さすらい人幻想曲

第18章:インド独立際    Independence Festival

 半日かけて聖地ハリドワールからデリーへ戻る。途中、リシケーシュへの道中立ち寄った薔薇と孔雀が美しかったレストランで再び昼食を取った。ここで時を過ごした日からわずか1週間しか経っていないのに、もうかなり前だったような気がする。

 レストランを出てエリザベス、アン、リバと連れだって薔薇園を歩く。緑の大木の下にある白いテーブルの周りのイスに腰をかけて、持っていたミネラルウォーターを飲む。暑いインドではミネラルウォーターが最高の飲み物なのだ。これなしには、たちまち脱水症状に陥ってしまう。
「テネシーだってきっと今頃蒸してるわよ。この暑さに慣れておけば、帰った時にショックを受けなくてすむわね。あぁ、一日も早くアリエールの顔が見たいわ。あの子のためにお土産を山ほど買ったわ。」
 リバの黒いサングラスに私達の顔が写る。
「不思議よね。ベナレスのガンジス川を見た時は、母に殺された哀れな父への思いで心の中が張り裂けそうだったのが、リシケーシュやハリドワールを流れる同じ川を見ているうちに癒されていったような気がするの。皆でリシケーシュで水浴びをしているうちに、つらい思いがガンジス川に流れていったのかしら? ハリドワールで、夕暮れのプージャーに参加したの。にわかにヒンズー教徒になってね。パンジャビごとあの急流の中に入って父のために祈ったの。周りのヒンズー教徒達が火を灯して礼拝するのを見て、あの人達も一緒に父のために祈っているように思ったわ。花でいっぱいのバナナの葉を川に浮かべて手を離したら、夕もやの中をあっと言う間に流れて行ってしまった。そして川がカーブを曲がる所に父が立っていて花をすくいあげるのを見たような気がした。その時思ったの。父はきっと地球のどこかに生まれ変わるんだって。」
 黄昏のガンジス川に腰まで漬かったリバが、買って来たばかりの花の船を、聖なる水に流す。ミルク色のモヤがあたり一面に立ちこめる。彼女はモヤの中に消えていこうとする色鮮やかな花の行方を見届ける。どこからともなく黒い水の上に手が伸びる。その手がゆっくりと船をすくい上げる。父親がガートにたたずんでリバに向かって微笑む。
water wave 私はそんな光景を思い浮かべながら、頭上の大木の葉と葉が擦れ合うさわやかな音を聞いていた。
 しんみりとしてしまった私達に気を使ったのか、リバは顔の前でパチンと手をたたいて明るい笑顔を見せた。
「帰国したあと、3日もたたないうちに看護婦の仕事が待っているのよ。患者の中で、過去を吹っ切れずに悩んでいる人を見つけたら、インド行きのチケットが一番の処方箋だって言ってあげるわ。」

「それでエリザベス、帰ってからマークのことはどうするの?」
 突然リバが言った質問に私の方がドキドキした。
「信じられないインドの暑さとヒンズーの火のせいで、私とマークは身も心も煮えたぎって、今にも爆発しそうだわ。」
 私達は顔を見合わせて笑った。あと数日で彼女達とお別れだと思うとつらかった。
旅の間、一緒にどんなに笑ったことだったろう。私達は人生のつらい記憶も、こうやってお互いに打ち明け合い、癒し合い、つらさを逆に笑い飛ばすことができた。
 彼女達には、まるで「風と共に去りぬ」のスカーレット・オハラのように「明日は明日の風が吹く」と人生を言い切ることができるパワーがある。大陸の人間のすがすがしい明るさと解放感がある。独り日本に帰らなければならない私は、テネシーに住む彼女達から仲間はずれになってしまうような寂しさを感じた。

