さすらい人幻想曲

第13章:マザー ジョディー    Mather Jodie

 10人程のグループでアシュラムの小型バスに乗り、霧雨の降る中をスワミ・ラマが建てたという病院へ向かった。私はエリザベス、リバとアンと一緒に町にパンジャビスーツを買いに行くか、それともロスやジェリー達と一緒にヒマラヤにある有名な洞窟を探検するか迷ったあげく、結局病院へのグループに加わることにした。
 バスの一番前の席には、黄の衣を着て小屋の中央に座って朝の儀式を行っていた女性が座った。
何となく近寄り難い、神妙で冷たい表情の彼女を「マザー・ジョディー」と呼ぶと私の隣に座ったロバートが教えてくれた。そんな呼び名に似合わないような、若そうで神秘的な魅力を持つ彼女は、リシケーシュのスワミ・ラマ・アシュラムに属しているわけではなく、神に通じることができる特別な力を持つ予言者としてインド中にある複数のアシュラムやヒンズーの寺の「お清め役」として駆け回っているという。それなりの修行を積んでおり、聖者の格を現わす黄の衣を着ることも許されている。つまり彼女は「巫女」のような役割を果たすのだ。私が朝にアシュラムで見た「火の儀式」を司っていたのも彼女である。古くから伝わるヒンズーの薬草の配合なども熟知しており、薬草や祈りという原始的方法で病人を癒すこともできるらしい。
 ロバートはベナレスを出発して以来、風邪をひいていつも咳込んでいたのだが、この日は爽快な顔をしていた。アシュラムに到着しても気分が優れずに寝込んでしまった彼の部屋に乾燥した葉っぱを持ったマザー・ジョディーが入って来て、その一枚を噛まずに飲み込むようにと言ったという。
「あの葉っぱが喉に張り付いて窒息するかと思ったよ。思わずミネラルウォーターに手を伸ばしたら彼女が僕の手を取って首を横に降ってそのまま飲み込めと言うんだ。とんでもない所へ来たと思ったよ。ミントの葉のような味だった。喉がスースーとした感じでね。その間ずっと彼女はマリア様のように微笑んで僕の手を握ってるんだ。不思議な感じだったよ。信じられないだろうけど、彼女が部屋を出てからほんの1〜2時間でこのとおりピンピンなんだよ。本当に驚いた。」

 ロバートは、 William College で外国から来る留学生のために英語の先生とカウンセラーとして働いている。私が学生だった頃は留学生のためにそんな特別な待遇などなかった。それだけアメリカ留学というのが盛んな時代になったのだろう。ちょうど私と同じくらいの初級のフランス語を話せたので、バスで隣に座ると二人でいつもフランス語会話の練習をした。赤毛でかなり大柄な彼は自分の太った体にコンプレックスを持っているようだった。その大柄な身体に似合わずロバートは柔らかなゆっくりとしたやさしい口調で話し、いつも穏やかに微笑みを見せていた。40代後半の彼は独身だがタイ人の男の子を養子として持っていた。
「ロバート、こうしてインドのスワミ・ラマが建てた病院を見学に行ったりヒンズー教の環境にどっぷり漬かってマザー・ジョディーから不思議な葉っぱをもらったりするのを牧師の息子として育ったあなたはどう受け止めてるの?別に意地悪な質問じゃないのよ。私がここで経験しているのもまったく驚くことばかりだもの。たとえば、日本で私が知っている仏教の世界とチベット仏教とでは天と地ほども違うわ。ヒンズー教なんてまるで別世界よ。でもどこか東洋思想同士という事でお互いに似通った所もあるような気がするの。ここに来てから何となく興味があるのよ。
 西洋の、それもクリスチャンの背景から来た私の仲間達は、ここからどんなインパクトを受けているのかって、、。」
「Ouh la la ! ノリコらしい質問だね。君はいつだって他の人に好奇でいっぱいの目を向ける。ノリコの隣に座る時は覚悟しなきゃといつも思うよ。Il faut faire attention.」
 彼はからかうように私を見て笑った。
「僕は確かに牧師の息子として育った。でも長い間キリスト教に背中を向けて生活してきた。なんとなく居心地が悪かったんだよ。どうしてもイエス・キリストに忠誠を誓うことができなかった。はっきり言って神なんてわずらわしい存在だったよ。本当につい最近までね。ただ、ノリコと同じように宗教家の家で育った以上、どうしても宗教を考えながら人生を過ごさざるを得ない。僕の場合はプロテスタントだけどね。ここに来て、チベットの寺院やブッダが説教した場所やヒンズーの神々を見てそれなりに感動しているうちに、初めて自分が本当に信じたい物がわかったような気がしているんだ。それからここ、リシケーシュに来て強く思うようになった。僕はキリスト教を背景に育ってきたわけだから、やはりキリスト教を通して真実を探っていくのが一番じゃないかってね。やっぱり僕には神との直接の会話の方が納得がいくような気がしているんだ。それが一番居心地がいい状態とでも言うのかな。僕はやっぱり無心論者にはなれない。かなり小心者だからね。何か大いなる存在が必要なんだよ。ハハハ!Tu me comprends?」

