が18の時だったわ。激しい口論のあと母を殴ろうとした父に向かって用意してたピストルで父の胸を打ち抜いたのよ。私はその第一目撃者ってわけ。もちろんすべて計画的殺人よ。彼女は長い間、このチャンスを待ってたのよ。その時、母には愛人がいたの。私は法廷に立たされて、嘘の証言をしたわ。母はれっきとした正当防衛で父に銃を向けたんだって。そりゃあもう、上手に演技してあげたわ。泣きたくもないのに無理して泣きじゃくりながらね。法廷の人達まで貰い泣きしてたわ。母は無実になった後、私を抱きしめて
さすがあなたはママの味方ねって言ったわ。私はあの時ほど母を憎んだことはなかった。でも真実を知っているのは私と母だけよ。真実を語って母を殺人者にしたところで父の霊が慰められるわけでもないわ。父はきっとそうなる運命だったのよ。世の中にはひどい巡り合わせってあるものなのよ。私はそう思って今まで生きてきたわ。母はめでたく愛人と結婚したけど、それから何年も会わなかった。彼女もそのほうが良かったみたい。」
 なんとも悲惨な話に私はなんと言えばいいのかわからなかった。私は呆然として彼女の顔を見つめながらゆっくりと歩いた。胸が押しつぶされそうな悲惨な話を淡々と話すことができるのは、この人生のトラウマを長い年月をかけて彼女なりに消化したからではないかと思った。