「旅行の1年前にボーイフレンドと別れたのよ。3年もかかってやっと。彼を愛してたわ。彼はとても繊細なアーティストなの。そして情熱的だったわ。でも生活が滅茶苦茶なのよ。酒とドラッグなしでは1日でも生きていけない人なの。そんな彼を助けたくて手を尽くしたけど、結局無駄だったわ。3年目には身も心もくたびれてしまって彼と別れなければ私の人生までだめになると思った。
 私が家を買ったのは、そうやって彼から脱出しようと決心したからよ。彼のために犠牲になるには自分があまりにも愛しかったの。最後のお別れをして彼のドライブウェイから車を走らせた時、バックミラーに、ガレージのシャッターに向かって思いきりビール瓶を投げつける彼が写ったわ。ガラスが割れる音がして、私の中ですべてが吹っ切れた。私の人生がやっと戻ってきたと思ったわ。
 それからもう二度と男に振り回されるのはやめようと決心して、私だけの家でひたすらフォトグラフィーに没頭したわ。そのあげくにこうしてマークに出会ったのよ。ずっと年下の作曲家で、テネシーに結婚を約束しているガールフレンドがいるマークに。もちろんしばらくは戸惑ったわ。でも自分の気持ちを無視したりごまかしたりするわけにはいかないわ。」
「それで、帰ったらどうするつもり?週末ごとにナッシュビルまで車を飛ばして彼が会いに来るの?」
 アンが白いテーブルの上に頬づえをついて聞いた。
「アメリカに帰って少しほとぼりが冷めたら、また彼に会いたいと思っているわ。賭けのようなものよ。はたして彼との恋が単なるインドのエキゾチックな魔法のせいだったのか、それを確かめてみたいの。現実の生活の中で会った時、幻滅するかもしれないわ。私の今の課題は、それまでいかに冷静でいるかということね。」
「これだけは言い切れるわ。どんな男でも私が別れたあの亭主よりひどいのはいないってね。」
 テーブルの上のサングラスを取り、鼻の上に掛け直しながらリバが冷たい口調で言う。
「それともうひとつ。相手が実はゲイだったとわかった時よりひどいことはないわ。」
 アンの台詞に突然ミネラルウォーターを噴き出したエリザベスと一緒に私達はまたお腹を抱えて笑った。

「ところで、ノリコ、あなたはどうするの?ロスのこと。」
 突然リバの矛先が私に向けられた。アンが興味深い顔で私を見る。リバが突然ロスの事を聞くのにも戸惑ったが、ルームメイトのアンに何も言わなかったことに今さらながら罪悪感を感じた。
「私は、、何と言えばいいのか、、。別に隠してたわけじゃないのよ。二人であちらこちらを観光して楽しんでいるというだけで、あとは別に何もないし、何の可能性もないの。第一私は日本に住んでるし結婚してるわ。まったく現実性がないことよ。」
 ドギマギする私の肩にアンが手をおいた。
「ノリコ、こうして19人と3週間も旅行してると、メンバーの大体の事は察しがつくわ。あなたはルームメイトだからなおさらね。でもね、私は人が結婚していてもいなくても、誰かとの運命的な出会いは、人生の大切な学びの時だと信じてるの。条件がどうであろうとね。そしてたとえそれが長続きしない、つかの間の恋であってもよ。だって人に恋している時の気持ちって、何にも代えられない、この世の最大の喜びだわ。」
「離婚した後、看護婦として、何とか自立しているアメリカ人女性からノリコにアドバイスをあげるわ。」
リバが言った。
「今は子供達にとってパパとママの存在は何よりも大切かもしれない。でも子供なんていずれ親から離れて自分達の人生を歩んでいくわ。あとは夫と二人だけの生活が待っている。日本もアメリカも、そのパターンはさほど変わらないと思うわ。もちろんそれで充分幸せな女性はたくさんいるわ。でも中にはノリコのように人生に欲張りな女性もいるのよ。そんなあなたの今の迷いを解決する方法はただひとつよ。自分のアイデンティティーと地位を確立することよ。精神的にも経済的にもね。子供達が巣立つ頃までに、他に依存しないで自分の世界に生きることができる自信を確立すること。それに向かって進んで行くことよ。夫と死ぬまで愛し合おうが、どこかで他の男を好きになろうが、それが問題じゃないわ。誰と一緒でも依存しないで立つことができる自分を作り上げること。それで、真から強い女になれるわ。最後に自分を救うのは自分しかいないのよ。」
 エリザベスとアンが頷いた。私は、いかなる逆境も乗り越えて強く、たくましく生きているアメリカから来た3人の友達に感謝した。ここで、私達は帰国してからも電子メール仲間としてお互いの行く末を見守る事を約束した。

