さすらい人幻想曲

第17章:ハリドワール    Haridwar

 ヒマラヤに住むシヴァ神の髪から地上に流れ落ちて始まるというガンガーの水源。
それは氷河のはるか下から湧きだし、神々の砦と言われるヒマラヤの山々を支流を集めながら流れ続け、豊かな水量を湛えて平野へと旅をする。山が平野へと変わる最初のポイントがこの聖地、ハリドワールなのだ。Hariは、「神」を意味し、dwarは、「〜の門」を意味する。神々が住む山地へ続く門を象徴するのがこの聖地である。

「ヒンズー教の中心となっている二つの神が『シヴァ神』と『ヴィシュヌ神』です。シヴァ神をHaruと言うことから、シヴァ派の人々はここをハルドワールと呼びます。ハリドワールはヴィシュヌ派の名前です。ヴィシュヌをHariと言うのです。この町の中心である急流なガンジス川のガートを私達はハリ・キ・パイリーと呼んでいます。『ヴィシュヌの足跡』という意味です。」
とインド人のガイドが説明してくれた。

 ハリドワールの町に近づくにつれて、バスの窓から見るガンジス川に大きな橋がかかっていて、緑豊かな小さな山の上には寺院の屋根やモスクやカラフルな建物が点在しているのが見え、早くも由緒ある巡礼の地にたどり着いたという実感が湧く。
 ホテルに着いてバスから降りた途端、あのどうしようもないインドの熱気が戻ってきた。しかしこの肌にまとわりつくような暑さも、ムスーリーの後だと少しは懐かしささえ感じる。

 部屋の天井で扇風機が回り、各部屋に備え付けられたエアコンの音がかなりうるさい質素なホテル『ホテル・スヴィダー』も、ムスーリーのホテルに比べるとけっこう豪華に見える。部屋に荷物を置くと、窓の外からカンカンというかん高い鐘の音とマントラの響きが聞こえて来た。錆び付いた開き窓をこじ開けて外を見ると、ホテルの隣に古びた寺院の石の屋根が見えた。はるか下の建物の間の細い路地に黒い牛がのんびりとした顔で立たずんでいるのが見える。

 二人づつリクシャーに乗り、ハリドワールを流れるガンガーのガート、「ハリ・キ・パイリー」を目指す。私はロバートと一緒に乗った。浅黒い顔の頼りなさそうな自転車こぎの男を見て大柄なロバートはひたすら恐縮して、
「こんなに重いリクシャーを引かせるなんて残酷だよ。」と心配して言った。
 下り坂になると、彼はホっとした顔でソリに乗っているようなジェスチャーをして、良く通るバリトンの声でジングルベルを歌った。ヒンズーの聖地にまったくそぐわない快活なジングルベルのメロディーも、あたりの喧騒の中でたちまち掻き消されてしまう。登り坂に変わると、彼はすぐにリクシャーを降りて自転車こぎの男に充分なチップを払い、後から来たリクシャーをつかまえて一人で乗った。
「これで彼も筋肉痛からまぬがれるよ。僕に比べたらノリコなんて羽のように軽いからね。」
後のリクシャーから彼は叫ぶように言った。

 アラビアを思わせるような装飾を施したパステルカラーの背の高い建物の間を通り抜けると、インドらしい商店街に差し掛かる。のんびりと道端にしゃがんでチャパティーを焼いている男達。軒並みに連なる店に巡礼者向けの土産物が山積みになっている。どの店にもガンガーの水を入れて持ち帰るための金色の壷が、所狭しと並んでいる。 ガンジス川に近づくと道の両側の地面の上に、バナナの葉で作った皿の上いっぱいに盛られた色鮮やかな花が、まるで花火のような華やかさでどこまでも並んでいる。それを買い求めて巡礼者達は、ガートでガンガー神への捧げ物にするのだ。

