さすらい人幻想曲

第15章:ムスーリー    Mussoorie

 私の不安が的中してパンジャビスーツは指定した時間通りに来なかった。スワミ・ラマ・アシュラムの前のぬかるんだ道に2台のマイクロバスが並んで立ち往生していた。ムスーリーへの道はかなり細い山道なので、私達グループは1台の大型バスの代わりに2台のマイクロバスに分かれて出発することになったのだ。
 9時半までに届くはずの私のパンジャビスーツと、リバとエリザベスが注文したサリーが10時になっても来ない。
フランクが明らかに苛立ちを隠せない顔で、バスの回りをウロウロしている。
「一体君達は何着服を買ったら気がすむんだい?最後の買い物のためにスケジュールしてあるデリーにもまだ着いていないのに、、。」
 デリーからずっと私達と行動を共にしてきたインド人のガイドが言った。
「こういう買い物をする時は、私に相談してくれると助かります。あなた達はインドの商売人をまだ知らないのです。物を注文したら全額金を払わないことが原則なんですよ。手付け金だけ払うこと。9時半まで届けて欲しい時は、少なくとも30分は繰り上げて9時と言うこと。全額払ったということは、向こうは届けなくても金が入ったのだからいいと思っていることもあるんですよ。」
 彼は、一応呉服屋に電話するためにアシュラムの門の中に入った。
私は気が気じゃなかった。
「大丈夫よ。私はあの呉服屋を信用するわ。あの人達は友達だもの。」
とリバが言った。
「そうよ。人を疑いだしたら、どこにも旅行なんてできないわ。」
エリザベスも半ば不安気な顔で言う。
 さらに15分が過ぎた。待ちきれずに1台目のマイクロバスが出発した。2台目のバスの窓からキャロラインが顔を出してうさん臭そうに言う。
「ねえ、あなた達、もう諦めたら?」
 私だって早く冷房が利いたバスの中に駆けこみたい。皆に迷惑をかけていると思うと申し訳なくてどんな顔をしていたらいいのかわからない。門の前で、さっきからずっとシャシクマールだけが、相変わらず穏やかな笑顔で立っている。私は彼に近づいて行って、こんな事になってしまったのを謝った。
「人生、どんなに小さいことでも焦ってはいけません。さっきから見ていると一人で不安な顔をなさっている。そんな顔をしたから物事がうまく捗ることはないのです。遅れたと言ってもたかだか30分。長い一日から見たらほんのわずかな時間でしょう?」

 添乗員が足早に戻って来た。呉服屋は10分程前に店を出たと言う。3人分を仕立てたので、どうしても時間通りにできなかったらしい。私はホっとして呉服屋が着く前にシャシクマールに別れの挨拶をした。
「ヨーガや瞑想もためになりましたが、あなたのレクチャーがひとつひとつ私の魂に響きました。私はここに来るまで、人生に迷っていました。自分という無力な人間に焦りを感じていました。何故私は、何のために生まれて来たんだろうって。あなたのレクチャーを聞いているうちに何となく心の中のモヤが少しは晴れてきたように感じました。本当にありがとうございます。」
 彼は黒く潤んだ目でニコニコしながら私の手を大きな両手でふんわりと包んでくれた。
「過去はもう過ぎ去った時間です。未来はどんなに思案にくれてもまだ来ない時間だ。今という時間は神からのギフトです。だから英語で現在の事を present と言うではありませんか。旅が何故自分探しに役立つのか考えてごらんなさい。旅の間はすべてが新鮮ですべてが脅威で、ボーっとしている時間が少ない。旅の間あなたは確かに『今』を連続して満喫している。あなたが、あなた自身の魂に出会っているからです。帰国してからもこのように生きるよう努力すればあなたは幸せを感じることができます。子供に食事を作っている時も、洗濯をしている時も掃除をしている時も、そして自分のために何かをしている時も、すべてが新鮮な時間として、遊び心で楽しめばいいのです。『今』という神からのプレゼントを大事にしなさい。あなたは、ある使命を持って天から遣わされた大切な存在です。 今の生活や人とのつながりを大切に扱っていけば、きっとすべてが良くなっていくはずです。」

 マイクロバスの向こうに呉服屋のポンコツ車が止まってむき出しのままのパンジャビスーツやサリーを抱えた長男と次男が慌てて降りて走って来た。それを見たシャシクマールは笑顔でもう一度私に別れの握手を求めてきた。 私は彼の大きな手を握って握手して、一歩下がって合掌してお辞儀をした。私の右手首で茶色の数珠が揺れた。
 ドクター・ボンナムとフランクも最後の別れをするために駆けよって来た。エリザベスがさっそく彼らの別れの場面をカメラに写していた。