 バスは、デリー市内に入ったとたん猛烈なラッシュに見舞われた。その夜、私達が宿泊しているホテル・コンノートに隣接するスタジアムで、インド独立祭が催されるので、町中が賑わっているのだという。
 夕暮れのデリーは、車や人でごったがえしていた。あちらこちらで爆竹の破裂する音が聞こえる。ホテルのレストランで、特別なディナーを計画していたフランクが、イライラしながらガイドと話をしている。

 道路の脇で、インド独立祭に浮かれて走り回る人々の中に、ほとんど裸の飢えた子供達や痩せた乳飲み子を抱いた女が裸足でトボトボと歩いているのが見えた。後ろにも前にも動く事ができずに止まっているバスの窓をコンコンと叩いて、物乞い達が口に食べ物を入れるジェスチャーをしながらこちらを見る。その哀れな目にたまりかねたロバートが窓を開けて、隙間からお金を差し出した。薄汚れた手がそれをむしり取ると、たくさんの物乞い達が群がってロバートの横の窓を激しく叩き始めた。
 それを見て、手持ちぶさたにしていたガイドが、マイクを持って通路の前に立った。
「後存知のようにインドには、深い歴史に基づいた『カースト制度』があります。もともと北インドから入って来たアーリア人が肌の色で決めた身分制度なのですが、それが今だに根深く残っているのです。そのカーストの身分の最下層、いわゆるカースト内の位置すら与えられないのが『Untouchable』です。触るだけでも汚れる者という意味です。暗殺されたマハトマ・ガンディーは、この身分制度を廃止して不可触民に社会的権利を与えようとした人で、彼らを『ハリジャン』と呼んでいました。ハリジャンとは『神の子』という意味です。現在は、カーストの中でそれぞれの生活がある程度は保証されたり、カースト内で助け合う機能もできてはいますが、根本的な改革のための第一歩が未だに踏めていないことは事実です。我々ガイドは、よく観光客からカースト制度についての質問をされます。お客様によっては私のカーストを聞かれる方もいます。始めに申し上げたようにカースト制度は深い歴史に由来しており、我々にとっても深刻で、軽々しく話題にできる問題ではありません。この質問を受けた時はしかたがないので、私はいつもこう言うことにしております。『あなたの国にだって、これほどあからさまではなくても、やはり差別はあるのではないですか?』、と。」