Hardiwar India 夕暮れのハリ・キ・パイリーは沐浴をする巡礼者でごったがえしていた。沐浴の風景も川の様子もベナレスで見たそれとは、印象がまったく違っていた。ゆったりと音もたてずにどこまでも海のように雄大だったベナレスのガンジス川とは異なり、ハリドワールの川の流れはあまりに速く、川幅も狭い。まるでここにたどり着くまでに通り抜けて来たヒマラヤの厳しい自然を物語るように、ゴーゴーという音をたてながら濁流のように流れている。その荒れ狂う川の中に人々は争うように入っては、聖なるガンガーの水を全身に浴びるのである。危険防止のためガートにそって張り巡らされた鎖につかまりながら、人々は身を浸し、ガンガーに祈りを捧げている。
 空が黄昏色に変わっていくと、ガートのまわりに次々とオレンジ色の灯りがついた。あたりを漂う夕暮れのモヤがその灯りをぼんやりとにじませていく。鈍い灯りの中に、無数の黒い人影が浮かび上がってくる。ガートのまわりにある寺院からは明るいネオンのような灯りが漏れて、まるで夜祭りのように人ごみを照らしている。
 激しく流れる川をまたがる橋の上に登り、欄干からガートを眺めた。人々は手に手に盆の上に灯された火を持って、神に祈りを捧げるために集まっていた。夕暮れの礼拝、「プージャー」の始まりである。しだいに黒くなっていく川面の上で祈りを捧げる人々の顔が火に染まり、原始の火祭りのような雰囲気をかもしだしていた。

「紀元前1500年頃、アーリア人がインドに侵入して来たのがヒンズー教の始まりらしい。彼らは様々な神々を持ち、儀式を司るバラモンと呼ばれる僧侶が権力を持っていたので、バラモン教と呼ばれた。彼らの儀式の特徴は、火を焚くことだった。ヒンズー教はバラモン教が独自に変化し、発展していった宗教で、やはり今でも『火』を祈りのための重要な役割として使っている。」
 フランクが、橋の上でレクチャーを始めたのだが、ゴーゴーという川の音とひしめく人々の騒がしさが、彼の落ち着いた柔らかい声を簡単に掻き消してしまう。
 少し離れた所で、相変わらず首から大きいカメラをぶらさげたエリザベスが、マークに寄り添いながら川を見下ろしていた。いつも元気なエリザベスの横顔が少し寂しげだ。旅の間に突然降って湧いたような新しい出会いに戸惑っているのだろうか。

「ノリコ、このあたりを少し歩いてみようと思うんだけど君はどうする?」
 私の背後からロスが言った。振り向いて彼の顔を見た。
「もちろんあなたと一緒に行くわ。」
 私はロスと一緒に橋の階段を駆け降りた。背中にドクター・ボンナムの視線を感じた。彼は私が思っている事をすべて見通しているに違いないと思った。

 巡礼の人でごったがえしている中、ガンガーから這い上がって来た全身びしょ濡れの人と何度か擦れ違いざまにぶつかって、私の赤い絞りのパンジャビが濡れて肌に張り付いた。私達は、象の頭を持つガネーシャ神が祭ってある寺院に向かって歩いた。全体が朱色の寺院の壁や柱にかかる帯のように、金色でヒンズー語の言葉が書かれてある。寺院のてっぺんの方からカンカンカンというけたたましい鐘の音が響いていた。
 入り口に少女が立っていて私達に並ぶようにと手ぶりで促すと、持っていたお盆の上の壷の真紅の粉を指につけて、私達の眉間にヒンズーの印をつけてくれた。私達はお盆の上に数ルピー置いて少女に向かって合掌してから、サンダルを脱いで寺院の中に入った。
 ムっとするような熱気に包まれた狭い寺院の中で、無数のろうそくの炎の向こうに巨大な象の頭を持つガネーシャ神が浮かび上がった。怒りのあまりに我が子の首をはねてしまったシヴァ神が、自分の妻の化身のひとつであるパールヴァティーに戒められ、通りかかった象の首をつけて生き返らせたのだという。ガネーシャ神は、新しい事をする時に幸運を呼ぶ神と言われ、商売の神として商人達の信仰を集めている。
 ヒンズー教と関わりのある動物は、シヴァ神の乗り物だったという「聖牛ナンディ」である牡牛やガネーシャになった象だけではない。寺院の中にガネーシャと並んで猿神であるハヌマーンも、尊悟空のようなユーモラスな姿で祭られていた。
「ラーマーヤナ物語」という伝説の主人公であるラーマ王が、魔王と戦って絶体絶命という時に猿の軍団の加勢のお陰で勝利を得た。それ以来猿神ハヌマーンとして神々の仲間に加わったのだという。なんとその片方の手には、スリランカ島ひとつを乗せている。
「日本でも田舎に行くと馬頭観音と言う像が祭ってあったりして、ずいぶんインドと似ている所もあるのよ。もちろん宗教の中心になっているわけではなくて、これよりもっともっと質素だけど。」
「ホテルの隣の寺院に、ガンジーの像までが祭られてあったよ。外から見えたからつい門から入って行ったら、そこにいた僧侶にそれ以上中へ入るのを断わられてしまった。」
「どうして断わられるのか聞いてみた?」
「英語が通じなかったし、時間もなかった。恐らく怪しいアメリカ人だから警戒されたんだと思うよ。」
「私も断わられるかしら?チャンスがあったら試してみるわ。」
「僕も一緒にということをお忘れなく。あんな風に理不尽に断わられるとどうしても入りたくなる。」

