さすらい人幻想曲

第14章:森の寺院    Hindu Temple

 四日目の朝にリシケーシュを出発して半日程トレッキングをして、ケダルナートというヒマラヤのはるか高地にある聖地のバンガローに宿泊するはずだった。ところが、ケダルナート方面に通じる道路は、相変わらず大雨による土砂崩れのために封鎖されたままだった。しかたがないので、その日はもう一泊アシュラムに留まって次の日、19世紀にイギリス人の避暑地として賑わったという高地の町、ムスーリーを通ってリシケーシュからさらに奥深い、ガンガーの源により近いハリドワールという町に向かうということになった。
 トレッキングは、体力のない人のためにポニーが用意されているというものの、それが中止になった事で、疲労の色が隠せなくなった年配の女性達はホっとしたようだ。しかしケダルナートまでのトレッキングが旅のハイライトだと楽しみにしていた若い学生達には、いささか残酷なスケジュールの変更だった事は言うまでもない。

 アンは予定の変更に歓声を上げてバルコニーに出ると、しまいかけていた水彩画の道具を再び取り出して、張り切って色を作り始めた。私達のベッドの上に、完成したばかりの幾分湿った水彩画が次々と並べられていった。すでに思い出になってしまったチベット、ネパール、そしてインドの数々の風景が、淡い色彩で画用紙の中に納められている。自分の目から入って来る旅の感動と情熱を、そのまま絵やフォトグラフィーで表現できるアンとエリザベスがつくづく羨ましいと思った。

 私はエリザベスとリバに連れられて、リシケーシュの町に出かけた。町でとても安くパンジャビスーツを仕立てることができて、次の日の朝まで届けてくれると言うのである。エリザベスとリバは前の日に作った涼しそうな淡い色のパンジャビスーツを着ていた。
「あなた達、これまでにいったいもう何着買ったの?」
と聞いたらリバが、
「月曜日から日曜日まで、少なくとも一日に一着分づつよ。それから朝夕の着替えの分もあるわ。」
と答えた。
 オートリクシャーに乗り、3人で風に髪をなびかせながらキャーキャーと歓声を上げた。運転していた男が、浮かれてふざけ合っている私達を不思議そうに振り向いては見ていた。ほとんど舗装されていない埃だらけのガタガタ道にも慣れてしまった。オートリクシャーが道にある穴の上をスピードも落とさずに走るたびに腰が空中に飛び上がった。まるで、遊園地の乗り物にでも乗ったように私達は悲鳴を上げては、お腹をかかえて笑った。
 ひなびたリシケーシュの町を歩く。道端にしゃがんでチャパティーやとうもろこしを焼いている男や女が、こうばしい煙のむこうから私達に好奇の目を向ける。特に町の人々にとってパンジャビスーツを着た美しい西洋女性のエリザベスとリバは、とても魅力的に見えるらしい。彼女達を遠巻きに取り囲んで、皆、あこがれのまなざしで見ている。時折、若い男が近づいて来て英語で彼女達に 「 Beautiful ! 」 と言って去って行く。彼女達もそれがまんざらでもなさそうだ。そのたびに 「 Oh, thank you ! 」 と言って気取った顔で薄いスカーフを頭の上から巻き直している。
 道端で、ヒンズーのお祭りの時に女達が被る大きいスカーフが所狭しと揺れていた。鮮やかな赤やオレンジの薄い布地にキラキラと光る金色の模様とフリンジが施してある。私達は鈴のついたアンクレットと一緒にそれを何枚か買い求めた。シールのシートのようになって売っている涙型のビンディーも買って着ている服と同じ色の物をお互いの眉と眉の間に張り付ける。3人で赤と金のスカーフを頭から被り、アンクレットをシャンシャンと鳴らしながら子供のようにふざけ合い、通りを練り歩いた。

