さすらい人幻想曲

第19章:タージ・マハール    Taj Mahal

「ノリコ、昨夜はロスと一緒だった? 一体どこにいたの?」

 ホテルの中庭を隔てたガラス戸からこぼれる朝の陽だまりの中で、熱いマサラ・チャイを飲みながらエリザベスが聞いた。
「それは言えないわ。秘密の場所よ。あなたこそマークと一緒?頭から湯気が出てるのがここから見えるわよ。」
 エリザベスは、頭の上を手で押さえて、とろけるような笑顔で大きくため息をついた。
「Oh boy! 本当にすべてが湯気で霞んで見えるわ。」
 朝食を乗せた皿をテーブルに置いて私の隣にロスが座った。エリザベスが悪戯っぽい目で彼を見る。
「Good morning, Ross ! 良く眠れた?」
「いや、あまり、、。」
「それはお気の毒ね。どうしてかしら?」
 彼は照れ臭そうに笑って、私の膝を2、3回さすった。
奔放なエリザベスのおかげか、私は自分の行為に後ろめたさも感じなかった。日本で夫が待っているはずの私の束の間の恋を、香港を発つまでにグループ全員が知ることになってもかまわないと思った。
 この恋も私とロスにとって「旅」その物なのかも知れない。旅はいつかは終わる。
私とエリザベスの恋には決定的な違いがあった。私とロスはお互いを所有できない。次に会う日の約束もできない。旅は終わって、私達はそれぞれの国のそれぞれの違った生活に戻って行く。頼れる物は少しづつ薄れていくだろう思い出だけだ。そして、こうしてお互いの間に起こった出来事さえも日々記憶の中で色あせていくのだろう。花火が空高く討ち上がったその瞬間の美だけをお互いの心のどこかに残して。
 だから私は彼を夢中で抱擁したのかもしれない。その瞬間、生きている喜びを感じることができて、自分自身の魂に触れることができれば、それを肥やしにしてこれからの人生を突き進んで行くことができるだろう。そして、時々テレビの画面にパリが映った時に懐かしさで目に涙がにじむように、インドの風景を見るたびに彼と一緒だった短い日々を懐かしく思い出すのだろう。地球のどこかで、やっと巡り会えたであろう理想の女性と共に幸せでいる彼を願いながら。

「シャタブディ・エクスプレス」でアーグラーに向かう。インドで一番速い列車であるシャタブディ・エクスプレスはデリーとアーグラー間を約2時間で結ぶ。早朝だというのに駅はかなり混雑していた。デリーは朝からすでに気温が高く、駅も独特な匂いと熱気が充満している。駅の構内には、そこを寝ぐらにしている人達や大きな荷物を持って列車を待っている人でごった返していた。たくさんの人がゴザの上に寝たり座ったりしている。家族で列車を待っている人達は輪になって座り食べ物を真ん中に広げて食べていた。
 寝ている人をまたぎながら前に進む。下ばかりに気を取られて時々突然止まった前の人にぶつかりながら、やっと「First Class」と表示してある場所に着く。インド人も一等車両の前まで来ると衣服やアクセサリーも立派でいかにも身分が高そうだ。彼らは決して座らずに立って並んでいる。
 列車は30分近くも遅れてホームに入って来た。待ちくたびれてイライラする私達のそばで、インドの人々は気にもしないで辛抱強く待っている。ダイヤの時刻通りに出発する列車は滅多にないらしい。一等車だと言うからかなり立派な車両を想像したのだが、実際は日本の急行列車とそう変わりなく、椅子はゆったりしているが車内はけっこう汚れていた。一等車は観光客や裕福なインド人用に冷房つきで値段も高い。二等車になるとかなり安い値段になるのだが、冷房がないので地獄の暑さだと聞いた。天井からシューシューという音をたてて冷風が噴き出していた。 列車が動き出したとたん車両の中は冷蔵庫状態と化した。数人のメンバーがすぐに荷物からジャケットを取りだしていたが、暑いのを期待して薄着でいる客にとっては残酷だ。