 門を出ると、とたんに私達は、物売り達に囲まれた。あちらからもこちらからも小さな安っぽい仏像などを持った男達が近寄って来る。一人の男が恐らくまがい物だろう大理石でできた象を差し出した。胴の部分が透かしになっていて、その中に小さな象がもう一頭見えた。
「あら、この象ったらちゃんとお腹の中にベビーを抱えてるわ。妊娠してる象なんて縁起がいいこと!」とリバは言うと、さっそく値段の交渉を始めた。どこからか蛇使いの笛の音が響いてくる。木陰で、ターバンを巻いた蛇使いが大蛇を首に巻いて、両手でつかんで頭の上に両腕を広げて見せるのが見えた。私は近づいて行って、彼の足元の篭の中にお金を投げ入れた。大蛇を首に巻いたまま、彼はお辞儀をして、「アリガトウ、マダム」と片言の日本語で言った。
 リバが駆け寄って来て、たった今買ったばかりの大理石の象を太陽に透かして嬉しそうに中の小象を見せてくれた。
「リバ、その昔、お釈迦様のお母様が白い象が脇腹から入ってくる夢を見たのよ。それで数日後に妊娠しているとわかったんですって。マリア様のようにバージンだったかどうかは定かじゃないけど、、。ネパールのルンビニーという所の花園の中で産気づいて、お釈迦様をお産みになったの。彼女は出産後に亡くなったんだけど、もしかしたら帝王切開でお釈迦様を産んだのではないかという説もあるのよ。ほら、その頃のインドは今みたいに消毒などというものはなかったのよ。要するに脇腹から入った象がまた脇腹から出たわけよ。だからお釈迦様は、産まれた時からもう母を失うという不幸を背負って成長したわけ。」
 私はたった今聞いた悲惨な話をちっとも気にしていないというふりをするために、少しばかり話題を逸らそうとした。リバは「インタレスティング!」と言いながらバスの方に向かって歩いた。中で昼寝をしていた運転手が私達に気がつくと慌てて外へ飛び出して、手を差し出してうやうやしく私達をバスに乗せた。冷房の利いたバスに二人は歓声を上げて並んで座るとため息をついて汗を拭った。
「リバ、仏教の根本的な教えはね。生きるということは苦であるということなのよ。罪とか罰とかそんなものとはまったく違うの。生きている以上、多かれ少なかれ人は苦しむのよ。それが人生の全半か後半かは一人一人違うらしいけど、人間としてのエゴや感情や感覚がある以上、様々な苦しみから逃れられない。お釈迦様が悟りを開いてから世界に教えたことは、その苦しみの最中に世の中を恨んでしまうか、自分の心の底を正直に見つめるかの別れ道なのよ。悲しみや苦しみを超えていかにして本当の自分に触れるか。真の幸せを味わうか。それが仏教の原点だと思うわ。」
 偉そうにお説教を始めた自分が急に恥ずかしくなった。私は誤解のないように付け加えた。
「そう言う私も本当はまったく本当の自分に触れてなんていないのよ。やっぱりエゴや不安の塊を抱えた普通の人間よ。この旅にだって、来れば少しは自分捜しになるかなあと思って参加したの。私が若い頃にあなたみたいな経験をしてたら今のあなたみたいに強くなってるかどうか、疑問だわ。」
 リバは心から感動したような目で私を見ると、この旅行に参加して良かったわと言った。
「私ね。母のような間違いを絶対したくない、するもんかという信念でいたのよ。母のように相手を殺したいほど憎んでしまうような悲惨な結婚をしないって。ところが私はやっぱり母と同じ間違いをおかしたのよ。ある夜、夜中の3時に夫がひどく酔って帰って来たわ。もちろん女と一緒だったのよ。私はソファに座って泣いていた。彼は居間に入ってくるなり私を見てこう言ったのよ。『バカヤロー!もうおまえの女々しいのはたくさんだ。男みたいにタマを持ってみろよ!』 私はとっさに立ち上がってクローゼットの中に隠してあった銃を持ち出して来て彼のこめかみに銃口をあてて言ったの。『それじゃあ、あんたにこのタマを打ち込んでやるわ!』って。そして引き金を引いた。ところが銃弾が入っていなかったの、Thank God!」
「ああ、リバ!こんなにひどい話、聞いたことないわ!本当にひどい話!」
 私は絶句して彼女を横から抱き締めた。彼女は目を大きく見開いて天井を向いていた。アメリカの銃社会の犠牲とでも言える話だと思った。生温い日本で、のほほんと暮らしている私には想像もつかない話だ。
 銃さえなければ、リバの父親は殺されなかっただろう。そして彼女も犯罪者と紙一重の所に身を置かなくてすんだのだと思うと、複雑な気持ちだった。
「ノリコ、こんな話を聞かせてごめんなさい。でもけっこう私って友達になると気軽にこんな話ができるのよ。私はセラピストなんて必要ないのよ。つらい話を気軽にしゃべるとそれがそんなにつらくもなくなるのよ。胸の中に秘めた話とかいうのが一番厄介よ。それで皆がまいっちゃって鬱病なんかになるってわけ。ノリコ、私がガンジス川で泣いたのは悲しかったからじゃないの。自分の夫を殺そうとした瞬間、母からの輪廻のようなものを感じて私は心のどこかで母を許したの。彼女が感じてた憎しみも初めて理解できたような気がした。同じ女としてね。でも父のことがずっとひかかってたの。彼はいったいなんのために殺されたんだろうって。そして、はたして彼は本当に私のことを愛していたのかって、、。それがずっと私のトラウマだったの。ガンジス川を見た瞬間、私は父の愛が今でも私の心の中で生きてるってわかったのよ。これまでの私は何かというと、この世を恨んでいたわ。不公平だとか、何故私だけとか言って悲劇のヒロインになるのは簡単よ。長い間、私もそうだった。でも不幸を通して、どこかで愛にも気付かないと、この不幸が今度は娘のアリエールにまで行ってしまう。それを食い止めるために父が私をここに導いて、そして気付かせてくれたのよ。ガンジス川で確かに父は私の横にいたの。私は本当に父の存在を肌で感じることができたのよ。あの時は、だから泣いていたの。」

 バスの扉が開いてグループが次々と乗り込んで来た。エリザベスは私達を見て「Where were you ?」と言うと、バザールで買ったばかりのシルクのスカーフを広げて見せた。リバは立ち上がって「ナイス!」と叫ぶと、今までの話をすっかり忘れてしまったかのようにスカーフの手触りを楽しんだり、彼女の象を見せたりしてはしゃいでいた。
 リバの楽しそうな横顔を見ながら私は今の話をぜひテープに録音したいと思った。
しかし南部なまりにコンプレックスを持っている彼女は恐らく拒否するだろうことはわかっていた。そしてたとえ彼女が承知してインタビューできたとしても、スピリチュアルな感動でいっぱいのここサールナートで得たのと同じインパクトは決して感じられないだろうと思った。

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