 じっとしていると体中から汗が噴き出してくる。私達は耐えられなくなって外に出て寺院の熱気から解放された。こんな時、ずぶ濡れになるのを承知で、ガンガーに身を沈めてみるのも気持ちがいいかも知れない。でもすぐに思いとどまった。ひたすらガンガー女神に祈りを捧げるために沐浴しているヒンズー教徒に混じって、ガンジス川をプール代わりにしたら、たちまち神の怒りに触れるかもしれない。私の隣で、沐浴するヒンズー教徒を眺めているロスも同じ気持ちでいるのを感じた。ここ、ハリドワールのガートには、ベナレスに負けないほどの不思議なヒンズーの霊気が漂っているのだ。

 川の水で濡れた広場を歩く。私はバッグの中からビデオマシンを取り出して、ゆっくりと後退りしながら薄灯りの中のガンジス川で沐浴する人々の姿や、賑やかな周りの寺院や露店の様子を写した。
 家族連れで来ているインドの巡礼者達が、ビデオをカメラだと思って「Take our picture !」と私の前に並んだ。サリーを着ている女達は恥ずかしそうな顔で、腰のまわりや肩から流れる布を整えたりしながら男達の後に立った。リシケーシュの人々と同じように、カメラを向けてもチップを要求するわけでもなければ住所を教えて後で送ってくれと言うわけでもない。そんな人々に何度となく出会った。彼らは巡礼の旅の記念にどこか、誰かの写真に写りたいだけなのだ。自分の写真を後で見るわけでもないのに、ニコニコとして並ぶインドの人々の素朴な喜びように私まで胸が熱くなった。

 広場から、ガンジス川にかかった橋をビデオに写していると、突然うしろで「マダム!」という慌てたような声がした。驚いてビデオのファインダーから目を離すと、白い衣をまとった3人の僧達が私を取り囲んで睨んでいた。
「マダム、あなたは神聖な神のすぐ前を通った。それも土足で。」
という意味なのだろう身振り混じりの片言の英語で言うと、一人の僧が私の後ろを指差した。撮影に夢中になっていた私は、広場の片隅に祭ってある神のほこらの周りの聖域に土足で入りこんでいたらしい。なるほどその一角の床に敷物が敷いてあり、人々はそこを避けて通っている。夕暮れの礼拝の最中にそこを土足で通るのは、神に対しての冒涜にあたるらしい。
 慌てた私は、「I'm very sorry !」と言って僧侶達に謝った。バカな観光客だとでも言っているのだろうか。僧達は口々に私のビデオマシンを指さして戒めている。私はビデオマシンを没収されるのかもしれないと思って半ば泣きたくなった。
 たちまち周りにできた人垣をかきわけてロスが出て来た。彼はていねいに僧達に手を合わせて許しをこうと私の肩に手をかけて前方に押すようにして歩き始めた。
「Just keep walking !」
私達は急いでその場を逃れた。