 寒さで震えている私の隣で、ロスは意外に平気な顔で座っていた。彼は腕を回してむき出しの私の上腕を上下にさすった。
「僕の手はザラザラしているだろう?君の肌に傷をつけてしまうんじゃないかと心配だ。」
「大丈夫よ。あなたの体温がブランケットのように暖かい。この手の感触は私が初めて受けたあなたの印象のひとつだったわ。」
「こうしょっちゅうロッククライミングをやっていると手の表面が風化してしまうんだ。どんなに頑丈な手袋をしてもだめさ。ずっしりと思いリュックを背負うから肩も石のようになって、まるでモンスターさ。」
「でもあなたの顔はちっともモンスターじゃないわ。どうやってそのデリケートな顔を風から守るの?」
 彼の顔の輪郭を指先でなぞる。少しでも彼の容姿を褒めると、ロスは頬を赤くして照れる癖があった。
「秋から冬にかけて、髭を伸び放題に伸ばすんだ。その上にでかいゴーグルをする。君が冬山で僕を見たら、きっとモンスターと間違えるだろうね。」
「ロス、あなたはロッキーの岩山で友達を失くしたって行ったわね。そんなに危険を侵してまでどうして山に行くの?」
「ロッククライミングは僕にとって何よりもすばらしい哲学の師なのかもしれない。岩にひとつずつピッケルをはめ込んで、頑丈な足場を作りながら登って行く時、かなりの疲労に腕の筋肉が猛烈に痛みだして、命綱にぶらさがったまま作業を止めて、ただ呆然と周りを眺める時があるんだ。仏教の世界で言う『無』の境地かな?
 周りは何もかもが真っ白で、僕と岩山と容赦ない突風しかない。そんな時、下界で起こっているすべての出来事がいかに取るに足らないことかを思い知るんだ。宇宙飛行士が宇宙から地球を眺める時と似たような気持ちかもしれない。その生と死の狭間にいることがまさに『宇宙』に浮かんでいることと同じなんだよ。もはや死の恐怖なんて起こらない。生も死もさほど違わなく感じてくる。どっちも同じに見えてくる。その時自分が偽りのない本物の自分と出会うんだ。その作業の果てに頂上を踏む時の恍惚感。そこでやっと確かに生きている自分を感じるんだ。まさに『生』を抱きしめたくなるんだよ。そんな物に酔うために岩を登り続けるのかもしれない。オっとそれともうひとつ。ロッキーの冬に比べたらシャタブディ・エクスプレスの冷房なんてへっちゃらになる。」
 時間がない。時間がたりないと思った。彼のすべてを知り尽くしたい。こんなに彼の話を聞いていながら、謎の部分がまだたくさんあることに気がついた。胸の中に鋭い痛みを感じて私は顔をしかめた。まぎれもない恋の痛みだった。
「What's wrong ?」
 彼は私の顔を覗き込むと、乾いた手を私の手に絡め合わせた。
「椅子の間から私達の手が見えるわ。後のナンシーが何と思っているかしら?」
「何と思っても構わないさ。メンバーのほとんどがテネシーに帰る。デンバーに帰るのは、僕とエリックだけだ。帰国してから連中に顔を合わせるわけでもないし、これまで生きてきて他人の目を気にしたことはない。それに恋とはその中心である二人が主人公で、あとは単なる脇役に過ぎなくなる。一種のエゴイズムなんだと思う。」
「ロス、私、つくづく思うわ。哲学家と恋に落ちるって、なんて興味深いことなのかって。」

 しわくちゃなグレイの制服に白い帽子、その上にサンダルばきといういでたちのボーイが、小さな魔法瓶入りの紅茶とロールパンを配って歩いた。冷え切った体に熱い紅茶は大変ありがたいのだが、ガタゴトと動く列車の中で紅茶をカップに注ぐのが一苦労だった。

 次第に強くなる朝の日差しの中、背の高い木々にふちどられた緑の田園風景が窓いっぱいに広がる。インドでは かなりモダンな列車の向こうには、何千年も昔から変わらない農民の生活がある。農民達は畑の真ん中で豊穣の神に祈りを捧げ、手作業で農作物を刈り取る。見渡す限り続く農地のあちらこちらで、細長いたき火の煙が上がる。

 到着してすぐ、アーグラー近郊の町、ファヘーブル・スィークリーの岩山の上にあるムガル帝国3代目の皇帝、アクバル帝の城跡に案内された。世継ぎに恵まれずに悩んでいたアクバル帝のためにこの岩山に住んでいた予言者が男子誕生の予言をする。予言が的中してアクバルは王子に恵まれ、予言者へのお礼に山上にモスクを建てる。アクバルは1574年に首都をこの地に移したのだが、水不足のため、わずか14年ですべてが打ち捨てられてしまう。しかしここで短い栄華を誇った赤砂岩でできた巨大な遺跡は、400年たった今もそのままの姿で、小鳥のさえずりの中静かにたたずんでいる。わずか14年で廃虚と化したこの都は、なんと周囲10キロにも及ぶスケールの地域である。