 エリザベスとリバがすでに得意客になったという呉服屋に入った。一家族皆が助け合って営業している店だ。私達が店に入ると、くつろいでいた息子達が慌てて立ち上がり、末の息子がよく冷えたコカ・コーラを3本持って来た。 初老の父親が店の前にどっかりと座り、店員として使っている息子達にあれこれと威張り顔で指図をしている。長男と次男が周りの棚から次々と目の覚めるように美しい布地を降ろして来ては、私達の目の前に広げて見せる。
 アメリカ人特有の人なつこさで、エリザベスとリバは彼らの名前をちゃんと覚えていて私に紹介した。長男の妻だという美しい女性が、紫に銀の飾りをあしらったスカーフを頭から被り、手にメジャーを持って現われた。彼女が次の日まで、パンジャビスーツを仕立てるのだと言う。ちょっと恥ずかしそうに銀のフリンジの奥で黒く縁どられて豹のように光る目と、眉の間につけた紫色のビンディーが女性の私から見てもとても艶かしく見えた。
「インドの女性は本当に美しいですね。」
とそこの長男である彼女の夫に言った。彼は嬉しそうな笑顔を見せながら、
「日本の女性も美しいですよ。日本女性の事を Japanese Doll と言うんですよ。世界中の女性は皆それぞれの魅力で私達男性を惑わす魔物ですよ。」
と流暢な英語で言った。
 エリザベスとリバは、さっそく布地に夢中になっていた。サリーを買うつもりだと言う。大きな鏡の前で、エキゾチックな色や模様のサリーを次々と体にあてて、真剣な顔でポーズを取っている。
 そんな彼女達があまりにチャーミングで、私はそこでさっそくビデオを回した。コーラをご馳走してくれた末の弟が、珍しそうな顔で私のビデオを横から覗いている。彼にビデオマシンを見せたら興奮した顔でそれを持って店の外に飛び出して行ってファインダーを通して通りを見ていた。私はビデオマシンが心配でパンジャビスーツどころではない。彼は戻って来て私に 「 How much ? 」 としつこく聞く。長男のように英語が通じないので、これを売るつもりはないとわかってもらうのに一苦労した。私のコンパクトカメラにも興味があるらしく、ファインダーを通して店内を見回している。案の定、間違ってカメラの蓋を開けてしまったので、残りのフィルムがだめになってしまった。
 赤い絞りの綿生地のパンジャビスーツをオーダーした。仕立て代も含めてかなりの安価でできるのには驚いた。次の日の10時にはリシケーシュを発つことになっているので、9時半までに届けるように頼んでお金を払った。はたして彼らをどこまで信用できるのか、届くのが遅れて皆に迷惑がかかるのではないかと内心不安だった。

 その日の午後、シャシクマールによる最後のレクチャーがあった。トレッキングは中止になったが、彼のレクチャーをまた聞くことができるというのは私にとって思いがけない楽しみだった。後の方にロスも座って聞いていたのが、嬉しかった。
「今日は少し、カルマの法則について簡単に触れておきたいと思います。」
 相変わらず穏やかな威厳のある口調で私達を見回しながらシャシクマールは始めた。彼の表情はいつも「平和」そのものだった。
「もし輪廻やカルマの法則があるのだとしたら、あなた方は常々こう考えることでしょう。どのようにして私達の運命は生じるのか。どのようにしてさまざまな家庭や社会環境に生まれ、さまざまな能力を持って生まれるのか。もし自分が悪い行いをしていると感じていれば、自分が来世で悪い環境に生まれる準備をしているのではないか。あるいは、良い行いをしていれば良い環境に生まれる準備をしていることになるのか。個々の問題を取り上げてみると、多くの人が若くして、あるいは子供のうちに死ぬことには、どのようなカルマの関連があるのか、死産は?障害を持って生まれてくる子供は?
 このようなことを理解するには、まずあなた方はカルマの法則が人間だけが繰り返して受けているのではないことを知らなければなりません。輪廻転生の法則は普遍的な宇宙の法則でもあるのです。あらゆる存在、あらゆる惑星がこの法則の中に存在しているのです。何光年も離れた宇宙のかなたでは、今私がこうして話をしているこの時もいくつもの星が死に、あたらしい星が誕生している。その背後にどのような意志が存在しているのでしょう?私はそれを『霊的世界の意志』によるものだと考えます。
 つまりカルマの法則を今ここで簡単に理解するには、地球上においても宇宙においても様々な共同体が関わり合って存在することにまず気づかなければなりません。
 自分の自我を克服することができれば、宇宙意志によるあなた自身のカルマの意味が少しずつわかってくるのです。つまりすべてを甘受することです。そしてすべての出会いや決断に意味があることを意識するのです。」

「人間は生まれた時から生物学的、霊的な進化を遂げながら成長していきます。だから自然の成長を営んでいる幼児の魂を不自然な早期教育などで邪魔してはならないのです。子供が繰り返す失敗や挫折を戒めてもならない。そんな行為は子供の今世の目的を歪めてしまいます。自然と一体になって人生を謳歌している子供達はそれだけで宇宙の法則にちゃんと従って生きているのです。」