 バスは、遮断機が降りた線路の前に止まった。遮断機が降りていても気にせずにかなりの人が潜って通り抜けるのには驚いた。電車は長い間来なかった。その間にどこからともなく物売り達が現われ、大きいお盆の上に並べたココナッツの実や雨で濡れたバナナをバスの窓の所に振りかざして見せた。
 ロバートはしばらく考えてから話を続けた。
「ヒンズー教や仏教が、西洋の宗教とはかけ離れていてもそれぞれの宗教にそれぞれの真実があると思うんだ。ただ、伝えた人や場所や言葉や環境が決定的に違うだけなんじゃないかと思う。その決定的な違いとは、東洋の宗教が複数の神々を崇拝するのに対して、僕が育ったプロテスタントなんかは人間とただひとつの神との間で交す直接の契約みたいなもので成り立っていることかな?その途中にはイエス・キリストしかいない。」
 私達の後ろの席で会話を聞いていた若い宗教学の教授であるブライアンが突然身を乗り出して頭の上から言った。
「ヘイ、ノリコ、宗教の質問は専門家であるこの僕に聞いて欲しいな。」
 ロバートは、顔を赤くして照れ臭そうに笑うと、
「そのとおりさ、ノリコ、ブライアンなら東洋と西洋の宗教の違いぐらい難無く答えられるよ。彼の専門だからね。」と言った。
 ブライアンは私とロバートのイスの背に肘を置いて立ったまま、わざとせき払いをした。
「時間と背景的見解から言うと、一回だけの人生に対して何度も巡ってくる人生。個人的見解から言うと一度だけのチャンスに対してカルマを解くためにある数回のチャンス。それが基本的な違いかな?」
「それって輪廻転生を信じるか信じないかということ?ねえ、あなたは宗教学の教授だけど、個人的に輪廻転生を信じる人?」
「No. 罪やカルマからの解脱だとか、人生の修行のための転生だとか死後の世界のたぐいを僕はすべて信じないね。信じる理由もない。」
 ロバートは、「Oh, boy !」と言ってまた大声で笑うと、「ずいぶん深刻な話だね。皆スワミ・ラマにかきまわされたかな?」と言った。そしてちょっと真顔になると続けて言った。
「僕にとってこの人生の後にまた再びチャンスが巡ってくるというコンセプトは、とても魅力的だよ。ただ、今ある試練の人生からのエスケープとして輪廻転生を信じるのには抵抗がある。僕は死にたくないからね。ハハハ!また新しい人生をやり直せるという思想は魅力的だけど、今のこの人生の思い出が次の人生に何も残らないとしたら、そのどこに永遠の輪廻という糸を見つけたらいいのかわからない。」
「それが西洋人であるという証拠だよ。輪廻転生を分析して信じる信じないと決める。ここの人々は分析なんかしないからね。ただひたすらそれを信じて宗教をやる。生活の中にすっかり溶け込んでいるんだ。宗教学に携わる僕がインドやチベットに来て感動するのは、そんな人々の姿さ。ただ僕自身は信じない。宗教学や哲学なんてものは深く研究すればするほど、神は、はたして人間が創造した存在なのか、とか何故人間に宗教が必要か、なんていう客観的な問題に集中するようになって、なおさら現実的なことしか信じなくなってしまうのかもしれない。僕は別に輪廻だのカルマだのを信じなくても平和に人生をやってるし宗教学も教えられる。妻のリンダとだってうまくいってるし、子供達も元気に育ってるよ。ただそれだけのことさ。」
「私の知っている限り、西洋には、分析をせずに輪廻転生の思想を繁栄させた哲学家もいるわ。エドガー・ケイシーもそうだし、ルドルフ・シュタイナーというドイツにいた思想家だってそうよ。あの人達は輪廻転生を信じていたというよりそれを知っていたのよ。私も輪廻転生は信じたい方だわ。でもブッダは輪廻転生を教えなかったらしい。このたぐいの質問には答えなかったということを聞いたわ。少なくとも禅の教えではね。父が昔そんなことを言ってたわ。彼は、人は死んだら塵に戻るんだってよく言ってた。私にとっては、空しい表現だったわ。塵に戻ってしまうのなら何のために勉強するんだろうなんてね。父は人生一度切りだからこそ精一杯生きるんだと言った。でも今にして思うと、それだって本当に禅が教えるとするところなのか、あるいは父が勝手に信じていたことなのかわからないけどね。私にはどういうわけか、ブッダが輪廻転生を説かないで、ただ『生きることは苦である』と言ったなんて信じられないのよ。」
「この世の中には輪廻転生があるという派とないという派に分かれるよ。もちろんイエスかノーしか答えようがない問題だからね。あるという派は、証拠になるような本まで何百冊と出している。宇宙人の存在の証明みたいに怪しい本ばかりだけどね。精神医療の世界だって近頃は、前世療法なるものまである。要するに催眠術で暗示にかけて前世を思い出させるやつだよ。ブッダが輪廻転生を説いたという派もいれば説かなかったという派もいる。キリスト教だって輪廻転生をほのめかすような話がかなり旧訳聖書に書かれているよ。輪廻転生がないという説よりもあるという説の方が多いのが今の現象かもしれない。信じる人を僕は馬鹿にしてはいないよ。来世があると思った方が人生楽しいだろうしね。今の配偶者とは前世から一緒になる運命だったと思った方が離婚だって減るかもしれない。まして、チベット仏教やヒンズー教では輪廻転生が重要な教えなんだからね。それなしには考えられない。」