 安定の悪い旧式のマイクロバスに揺られてひたすら細い山道を登ること2時間。途中からまわりは霧で真っ白になる。その霧の間をぬってバスはヘアピンカーブをくねくねと曲がり続ける。断崖絶壁になっている道の崖側には申し訳程度に転落止め用の石が並んでいるだけで、ガードレールもない場所が多い。バスが大きく曲がるたびに、乗っている私達は生きた心地もしない。霧の中をやっと通り抜けて雲の上の町、ムスーリーに到着した。
 町に入ったばかりの崖の上に壁がほとんど禿げ落ちたようなみすぼらしいホテルが建っていた。私の隣に座っていたアンが言った。
「まさか、あのホテルに泊まるんじゃあないでしょうね?」
 アンの不安をよそに、バスはそのホテルの入り口目指して入って行った。私にはホテルの善し悪しよりもさんざん揺られたバスから解放される方が魅力だった。
 バスの外は肌寒かった。40度近いインドの暑さに慣れてしまった私達は、急激に下がった温度に震え上がって荷物の中からジャケットを引っぱり出した。
 ホテルの中に入ると、何の飾りもない殺風景なロビーの奥にある暗いフロントデスクに男が二人、何やら書類に取りかかって私達をまったく無視していた。ロビーの向こう側はテラスに通じるガラス戸になっていて、そこからの風景はリシケーシュのヒマラヤよりもずっと男性的な険しい山々だ。しかし雨季のためか山の天辺は、どんよりとした雲にほとんど隠れている。テラスの外のすぐ近くにも雲が流れ、錆びて赤茶けてしまったフェンスの上で数匹の山猿がのんびりと毛繕いをしている。
 ロバートが言った。
「入った時からデジャブーみたいに思っていたんだけど、どこかで見たことのあるホテルだ。そうだ思い出した!ジャック・ニコルソンの映画であったろう?『シャイニング』のあのホテルだよ。」

 先に到着したバスに乗っていたロスを含めた学生達は、もうとっくに近くの山にトレッキングに出かけていた。アンとリバがさっそくムスーリーの町を散策して、町の西はずれにあるというチベット人村のバザールへ行こうと誘ってくれた。
 さんざん車に揺られてすっかり疲れてしまった私は、しばらくこの古びたホテルで休むことにした。
部屋はムっとするくらいカビ臭い。カーテンを開けて空気を入れるためにバルコニー側の大きなガラス窓を開けた。外からひんやりとした湿った空気が入ってきた。
 部屋の角の机の引き出しにあったざら紙のようなFAX用紙を持ってロビーに戻り、そこにあった4人がけのテーブルに腰をかけた。
 夫と話をしたかった。なぜかむしょうに彼の声が聞きたかった。リシケーシュでかけられた魔法がまだ体中に残っているようで、バスの中にいる時も私はボーっとしていたのだ。
「ノリコ、Are you OK ?」
 バスの中で隣に座ったルームメイトのアンが心配そうな顔で私を覗きこんだ。私はちょっと車に酔ったふりをした。前の晩、部屋に戻った後も夜が白々と明けるまでなかなか眠りに落ちる事ができなかったのだ。
 バスに揺られながらも、あのヒンズーの寺院やキラードッグの騒動がすべて夢だったように感じて、口をきくのも億劫だった。
 前世がどうだったとか、地中海の夢がどうだとか、マザー・ジョディーの「火の礼拝」と森の中の寺院の儀式にすっかり酔いしれて、ガートの白いモヤの中で、ロスが前世の私の息子だったなどと騒ぎたてた自分が恥ずかしかった。そんなことは彼にとってどうでもいいことなのだ。すべては、あのガンジスのほとりのヒンズーの神秘の魔法だったのだ。マザー・ジョディーの謎の言葉、暗い森の寺院、艶かしく微笑む女神。無数のろうそくの光。熱気と汗。そしてキラードッグの恐怖と安堵。
 振り返って私を見たロスの、はにかんだような微笑み。そのすべてが私にとって、あまりにも刺激がありすぎる冒険だったのだ。でもすでにあらゆる冒険を経験してきたロスにとって、そんなことはまったく取るに足らないちょっとしたスリルに他ならない。
 現実をもっとよく見なければいけないと思った。くだらない事で惑わされて一人で舞い上がってはいけない。この旅行中、私は夫とのことを真剣に考えるはずだったのだから。