「一生の間に人間は何度も失敗や迷いを繰り返しながら生きていきます。しかしその失敗や迷いが、あなた方のこの人生において非常に重要な意味を持つのです。それを甘受して自分の中を流れる宇宙のエネルギーを感じていくことによってあなた方は、今の人生の目的がまるで霧が晴れるようにわかって来るのです。
 充分な忍耐と持続力とエネルギーを持っていれば誰でもその高次元の世界に気づくことができます。目が見えない人は霊眼で見ることができる。耳が聞こえない人は霊耳で聞くことができます。そして自分の人生やまわりの世界に喜びと希望を感じることができます。
 人生を正しく理解しようと思うなら、その高次元の世界から力を受け取り、私達のすべての営みに意味があることを知り、なによりも私達が全宇宙の仲間であり、霊的世界の創造物であることを知ることが大切なのです。」

 夕食の後、アシュラムの屋上に立って、川のほとりを夕日を浴びながら一列になってガンガーへの礼拝のために歩いて行く村人達をビデオに納めた。前の晩の雷雨のためにガンジス川の水かさが増して流れが一層激しく見えるものの、ヒマラヤの山々の緑は更に濃く、空は穏やかに晴れ渡り、西の雲が真っ赤に染まっていた。
 川岸でエリザベスが最後の写真を取り、その近くでアンがガートに腰を降ろしてスケッチをしているのが見えた。皆それぞれリシケーシュ最後の日を感慨深く感じているようすであった。
 どこか遠くの方から無数の子供達の声が聞こえてきた。お祭りだろうか?子供達の歌ともマントラともつかないユニゾンのかすかな声が風に乗って私の耳に入ってきた。それは、アシュラム内で朝夕聞こえていたマントラとは違っていた。マザー・ジョディーが営む「火の礼拝」は前日で終わっていた。彼女は南インドに向けて早朝出発したと聞いた。私は彼女にさようならも言えなかったのをとても悔やんでいた。そして嵐の夜にロスの手を取って彼女が言った不思議な言葉を決して忘れてはいなかった。
「あなたはこの女性を何百年もの間、探していたのですよ。」
 せめてマザー・ジョディーにお別れをして、できれば彼女にこの言葉の意味を聞きたかった。こんなせりふを発した以上、彼女には、もっと深く説明する義務があるとも考えていた。だから私が知らないうちに彼女がアシュラムを去ったのは本当に残念だった。
 遠くからかすかに聞こえてくる子供達の声に好奇心が湧いたが、私は町で騒ぎすぎていささか疲れを感じていた。階段を降りて部屋へ戻ると、そのままベッドに横になった。

 ベッドの横の大きな窓から黄昏色の美しい空が広がって見えた。それに見とれていると、窓の外に人影が立ちはだかった。ロスだった。私はベッドに横になったまま 「 Hi, Ross. 」 と彼に声をかけた。彼は開いている窓の網戸越しに言った。
「てっきり廃虚だと思ってた森の中のヒンズーの寺院が賑やかそうなんだよ。Do you want to go ? 」
私は 「 OK ! 」 と言ってベッドから起き上がってバルコニーに出た。

 ハスの池を横切って門の外へ出て、子供達の声がする森の方に向かって歩いた。あたりはすでに薄暗く、私達のすぐ横を流れる川には夕暮れのモヤが湧き始めていた。山の上に半月が輝き始めたのを見て安心した。この月が私達の帰り道を照らしてくれるだろう。
 私の横を歩くロスは珍しく無言だった。まるであの「火の礼拝」でマザー・ジョディーに魔法をかけられてしまったように私達はかなりお互いを意識しているのがわかった。歩きながら私達は無言でお互いの心の中を探ろうとしていた。マザー・ジョディーの言葉をロスは覚えているはずだった。
「日本からはるばる来たこの女性を覚えていませんか?あなたはこの女性を何百年もの間、探していたのですよ。」
 私はロスの右手首で揺れている茶色の数珠を見て、あの言葉を彼なりにどう受け止めたのか、そしてどのように消化したのか知りたいと思った。