「ロス、これで2回目よ、あなたに助けてもらうのは。本当に知らなかったわ。あんなとんでもないことをしたなんて。本当に勉強不足だったわ。」
 私達は8時の夕食に間に合うようにリクシャーで通った商店街を早足でホテルに向かって歩いていた。
「僕だって知らなかったよ。ノリコと一緒にいるとスリルの連続で、本当にいい思い出が次々とできる。」
 私は人なつこい笑顔を浮かべた彼の横顔を見た。ロスはまっすぐ前を見たまま言った。
「他の誰とも一緒に歩きたくない。他の誰かと歩くぐらいなら、独りでいる方がずっと気楽なんだ。独りに慣れているからね。」
 生温かい風に煽られて、滑りやすい私のパンジャビ・スーツから白いスカーフがはらりと地面に落ちた。ロスが立ち止まってそれを拾うと、埃を払って私の首に手を回してかけ直してくれた。フワフワと柔らかいスカーフの肌触りと一緒に彼の固く日焼けした腕が私の首に絡まる。見上げると彼の眉間にある赤いヒンズーの印が汗と一緒に少しばかり、まるで血が滴り落ちるように鼻筋に流れていた。彼の顔の半分を右手で覆ってそれを親指でぬぐった。長いまつげが私の手の平をくすぐる。こんなに周りに人がいなければ私は、息がかかるほどの距離にある彼の首に腕を回して抱きしめていたかもしれない。彼も私と同じような気持ちでいるに違いないという思い、そのとろけるような感覚が私の心を満たしていく。

 あたりは、相変わらずまるで祭りのような雑踏を見せていた。裸電球を軒下いっぱいにぶらさげた店の前には、宗教用品や生活用品が所狭しと並んでいる。チャパティーを焼く香ばしい香りが漂う。店の前に山盛りになった食べ物にハエがたからないように団扇で煽ぐ少年達、自分が「聖なる存在」である事を知っているのか、交通の迷惑もお構いなしに通りに立ちはばかる、痩せて薄汚れた牛達、頭の上に大きな篭を乗せて練り歩く女達、ひしめき合う人々とリクシャーが擦れ違うたびに鋭い自転車のベルが鳴る。

 誰かが私のパンジャビの端を引っぱった。横に裸足の少女が二人立っていた。よれよれの衣服を着た少女達は、私を見上げて手の平を差し出すと、「ハロー、ハロー!」と言ってついて来た。物乞いの少女達である。二人の薄汚れた顔を見た。5〜6歳ぐらいだろうか?鼻筋の通った可愛らしい顔をしている。彼女らの訴えるような目が意地らしくて、なかなか無視できない。
「ロス、この子達にお金をあげたいんだけど、どう思う?」
「いいから、立ち止まらないで歩いた方がいいよ。そのうち諦めて去っていくさ。」
 少しでも微笑んでしまった私が悪いのか、どこまで歩いてもその子達は、「ハロー、ハロー!」と言いながらついて来た。いたたまれない私はついついバッグの中の財布に手が伸びてしまう。
 あきれた顔でロスが言う。
「君は南アメリカでは、絶対暮らしていけないよ。このたぐいの子供達がいつも何千と集まって来る。」
 一人の少女がロスの方にまわり、彼に手を差し伸べた。ロスは歩きながら少女の目を見て微笑んで、彼女の手の上に自分の手を降ろしてポン!と打った。
「ロス、偉そうなことを言いながら、あなたもどうしてこの子にそんな甘い顔をするの?変に期待させるのはもっと良くないわ。」
 彼は笑って肩をすくめてみせた。
「金はやらないけど友情を表わしているだけさ。この子達だって列記とした人間だからね。この子達はアメリカや日本から来ている観光客は豊かで、しつこくつきまとえば必ずお金が降ってくると思い込まされている。もちろん、その中には僕みたいな貧乏学生もいるなんていう事は知らない。彼らにとって飛行機に乗ってこうして外国に来ることができるのはまちがいなく大金持ちなんだよ。だから売り物屋はそいつらに物を高くふっかけて売ってもいいと思うし、物乞い達もいいカモだと思っている。そんな事をインプットされてる子供達に同情して金をやっても決していい事ではないと思うよ。」
「日本人は今でこそ裕福そうに旅行をしているけど、終戦当時の子供達はやっぱりこんなだったらしいわ。叔母が言ってたわ。食べ物がなくてひもじくてアメリカの兵隊が通ると子供達皆で群がったって。いつもガムやチョコレートをもらって、それが珍しくて嬉しかったんですって。戦争が終わってみると、アメリカ兵ってこんなにやさしいんだと驚いたって言ってたわ。私も今度こういう国を旅する時は、飴とかガムとか風船とかを持って来ることにする。」
 ホテル・スヴィダーに続く路地を曲がると、あんなにしつこくついて来たさっきの少女達は、いつの間にか消えていた。