 バスの前を騒音と共に今にも壊れそうな色の剥げた電車が通った。ドアのない車両の入り口に、外にはみ出したまま何人もの人が家畜のようにしがみついていた。バスはゆっくりと動き始めた。
 ブライアンも、頭を引っ込めて自分の席に座った。私は複雑な気持ちのままロバートと雑談を続けた。
「僕と東洋との繋がりも考えてみると本当に不思議なんだよ。13年前までは、はっきり言って東洋に興味などまるで持っていなかった。どうせ『聖地を巡る旅』に出かけるのならイスラエルの方がよっぽど僕の興味の範囲内に入っていた。東洋との繋がりは、今考えてみるとやはり運命的だったような気がするんだ。」
「13年前にどんなきっかけで東洋に目が向くようになったの? Pourquoi?」
 彼と雑談する時は、フランス語を使える所にできるだけはめ込む。それでお互いのフランス語の練習をする。それが私と彼の会話のしきたりみたいになってしまった。
「13年前にピースコアの一員として途上国に行くチャンスを手に入れたんだ。J'ai recu la chance. アンケートが送られて来て、行きたい国の名前を書く所に第一希望としてアフリカの国、第二希望に南アメリカの国と書いた。行きたくない所はアジアだと書いた。数ヵ月過ぎた頃にタイに行ってくれという依頼が来たんだ。その頃は待ちくたびれていたので、どこでも望まれる所に行こうと思った。C'est d'accord avec moi. それでタイに英語の先生として派遣されて行った。それ以来タイでの人生が僕のすべてになってしまったんだ。ハハハ!信じられるかい?人生の最初の35年間、まったく関係のなかったアジアが過去13年間を通して僕の生活のすべてになってしまった。アジアへの興味だけじゃないよ。現にこうしてタイ人の息子までいるんだからね。彼は18歳でアメリカに来た。どうしてもアメリカに永住したいと言うんで、養子にする決心をしたんだ。どうせ、家族もいないし、これから誰かに会って結婚するかどうかだって疑わしいからね。彼と一緒の生活も悪くないと思った。18歳の彼の中味はタイ人そのものなんだよ。考え方、生活のすべてがね。その上に彼は仏教徒なんだ。それ以来彼を通してますますアジアに触れているんだよ。 C'est vraiment interessant, hein?」

 本降りになってきた雨の中、バスは『ヒマラヤ・ホスピタル・トラスト』という名の病院に到着した。かなり広い敷地だった。建物の一部は総合病院で、残りは医科大学として使われている。ヒマラヤの山々をバックにした病院としては理想的な美しい敷地内には農地や牧場まであった。
 しかし病院の内部は殺風景で、日本で見る物と大した違いはなかった。待合室にはたくさんの病人が順番待ちをしており、日本の病院と同じような消毒剤の匂いがしていた。
 それでもガイドの話によると、ここでは西洋の技術を用いた治療の仕方と、人間の自然治癒力を用いた古代インドから伝わるアーユルヴェーダと言われる治療方があるらしい。スワミ・ラマの医学に対するビジョンは、近代と古代の技術を合体させて、医療技術と治癒力を高めることだと言う。要するに科学と霊性の合体である。
 アーユルヴェーダをマスターするには、数々の薬草などを熟知するのはもちろんのこと、人間の体のエネルギーの通り道であるすべてのチャクラ、人の血液の傾向、その上に占星術まで勉強しなければならない。フランクの希望で、アーユルヴェーダ研究室なる所を色々と見せてもらったのだが、部屋一杯にある薬草の瓶やチャクラの図や星座の図を見ても、私達にはなかなか理解できない。病院のスタッフの説明もむずかしすぎた。聞いたこともない単語が次々と彼の口から飛び出した。何年も勉強しても熟知するのはむずかしいのだから数時間で理解しようとする私達が甘いのかもしれない。
「キリスト教のことをまったく知らない奴に対して『三身一体』について10分で説明するようなものだよ。」とブライアンが言った。