 森を見下ろした古い石段に着いた頃は、月が一層明るく光り、あたりにはもう蛍が飛び始めていた。
足場の悪い石段の割れ目から草木が生い茂り、それを避けて降りるには足元が暗すぎる。その上に内心私は蛇でも出るのではないかと気が気ではない。ロスが2段程先に降りて下から私に手を差し出した。木の根っこのような物を踏み外した私は、よろけて彼の少し汗ばんだ手を上からしっかりと握った。一瞬体中に電流が走り抜けたように感じて彼の目を見た。彼の宝石のように澄んだヘーゼル色の瞳が私の瞳を探った。私の頬に彼の吐息がかかるのを感じた。心臓が、まるでレースをしたあとのように激しく鳴っているのを感じて私は完全に自分がマザー・ジョディーの言葉に毒されてしまったと思った。

 前方に黒く見える森の中から鬼火のような灯りがポツポツと見えた。たくさんの子供達のエキゾチックな節の歌が高く聞こえてきた。木々の間を通り抜けて森に入って行くと突然私達の前に、薄灯りに照らされて鈍いオレンジ色に光る古いヒンズーの寺院が現われた。目を凝らして見ると、モスクのようにいくつも突き出した塔の外側に月日の流れで黒ずんでしまったヒンズーの神々の彫刻が見える。一段と強く響く子供達の歌声は、その向こう側から聞こえていた。私は興奮して言った。
「まるでインディー・ジョーンズの映画のセットの中に迷いこんだみたい。こんなに深い森の中にこんなに迫力のあるお寺が隠されていたなんて想像もつかなかったわ。」
「僕が話していたのはこの寺院のことだよ。もう何千年もここにあったような見事な建物なんだ。今は暗くてあまり見えないけど是非ここを発つ前に君に見せたかった所なんだ。」
「Thank you Ross ! 確かに少し暗いけど、かえってお寺全体が神秘的に見えると思わない?でもこれ以上中に入って儀式を邪魔したら叱られるんじゃないかしら?それも外国人が二人で。そろそろ戻った方がいいんじゃない?」
 ロスは「カモン !」と言って私の手を引っぱると、さらに前方に歩き出した。明るい光が見える寺院の表側の方へと壁づたいに廻って歩いた。壁のひび割れた所から漏れている薄灯りの中で、神々の彫刻がじっと私達を見下ろしていた。

 寺院の表側は左右にある石の柱に支えられて、踊りのステージのように外に向かって解放された神殿作りになっていた。半円形になっているステージの上の天井はドーム型に広がっている。神殿の奥に扉が開かれた場所があり、そこには金や銀で飾られたカラフルな神々が祭ってあった。
 神殿の床の上に小学生から高校生ぐらいまでの20人程の男の子が白い民族服を着て座り、手にした聖書程の厚さの本を開いて一節ごとにシンプルだがエキゾチックなメロディーで唱えている。
 数人の男の子が、その周りで笛を吹いたり鈴や竹をならしたりしている。正面には白い衣を着た背の高い僧侶がいて、神々の前でお香を焚いていた。神々が祭ってある部屋は、かなりの数のろうそくの光りで真昼のように光り輝いていた。寺院の裏側の割れ目から漏れていたのはその灯りだったのだとわかった。

 神殿の周りもあちらこちらにろうそくの炎が燃えていた。私とロスが神殿の正面に近づくと、床の外側に座っていた男の子達が一斉に振り向いて私達に好奇の目を向けた。そのざわざわという騒ぎに気がついた僧侶が首を高く上げて私達を見た。
 心配になった私はロスを肘でこづいて「ここを出た方がいいわ。」と言った。ロスは「Don't worry.」と小声で言うと、神殿から遠巻きに離れ、光がほとんど届かない所の木の下まで私を導いた。そこから見た神殿は、まるでエキゾチックな野外ステージのように見えた。
 僧侶は相変わらず私達を見ていた。神々が祭ってある奥の部屋から出ると子供達の間を抜けて神殿の外側まで歩いて来た。私はどうしたらいいのかわからず、彼に向かって合掌してお辞儀をして、できるだけ右手首にかけてあるヒンズーの印とも言える数珠が見えるようにした。ロスも私の隣で合掌してお辞儀をした。
 僧侶は私達に向かって手招きをした。私は思わずロスの目を見た。私達は神殿に向かって歩いた。僧侶は穏やかな顔で、私達に神殿の中に入るようジェスチャーで促した。
 柱の所でサンダルを脱ぎ、一段高くなっている神殿の生暖かい石の床を踏んだ。
儀式を営んでいた子供達が皆そろって私達を見た。スムーズに流れていたメロディーが一瞬狂って、大騒ぎになった。僧侶は、ジェスチャーでそんな子供達をたしなめ、一番年上らしい背の高い青年に何やら指図をした。
 青年は立ち上がると寺院の中からゴザでできた座布団を二つ持って来て、正面に近い床の上に並べた。
僧侶は私達にそこに座るよう促した。私達は、もう一度そこで合掌して瞑想の時のスタイルで座布団の上に座った。僧侶は団扇を二つ持って来ると私達の前に置いた。子供達が固い石の床の上に汗をかきながら座っているのに、思いがけなくこんな特別な待遇を受けている自分達が意外に思えた。