 ホテルへの道の両側にライフル銃を持って、暑苦しそうな黒いブーツを履いた兵隊がずらりと並んで独立祭のための警備にあたっていた。その間をぬってやっとホテル・コンノートに到着した時は、もうすっかり日が暮れていた。
部屋を開けると、ドアの下にホテルの便箋に入った夫からのFAXが入れてあった。疲れた体をベッドに横たえて、さっそく封筒の中の紙を取りだし、行儀良く並んだワープロの文字を読む。夫の日頃の口癖通りに表現された文章に、なつかしさで胸がいっぱいになった。それは故郷への思いに似ていた。
 FAX には、子供達と行った東北のキャンプ旅行での様々なハプニング、子供達と家事を分担してやっている様子、飼い猫の様子などがおもしろ可笑しく書かれてあった。読んでいて思わず笑みがこぼれる。
 結びにこう書いてあった。
「色々とすばらしい経験をしているようだね。恐らく旅行を終えた後の君は色々な面で違う君になっていることだろう。それが旅行の醍醐味だからね。でもあと数日で迎える時の君がどんな風に変わっているのか不安でもある。帰って来る日を心待ちにしています。」
 私は仰向けに寝たまま、FAXを胸の上に置いてため息をついた。シャワーから出て来たアンが濡れた髪をタオルで拭きながら、「いいことが書いてあった?」と聞いた。私はじっと天井を見つめた。
「アン、非現実的な状態にならないと男と女の情熱なんて持続しないのかしら。ロスが私に言ったわ。理想の女性を見つけたら死ぬまでその情熱を貫き通すつもりだって。でもそれを可能にするには、夫がしょっちゅう家を空けてなかなか会えない冒険家や船乗りの妻のようなドラマチックな生活をするか、情熱のピークの時に死んでしまうしか方法はないのかもしれないわ。」
「何か悪い知らせ?」
「信じられないくらいステキな FAX よ。彼はすばらしい父親で、子供の事を詳しく教えてくれて、私の帰りを楽しみにしていると言ってくれている。でもどうしてこうやって離れてみないと、お互いに深い思いやりが持てないのかしらって思ったのよ。」
「私はジョーと安定した生活を送っていた時、質素で平穏な生活が愛や思いやりなんだと思ったことがあったわ。燃えるような情熱の果てにその感情は衰えるけど、子供を寝かしたあと二人でぼんやりとテレビを見たり、仕事の愚痴を言い合ったりする些細なことが愛なんだなあと思ったの。でも、もはやそれさえも不可能な場合がある。どんなに相手を許したつもりでも、そのあたりまえの時間をくつろいで共有できなくなった時、この人とはもう一緒に暮らせないと思ったわ。それでも彼はパトリックにとっては、最高の父親よ。今、地球の裏側でパトリックがジョーと一緒にいると思うから私は安心してここにいるのよ。彼と子供を共有している限り、やっぱりどんな事があっても他人にはなれないわ。『Until death do us part』、死が私達を隔てるまでね。」
「アン、あなたは、今、恋をしている人がいるの?」
「Yes. 」アンは体にタオルを巻いたまま私のベッドに腰を降ろした。
「恋をしている人はいるわ。何故今まで話さなかったのかというと、これも本当に厄介な話だからなの。まったく先が見えない話よ。彼は大学の教授で私のハイスクールの同窓生なのよ。何回かテネシーで彼に会って、話をしているうちに恋に落ちたわ。問題は、彼は妻とずっと別居中で、その妻が私の昔からの親友だということ。そもそも私がテネシーで彼に会ったのも彼が私に親友のことで相談したかったからなのよ。彼女は今、精神病院に入退院を繰り返していて自殺癖があるから目が離せないのよ。もちろんそんな彼女に口が裂けても言えないわ。」
 アンの突然の告白に私は唖然としてベッドから上体を起こした。
「本当に人生って白と黒だけじゃないわね。あなたって本当にメロドラマの主人公みたい。」
 私はやりきれない気持ちで服を脱ぎ始めた。部屋の隅にある鏡の横のプラグにヘアドライヤーのコンセントを入れながらアンが言う。
「でも、あなたが言ったようにそういう非現実的な状態が私達の思いをつのらせているのは確かよ。私達、毎日のように電子メールで、お互いの気持ちをぶつけ合っているわ。いつかは答えを出さなければいけない日が来ると思うけど、今はこの状態で満足してるの。はっきり言って、しばらく結婚のことは考えたくもないわ。」
「それでわかったわ。今日あなたがどうしてあの台詞を言ったのか。」
「私、どんな台詞を言ったの?」
「人に恋している時の気持ちって、何にも代えられない、この世の最大の喜びだと言ったわ。」