 アーグラー駅に私達を出迎えたガイドは、珍しくクリスチャンだった。彼の説明の所どころにヒンズー教やイスラム教への皮肉が混じった。これが、フランクにとっては、はなはだ侵害だったらしい。説明を中断して「私の顔に何かついていますか?」と言う彼に対してフランクが
「いや、別に。ただ、少し事実と食い違っているため、あなたがいかに勉強不足かを思い知らされているだけです。」
とあからさまに非難の言葉を言う。それでもここアーグラーで生まれ育ったというこの若いガイドは、威厳のある姿勢をまったく変えない。
「私は、ここアーグラーの事に関しては、お客様の何倍も知っているつもりですし、1500年もの間、ある程度平和にやってきたヒンズーとイスラムという宗教が、現在になって抱えている深刻な問題にもかなり詳しいつもりです。マハトマ・ガンジーが犠牲になったのも、もとを正せば、ヒンズーとイスラム教徒達の愚かさが故です。」
ここでフランクも黙ってはいない。
「キリスト教徒は、ともすれば真実がどうだとか、物事をいかに清く正しく行うかに偏る傾向があるようです。一歩間違えば、それがまた新しいタイプの罪を生み出すことになりかねない。あなたの祖国の80%を占めるヒンズー教はそんな事に左右されない宗教なはずだ。彼らは、物事のすべては幻想に過ぎず、現実ではないと考える。幸せも幻想なら苦しみもそうだと。そして宇宙にいる至高の神が様々に姿を変えて地上に舞い降り、迷いをすべて救って下さるという実に母性的な東洋の宗教です。ヒンズー教とイスラム教は根本的に違っています。『アラー』以外に神は在りえず、厳しい戒律に従い、偶像も壁画もいっさい否定しているイスラム教は他のどの宗教とも性格が違う。インドに入って来たことで多少はインド的になってもヒンズー教と溶け込むのは所詮不可能なのです。観光客に宗教上の皮肉を言う時はこんな事もよく勉強してからにしていただきたいですな。」
「では、あなたの宗教は?」
 特に表情も変えずにガイドが尋ねる。
「私はメソディスト派のクリスチャンです。私の生い立ち、私の文化、私のアイデンティティーがそうだからです。妻のジャネットの背景はギリシャ聖教です。私と結婚してメソディストの教会に属してはいるが、やはり彼女の血肉となっている宗教はギリシャ聖教でしょう。」

 フランクとガイドの論争に閉口したメンバーが次々と輪を離れて散らばっていく。
当然ロスもその一人だ。私の背中をつついて、早足でグループから離れていく。いつものように必死に彼の歩調に合わせて赤い砂岩石でできた床の上を歩く。
「アイデンティティーがメソディストだって?彼の宗教論こそまったく表面的で、聞いてあきれるよ。白人がインド人に向かって訳知り顔で説教する。だからと言って彼らの文化を肌で知っているわけではない。あくまで、他の白人が書いた本を読んで頭でっかちになっているだけなんだ。僕はカトリックの教会に通わされて育った。子供時代にカトリックを喉から詰め込まれたからといって、それがそのまま僕のアイデンティティーになるなんて、まったく馬鹿げた論法だよ。」
「そうかしら? 私は、やっぱり仏教が自分のアイデンティティーだと思うけど自分で選んだわけではないわ。」
「ノリコやロバートのように赤ん坊の頃から、その香りや音の中で育つのとはわけが違う。フランクが言っているのは、教会の日曜学校で文字を通して詰め込まれる知識だよ。ヒンズー教徒達にとって宗教は生活そのもの、感覚そのものなんだ。それをいちいち気難しく考えない。考えないで、ごく自然にヒンズーの神々に祈りを捧げる。それが本当のアイデンティティーなんだよ。」
「ロス、いずれにしても私はあのガイドを尊敬するわ。このグループがこの後、日本に来て私に仏教の説明を頼んでも私にはできない。だってこのグループは、宗教学や歴史の教授、それから哲学家だらけだもの。」