 子供達は、再び本に視線を戻してユニゾンの声で歌い始めた。恐らくヒンズー教の教えのような物が書いてある教本をこうやって節をつけて歌っているのだろう。目の前に一列に座っている子供達が、やはり好奇心を隠せないというまなざしで私達をチラチラと見ながら歌っていた。
 突然私はこの神殿の中に女が一人もいないことに気がついた。隣に座っているロスの方にそのまま体を倒して、彼の耳に小声で囁いた。
「今気がついたんだけど、ここにいる女は私一人だけだわ。」
「構わないさ。彼はそれを承知で二人をここに招いたんだから。きっと外国人だから特別なんだよ。」
前を向いたままロスが答えた。

 歌はクライマックスに達しているようだった。楽器を持った子供達が、それを一層大きく鳴らし始め、子供達は手拍子を取りながら歌い始めた。もう覚えてしまったシンプルで可愛らしいメロディーに乗って、私もそれを口ずさんだ。ただでさえ暑いのにろうそくの熱気であたりはムンムンしていた。
 体中が汗でベタベタしてきた。私は床に置かれた団扇を拾って右手に持ってロスの顔にも届くように大きく扇いだ。ロスは相変わらず真剣な目つきで、目の前の子供達を見ていた。彼の横顔を汗がゆっくりと流れ落ちる。
 賑やかな子供達の声と鈴や笛の音が、天井高く登って行き、頭上のドームの中いっぱいにこだまして私の耳に幾重ものエコーになって戻って来る。奥の部屋に並んだ神々の顔が私達の座った場所から良く見えた。ヴィシュヌ神の妻、ラクシュミー女神の踊るような肢体と白い顔と赤い唇が、お香の強烈な香りの中でボーっと浮かび上がって見える。
 振り返って神殿の外を見ると、暗闇に無数の蛍が飛んでいた。蛍は私達の回りにもダイアモンドのように光りながら飛んで来る。数え切れない程のろうそくの熱気とドームの中を駆け巡る歌声が私の脳の中までをもしびれさせた。
 艶かしく微笑むヒンズーの女神の白い体、あたりを飛び交う蛍、鼻をくすぐるカルダモンのようなお香の煙。時折ロスの汗ばんだ肘が私の肘に触れ、私の汗をぬぐい去る。そんなすべての要素に刺激されて、体の奥の方から呼び覚まされるような官能的興奮に私はすっかり酔いしれていた。

 子供達が歌い終わると、僧侶は小さな銀の器を運んで来てまず私達の前にしゃがんで、スプーンで器の中から「プラサード」をすくって手の平に乗せてくれた。その後から青年が歩いて来て、手の平のプラサードの上に別な器からミルクのような物をすくってかけてくれた。私達は掌を口にあてがって甘いプラサードを味わった。
 子供達はやっと解放された顔でプラサードを味わいながら今度は遠慮せずに私達を見ては、お互いに耳打ちしてはしゃいでいる。
 私達は立ち上がり、もう一度僧侶に合掌してお辞儀をし、ヒンズーの寺院を後にした。僧侶に指図された背の高い青年が灯りを持って私達の後について来て、石段を登りきるまで足元を照らしてくれた。