 敷地内には「スワミ・ラマ・センター」と呼ばれる白い建物があった。最後に私達はそこに通されて紅茶を飲んだ。建物の中はいくつかのオフィスに分かれており、スワミ・ラマのパネルが所狭しと飾られていた。
 私達はいささか白けた顔で、壁中にディスプレイーされたパネルの写真を眺めながらイスに座って紅茶をすすった。
 白いサリーを着たアメリカ人の女性が部屋に入って来て私達に病院に関するパンフレットを渡して歩いた。丸眼鏡をかけ、グレイの髪を無造作に肩までのばし、いかにも真面目そうな青白い顔の彼女にサリーは、わざとらしく、アンバランスに見えた。
 パンフレットの表紙にも、スワミ・ラマの写真があり、病院の説明と一緒に彼が説いたという健康についての数々の教えが書かれてあった。
「人にはすべて治癒力が備わっています。そのエネルギーは、何からも決して邪魔されることなくそれぞれの内部を流れています。治癒力を発揮するのに必要なエッセンスは、無我、愛、ダイナミックな意志、そして自分の内部に存在する神への信仰です。」
「宇宙全体の一部である人間の体は、次のような霊的存在でできています。体、呼吸、感覚、心、そして潜在意識です。あなたはこのすべてのレベルにおいて、自己を研究し、自己をより深く知るように努力しなければならないのです。それは単に体の調子の善し悪しだけのレベルではなく、心と魂においてのレベルです。」
「心身共に健康であるということの基本は、人生の目的を理解することができ、その目的に向かってどのように進んで行けばいいのかが理解できるということです。この理解がないと、人はいつも空虚感や自己嫌悪、不満足という状態に陥りやすくなります。」

 サリーをまとったアメリカ人の女性が、スワミ・ラマについて説明を始めた。彼の生い立ちなどはアシュラムで聞いたのと同じだったが、スワミ・ラマの「奇蹟」の科学的証明に重点をおいているのが気になった。
「スワミは体の体温も自由自在に変えることができました。それも科学的に証明されています。たとえば自分の手の甲の2ヵ所を5度近くも変えたこともあります。どうしたらそんな事ができるのでしょうかという問いに対して、彼は『だってこの手は私の手だろう?』と答えられました。」
 ブライアンが質問した。
「スワミ・ラマや南インドにいるサイババなど、インドには超人的な神の化身とも言える聖人が存在することは知られているところです。でも何故、それぞれの奇蹟を科学的に証明する必要があるのでしょう?」
 ブライアンはできるだけ質問に失礼がないように努めているのがわかった。本当はもっと鋭いコメントをしたいはずだった。細い黒縁の眼鏡をかけたその女性はちょっと上目使いに彼を見て言った。
「科学的に証明することが一番スワミの偉大さを世界に知らせることのできる近道になるからです。」
 私にはますます解らなかった。科学的に奇蹟を証明することで、なぜスワミの偉大さを証明することになるのだろう?普通の人間にはできない芸当を種明かしなしでできるのが、その人を偉大な存在に仕立て上げられることになるのだろうか?

 雨が上がった昼下がり、帰りのバスに乗りながらフランクが私に言った。
「ノリコ、イエス・キリストみたいにブッダが奇蹟を起こしたとかの記述はあるのかね?」
 その時、私はエリザベスと一緒にパンジャビスーツを買いに行けば良かったと後悔していた。私はフーっとため息をついて
「さあ、ブッダの奇蹟の話は聞いたことがないわ。」
と言った。フランクの妻のジャネットは旅行中の無理が祟って少しずつ膝を痛めてしまい、フランクの腕にしがみつきながらつらそうに歩いていた。彼女はホトホト疲れきった顔をして言った。
「色々と見せてもらって勉強にはなったけど、私はもともと病院に漂う『気』が好きではないのよ。それがスワミ・ラマの病院であろうと、どこであろうと気分が憂鬱になるのは一緒よ。」
 フランクが付け加えた。
「科学から遠ざかろうとしている東洋の哲学が、結局科学の力で物事を証明しようとする。私にはそれが不可解だ。それはそうと、アシュラムに戻る前にマザー・ジョディーが、このあたりでは一番のベジタリアンインド料理の店に案内してくれるそうだ。それだけでも来てよかったと思うようなすばらしいレストランだそうだよ。せいぜいそこでスワミ・ラマの奇蹟でも祝おうじゃないか。」
 フランクの旅のリーダーとしての気配りが伝わってきて、私は大げさに喜んで見せた。そうすることが私からの彼への気配りだった。実際ひどく空腹だった。
 バスの中で、マザー・ジョディーが携帯電話を使ってレストランに予約を入れていた。神秘の力を持つという彼女が携帯電話で話をしている姿が、やはり私には不思議に見えた。