 各テーブルの上に下がった金色の吊りランプの細かい穴からたくさんの光が漏れて、暗い天井や壁にエキゾチックな模様を描いていた。センス良く飾られたインドの調度品が美しいホテル・スヴィダーのレストランに着くと、すでにグループの仲間達が食事をしていた。ほどよく冷房の利いたレストランに駆けこんだ私は、ドクター・ボンナムとスザンヌのテーブルに座って、顔の汗と眉間の赤いマークをナプキンで拭いた。私達のテーブルに加わらずにエリック達のいる方へ歩いて行くロスを横目で見送る私を、向かい側に座ったドクター・ボンナムが見ているのがわかった。
 次々と運ばれてくるベジタリアン・インド料理を食べながら、隣にいるスザンヌと話す絶好のチャンスが来たと思った。
 スワミ・ラマ・アシュラムの夜の小屋の中にスザンヌとドクター・ボンナムが入って来た時、私は声をあげて泣いていた。あの時、二人はどう思ったのだろうか?
 ドクター・ボンナムには秘密を作りたくなかった。私は精神分析医であるスザンヌに私と夫が直面している危機のことについて話した。向かい側で、ドクター・ボンナムは、私の話を無表情で聞いていた。
「ノリコ、それは、すべての結婚している夫婦が遅かれ早かれ遭遇する危機よ。あなただけに降りかかることではないわ。」
 確かにセラピストだと思うような冷静な口調でスザンヌはゆっくりと言った。
「その危機をどう乗り越えるかは、それぞれ違うわ。もちろんそのままそれが現実なんだと諦めの境地で添い遂げる夫婦がほとんどよ。子供がいるからとか相手との共通点も多いからと妥協したり。あとは、他の異性と恋愛することで満たされない部分を埋めるか、夫婦そろってセラピストを訪れるか、色々あるけど、でも別にあなたが例外なわけではないわ。そんな事を通して生き残る夫婦もいれば別れてしまう夫婦もいる。結婚とは本当はつらくて地味な作業なのよ。生きていて一番忍耐のいる仕事よ。決して薔薇色ではないわ。でもそんな現実を知っていて結婚する人は少ないわ。結婚が何かのゴールか、あるいは問題の解決だと思う人ほど、早く幻滅する運命にあるのよ。結婚は試練の始まりだと思ってする人は少ないわ。現に子供が一緒にいなければ夫婦だけで何を話していいかわからないなどと言うカップルもたくさんいるわ。大恋愛の末に結婚してもそうよ。それはアメリカであろうが、日本であろうが、そしてインドであろうが同じことよ。ただ、文化の違いで忍耐の尺度が違うし、愛や情熱の解釈も違うし、常識が違うだけのことよ。」
「スザンヌ、あなたは、どんなセラピーをするの?たくさん人生の悩みを抱えた何人もの人達と毎日接して、人生がいやになることはない?」
「深入りしないこと。感情で受け止めないこと。そればかりを自分に言い聞かせているわ。それからオフィスを出たら、患者のことはすっかり忘れること。」
 ドクター・ボンナムが言った。
「スザンヌは前世療法も行う。」
 私はスザンヌに輪廻転生を信じるかどうかと、前世療法をやる人に対して今さらながらという質問をした。「Absolutely」と彼女はあくまでも理知的な声で答えた。
「人の魂は確かに仮の肉体の中に住んでいる。そして何十回、何百回とこの世に戻って来るわ。普段はまったく前世が記憶に残っていなくても、初めて訪れたこの場所を覚えているとか、初めて会った人を覚えているとか、そういう感覚は誰にでもあるわ。たとえば、4〜5歳ぐらいまでの子供はよく前世の事を話したりするのよ。だから母親は、いつも幼い子供と一緒にいて、大自然の中に連れ出して地球に触れさせて、常に耳を傾けなければいけないというのが私の持論よ。」
「スザンヌ、私の息子が5歳の時に、自分が生まれる時のエピソードを話したことがあったわ。彼が宇宙にいて、地球にいる私と夫を指差して神に『僕はあの人達の子供になりたい』と言った。神が『地球はつまらない所だよ』と言ったんですって。それでも生まれたかったって。もちろん今はそんなこと忘れたようだけど、、。」
「ノリコ、それが本物の話なのか、ただの空想なのか見分ける方法を教えてあげるわ。神様はどんな顔をしていたと言っていた?」
「私も興味があったからそれを聞いたわ。そうしたらよく覚えていない。光のようだったと言ってた。」
「もしそれが単なる空想なら、神の姿を人間のように説明するのが一般なのよ。ましてや光だったなどと4〜5歳の子供が言わないわ。だからきっとそれは本当の話よ。私はそう信じたいわ。」