 半月がガンジス川のほとりの狭い道を照らしていた。アシュラムに向かって歩きながら私は自分がまるで幻想の世界から抜け出して来たように思った。このまま部屋に戻りたくなかった。私は横を歩いている若い哲学家をもっともっと知りたかった。
「ロス、あなたは輪廻転生を信じる?」
 私は突然、またこんな質問をした。これで、私が暑い小屋の中でマザー・ジョディーが言った未知の言葉について話したいのだということをわかってもらいたかった。
「輪廻転生は僕にとって難しい問題だ。今日のシャシクマールのレクチャーもすばらしかったけど、納得したとは言えない。もちろんそれなりに勉強や修行が必要なんだろうけど、僕はまだカルマや輪廻の思想に対してかなり疑い深い態度を持っているらしい。神がいるか、いないかを信じる事と同じ問題だと思うよ。僕は朝起きて『この世に神なんかいない』と言われても平和に一日を過ごすことができる。でも神を本当に信じる人にもそれなりにパワーがあるからそんな人々を否定したりもしない。輪廻の思想もそうだよ。人が死んだあと、何らかの形でその人の魂が地上に残ることは信じられる。でもそれは、たとえば、残された人の記憶の中だとか子孫を通してだとか、そんな思想だったら僕にも納得がいく。現に僕達もこうしてスワミ・ラマのアシュラムにいるだろう?彼が残した教えがアシュラムでは本当にパワフルに現在でも生きている。写真や本を通してね。」
「ロス、私はそんなことを聞いてるんじゃないの。」
私は言葉を遮った。
「そのたぐいのアカデミックなレクチャーだったらブライアンに聞けばわかるわ。私は、あなたの感情が昨夜のマザー・ジョディーの言葉をどんな風に受け止めたのかを知りたいの。」
「Oh ! Mother Jodie !」
 彼はまるでマザー・ジョディーのことをすっかり忘れていたような白々しい言い方をした。前方にアシュラムの門が見えてきた。
「まだ時間があるから少しガンジス川に足でも浸そうか?」
 ロスは私の返事も待たずに川に降りるガートを降り始めた。ガートは川から漂って来るモヤに包まれていた。あまりに濃いモヤのためガートの上からは水面が見えない。足音と共に下の方から石段を登って来る人影が見えた。

 白いモヤの中に浮かび上がって来たのはドクター・ボンナムとスザンヌだった。
ドクター・ボンナムは私達をちらりと見て眉を上げて見せると、そのままアシュラムの方へ歩いて行った。スザンヌは彼と手をつないだまま後を振り返ると、私達に向かってニッコリと微笑み、澄んだ声で「Good night.」と言った。