 遺跡の南側に巨大な門があった。灼熱の太陽の下、門に続く長い石段を登る。コーランの文字が壁いっぱいに刻みこまれた門のドームの中で暑さにめまいを感じながらミネラルウォーターをがぶ飲みする。
 私達の後を追うようにエリザベス、マーク、リバ、アンとブライアンが石段を登って来た。登り終えてフーフー言いながらミネラルウォーターを回し飲みする。
 ドームの天井を眺めながらブライアンが興味深そうに言う。
「建築学専門のロバート・ボンナムが、ここを楽しみにしていた訳がわかったよ。ここはヒンズーとイスラムの建築様式が見事に溶け合っている。権力者の手にかかればまったく性質の違う二つの宗教のミックスも不可能ではないということだ。アクバル帝の妃はヒンズー教徒だったから、建築様式も夫婦円満に解決したかったんだろう。どんなに妾がいてもやっぱり正妻は怖かったんだろうね。」
 ドームの中に、白大理石の墓があった。
「これだよ。偉大な予言者の墓だ。現在でも彼は人気者でね、ここで願いごとをすると叶うという言い伝えがあって、毎日、参拝者が絶えない。」
「ロマンチックだわ。そういう話が大好きよ。皆でやってみましょう。皆で願い事をすればパワーが何倍にもなって一つぐらいは叶うかも知れない。」
 エリザベスがはしゃぎ声で言う。マークが咳払いをして、もったいぶった声で演技をする。
「それでは皆さん!ここでしばしの黙祷を、、。」
 私達は墓の前で一列になって黙祷して願い事を捧げた。私はロスの幸せを祈った。
そして日本にいる家族の幸せを。でも私は自分にどうなって欲しいのだろうと思った。どんな状態になれば私は幸せなのだろう?
 ロスの手が私の手をギュっと力をこめて握る。私もそれに答えるように力をこめて彼の手を包んだ。
「どんな願い事をした?」
「私が愛する人達の幸せを。あなたは?」
「地球のどこかで、、いつか必ず君と、また会えるように。」

「ブライアン、宗教学の教授はどんな願い事をするの?」
 石段を下りながらリバが意地悪そうに言う。
「妻のリンダの前の夫をこの世から抹殺してくれと頼んだ。」
「それまたどうして?嫉妬?」
「最低な奴なんだ。医者で豪邸をかまえてる金持ちさ。リンダに未練があるらしく執拗にストーカーじみた行為をする。ついに僕は我慢ができなくなって、2〜3人の友人と野球のバットを持って奴の豪邸に忍び込んでやった。本当に奴を殴り殺してやりたかった。見事に警報機が鳴りだして、警察所で一晩過ごした。まったくあんな屈辱はない。 その上にもう充分金がある奴が弁護士を通して不法侵入の告訴をしてきた。帰国したら今度は法廷で奴と戦わなければならない。だから帰国するまでに奴を抹殺してくれと頼んだのさ。」
「ブライアン!あなたが野球バットを持ってリンダのエックス宅に侵入なんて、想像もできないわ!」
 アンが言うやいなや、私達はドっと笑った。
「オイオイ、こいつは笑いごとじゃないんだぜ。僕にとっては、今、かなり深刻な問題だ。」
 リバが言った。
「それは、あなたが自分で刈り取らなければならない前世からのカルマに違いないわ。ガンジス川で、もっと真剣に祈ればよかったのよ。」

 昼下がりにやっとタージ・マハールの門の前に到着する。タージ・マハールの門番は実に厳しかった。観光客を門の端に並ばせて、ボディ・チェックの後、更に細かく荷物をチェックする。シャタブディ・エクスプレスの中で飲まずにリュックに入れておいたフルーツジュースやガム類まで、どういうわけかその場で没収された。
 カメラは中庭だけで、タージ内では撮影禁止。ビデオはお金を払って係の人の付き添いで特定の所でしか写すことができない。それ以上タージに近づく時は、再びお金を払って入り口にビデオマシンを預けなければならない。それだけでも大変貴重な国の財産を見に来たんだという緊張感が湧く。