「子供が親を選んで生まれて来る」という理論は私もよく聞いたことがある。100年も前のドイツの思想家、ルドルフ・シュタイナーはこの思想を発展させてシュタイナー・スクールを設立させるまでになった。
 今でも世界の様々な町に存在するシュタイナー・スクールの先生が、入学してきた生徒に初めて接した時の課題は、「この子はどんな目的で両親を選んで生まれてきたのだろう?」と考える事らしい。その謎と、とことんつきあう。 だから入学してから8年間、同じ先生が同じ生徒を教える。一人一人の魂の目的を理解するには、そのくらいの年月がかかるからである。この思想を原点として教育を始めると、すべての子供が宝に思えてくる。すべての子供の個性が意味のある物に見えてくる。
 しかし、それでもまだ、私には疑問が残る。親から虐待を受ける子は?堕胎のために、生まれる前にすでにこの世に存在する可能性を失った子は?そんな不幸な子供達でも両親を選んで生まれて来るのだろうか?
 選んで生まれてきたはずの両親が別れてしまう運命にあるとしたら?その子は孤独になってしまう運命を甘受して生まれてくるというのだろうか?

 スワミ・ラマ・アシュラムでマザー・ジョディーがロスの手を取って言った謎の言葉について初めてドクター・ボンナムとスザンヌに打ち明けた。そしてどうやら私はロスに恋しているらしいということも。私の前世に関係するかもしれない津波の夢の話もした。話し終えて、何となく肩の荷が降りたような気がした。
 ドクター・ボンナムが言った。
「ノリコは人に多大なるインパクトを与える存在なんだろう。君は共鳴してくれる魂を必死で探しているからね。」
 不思議な事にドクター・ボンナムはマザー・ジョディーと同じようなことを言った。
「あなたの夢が真実であろうがなかろうが、あなたがロスと前世から関わっていたのと同じようにあなたの夫とも関わってていたのは事実よ。それがどんな形で何度目の人生だったかはまた別としてね。わかりやすく言えば、もしロスがあなたの息子だったのなら、あなたの夫も来世であなたの息子になるかもしれないという事よ。それを考えるとあなたが深い関わりを持つ人すべてがどこかで繋がっているという事にならないかしら?だから誰もないがしろにはできないハズよ。そしていたずらに恋をしてもいけない。でももし、あなたの出会いに何か深い意味があると感じたら、あなたの魂に深く響くのを感じたら、それを追及してみることよ。出会った人が何のために現われたのか、その人から何を得るのかを見極めること。自分の心に何がおこっているかをよく見つめること。すべてがあなた自身が設定したあなたの人生のシナリオの上で起っていることなのだから。くれぐれも中途半端にはしないことよ。」
 私は混乱を隠せない顔でドクター・ボンナムの目を見た。彼は私の動揺を察したように頷いて言った。
「ノリコ、人生は白と黒だけではない。人生は、それぞれの心の持ちようでどんな色にでもなる。」
「あなたの場合は、さしずめレインボー・カラーかしら?」
 スザンヌがからかうように言って笑うと、私の肩を横から抱きしめた。