 私達は水面すれすれまで降りるとそこにサンダルを脱いで腰を降ろした。目の前は濃いモヤのためにまるで死後の世界のように真っ白だった。空を見上げるとモヤのはるか上で、月が鈍く光っているのがうっすらと見える。しかしどんなに明るい月の光もこの水面までは到底届かないだろう。
 あたりはさっきまでの熱気が嘘のようにひんやりとしている。川は不気味な程に黒く、時折まわりからピチャピチャという水の音がする他は沈黙の世界だ。私は足を浸すのを一瞬ためらった。真っ黒い水の中に住む魔物に川底に引きずり込まれそうに思ったからだ。ロスは私のとなりに座ってジーンズが濡れるのも構わずに水の中に足を入れ、水面にかがんで顔に川の水をバシャバシャとかけると、首を左右に激しく振った。
「もう20年以上もドクター・ボンナムを知っているのに、彼があんなに恋をしているのを見るのは始めてよ。あの二人を見ていると、時々自分の可能性も考えてしまう。私がもし今独りになったとしたら、はたして彼のように再び運命的な人に出会うチャンスがあるのだろうかってね。私ぐらいの年齢の人はきっと必ず考えることよ。結婚している人はなおさら。」
「ノリコ、それは心配には及ばないよ。僕から見ると君はどう見ても40歳の女性には見えない。これから熱烈な恋をする可能性なんて充分にあるよ。」
「それじゃあ、あなたは40歳の女性はどんな風に見えるのが自然だと言うの?」
 ロスは返す言葉に困っていた。私はそんな彼が可笑しくて「とにかくありがとう。」と言って笑った。
彼はそれでもあれこれ考えて、何か答えようとしていた。
「僕の父は、僕が6歳の時に他の女ができたため母と別れたんだ。その人の名前はキャシーと言うんだけど、牧場でレース用の馬を育ててるダイナミックな人だ。キャシーは今42歳だ。でも本当に魅力的な人なんだ。ところが2年近くまえから性懲りもなく父にまた女ができた。それで今離婚の真っ最中なんだ。僕は不安いっぱいの彼女の相談役をやってる。小さい頃から母の嘆きを見て育ったお陰でキャシーの苦悩も僕にはよく解るんだ。父のお陰で僕には二つ、人生の目的みたいなのができた。ひとつは、理想の女性を見つけたら死ぬまでその情熱を貫き通すこと。 もうひとつは自分の子供にとって最高の父親になること。たとえば、皿の上にあるきらいなピーマンを食べるまで席を立つなとか勉強しろとは決して言わない。子供にはやりたいことをやらせる。僕の母はそんな母親だからね。彼女のいいところは僕にいつだってやりたいことをやらせてくれたことなんだ。彼女のおかげで僕は楽観主義の標本のように育ったと信じているんだ。」
「それじゃあ、あなたが情熱を貫き通せるような女性に会うかどうかが目下の大問題なわけね。」
「その通り。やっぱり僕は現実とはかけ離れているのかもしれない。今でも貧乏学生をやってるしね。ガールハントより山の方に魅力を感じる。車を運転するより、マウンテンバイクでどこにでも行く。どう見ても女に好かれるようなライフスタイルじゃない。」
 近くでフクロウの声が沈黙を破って聞こえてきた。でもあたりは白いモヤの他は何もみえない。モヤとモヤの切れ目から時折黒い空間が見えた。それは、まるで闇の世界から死者を迎えに来る死神の手漕ぎ船のように見えた。
「過去に一度だけガールフレンドと言える人がいたことがあった。ある時、彼女はクリスマスを祝うために帰ったサンフランシスコの親の家から電話をかけて来た。
 金持ちの親を持つ娘で、家で大きいクリスマスパーティーがあるから僕にも来て欲しいと言うんだ。それで次の日にサンフランシスコ行きの飛行機に乗った。飛行機がシスコの空港に着陸しようとしたその時、車輪が故障して滑走路の上で突然火を吹いて、とんでもない所に突っ込んでやっと止まったんだよ。何人か怪我人も出た。迎えに来てその一部始終を見ていた彼女がパニック状態になって無傷で出て来た僕に抱きついて泣くのを見て初めてすごい事故だったんだって気がついたんだ。
 それからしばらくして航空会社から事故のお詫びとして、世界の3つの都市にフリーで行けるオープンチケットが届いたんだ。僕はそれを使ってまずメキシコやコスタリカや南アメリカをほっつき歩いてヒゲをボーボー伸ばして帰って来た。それからまたパリ経由でドイツに行った。
 彼女はもしまた僕が旅に出たら、もう僕を待つ自信がないと言った。その時思ったんだ。彼女を愛していたわけではなかったってね。僕には彼女より旅の方がずっと魅力的だった。本当は地中海に行きたかったんだ。小さい頃からの憧れでね。どこでもいいから地中海の町を歩いてみたかった。でも残念なことにあのフリーパスの範囲内には入っていなかった。今でも何故ドイツに行ったのかわからないんだ。ドイツで彼女に電話した時、結婚するという話を聞いた。彼女とは今でも最高の友達だよ。彼女の夫とも。」
 私の頭の中に突然何かがひらめいた。軽い興奮を感じながら私は口を開いた。
「ロス!あなたはもしかして私の息子だったかもしれない!」
 ロスが唖然とした顔で私を見るのも無理はなかった。私はこれをどう説明しようか戸惑った。そしてまず度々見る私の夢の話をした。
 地中海にあるどこかの港町。そこで津波が来る予感がしている私。となりにいる小さな男の子。そして夢が展開して終わる所まで話した。ロスはただ微笑んで「Interesting !」と言った。しかしそんな夢は別に何の根拠もないとまたレクチャーされるのはわかっていた。私は続けて言った。
「もしあなたがその男の子で何らかの理由で私から離れたとすれば、マザー・ジョディーの言ったこともつじつまが合うわ。そしてあなたの魂が本当に私の魂を追い求めていたとすれば、日本に生まれたり、私が過去10年の間に住んでいたパリやドイツに行ったことも説明できるわ。当然、私を探していたからよ。そしてあなたは地中海に憧れた。それは私も同じよ。」
 ロスは、案の定、私の話をおとぎ話しのように聞いて、笑っていた。
「ノリコ、もしそれが本当なら、その夢の中の津波にでも僕がさらわれてしまったと言うことかい?残念ながら僕はサーフィンが大好きでね。レースに優勝したこともある。」
「そうなのよね。実は私も海が大好きなの。」
「それにマザー・ジョディーが、出まかせで言ったことも考えられる。彼女のパワーの証みたいにね。」
「そうね。それも考えられるかもね。」
「もし僕が君を探していたとしたら、君は誰を探していたことになるんだい?君の夫?もしそうなら僕はあまりに可愛そうだ。」
「そうね。それも不公平よね。」
「その上にだ。もしノリコが過去世で僕のママだったとしたら、こうやって何百年もの時を経てはるばるインドに来てやっと出会えたのだからママ!と叫んで抱きしめたくなるのが当然だろう?でも僕にはどう考えても君をママとは呼べないよ。僕にとって君は生身の魅力ある女性だからね。せめて過去世の恋人ぐらいにして欲しいのが本音だな。それだったら信じてもいい。」
 私はロスに完全にばかにされているのを知っていた。でも彼が私の夢に結び付いていなくても、何故か私はマザー・ジョディーの言葉を信じていた。信じたかったのかもしれない。