 その日、アシュラムにある小屋で夕食前の「火の礼拝」をグループ全員が必ず見に来るようにとのフランクからの命令があった。朝夕に行われるこの礼拝はヒンズー教徒にとって大きな意味を持つ営みなので、全員が見ておかなければ、せっかくこのアシュラムを訪れた意味がないと判断したのだろう。しかしフランクの心配には及ばなかった。朝な夕なに小屋から聞こえてくるマントラの神秘の響きにグループの一人一人が少なからず心を動かされていたからだ。皆がこの礼拝にはぜひとも出席してみたかったのだ。
 小屋は狭いので私達20人のグループは、5〜6人づつ分かれて入った。儀式を営むマザー・ジョディーの横にシャシクマールが座って最後まで熱心に内容を説明してくれた。
 私は、できるだけマザー・ジョディーの近くに座って背中を伸ばして瞑想する時の姿勢で座った。小屋の中央の囲炉裏の中で、大きな丸太が炎を上げて燃えていた。
 そこにマザー・ジョディーが祈りながら油を注いだり、ハーブやスパイスを投げ入れている。そこはまるでサウナ風呂のような暑さだった。座ったとたんに額から頬へ、背中から腰の方へと汗が流れていくのを感じた。
 マザー・ジョディーは頭から黄色い布を暑苦しそうにかぶり、目をつぶったまま、右手に菩提樹の実をつなげた長いネックレスような物を持ち、親指と人さし指で、そのひとつひとつの実をなぞりながら数えるようなしぐさをしている。彼女の神秘的で浅黒い顔には汗をかいているような様子がない。
 マザー・ジョディーからわずかに後ろに下がった所に座っていたシャシクマールがさっそく儀式の説明を始めた。
「人間には3つの悪魔が住んでいると私達は考えます。一つ目は、怠惰心による物、二つ目は、欲による物、三つ目は邪魔や破壊による物です。それらを超越した所に、『サトヴァ』と呼ぶ純粋な意識があります。人間は常に自分の意識をよりピュアな所へと向上させていかなければなりません。それは瞑想を通して可能だと私達は考えます。ここに火と、『ギー』と呼ばれる油と、薬草やハーブを混ぜた物があります。彼女がギーを火の中に注ぐ時、『スワハ』というマントラを唱えます。スワハとは、ヒンズーの世界では、火の神の妻の名前です。そしてスワハとは、マグネット、つまり磁性を意味します。この磁性と、火が象徴するエネルギーが一緒になって『活動』が生じます。薬草は潜在意識、スパイスやハーブは感覚を通した外の世界を意味し、それらを火の中に入れると、そこから出る煙が、祈りのメッセンジャーとなって天まで登り、神へと通じていきます。神はそしてあなたの前に現われ、あなたに恵みを下さると私達は考えます。ヒンズーの神々を象徴するマントラを唱えた後、最後に『ソーハム』という言葉を繰り返して唱えます。ソーハムとは我こそが神なり、I am God という意味です。」
 これをすっかり理解するには、もっと深い勉強が必要なのだろうが、シャシクマールの声は、美しいインドの詩を読んでいるように心地良く私の耳へと入ってきた。
 目を閉じた私の顔は、メラメラと燃える火で焼けるように暑く、煙になって舞い上がるスパイスやハーブの強すぎるほどの香りが、私の全身をしびれさせた。

 誰かがふと私の左手を握った。私は驚いて目を開けた。マザー・ジョディーが私の手の平に菩提樹の実でできた数珠を乗せ、手を握らせると両方の手で私の左手をそっと包んで握った。それが何を意味するのか解らなかった。このあとに数珠を返さなければいけないのかどうか一瞬迷って彼女の目を見た。
 マザー・ジョディーは、私を近くに引き寄せると、私の髪を耳の後ろにそっとかけて、ゆっくりと口を近づけてきた。彼女の唇が私の耳タブに触れるのを感じた。
「これを右手首にいつもかけておきなさい。今夜8時にここに戻っていらっしゃい。」と彼女は、柔らかくきれいな英語でこう囁いた。