「今頃子供達とキャンプ旅行にでも出かけている頃だろうと思います。ラサから出した絵葉書はもう届きましたか?あんな所から葉書が来るのなんて滅多にないのだから、くれぐれも失くさないように大切にしまっておいて下さい。カトマンズからの絵葉書にある写真は、葉書にも少し書いた通り英語で『Living Goddess』、ネパールでは『クマリ』と呼ばれる可愛そうな女の子です。私だけが可愛そうだと思うだけで、生き女神として敬れて育つ彼女は、きっとまんざらでもない心境で過ごしているのでしょう。
 私が見て残酷とも言えるしきたりも含めて、こちらに来てから民族としての生活の大部分である宗教や儀式に心底圧倒されております。リシケーシュのアシュラムでは、とても素晴しい師に出会いました。彼のお陰で、少しは私という人間、そして私の未来に希望を感じ始めております。
 インドという国は本当に不思議です。ここの空間を漂う輪廻の世界を渦まくようなエネルギーは、私達の次元を超えているように感じる時もあります。リシケーシュは質素な町ですが、私達にとって天国のような所でした。そこにたどり着くまでに、あまりに多くの悲惨な生活を見たからです。これまでこんなにたくさんの貧しい人や物乞いをする人を見たことがありません。トウキョウのホームレスやパリのメトロをうろついていた乞食なんてインドに比べたら裕福なものです。骨と皮だけになって垢だらけの裸で物乞いをしている子供が、私の子供達の年齢だったりすると本当に哀れで涙が出てきます。それなのに私達のガイドはこう言うのです。くれぐれもあの子達にお金をくれないように。一人にくれてしまうとあと100人も集まって来てしまいますからって。
 私はそれでも陰に隠れてずいぶんお金をあげてしまいました。本当にあげずにはいられないくらい哀れな子供達なのです。日本は本当に豊かな国だと思います。でも日本の子供はそのありがたさを解っていないのです。
 このインドの混沌とした世界、矛盾だらけの世界。残酷な所と慈悲深い所が一緒になっているヒンズーの神々。ガンジス川の死体焼き場で無邪気に遊ぶ子供達。そんな場面に最初はずいぶん戸惑いました。でもそれを見ているうちにこういう両面性や矛盾が一緒になっているのが、本当の人生の姿なんじゃないかって妙に居心地が良くなってくるのが不思議です。
 きれいごとばかりを並べて物事を解決していくよりも、激しく矛盾を感じて悩み切った方がいいんじゃないかというような気がしてくるのです。
 こんなことを書いていると、インドに行ってノリコは狂ってしまったんじゃないかとさぞ不安がっているんじゃないかと思います。もう書く所もなくなってきたのでこの辺で止めておきます。
 とにかく私は元気で旅を続けています。ビデオを2時間分もとってしまいました。
ちゃんと写っているか心配です。デリーに着いたらまた連絡します。子供達によろしく。愛をこめて。」

 私は紙の一番上に電話番号を書いてフロントデスクにいる男に日本にFAXしてくれるよう頼んだ。
もう一度ロビーに戻って固いソファに座り、外のテラスで相変わらず毛繕いをしている山猿を眺めた。

 私と夫の間の歯車が食い違い始めたのに気がついたのは、ちょうど去年の今頃だったかもしれない。その前は子育てや生活に精一杯で、そんなことを考える余裕がなかった。かつて二人の間に存在していたあの情熱はいったいどこへ行ってしまったのだろう。凍てついたパリの空を溶かしてしまうかと思ったほどの、あの蜜月のような日々は?ドイツにいた頃、旧東ドイツのコンクールに出かけた彼に連絡がつかずに幼い娘を抱いて、途方に暮れた日々は?
 あの頃の私達の生活は不安定だった。将来の仕事の保証もなかった。レストランに入る時も、ドアの前にあるメニューと財布の中味とを見比べてからという有様だった。新しい服を買うのもためらった。それなのに何故あんなに愛と幸せを感じていたのか。若さだったのか、私にはわからない。
 日本の大学での夫の仕事が忙しくなればなる程、私達は毎日機械的に夫と妻、そして子供の保護者という役割を続けていった。演奏活動と大学講師としての両立が難しく、その上日本という不可解な国にいるストレスに苦しみ、そのはけ口がない彼は時々私の主婦として、母としての能力を遠回しに批判した。幼稚園に行けば私は「○○ちゃんのお母さん」、近所を歩けば「○○さんの奥さん」と言われた。子供を連れて行く公園での会話の内容は、どこの奥さんがとてもきれい好きだとか、おむつが取れたか取れないかといったものばかりだった。
 夫が遅く帰る日も「仕事だから」という理由の他は、どんな同僚とどこでどんな仕事をしているのかなんて見当もつかない。でも育児で疲れていた私は、もうそんなことはどうでも良かった。夫から遅くなるという電話がかかるとまず思うのは、今夜は食事をちゃんと作らなくてもいいということだけだった。世間から見放されたように感じた私は、それに抵抗するように暇さえあれば本を読んでいた。毎日がどうしようもなく空しかった。
 だからピアノセミナー行きが可能になって自分の世界が広がった時は、まるで長い間、冬眠状態だった私の魂が空にまた飛んで行ったような解放感を味わった。でも今思えばそれが、私と夫の間の心の距離を増すことになったのだろうか。自分が思ったように生きられて、それでも続く幸せな結婚とは所詮幻想に過ぎないのだろうか。