 食事の後、ロスとブライアンと連れだってホテルに隣接した寺院へと歩いた。ホテルのドアを出ると、寺院の方から相変わらずマントラの響きが聞こえたからである。もしかしたら、まだ入れるかもしれない。
 かなり古そうな薄汚れた石作りの巨大な門の前に立って中を伺った。中は広場のようになっていて、隅の方に山羊が数頭、繋がれているのが見える。どう見ても僧院のようだ。広場の奥にひときわ明るい灯りがついていた。その一角にたくさんのろうそくの光に照らされたガンジーらしき像が座っているのが見えた。他にも数体の神々が祭られているようだ。
 広場の石畳の上を修行僧のような男達が数人、うろうろと歩いていた。
「ちょっとここで待って。」
と言って私は静かに寺院の中へ足を踏み入れた。入り口の右側に事務室のような部屋があり、そこから白い衣を着た大柄な初老の僧侶が出て来て、私を怪訝そうな目で睨んだ。
 私は僧侶に向かってできるだけ穏和に微笑んで合掌してから広場の向こうを指差して、中に入ってもよろしいですかという身振りをした。
 僧侶は門の所に立っている二人のアメリカ人をちらりと見たが、驚くほど簡単に中に入るようにと促すと事務室へ戻った。
 私は得意になって後ろを振り返り、二人に向かって「Come on !」と言って手招きした。ロスは興奮を隠せない声で「How did you do it ?」と言いながら門を入って来た。
「美しいインドの民族衣装を着た日本女性を警戒するやつはいないよ。もちろん可笑しな西洋の男が二人くっついて来たのは計算外だと思っているかもしれないけど。」
 ブライアンも入って来て後ろから私のスカーフをやさしく引っぱった。
広場をゆっくりと進むと、石の上に腰をかけてたらいの水で足を洗っている修行僧達が、作業を止めてこちらを伺っていた。一日の修行が終わり、寝るしたくをしているのだろう。いささか疲労を感じているようなまなざしだ。ここまで来て追い出されたら困る。私達はていねいに彼らに合掌して挨拶をしながら、サンダルを脱いで、正面の祭壇の中へ入った。
 ガンディーの像は、まるで本物の人間が座っているようにリアルだが、その反対側にある女神の像を見て私は小さい叫び声をあげた。毒々しいのや、派手な色のヒンズーの神々はもう見慣れている。しかし薄暗い祭壇に座っているこの女神の像は、今まで見たどの神々よりも迫力があった。背中から突き出ている数本の手に槍や斧のような武器を持ち、黄金の鎧で覆われた黒い体にカっと見開いた鋭い目、口からしたたるどす黒い血、その両脇からは鋭い二本の牙が生えている。
「これも神なの?まるでブラックマジックに使う悪魔の像のようね。」
 ちらちらと揺れるろうそくの光の中からこちらを睨んでいる黒い像を見上げて言った。
ガンディーの像から離れて歩いて来たロスとブライアンが、私の後で「wow !」と驚きの声をあげた。ブライアンが女神をくまなく眺めた。
「ドゥルガーの像だよ。シヴァ神の妻であるウマーが変化した女神のうちの一つがこれだ。悪魔と戦うために、数本の腕にあらゆる武器を握っているんだ。ウマーは興味深い変身をする。ヒマラヤの美しい娘、パールヴァティーに変化したり、生首を手に持って、血を求めて踊るカーリーに変化したり。ほら、カトマンズのダーヴァー広場にあった黒光りしたあの像がカーリーだよ。だからカーリー像が祭ってある所はいつも動物の生贄が捧げられるから血生臭いんだ。」
「ブライアン、どうしてそんなに残酷な存在が神になっちゃうの?日本の仏教でも迫力のある形相をした像がたくさんあるけど、こんなに攻撃的で残酷そうな神を見たことがないわ。」
「ウマーの化身はすべての女が持っている姿だとでも言った方がいいのかな?女は状況次第で天使にも悪魔にもなれる。本当に油断できないのが女さ。」
「それじゃあ、その女神は、これからの僕への教訓というところかな?」
 あたりを歩き回るロスの声が天井に響いた。
「ウマー女神の夫だって凶暴なシヴァ神だからお似合いの夫婦だよ。首にはコブラを巻いて、気性の荒い牡牛を乗り物にして、槍をシンボルとして持っている。ウマーがいつドゥルガーやカーリーに変身してもシヴァ神の手に負えないということはないさ。」
 つくづく私は本当に実りのある旅をしているのだと思った。旅のリーダーのフランクを始めとして、ドクター・ボンナム、マリアン、ロス、そして宗教学の教授であるブライアンと共に彼らの目を通しての他民族の宗教について、すばらしい勉強をさせてもらっている。
 旅の始めはまったくの謎であった、壁の彫刻ぎっしりに埋るほどに大変な数のヒンズーの神々も、その特異性、多様性がゆえに、インドの様々な民族の違いを越えて、はてしない大地に浸透していったのがわかるような気がする。何百というユニークな性格を持つ、ヒンズーの神々。インドの国そのもののように混沌としたこの宗教も、実は地球上のあらゆる人間が持つ性質のすべてだとも言える。ヒンズー教では、どの神を信じようが自由である。信仰の対象が何であろうが、ヒンズーの神々は宇宙のさまざまな形を表わしているのだ。大きい宇宙の中ではそれらが皆一つである。そしてそれは、人間の体の中の小宇宙そのものなのだろう。