 数珠を受け取ったのは、20人のグループの中でたった5人だったとわかったのは夕食の時である。私とエリザベス、ロスとマーク、そしてドクター・ボンナムだ。
 私とエリザベスにとっては実に好奇心をそそられる出来事だった。何故私達が選ばれて再度アシュラムの礼拝小屋に招かれることになったのか、どんなに考えてもわからなかった。それも一人一人少しずつ招かれた時間がずれていた。エリザベスが夕食後すぐの一番早い時間だったので、食事も喉を通らないくらい不安がっていた。
「はっきり言って気味が悪いわ。私ってすごく単純明解で何でも信じやすい顔をしてるから魔法をかけられて、スワミ・ラマ教にでも洗脳されちゃうのかしら?ノリコだってきっとここの教えを日本に広めるようになんて命令されるかもしれないわよ。催眠術にかけられるかも。」
 ドクター・ボンナムに聞いてみた。口数の少ない彼は、ただ肩をすくめて
「5人共、ラッキーな存在という見方が一番理想的かな?」と言った。

 8時になった。雨の予感がする湿った空気の匂いを嗅ぎながら小屋へ向かって歩いた。薪が燃える匂いが強くなると共に、暗闇の中、小屋の窓から薄灯りが何本かの細長い筋になって漏れているのが見えた。ドアがない小屋の入り口に立って中の様子を伺った。燃えさかる火の向こうにマザー・ジョディーが座って目をつぶって祈りを捧げているのが見えた。火の右側にはロスが座って、固く目を閉じて深い瞑想に入っている様だった。私はどうしたらいいのかわからず、少し後退りをしてドアの外で待っていた。
 マザー・ジョディーは私に気がつくと、手招きをして中にはいるよう促した。私は入り口で合掌してからサンダルを脱いで中に入り、火をはさんでロスの反対側に瞑想の時のように足を組んで座った。ロスは、まるで私が入って来たのに気がつかないというように、目を閉じたままトランス状態のような顔をしていた。彼は夕方の礼拝でマザー・ジョディーがしたように自分の数珠を右手で胸の前に持ち、親指と人さし指で菩提樹の実のひとつひとつをなぞるように動かしていた。私も右手首から数珠をはずし、彼と同じ仕草をして目をつぶって瞑想に入った。しばらく3人共無言だった。しかしこれからの事が気になってどうしても集中できない私は時々薄目を開けて回りの様子を伺った。
 長い間、そこに座っていたのだろうか?ロスの頬や顎から汗が滴り落ち、柔らかなブロンドの髪はしっとりと湿り、白いTシャツが胸に張り付いて濡れていた。マザー・ジョディーは、夕方からずっとこの暑い小屋に座っていたのだろうか?しかしやはり彼女の冷たそうな横顔は、汗の形跡などなく、やけにすっきりしていた。
 燃え盛る火の向こうで、こんなにも深く瞑想しているロスが私には意外に思えた。
それと同時に、そんな彼に対してこれまでにないくらいの強い好感が湧いてくるのを感じた。彼の汗で光る表情につい見とれてしまう熱い感情を振り切るように私も瞑想に集中するように努めた。

 どのくらい時間がたっただろう?喉から、首から、汗が流れて私のシャツを濡らしていった。時々シャツの袖で顔の汗を拭いながら座り続けた。パチパチと燃える火の熱が体中の水分を吸い取っていくようで、軽いめまいを感じる。組んだ両膝が痛み始めた。もう限界だと思った時、マザー・ジョディーが静かに口を開いた。
「今日、私はちょうど20本の数珠を用意していました。でもあなた方を含めた5人を選びました。神がそうするように私に伝えたからです。あなた方はここに偶然向かい合って座っているのではありません。この旅をしているのも、このアシュラムを訪れたのも決して偶然ではないのです。」
 彼女はゆっくりと、数珠を握ったままのロスの手を取って言った。
「日本からはるばる来たこの女性を覚えていませんか?あなたはこの女性を何百年もの間、探していたのですよ。」
 窓の外で大粒の雨が降り始めた。それはすぐに、まるでスコールのような激しい雨に変わった。小屋全体が突然激しく叩き付ける雨音に包まれた。
 私は突然マザー・ジョディーが発した言葉が理解できずに目を大きく見開いて炎の向こうのロスを見た。心臓がやけに速く動いていた。ロスも戸惑ったような顔で、火の向こうから私の目をじっと見つめていた。
 マザー・ジョディーは、そんな曖昧なせりふを発した後、それに対して何の説明もなしに、神妙な顔で目をつぶるとこう言った。
「あなた方のためにこれからマントラを唱えます。あなた方は心の中で『ソーハム』、I am God.と唱え続けなさい。」
 彼女は長い銀色の杓子で火の中にもう一度油を注ぐと、ゆっくりとマントラを唱え始めた。パチパチという音と共に赤い炎が半ば天井近くまで燃え上がった。スパイスが燃える匂いでむせ返りそうだ。炎の向こう側でロスが、額から頬に流れてくる汗も拭わずに放心したような潤んだ目で私を見つめ続けていた。私は彼の強い視線に戸惑って、思わず咳払いをすると、足を組み直して姿勢を整えて目を閉じた。「ソーハム、ソーハム、ソーハム」と口だけを動かして唱え続けるのに意識を集中させようと努力した。
 マザー・ジョディーの声が大きくなった。宇宙に届く呪文のような彼女のマントラの響きが私の頭の中を駆け巡った。次の瞬間、窓の外に閃光が走り、頭の上でバリバリバリという耳が裂けるような音で雷が鳴り響いた。その音に腹綿までもが揺さぶられるのを感じて私は全身をビクリとさせた。小さい小屋の天井の角にあった4つの電球が突然フっと消えて、あたりは薪が燃える赤紫色の炎の灯りだけになった。雷は続けて3回ほど鳴った。恐ろしくて鳥肌が立った。私は目をしっかりと閉じてマントラを唱え続けた。
 しばらくして薄目を開けると火の向こうでマザー・ジョディーが小さな声でロスに話をしていた。時折ロスの背後にある窓から稲妻の強い光が私のまぶたまの中を真っ白にした。
 再び目を開けると、降りしきる雨の中に出て行くロスの後姿が見えた。