 ムガル帝国5代目の皇帝、シャー・ジャハンに気が狂わんばかりに愛されて、彼の子供を出産する時に命つきたムムターズ・マハール。タージとはムムターズを縮小した愛称である。彼女の死後、生きる希望を失った皇帝は400キロかなたから運ばせた白大理石で、世にも美しかったムムターズのために巨大なイスラムの墓を建設することに情熱を燃やす。「真珠の涙」とも言われる彼の愛の建造物の工事は1632年に着手、完成までに21年にも及び、2万人の労働者が狩り出された。その他、アーグラー城などの建設も強行したため、ムガル帝国の出費は莫大な物になったという。
Taj Mahal シャー・ジャハンには思い描いていた夢があった。タージ・マハールがたたずむヤムナー河の対岸にまったく同じ建築様式の自分の墓を黒大理石で建てるつもりだった。ふたつの墓をヤムナー河にかかる橋で結ぶことで、妻との永遠の愛を可能にしようとした。
 しかし、そんな彼のとてつもない夢は、はかなくも消えてしまう。タージ・マハールの完成後、衰弱して病に伏したシャー・ジャハンの3番目の息子が王位を狙う陰謀を企て、二人の兄を殺害し、遂に父親をアーグラー城に監禁してしまう。
 我が息子によって自らが建てた城に監禁の身と成り果てたシャー・ジャハンは、時々登ることを許された望楼からヤムナー河のほとりにたたずむ「真珠の涙」を眺めながら余生を送ることになる。
 シャー・ジャハンの死後、娘達の念願で、彼の遺体は最愛なる妻、ムムターズ・マハールの隣に並んで安置されることになる。ここで初めて彼は愛の建造物「タージ・マハール」に戻り、愛するムムターズの隣で永遠の平和を呼び戻すことができたのだ。

 私はタージ・マハールを見るのをチベット、ラサのポタラ宮以上に楽しみにしていた。
何年も前にタージを訪れた父が、土産にタージを縮小した小さな大理石の置物を買って来てくれた。ピアノの上に置かれたその純白のタージは、ドビュッシーの「月の光」のように繊細だった。練習に飽きると、窓辺に立って小さな「真珠の涙」を頭上に掲げて月の光に透かして、光の加減でその白さが微妙に変わるデリケートな白大理石を楽しんだ。父は満月の夜に見るタージ・マハールのこの世の物とは思えないほどの神秘的な美しさをよく語って聞かせてくれた。
 もうひとつは、アメリカ留学をしたばかりの私にホストファミリーからプレゼントされたフルート奏者、ポール・ホーンの「Inside」というタイトルのLPだ。タージの内部に入って特別にフルートを録音することを許されてから何日もかけてやっと完成したというエピソードや、警備員と親しくなって彼がコーランを唱える声の響きをも録音することができたといういきさつが詳しく書かれてあり、アルバムの表と裏いっぱいに前庭の水に写るタージ・マハールの写真があった。
 タージの中の音響は格別である。ポール・ホーンがフルートで奏でる短い即興のメロディーが幾重ものエコーで再現されて新しいメロディーのエコーと次々に重なっていく様は、イスラムのエキゾチックな象形文字がそのまま音楽になったように美しく私はそれを聞くたびに、タージ・マハールに思いを馳せた。死ぬまでに何としてでも本物のタージを見たいと思っていたのである。

 正門のアーチを通してタージ・マハールがその華麗な姿を現わした。暗い門の中から見るタージは、青い空の下、さんさんと降り注ぐ太陽の光の中で真っ白に光って見えた。門のアーチに近づくにつれて、目の錯覚でタージの全景が微妙に後に下がっていくように計算されていた。反対に少しずつ後退りしてみると、アーチの中のタージも一緒に着いて来るように見える。実に心憎い設計である。
 門の外に出る。パラダイスをそのまま再現したような深緑の敷地、咲き乱れる南国の花、行儀良く並んだ並木の向こうに、その純白の愛の建造物が静かにたたずんでいた。まっすぐ正面に伸びた長方形の泉水に左右対称な姿のタージがくっきりと写っている。巨大ではあるが、決して奢り高ぶらない、全体が柔らかな印象だ。
「わあ!遂に来た!」感激のあまり、私の目がまた潤んできた。その昔、シャー・ジャハンが、最愛の妻ムムターズの魂に捧げた「真珠の涙」は私が想像していた以上に美しかった。