 私は自分の焦燥感をたびたびドクター・ボンナムに話した。彼はそれを一々分析したり、説教したりすることは一切しない。手紙で、そして最近は電子メールで、彼に私の悩みや喜びを送った。ドクター・ボンナムからはほとんど返事が来ない。来てもごく短い文で、
「ノリコが相手も自分も含めて『許す』ということを学んでいるようす、嬉しく思います。相手を許す前にまず自分を許すことは大切なことだから。」
とか
「今の彼が気づかなければいけないことは、スピリチュアリティーな世界の重要性です。ノリコの言う通り、彼はそんな世界にアレルギー反応を起こしているのかもしれない。でもそんな言葉を軽く使ってもいいくらい日常的にスピリチュアルにならなければいけない時代がこの物質文明の世界にも、もうすぐ来るはずです。」
と言った抽象的な返事だった。それでも私は構わなかった。長々としたアドバイスをもらうよりも、彼の短いメーセージの中に真理のようなものを読み取ることができるような気がしたからだ。何故か彼がいつも地球の裏側で私の人生を見守っていてくれるような気がしていた。そしてこの『南アジアの聖地を巡る旅』に彼が誘ってくれたのも、私がこの旅で経験することすべてを見通しての事かも知れないと思った。

 私と同じように、どこへも行かずに休んでいたエリザベスと一緒にホテルを出て登り坂をしばらく歩き、彼女の旅行ガイドブックに乗っていたベジタリアンインド料理のレストランに入って遅い昼食をとった。
 ムスーリーは小さな町だがホテルの数が多く、レストランも高級レストランからチベット料理までよりどりみどりである。ホテルにもバーがついている所が多い。インドの町と言うよりも寂れたヨーロッパの避暑地と言ったところだろうか。緑の山の斜面にそって散らばる色とりどりの屋根のコントラストがとても美しい。
 ここは、インド人にとっても人気の避暑地らしい。地獄の暑さに煮えたぎる下界から色々な観光客がヒマラヤから直接吹いてくる涼しい風を求めてやって来る。もともと植民地としてインドを支配していたイギリス人達がデリーの燃え盛るような暑さにたまりかねて移り住んで来たのが、観光地としてのムスーリーの始まりだという。エリザベスの輝く髪に魅了されてインド人の観光客が積極的に彼女に話しかけて来てムスーリーの記念に一緒に写真を取りたがる。そのたびにエリザベスはまるで映画スターになったように得意がって喜んだ。