 マザー・ジョディーは私にもっと近くに寄るようにと言った。
「あなたに夫と子供はありますか?」
と私に質問した。私は結婚していることと、夫と子供達の年を言った。
「あなたの夫と子供は日本にいるのですか?」
「はい」
「あなたは一人でここへ来たのですね。」
「はい」
「あなたは夫を愛していますか?」
「...........愛していると思います。」
「それではあなたの夫は?彼はあなたを愛していますか?」
 私はその問に答えられなかった。しばらく考えてから言った。
「わかりません。」
 私の目尻にうっすらと涙がにじんだ。
マザー・ジョディーはもっと近くへと私を促した。私は彼女の衣に触れるほどの所に前進した。
「結婚している女性である以上、あなたに言っておかなければならないことがあります。男は時々身勝手な行動をしたり、わがままななことを言う存在かもしれません。あなたはどんな時でも許すという能力を身につけなければいけません。そして無条件に人を愛するという能力は女性の特権だということを忘れてはいけません。これからあなたがどんな選択をしようと、純粋な愛以外の理由で行ってはいけません。あなたが日本へ戻った後、再びあなた方夫婦の愛を取り戻す自信はありますか?」
 私は答えられなかった。頭の中が混乱していた。いったい私は夫から何を求めているのだろう?私に純粋に人を愛する能力が、はたしてあるのだろうか?それよりもいったい私の人生の目的とは何なのだろう?
「心身共に健康であるということは、人生の目的を理解することができ、その目的に向かってどのように進んで行けばいいのかが理解できるということです。この理解がないと、人はいつも空虚感や自己嫌悪、不満足という状態に陥りやすくなります。」
 ヒマラヤ・ホスピタルでスワミ・ラマが残したというこの言葉を読んだ時、心にわずかな痛みを感じたのを思い出した。
 マザー・ジョディーの前で私は突然泣き出してしまった。私と夫の関係が絶望的に思えたからだ。自分の人生すべてが情けなく感じた。何よりも私は人生に迷っていた。心の中から湧き出て来る怪物のような焦りをどうすればいいのかわからなかった。そしてこのマザー・ジョディーに私のすべてを見透かされているような、実に無防備な気持ちでいた。
「私をあなたの母親だと思って思う存分泣きなさい。My child、あなたの魂は共鳴してくれる他の魂を必死で探しているのです。あなたは生きることにとても忠実です。その時その時を精一杯生きています。だから妥協ができずにあなたの魂は迷うのです。確たる道をいつも求めているのです。私はあなたのために毎日祈っています。だから何事も迷わず、心の赴くままに生きなさい。ひらめきを大切にしなさい。あとは神々があなたについています。」
 マザー・ジョディーの黄の衣は強いハーブの匂いがした。彼女に力一杯抱きしめられた私は赤ん坊のように泣き続けた。外では雨音がいつの間にかやんでいた。