 事務所にいた僧侶が来て私達にここを出る時間だと身振りで言った。それぞれ数ルピーづつ寄付したら、僧侶は急いで事務所に戻って行って、門を出る私達にコンペイトウのような砂糖菓子のプラサードをくれた。

 ロスが部屋の前までエスコートしてくれた。エレベーターがなかなか来ないので非常口のドアを開けて階段を登った。彼は私の横で、夕食の席でブライアンから聞いたというヒンズーの神々のジョークを教えてくれた。私は英語のジョークがなかなか理解できない。それでも私は浮かれたように笑いながらホテルの階段を登った。
 本当はもっともっと彼と一緒にいたいと思う気持ちを抑え切れなかったのだ。そんな気持ちをごまかすように、わかりもしないジョークに大げさに笑ってみせた。ロスが不可解な目で私を見る。

 階段は熱がこもったように暑い。私は踊り場で立ち止まって汗で湿った髪を両手で束ねて上げ、暑さで火照った首を空気にさらした。うなじが汗で濡れていた。ロスが後ろから私のうなじにフーっと涼しい息を吹きかける。私はじっと目をつぶった。
「君が浮かれているのは、この暑さのせい?」
 頭の後に上げた髪を右手で抑えながら私は笑いを止めて言った。
「私が浮かれているのは、、、別な理由のためよ。」
「What is it ?」
「それは、、、。」
 急に恥ずかしさを感じて、私は突然階段を全速力で駆け上がった。「What is it ?」
と言いながらロスが私を追う。私の部屋の階まで一気に階段を駆け登り、非常口の扉をバタンと開けて廊下を走り抜けた。
 鬼ごっこの鬼に追いつかれてしまったかのように私は部屋のドアの前にぴったりと背中をつけて立ち止まった。途中で私の首からすべり落ちたスカーフを手に、ロスが私の前に立った。息をはずませながらお互いを見つめ合う。 こめかみから顎まで汗が滴り落ちていく。彼のTシャツの下の厚い胸が激しい息と共に大きく動くのを見て、私はとっさに彼の首の方へ手を上げた。ひたすら彼を抱きしめたかった。血が登った頭が混乱してグルグル回った。宙で止まった私の手がゆっくりと降りて、背後にあるドアのノブを握った。
「What is it ?」
 囁くような声と共に私の額に彼の吐息がかかった。
「ロス、何も言えないのよ。私は、、結婚しているから。」
 突然催眠術から覚めたような顔でロスは一歩退くと、「Exactly !」と言った。
「君の言う通りだよ。本当にどうかしていた。」
 私にスカーフを渡して「Good night」と言うと、彼は早足で廊下を歩き、非常扉の後に消えた。扉の向こうの階段に彼の足音が響いた。
 ドアのノブに手をかけたまま、私は呆然として立っていた。せつなさで心臓がキリキリと痛むのを感じて眉をしかめた。窒息してしまいそうに感じながら、何度も深呼吸をして小さな声で夫の名を呼んでみた。でも私の脳裏には、たった今、お互いの体がつくような距離にいたロスの顔だけが鮮やかに刻まれてしまい、夫の顔が思い出せない。
 夜更けのホテル・スヴィダーの薄暗い廊下の壁の灯りの周りで大きな蛾が、ひとり立ちすくんでいる私をあざ笑うように飛んでいた。

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