 レストランは混んでいた。音楽もなく、満杯に入っている客の話し声がザワザワとうるさかった。数人のウェイターが忙しく駆けずり回る中、私とエリザベスは運良く空いた一番奥の角の小さなテーブルに向かい合って座った。オーダーした2〜3種類のナンをちぎって舌がとろけるように美味しい2種類のカレーにつけて口に運んだ。そのたびにエリザベスは、天にも登るような恍惚の表情で「Ecstasy !」と呻いた。
「ノリコ、昨日の夜、あなたとロスがガンジスのほとりを歩いて行くのが見えたわ。」
とエリザベスがレモンを絞って入れたソーダ水を飲みながら言った。私はまるで悪戯がばれた子供のような顔をして見せた。
 エリザベスが言った。
「私、ロサンゼルスの空港で初めてロスに会った時、なんてハンサムなの!と思ったわ。握手した時、彼のあのキュートなスマイルにドキドキしちゃった。そしてカトマンズあたりから気がついたわ。彼はノリコにとても魅力を感じてるって。正直言ってちょっと妬けたわ。」
「エリザベス、私はロスより10歳以上も年上で、地球の反対側に住んでいて、その上、私には夫も子供もいるのよ。あなたの方が彼を射止めるチャンスは大ありじゃないの。」
 私はできるだけ平静を装ってナンを口にほおばりながら世間話しをするように言った。
「ところがね。事実は小説よりも奇なりとはこのことよ。私、ロスとあなたが一緒に歩いているのをアシュラムの屋上で見たの。誰と一緒だったと思う?」
「Who?」
 彼女は悪戯っぽく笑って私に誰だかあててみるように言った。私はしばらく考えてから「Mark」と言った。
「そう!そうなのよ!どうしてわかった?」
「さあ、たぶん私もあなたと同じ理由でロスと歩いていたからじゃないかしら?あなたが心配していたとおり、アシュラムの『火の礼拝』で魔法をかけられちゃったからよ。私とロス、ドクター・ボンナムとスザンヌ。そして残りはあなたとマークしかいないでしょ?」
「That's right!アシュラムのあのロマンチックな屋上でマークが私に打ち明けてくれたのよ。彼が成都のホテルで私の部屋にミネラルウォーターを届けに来てリバがドアを開けた時、私がベッドの上に座ったまま彼を見て 『Come on in !』って言ったらしいの。その瞬間から私を意識したらしいわ。夜の『火の礼拝』に呼ばれた時は、私ともっともっと連帯感を感じたって言ってたわ。私もそうよ。あの夜以来、まるで運命の糸に引き寄せられたみたいに彼に恋をしてしまったの。ノリコ、彼だって私よりずっと年下だし、ノックスビルでガールフレンドが待ってるわ。私はナッシュビルに住んでいるから3時間も車を走らせなければ彼に会えないわ。実は今、ちょっと混乱してるのよ。この恋をどうしようかってね。私、もう傷つくのはこりごりなのよ。」
 私は内心複雑だった。これは偶然なのだろうか。マザー・ジョディーが私達の感情をまるでチェスの駒でも動かすようにコントロールしていたのだろうか。それともこの旅で、私とロスが出会って、エリザベスとマークが出会ったのは、すべて必然的なことだったのだろうか?
 シャシクマールが、レクチャーで言った言葉を思い出した。
「あなた方が人生上遭遇する出来事、あるいは決断すること。事故や最愛の人の死に至るまで、偶然という事は絶対にありません。どんな小さな事でも皆必然なのです。その中にはもちろん前世のカルマによる出来事もあるのです。問題はその必然性をあなたのこれからの人生にどう反映させていくかという事です。」
 私と夫が出会ったのも必然なら、今こうして私がはるか遠いインドの地で、夫との未来を思い煩っていることも必然なのだろうか?

 私は相変わらず落ち着き払って、コカ・コーラを飲みながらまるで世間話のように聞いた。
「エリザベス、『火の礼拝』の時、あなたとマークは一緒だった?」
「私が一番先に呼ばれて、マークは最後よ。あの小屋では一緒じゃなかったわ。」
「あなた、マザー・ジョディーにマークのこと何か言われた?」
「マークの事は何も言われなかったわ。」
「じゃあ、マークは? 彼はあなたの事何か言われたと言ってた?」
「何も言われなかったと思うわ。どうして?ノリコは何か言われたの?ロスの事。」
「別に何も。」
 エリザベスが輪廻転生を信じる人だということはわかっていた。でも私にはマザー・ジョディーの言葉を言い出す勇気がなかった。私自身、彼女の言葉に何も確信が持てなかったからだ。その上、夫と子供がいる40歳の私が旅の最中に出会った若い哲学家に心を奪われている事自体が実に愚かな事に思えた。そんな感情をすべて否定したかった。そうやって自分のプライドを守りたかったのかもしれない。

 レストランを出て坂道になっている通りを登った。
「ムスーリーってテネシーによく似てるわ。まるでギャトリンバーグを歩いているみたいに思わない?」
とエリザベスが言った。
 ギャトリンバーグとは、 William College からそう遠くないアパラチア山脈の麓にある観光地のことだ。そう言えばここと地形がよく似ている。College を夫より1年先に卒業した私はテキサス州にある大学院へ進んだ。バケーションを向かえると1000マイルも離れた町からボーイフレンドだった夫に会いに24時間もかけてテネシーに戻った。大型トラックが側を走ると吹き飛ばされそうなくらい小さくて頼りない中古の日本車を運転して、果てしないアメリカ大陸の広いハイウェイを走り抜けたあのエネルギーは一体どこから湧いて来たのだろう?
 夫と一緒にギャトリンバーグで大晦日を過ごしたことがあった。あちらこちらにキラキラと灯りが灯る山肌を、滑るように登るケーブルカーの中で、酔って陽気になった老人がバリトンで歌を歌い始めた。私は貧乏学生だった夫が奮発してご馳走してくれたディナーとワインですっかり夢見心地だった。ポツポツと下界の灯りが見えるケーブルカーの中で夜の12時を向かえた。人々が抱き合って口々に 「Happy New Year!」 と言った。夫は私を抱きしめて「Happy New Year」 と囁くと私の唇にキスをした。老人が歌うのを中断して言った。
「お二人さん、今のうちだよ!今が最高の時だよ。若い恋の情熱なんかいつかは枯れちまうのさ。」