 私はマザー・ジョディーの胸から顔を離して、「I'm OK, now.」と言って立ち上がった。入り口の外の暗闇にドクター・ボンナムとスザンヌが立っていた。マザー・ジョディーは彼らに中に入るように手招きした。
 私はまだ涙でグショグショの顔をしていた。泣いているところを見られたかもしれないと思うと気恥ずかしかった。ドクター・ボンナムはマザー・ジョディーにスザンヌを紹介して、
「できれば彼女と私の将来のために恵みをいただきたいのです。」
と言った。マザー・ジョディーは「もちろんですとも。」と微笑んで言うと、二人に並んで座るようにと言った。ドクター・ボンナムはスザンヌと並んで囲炉裏の前に座ると、私の顔を見上げて心配そうな顔でわずかに微笑んで見せた。 私は「Good night !」と言うと、うつむいたままそそくさとサンダルをはいた。
知らないうちに小屋の中の電気もついていた。マザー・ジョディーはドクター・ボンナムの左手とスザンヌの右手を握らせて、そこに数珠をからめていた。マザー・ジョディーに手を差し出している二人は本当に幸せそうだった。まるでヒンズーの結婚式のようなほのぼのとした光景を背に、あちらこちらの木の枝から滴る水の音を聞きながら洪水のようになった砂利道の上をバシャバシャと音をたてて、部屋に戻った。

 網戸を開けると、ベッドに横になっていたアンが読んでいた本を放り投げて起き上がって、興奮した声で言った。
「How was it ? ノリコ、あなた目が真っ赤よ。何があったの?」
 体中汗にまみれ、顔が涙のあとでグショグショになって帰って来た私は、恐らく拷問でも受けたように見えたのだろう。私はまだ放心した声であとで話すわと言ってシャワー室に入った。
 シャワーを浴びて出てくると、いつの間にか私のベッドにエリザベスとリバが座って待っていた。エリザベスが意外に晴れ晴れとした夢見心地な顔をして言った。
「今夜は火の礼拝があったから、キラードッグを離す時間を一時間伸ばしたらしいわ。ロスとマークが屋上で待ってるわ。ノリコの話を聞きたいって。」
「Oh, good!私、これから絶対に寝られそうにないもの。すぐ行くから待ってて。」
 リバがドアを開けながら不満を隠せない顔で振り向いて言った。
「何故私が呼ばれなかったのかしら?この中でスピリチュアルな経験を求めているのは、この私なのに、完全に不公平だわ。」
 この時ほどお酒が飲みたいと思った夜はなかった。このどうしようもない興奮から覚めるにはそれしかない。精神を高めるためには、私はよっぽど長い間、ここにとどまって修行する必要がありそうだ。
 私は着替えて濡れた髪を後に束ねてクリップでとめて簡単に口紅をひいた。アンが私以上に興奮した顔でついて来た。
 まだ雨に濡れたアシュラムの暗い屋上の柵に背中をもたれて、ミネラルウォーターのボトルを手にロスとマークが話しをしていた。ロスは私を見ると照れ臭そうな顔をした。私も同じだった。
「あなたはこの女性を何百年もの間探していたのですよ。」とマザー・ジョディーが言った不可解な言葉が妙に心に引っかかって、まるでロスと二人で何か秘密を共有してしまったように心臓がドキドキした。しかし私達はその事に関してお互いに何も言わなかった。
 エリザベスとマークは、瞑想の後、それぞれ近いうちに素晴しい伴侶に出会い、幸福な結婚をするだろうと予言されたと言った。エリザベスはそれをとても喜んでいた。
「ハンサムで力強い男性が近いうちに私の前に現われると言ってたわ。」
 しかしまだ22歳の学生であるマークには大きなお世話と思うような予言だったらしい。
「はっきり言ってあと10年は結婚したいと思わないね。もう少し現実的なアドバイスが欲しかった。それよりあそこは暑くて、いつになったら解放されるかって、そればかり考えていたよ。」
 ロスは、小屋から出る前に今彼が勉強している内容について色々と聞かれたらしい。そのことについて別に何のコメントもなく、ただ、「それはすばらしい」としか言われなかったらしい。どう考えても私のストーリーが一番ドラマチックだ。あるいは、4人の中で、その時の私が一番人生に迷いを感じていたのかもしれない。

 私はそこで、ロスが小屋を出たあと、どんな展開があったのかを一部始終話した。
当然、私と夫との間の歯車がどこかで狂ってしまったことも話した。
 リバが言った。
「ノリコの感じていることは本当に単なる人生の迷いよ。私の地獄のような離婚の経験から見ると、まだまだ希望があるように感じるわ。マザー・ジョディーの言うように自分の納得する人生をやればいいのよ。」
 本当にその通りだった。リバとアンのライフストーリーに比べたら、まるで思春期のようにあやふやで幼稚な私の人生の迷いだった。
 私達4人はその夜から旅の終わりまでマザー・ジョディーからもらった菩提樹の実の数珠を右手首から、寝る時以外は片時も外さなかった。それを外してしまうことで、ヒンズーの神々からの恵みが消えてしまうような気がしていたのである。

章を閉じる