 ふとロスの左手首にある大きなスポーツ時計に目をやった。彼の手を取って目を凝らして見た。時計はすでに11時を指していた。
 私達は、まったく時間とは無縁のタイムカプセルの中に入っていたのだ。
ガートを駆け上がり、月灯りの中をアシュラムの門へと急いだ。門は鉄の扉がすでに固く閉まっていた。呼び鈴のような物があったので押してみた。誰も出て来なかった。ロスは何を思ったのか門の取っ手の所に足をかけて、よじ登り始めた。
「このくらいなら誰でも簡単に登れるよ。だからここにはキラードッグが必要なんだ。」
とロスは門の上に何本も突き出ている鉄の棒を握って言った。私はすっかり慌てていた。
「誰かを大声で呼んだ方がいいわ。きっと守衛が来て開けてくれるから。」
 彼はすでに門の上で向こう側に降りる姿勢でいた。
「鍵はかかっていないんだよ。中から閉めてあるだけだからちょっと待っていれば今すぐ門を開けてあげるよ。」
 そう言うやいなや、「ドスンッ・・・」と、門の向こう側に飛び降りて両足で着地する音が聞こえた。
中でガチャガチャという音がして重そうに門が開いた。ロスが中から「カモン!」と言った。人ひとりがやっと通れるぐらいのすき間から門の中に入った。そこだけが月の光が遮られて真っ暗だった。
 次の瞬間、ハスの池のしげみの中に黒い塊のような物が見えた。それは月灯りの中に出て来て低く構えて唸り始めた。恐ろしさで背中に戦慄が走り、体が硬直した。
 私はロスの背中にまわって広い肩の横からするどい目を光らせて唸り続けるキラードッグを見た。ハスの池の向こうからもう一匹の犬が駆けて来て、横に並んで唸り始めた。私は恐怖で体中から力が抜けていくのを感じた。
 ロスが突然私の前にしゃがんで言った。
「ノリコ、できるだけ地面に近くなるんだ。」
 私は彼の言う通りにした。恐ろしくて言葉も出ない。呼吸が速くなり喉がカラカラに渇いてきた。
ロスは体を低くしたまま、犬に近づいて行く。私は掠れた小声で、
「ロス!ばかな事はしないで!」と言った。
 彼が少しずつ近づくと2匹のキラードッグは少し後ずさりをして一層高く唸り、左側の犬が威嚇のために吠えて、体を低くして飛びかかる態勢に入った。ロスは低く口笛を吹きながら右側の犬の鼻先に静かに右手首を近づけていった。私の心臓は今にも飛び出しそうだった。彼は右手首にぶら下がっている菩提樹の数珠を犬の鼻に近づけた。
 私はやっと彼のやっている事を理解した。キラードッグはロスを知らなくても、この菩提樹の数珠を渡した人の香りを知っている。マザー・ジョディーの香りだからだ。だからこの数珠をしている限り、彼らにとって怪しい人物ではないということになる。
 犬は突然表情を穏和にして「クンクン」と甘え声で鳴くと少しずつ後ずさりして行った。そこに守衛が駆けて来た。アシュラムの屋上から、門をよじ登って入って来る人物が見えたのが気のせいだろうかと思っていたところ、しばらくして犬の吠える声が聞こえたので慌ててやって来たらしい。
 守衛はまだ恐ろしさで立ちすくんでいる私を見て、ニヤニヤしながら片言の英語で「Dangerous love !」と言うと犬を連れてその場を立ち去った。
 ロスは、私を振り向くと、いつものはにかんだような微笑みを見せてこう言った。
「父が動物病院の医者なんだ。」

 安堵した私の目が涙で潤むのを感じた。輪廻転生もマザー・ジョディーも、もうどうでも良かった。すべての魔法はかけられてしまった。この瞬間私はつい2週間前にコロラドからはるばるやって来た若い哲学家に恋をしてしまったのである。

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