 シャワーを浴びていると、アンが湯気でいっぱいのバスルームのドアを開けた。
「ノリコ!今の話もあなたの本に書くつもり?それならもっと詳しく話すわ!」

 インド独立祭のディナーのために私とアンは一番お気に入りのパンジャビ・スーツを着て念入りに化粧をした。そのために30分近くも遅れた。私はムスーリーでロスが見つけてくれた萌黄色のカシミール・シルクのパンジャビを着た。ルームサービスのために入って来たホテルの従業員が丁寧に正式なスカーフの着け方を教えてくれた。食事の前にホテルのロビーに祭ってある金色のガネーシャ像の前で写真を取った。

 正面にある小さなステージの上に3人の男が座り、シタールやタブラーなどのエキゾチックな楽器を奏でていた。長い髪を後ろに束ねた女性がインドの伝統的楽器に合わせて西洋的なメロディーの歌を歌っている。そのミスマッチが逆にケルトやギリシャの詩のように聞き手の魂を酔わせた。長い哀愁を帯びた柔らかいアルトの声をあたりに響かせながら、眉をしかめてせつなそうに宙を見つめるボーカリストの顔に青白いスポットライトがあたり、表情に艶妖な色彩を添える。

 ランプの向こうにドクター・ボンナムとスザンヌ、そしてフランクとジャネットが座っていた。料理とワインで愉快になったフランクは、あと数日で終わる旅が成功だったことに浮かれていて、その夜は珍しく弁舌だった。
「香港に着いたら、誰よりも先に東京行きの飛行機に乗るノリコのためにカクテルパーティーを予定しているんだ。夜の香港クルーズの船上だよ。君は次の朝早くエアポートに向かわなければならないからね。ロサンゼルス行きは午後3時のフライトだ。」
 私は複雑な気持ちで目の前にあるワイングラスを口に運んだ。祭りはもうすぐ終わるのだ。
早くも帰国の話をしているフランクの赤ら顔を見て、やはり私が今経験していることは、非現実的で、まるで束の間の夢のように思った。でもリシケーシュを発つ時にシャシクマールが私に言ったではないか。旅の最中、人は確かに自分自身に触れていると。
「旅の間、あなたは確かに今を連続して生きている。あなたが、あなたの魂に出会っているのです。」
 この旅を単なる夢にしないためには、ほとばしる自分の感情に正直であることではないだろうか。
頭の中でオレンジ色の髪を太陽の光の中でかき上げながらリバが言う。
「最後に自分を救うのは、自分自身なのよ。」

 ほろ酔い気分になった私の髪に誰かの息がかかった。その熱い吐息が私の耳に「You look very nice tonight.」と囁いた。後ろを振り向くと食事を終わって出口に向かって歩いて行くロスの寂しそうな背中が見えた。向かい側に座ったドクター・ボンナムとスザンヌが冷静さを保とうとする私を包むようなまなざしで見ていた。
 突然、私は「Excuse me」と言ってイスをガタガタとさせて慌てて立ち上がった。ジャネットが気分でも悪くなったのと聞いた。ドクター・ボンナムが眉を上げて私を見た。
 彼は低い声で、「Good night, Noriko.」と言った。

 レストランを出て、長い廊下を早足で歩く。パンジャビ・スーツの裾が激しい絹ずれの音をたてる。どこかで、もう一人の自分があきれて私を見ている。
「夫からあんなにステキなFAXをもらったばかりじゃないの! いったいあなたはどういうつもり?」
「わからない。でも彼が愛しいの。それとも誰かを愛しく思っている自分が愛しいのかもしれない。」
「若い哲学家に恋をして、あなたはその恋をどうするつもり?現実的じゃないわ。」
「彼に私の情熱が伝わればそれでいいの。彼は若くて自由な男。この旅が終わったら彼は自由に向かって、また飛んでいくのよ。もう二度と会わないかもしれない。だからこそ、今、この時を大切にしたい。ただそれだけよ。」