 マークのことが気にかかるのか、エリザベスはいつもより疲れて見えた。いつもなら道の両側に所狭しと連なるマーケットと、店の前に吊り下げられた色とりどりのパンジャビスーツや民芸品の山に歓声を上げるはずだ。
 坂の下の方からオートリクシャーが音を高く上げて走って来た。乗っているのはドクター・ボンナムとマリアンだった。私とエリザベスが手を振って名前を呼んだ。
オートリクシャーが私達の前で止まった。
珍しくスザンヌの姿がない。
「Where are you going ?」
とエリザベスがオートリクシャーの中に頭を入れて聞いた。
「私が若くて美しかった時代に教師をやって、ロバートがやんちゃ坊主だった頃に生徒だった学校を見に行くのよ。」
 分厚い眼鏡をかけたマリアンが答えた。かつてドクター・ボンナムがここ、ムスーリーの学校へ通い、マリアンが教師の一人だったことを初めて知った。
「スザンヌは?」
「ちょっと体調が悪いので、夕方までホテルで休みたいらしい。」
 オートリクシャーの奥でドクター・ボンナムが寂しげに言った。
「こう急激に温度が下がると疲れも出るわよ。リクシャーに乗ってても風が寒くて閉口するわ。あなた達も一緒にいかが?」
 マリアンが誘ってくれたので、私は喜んでオートリクシャーに乗り込んだ。エリザベスは相変わらず疲れた表情で、
「私はホテルで少し休みます。写真を撮れないのが残念だけど、。」
と言って坂を降りはじめた。

 学校は見晴らしのいい高台にあった。白いゲートを開けて中に入ると、緑豊かな敷地の中央に可愛らしい鐘がついたチャペルがあり、それを挟むような位置に古い洋風の校舎が二つ向かい合って建っている。
 ドクター・ボンナムはミショナリーの両親との間に生まれ、5歳の頃にインドに移り住んだ。そしてここムスーリーの小学校へ通った。最終的にアメリカに戻ったのは高校を卒業する頃だったと言う。
 マリアンは、この学校に数年間美術の先生として赴任して来た。マリアンの夫はここで音楽を教えた。
マリアンを通してドクター・ボンナムは、美術や建築学に興味を持つようになり、そこで培われた音楽への情熱からピアノをマスターして、後にそれらの知識を大学教授としての自分の職業にするまでに至ったのだ。