 ここで私は独りになりたかった。所どころにある石のベンチに腰掛けて瞑想しながら私は時間をかけて広い中庭を歩きまわり、様々な角度から見るタージ・マハールを満喫した。タージはどこから見ても完璧に計算されていた。 私の歩みに合わせて太陽の位置が少しづつ変わるにつれ巨大な丸いドームにある影が動き、なんとも言えない微妙な色の変化を作り出す。時間と共に太陽が傾くと、ドームに柔らかい黄色が加わり、印象が刻一刻と変わっていく。その、まるで息をしているような表情に、建造物で愛を表現することは可能なのだと思い知らされる。
 シャー・ジャハンは知っていたに違いない。何百年もの時を超えて、世界中から訪れる観光客がこの巨大な愛の傑作に深く感動し、半ば妬みにも似た感慨に浸るだろうことを。そしてタージがある限り彼のムムターズへの深い愛が未来永劫に語り続けられるだろうことを。

 タージの左右には対照的に設計されたイスラムのモスクが、中央にあるタージを守るように建っている。サンダルを脱いで左側のモスクに入ってみる。モスクからの眺めもすべて計算されているようで、どのアーチから見てもタージの細かい部分が完璧な絵になっている。その見事なまでに心憎い設計に思わず唸ってしまう。
 牛や猿などの動物まで神になりえた賑やかなヒンズーの寺院に慣れてしまった私には、神の像や壁画のかけらもないイスラムの空っぽなモスクが逆にすがすがしく感じた。
 唯一神であるアラー以外のいかなる存在も崇拝することを禁じているイスラムのモスクは、アラビア風のアーチ、玉葱のような形をした屋根、デザイン化された美しい象形文字と草花模様がすべてである。細かい象形文字を広いモスクの壁いっぱいに刻むのは気が遠くなるような作業だったに違いない。
 タージ・マハールの外壁の象形文字は、上の方の文字まで平等に見えるように上に行くにしたがって文字のサイズを少しづつ大きく刻まれているらしい。

 タージの内部へと続く白い大理石の階段が素足に気持ちが良かった。中は薄暗く、ひしめく観光客の話し声がお経のように渦巻いて天井のドームから戻って来た。時々あちらこちらで、ドームの音響を試すためか大きい声を出す横暴な人もいる。中央の柵の中にムムターズとシャー・ジャハンの棺が仲良く並んでいた。その表面が見えないくらい、参列者が投げ入れた花や献金で墓は埋もれていた。この二つの棺は、あくまで見せかけで本物は地下にあると聞いたが、何の遠慮もない無作法な観光客の毎日の訪問に果たしてこの二人に真の魂の平和はあるのだろうか。

 暗い壁の一面に色とりどりの細かい石を埋め込んだ草花模様がある。ヨーロッパからの観光客を引き連れた添乗員が、フラッシュライトをつけてその壁を照らして見せていた。宝石の花が咲いたような繊細な美しさに息を飲んだ私は、グループの中に割り込んで壁に見惚れてしまった。フラッシュライトの灯りは壁の中まで染み渡り、かなり広い範囲の模様を、まるでカラフルな宝石が散りばめられたステンドグラスのようにあたりに浮かび上がらせた。

 タージの横側の大理石に腰を掛けてヤムナー河の向こうの果てしない荒れ地を眺める。シャー・ジャハンの想像の世界でしか実現しなかった向こう岸の黒大理石の墓が、もし本当に建っていたとしたらどんなだろうと想像してみるが、どう見ても私の目に写るのは、樹木さえも生えていない殺伐とした荒れ地だけだ。
 となりで裕福そうなインドの親子が、母親が作ったパン菓子を食べていた。柔らかそうなサーモンピンクのパンジャビスーツを着た娘が私にその美味しい菓子をわけてくれた。娘は17歳で、名前はチートナー。教養高そうな流暢な英語で、父親はサンスクリット語の教授だと言った。私が自分の生い立ちを話すと、寺に生まれたのならサンスクリット語が話せるかと聞いてきた。やさしそうな小太りの母親が私の眉間に赤いビンディをつけてくれた。
 一緒に写真を取ってチートナーはペンフレンドになりましょうと言って住所をくれた。「仏教徒なら当然ベジタリアンでしょう?いつか、日本のあなたの家とお父様の寺院を訪れたいわ。」
と笑顔で言うチートナーに、サンスクリット語も話せずベジタリアンでもない私はいささか焦りを感じた。

 アーグラー市内のホテルのレストランで夕食を取る。ヒンズー教とイスラム教に対する私的意見のためにフランクの気分を概してしまったガイドは、名誉挽回のためにホテルに頼み込んで、夜のタージがよく見える再上階のバルコニーを手配してくれた。その夜は満月だった。夜のタージをゆっくり満喫したり、ホテルのロビーでくつろいだりしてから、デリーに真夜中に着く列車に乗るという計算だ。
 レストランを出たロビーの真ん中にあったグランドピアノに向かってジェリーが、水を得た魚のように喜々として座ると、ガーシュインの「ラプソディ・イン・ブルー」を弾き始めた。私がピアノに近づくと、
「来春の学士号の卒業演奏にこれを弾くつもりなんだ。」と軽やかに指を動かしながら彼は言った。