 ロスはどこにもいなかった。ロビーにも部屋にもいない。もしかしたら外へ出かけたのかもしれない。
ロビーを通り抜けて外へ出る。ドアの取っ手を持ったまま、純白の制服にターバンを巻いたドアボーイが「マダム」と、おもむろにお辞儀をする。スポットライトの中で小さな噴水が吹き出るロータリーを横切り、通りの方へ出てみた。熱気に包まれた夜の戸外を、あいかわらずライフル銃を持った兵隊達が警備していた。通りは独立祭を祝う人でいっぱいだ。私のすぐそばでオートリクシャーがけたたましい警笛を鳴らして止まった。目の前に埃が舞い上がった。夜だというのに黒いサングラスをかけてそばに立っていた兵隊がこちらをちらっと伺うと、不気味な金属音をたてながら肩のライフル銃を掛け直した。
「マダム!」と叫びながらドアボーイが慌てて歩いて来た。
「今夜は外出されない方がよろしいです。とても危険です。スタジアムを見たいのならホテルのバルコニーからどうぞ。」

 ホテルのバーを覗いてみる。殺風景でBGMもないバーのカウンターに、見慣れたブロンドの髪と白いTシャツの背中が見えた。安堵と嬉しさで私の胸が高なった。中に入ってそっと後ろから近づく。ほとんど客のいない薄暗いバーのカウンターの中でボーイが一人、グラスを拭きながら愛敬のない顔で私を見る。ビールグラスを前にして目をつぶったままウォークマンを聞いている孤独なロスの横顔を、私は時間をかけて眺めた。小さなヘッドフォーンに唇をよせて彼の名を呼ぶ。目を開けて私を見ると、ロスは嬉しそうに微笑んでヘッドフォーンをはずした。
「ロス、あなたと一緒にいたいの。今夜は他の誰とも一緒にいたくない。」
「Perfect !」
 ロスは、ロマンチックとは程遠い明るい声で答えて、残ったビールを一気に飲み干した。
「僕は君と二人でいたい。そして君も僕と二人でいたい。この計算の答えは実に簡単さ。今夜僕は、君だけに最高の物を見せてあげるよ。インドの思い出に。」

 エレベーターでホテルの最上階まで上がり、廊下を通って非常口のドアを開けて出ると外にらせん状の非常階段があった。祭典で沸きたったスタジアムからのライトが反射して夜の空が明るく見えた。賑やかな音楽が聞こえ、何千という観客の熱気が伝わってくる。コンクリートの階段を登ると、薄い鉄のドアに鍵がかかかっていた。ロスはジーンズのポケットからアーミーナイフを取り出し、鍵穴に差し入れて簡単に扉を開けた。
「ロス、あなたはいつでも泥棒になれるわ。」
「相手がこのたぐいの単純なドアだったらね。」
 ドアはホテルの屋上につながっていた。
「いつこんな所を見つけたの?」
「食事の前に独立祭が見える最高の場所を求めてホテル中探し回った結果がこれさ。」
 柵に寄りかかると、昼間のように明るいライトを浴びた巨大なスタジアムが目の前いっぱいに広がった。祭典はすでにクライマックスを向かえているようだった。観客で埋め尽くされた楕円形のスタジアムの真ん中に大人とも子供ともつかない何人ものダンサー達が、カラフルなコスチュームを着て音楽に合わせて踊っている。リズムが変わると違う色のグループと入れ替わり、様々な色が集まって人文字を作ったりと大忙しだ。オリンピックの開会式のような華やかな催し物が続いた。スペクタクルの極みに興奮した観客が、どよめきの声を上げる。
「私達だけ、こんなに眺めのいい所で楽しんでいいのかしら?」
「皆だって、今頃誰かの部屋のバルコニーに集まって見ているはずだよ。冷たいビールでも飲みながらね。今に階下からエリザベスとリバの歓喜の声が聞こえるさ。」