 150年前にインドを支配していたイギリス人の子供達のために建てられたという校舎は、まるで昔のヨーロッパの田舎にあったような可愛らしい建物だ。現在はインドに住んでいるクリスチャンの外国人のための寄宿学校として残っているらしい。古い校舎は長い年月を経てはいるが、外側は良く手入れが行き届いていて白いペンキもきれいに塗ってある。夏休み中のせいか、あたりは静まりかえっていた。
 混んだ観光地の人の波から解放されたばかりの私達は、あたりを漂う平和な静けさを楽しんだ。
ドクター・ボンナムとマリアンは感慨深そうにあたりを歩き回っている。
「信じられない。校庭がこんなに狭かったなんて、、。この木もかなり成長している。」
 ドクター・ボンナムが大木の幹を撫でながら言った。
私はチャペルのガラスの扉から中を覗いているマリアンのそばに歩いて行った。
 深く刻まれた彼女の目の下の皺が涙で濡れていた。
「あの頃は、夫と一緒に神からの使命感に燃えて、ここで一生懸命働いたわ。聖書にあるイエス・キリストの言葉をインド中に浸透させようという情熱に生きていた。」
 眼鏡の奥の目をしょぼつかせながらマリアンが言った。
「このチャペルは、ここの生徒達だけの物ではなかったわ。私達はムスーリー中のインド人にキリスト教を広めたのよ。ここはあらゆる人のためにあったわ。あの頃は近所に住むたくさんのインド人が聖書の教えに耳を傾けてくれた。日曜日には、このチャペルに溢れるほどの人が集まったわ。でも面白いことに、そんな現象が世界中あちこちで起るのよ。南アメリカに行った時もメキシコに行った時も、そこの住民は一応キリスト教に興味を示すの。でもその後、ちゃんとそれぞれの神々に戻っていく。つまり彼らはあくまで私達白人への礼儀や社交辞令としてチャペルに来るの。でも決してそれ以上の物にはならないのよ。
 その証拠にメキシコでは、彼らの信じる宗教の儀式に私達白人は絶対入ることを許されなかった。結局今は外国人の教師や生徒以外は、このチャペルに入らないと聞いたわ。見てよ!なんて殺風景な事!」
「私にはクリスチャン・ミショナリーのことが良く理解できないわ。自分達の宗教を信じて平和に生きている民族の中に入って行ってキリスト教を広めるのが、何故その民族の魂を救うことになるのか、、。」
 マリアンの隣で、半ば曇ったガラスに目を近づけると正面の壁に掛けられた古ぼけた十字架が見えた。マリアンは、バッグの中からハンカチを出すと眼鏡を取って目尻を拭いた。
「クリスチャン・ミショナリーが、なぜ他宗教の民族にキリスト教を広めようとするか、、。それは神とイエス・キリストへのコミットメント以外の何物でもないわ。そして私がなぜキリスト教を広めたかったか、、。答えは若さと情熱よ。それしかないわ。実際、ひどい戦争で苦しめられた民族は、許しと愛が教えであるキリスト教に救いを見ることもあるわ。ムスーリーの地は平和なヒンズーの地だったのよ。ミショナリーは、そこをよく見極めなければならないわ。平和でいる民族が信仰している宗教の邪魔をしていいものなのかどうか。
 西洋人が『天にまします我らの神よ』と祈るのに対して東洋の宗教は心の一番奥の所に神が働いていると考える。その天にいる外なる神と東洋の内なる神が、はたして同じなのか、、。そんなことをちゃんと考えてから行動を起こすべきだったのよ。」
「これからのクリスチャン・ミショナリーは布教する前に、その土地の民族の宗教と対話をするべきかもしれないわね。」
「まあ、そういう事ね。リシケーシュのアシュラムで習った瞑想法だってクリスチャンのためにいいことだわ。ただ相手の哲学をどこまで受け入れるかは、むずかしい問題ね。」
「理想論よね。それが可能なら宗教の違いによる戦争だって起こらないかもしれないわ。」
「いずれにしても、、。」
 マリアンはため息をついて言った。
「今の私は、世界中から来たクリスチャンの子供のためにこのチャペルがまだ生き残っているというだけでも幸せに思うわ。私も主人も神のためにそりゃもう、必死で働いたんだから。」
「マリアン、御主人はまだ元気なんでしょう?アメリカであなたを待っているの?」
「私達、ずいぶん前に離婚したのよ。まだ信じられないわ!ここにいた頃なんて考えもしなかったことよ。私が離婚するなんて。神の教えにも反する行為よ!でも仕方がなかったの。夫が私から去って行きたかったのだから。彼を止めることなんてできなかったわ。今は二人の息子の家族が時々訪ねて来る他はまるっきり独りよ。
 本当にここに居た頃は想像もしなかったわ。一つの情熱を共有していたあの頃は二人共幸せだったから。Oh, my Lord !」
 彼女はまたハンカチを目頭にあてた。時の移り変わりとはなんと残酷なのだろう。
この世の中に永遠に続く愛は存在するのだろうか?愛は終わってしまうか、型骨化した関係や「あきらめ」になってしまう運命にあるのだろうか?
 私は急に目の前のグレイの髪と丸い背中のマリアンが気の毒になった。私は背の低い彼女の肩を抱いて 「I'm sorry.」 と言った。
「Don't be sorry.」
 マリアンは眼鏡の奥の潤んだ目で私を見て微笑んだ。
「過去の思い出に涙を流すのはとても良い事よ。魂がきれいになるわ。そしてこの年になって人生の様々な真実に気付かせていただくのは本当に幸せなことなのよ。」

 ドクター・ボンナムは校庭の端の大木の下で、地元の住民らしい男と立ち話をしていた。彼は学校のすぐとなりに住んでいてここで用務員のような仕事をしているらしい。私達が学校を見に来ることをあらかじめ知らされていた彼がゲートの鍵を開けておいてくれたのだ。ドクター・ボンナムがヒンズー語で話すのを初めて聞いた。私が驚いて彼の流暢なヒンズー語を褒めると、
「ノリコ、君は何年アメリカに住んで英語をマスターしたんだい?」
とまた彼らしい返事が返って来た。