 メンバーと一緒にエレベーターへ乗り込もうとするロスを引き留めて言った。
「ロス、今度は私があなたにインドの思い出をプレゼントする番よ。二人でここから逃げるのよ!」
「Don't be crazy !  一体どこへ行くんだい?」
「Trust me !」

「ラプソディ・イン・ブルー」が流れるロビーを早足で横切り、外へ出てホテルのロータリーに止まっていたおんぼろのタクシーに乗り込む。
「ホテル・タージ・ケーマ!」と運転手に言う。走り出したタクシーの中、困惑した顔でロスが私を見る。
「別に取って食うわけじゃないのよ。」
「もちろん君を信頼してるよ。ただ君がもし僕との恋に命をかけているなら、これから何をしでかすかわからない。」
「そう。40代の恋は命がけなのよ。すべてのリスクを背負っているから。ロス、あなたは要するに蜘蛛の糸にかかった可愛そうな若い蝶なの。私はこれからあなたの体を糸でグルグル巻きにして逃げるのよ。そして時間をかけて少しづつ、あなたの血を吸うの。干からびてミイラになってしまうまでね。」
 しばらくの沈黙の後、彼はつぶやいた。
「それも悪くないかもしれない。自由を奪われるのはつらいけどね。」

 タクシーの運転手にチップを払い、そこで待つようにと頼んでホテルに入り、フロントで裏庭への入場料を払う。広い裏庭は小高い丘の上にあった。
 タージ・マハールの魔力の虜となった父は、再びインドを訪れた時に、満月の夜を目指してアーグラーにも足を伸ばした。しかし以前のように夜間にタージ・マハールの敷地内に入ることができなくなったのに愕然とする。あちらこちらで、夜のタージの全景が美しく見える名所を聞いてまわり、ここを見つけた。
 私はアーグラーを訪れたら是非この裏庭でタージを眺めようと思っていた。たとえわずかな時間でも、父がたたずんでタージの眺めに息を飲んだだろう丘に自分も立ってみたかったのだ。
 暗い裏庭の隅々にたいまつの火が揺れ、テラスに並ぶ白いテーブルは、すでに人でいっぱいだった。私はロスの手を取り、人々の喧騒から離れた所に立った。丘の上から見るタージ・マハールは、満月を背景に妖しく輝いていた。太陽の下でどっしりと迫力のあった「愛の建造物」も、青白い月の下では、まるで宇宙に浮いた小惑星のように白く透き通って見える。

 背後からしっかりと腕をまわして、ロスは私の耳に唇を寄せた。
「Thank you, Noriko ! 本当に最高のプレゼントだよ。」
「ここにどうしても来たかったの。でも二人で来ることになるなんて思いもつかなかった。」
「僕も日本の美しい女性に捕えられて、満月の夜のタージを眺めることになるなんて想像もしなかったよ。ここでタージを眺めていると、本当に僕達は現世にはいないような気がしてくる。この世の物とは思えない風景を眺めながら、この世のものとは思えない恋をしている。」
「きっと帰国したら、すべてが夢だったと思うわ。それでいいのよ。すべてが幻なんだから。」
「いや、僕はそう思いたくない。すべてが現実だったと思いたいし、必ずいつかまた君に会えると信じたい。たとえそれが、二人で飲む一杯のワインのためでも。」

 私とロスの恋には、やはり根本的な違いがあった。私は、これが刹那的な幻だからこそ、ロスとの恋の思い出を大切にしたかった。でも彼は、いつかまた会えるという未来を信じるからこそ、二人の情熱のすべてを確認しておきたかったのだ。
 私の背中に彼の熱い胸の高なりを感じた。背後にたたずんだロスは私を抱く腕に力を込めて、私の首筋に顔を埋めた。彼の胸に寄りかかったまま、首を回してやさしく唇を重ねる。私にとってこの恋が幻だからこそ、月夜のタージ・マハールのはかない輝きと共に、彼の腕の感触と、彼の唇の記憶をしっかりと胸に刻みこんでおきたかった。

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