 最後にスタジアムのライトが消え、夜の空に花火が上がった。独立祭の花火にしては質素だが、デリーの暑い夜に次々と慎ましやかな花が咲いた。
「私達、本当にラッキーだわ。旅のエピローグに花火が打ち上げられるなんて。そしてこれからタージ・マハールと香港のナイトクルーズ。それで完璧なフィナーレになるわね。」
 シュポーンという音と共に目の前に熱い火花が散る。
「まるで、特別注文したみたいだろう?僕達のために花火が上がっているみたいだ。あと3日で終わる旅のために、神の国インドが別れの挨拶をしているようだよ。」
「あと3日?」放心したように私は彼の目を見た。「あと3日?」
「Yes, three more days. そして4日目の朝に、、、君は、、、、香港を発つ。」
 ロスが言い終えたのと同時に私達はどちらからともなくお互いを抱きしめた。腕が、手が、指先が体に食い込んで、息が止まってしまうほど強く抱きしめ合った。彼は私の肩に子供のように顔を埋めて、お香の香りがするとつぶやいた。彼の柔らかい髪が私の指の間に絡まる。心の中でくすぶり続けていた火種が、デリーの夜に向かって爆発したかように体中が真っ赤に火照った。

 萌黄色のパンジャビ・スーツから滑ってシルクのスカーフがコンクリートの床に落ちた。
ロスは我にかえるとていねいにスカーフを拾い上げて、柵の方を向いて大きく深呼吸をした。打ち上げられたばかりの花火が彼の横顔をブルーに染める。
「会う前から、君が好きだった。フランクからネイムリストが送られて来た時から好きだった。どうしてそんなことが可能なのかは僕にもわからない。成都のエアポートで初めて君に会った時、思わずこう言いそうだった。『やあ、しばらく!長い間待たせてごめん』ってね。だからマザー・ジョディーの、あの言葉を聞いた時、はっきり言って身震いしたんだ。輪廻云々というよりは、シンクロニシティーを感じて。」
 今にも涙がこぼれそうだった。火の玉が私の胸の中でとぐろを巻いていた。私は柵に背中を押しつけて彼と向かい合って立ち、肩で息をしながら彼の目を見つめた。
「君が成都で独り歩き回った話や君の人生の話を聞くうちに、いつかそれがどうしようもない情熱に変わっていった。君がいくつ年上であろうが、何人子供がいようが、地球の裏側に住んでいようが、そんなことはどうでも良くなった。でもひとつだけ、君に恋をしてはいけない理由、どうしてもここで冷静にならなければいけない理由があるんだ。君には夫がいる。どんな状態であろうが君は結婚している。それがいつも僕の頭のどこかを占領しているんだ。そう考え始めると、心の中がスーっと冷めていくんだ。」
 私はロスの手からスカーフをつかみ取り、背中の後ろにかけて彼の汗ばんだ首に腕を絡めた。
「私だって自分が狂ってしまったように思うわ。正気じゃないことは確かよ。でも冷めないで!あと3日だけ、冷めないでいて!」
 熱病にでもかかったように私は言葉を吐き捨てた。後ろでシュポーン!という音がすると、ロスの顔が華やいだように赤く染まった。その赤い光が消えるのと同時に彼の表情が苦痛のあまり歪んだ。かすれた声で彼が言った。
「Do you want me to be passionate ?」
「Yes !」
 彼の若いエネルギーがほとばしった。あまりに強く抱きしめられたので、窒息するかと思った。もう抑え切れないというように彼の唇が私の首筋を激しく吸う。その熱さが首筋から顎へ、耳たぶへ、頬へと這い、最後に私の唇を塞いだ。目を閉じた私の目尻から、あふれていた涙が一滴こぼれ落ちた。何故涙が出るんだろうと思った。何故勝手に涙がこぼれるのだろう。
「溶けてしまう」と私は呻いた。「I'm going to melt !」
 今、部屋に戻らないと、私はここで完全に溶けてしまう。
「シュポーン!」
 背後にまた花火の音がした。でももう何も見えない。あるのは彼の唇の感触と彼のやわらかい舌の味と、彼の香りだけだ。
「生きている」と私は感じた。「まちがいなく私は今、この瞬間を生きている。」

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