 学校の門を出て、坂道をさらに登った。マリアンは、フーフー言いながら昔はこの道を難無く駆け登ったのにと言った。
 町の中心からこんなに離れても通りは人でいっぱいだ。ドクター・ボンナムとマリアンは道の両側に増えたホテルの数に驚いていた。どこからともなく現われる白や茶色の牛達も相変わらずのんびりとあくびをしながら歩いている。道端にある牛の糞を踏まないように気をつけて歩かなければならないのもインドの通りを歩くコツだ。
 道の上で時間が経って乾いた糞をリヤカーを引いた子供が大きいスコップで集めて歩く光景も見られる。乾いた牛の糞は、燃料や家の外壁として重要な役割を果たすのだ。

 丘の上にある小さな茶屋でマサラ・チャイというインドのスパイス・ティーを飲む。そこの主人である年老いた男が、ドクター・ボンナムを覚えていた。その男はまるで息子のようにドクター・ボンナムの頭を撫でたり肩を抱いたりした。シナモンとカルダモンの香りがいっぱいの美味しいマサラ・チャイを飲みながら私はドクター・ボンナムの東洋的で神秘的な人間性のルーツを理解したような気がした。彼はそこで、インドの人間のように振る舞っていた。彼の口から流れ出るソフトなヒンズー語の響きを聞きながらドクター・ボンナムがここの地形によく似たテネシーの山中のログハウスで孤独な生活を楽しんでいる理由が、今ここに来てやっと解ったような気がした。
 白い髪を頭の後にきっちりと結わえた妻が私達のために米菓子を運んで来た。マリアンが私にくれぐれも右手だけを使って食べるようにと言った。左手は不浄な手と考えられているので、それで食べ物に触るのは失礼にあたるのだ。このことはインドに来る前からわかってはいたのだが、マリアンのその娘を思う親に似た親切心に感謝した。
「ジャパーニー? チン?」
 私に老人が聞いた。日本人か中国人かと聞いているらしい。
「ジャパーニー」
とドクター・ボンナムが言って私が彼のピアノの弟子だったことを説明した。老人と彼の妻は嬉しそうな顔で両側から私の肩を抱いた。私は少しでもヒンズー語を覚えて来れば良かったと思った。
 旅をすること、それはまず、その地にひしめく人間達の渦の中へ飛び込んで行くこと。さまざまな人間との出会いを繰り返し、その温もりの川の中を泳ぐことに他ならない。そしてこのインドの旅で私はドクター・ボンナムのルーツをも見ることができたのだ。この旅に終止符を打つ頃には、「自分の眼」ではなく、どこか違う「向こう側の眼」から私自身を眺めることができるのかもしれない。
 この老夫婦もインドの大地にしっかりと根をおろして、丘の上の小さい茶屋を細々と経営しながら生きてきたのだろう。決して裕福とは言えない彼らの明るい笑顔に「真の幸せとは何か」を教えられたような気がした。

「実はここで懺悔することがあるんだ。」
 夕暮れの霧の中を走る帰りのオートリクシャーの中で、薄手のジャケットの襟を立てながらドクター・ボンナムが言った。
「向こうの山の入り口にかなり古い虎の像が二つ立っていた。昔はあの山のジャングルの中に虎が住んでいたんだろう。山に入って行く前に人々がその虎の像に祈りを捧げたんだ。僕が小学生だった頃、虎の口から牙を抜いてポケットに入れて帰ったことがあった。実はその牙を今でも持っているんだ。」
 私とマリアンは顔を見合わせて大笑いをした。
「それは、あなたが善悪の見境いがまだつかなかった頃のことよ。きっと神は許して下さるわ。」
 マリアンがお腹をかかえて笑いながら言った。
「実はもうひとつあるんだ。」
 相変わらず柔らかく響く英語でドクター・ボンナムが付け加えた。
「昔住んでいた家をもっと登ったところの丘の上に廃虚になったヒンズーの寺があった。そこに僧侶が一人移り住んで来た。夕暮れになるとその僧侶が決まって鈍い音のホーンを鳴らすんだ。あるクリスマスに両親がおもちゃのトランペットをくれた。次の日から、その僧侶がホーンを吹くと、僕はそれに答えるために外に出て、できるだけ大きな音でトランペットを吹いた。」
 マリアンは、笑いながらまたハンカチで眼鏡の下を拭いた。
「それで、あなた、その僧侶に叱られなかったの?」
 ドクター・ボンナムが言った。
「叱られる前に両親からトランペットを没収されてしまったよ。」
 彼は翌日ムスーリーを発つ前にスザンヌと一緒に牙を抜かれた虎と、そのヒンズーの寺が残っているかどうか見に行くつもりだと言った。
 私は笑いながら、果たしてこの旅が終わるまでにドクター・ボンナムと二人だけで話ができるチャンスがあるだろうかと考えていた。

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