さすらい人幻想曲
第20章:香港 Hong Kong
インド最後の日、ホテルの窓から見える背の低いビルの屋上から無数の凧が朝日を浴びながら上がっていた。赤や黄色や青の四角い凧が真っ青なデリーの空に舞う。
「独立祭の続きかしら?」
カーテンを開けながら私は色とりどりの凧を数え始めた。
アンは、前日のアーグラー観光の疲労が抜けず、ベッドに入ったままサイドテーブルに手を伸ばして眼鏡を取った。
「このあたりの単なる遊びらしいわ。まだ少しは涼しい朝に飛ばすんですって。ところで、今日はどこに行くの?あまりの疲労にスケジュールも忘れちゃったわ。」
「オールド・デリーを見て、国立博物館を見たら、ゆっくり休めるわよ。」
「香港行きの飛行機が夜中だなんてどうかしてるわ!それを考えただけで、疲れてしまう。ノリコ、私、今日は一日、絵を描いて過ごすわ。色を塗るだけにしてあるデッサンが溜まってるのよ、、。だから先に朝食に行ってくれない? 私はあとでゆっくり行くわ。」
支度をして部屋を出ようとする私をアンが呼び止めた。
「ノリコ、あなたとルームメイトになれて本当に良かったわ。ここ数日、あまり一緒にいなかったけど、恋をしているあなたも悪くないわ。とても生き生きしている。」
私はドアから離れて、眼鏡をかけてベッドから起き上がったばかりのアンを抱きしめた。
「アン、私もあなたに会えて本当に良かった。帰国したらたくさん電子メールを送るわ。あなたの大学教授氏に負けないくらい。」
「離婚の嵐を通り過ぎて来た私から今のあなたに言えるのは、人生は自分が思った通りになるということよ。何かやろうと決心したら心を熱くすること。それが夢や希望を実現する原動力になってくれるわ。人間は何か大切な物が一つ欠けてしまっても、それをバネにしてもっともっと飛躍することができるのよ。」
「Thank you, Anne. よく覚えておくわ。」
再びドアを開けながら後を振り向いて彼女を見た。
「でもアン、私達まだ香港の一泊が残っているのよ。さよならをするのはつらいし、まだ早いわ。」
「I know. でも今のうちにさよならを言わないと、もしかしたら香港の夜に、あなたに会えないんじゃないかと思ったの。」
アンは、そう言うと、バスルームに姿を消した。
デリーはニュー・デリーとオールド・デリーというまったく異質な2つの街でできている。ニュー・デリーは、これまでのインドとはまったく違う、モダンなビル街が続く都会で、道路もきれいに舗装されてあり、財界や実業家などの豊かな人々の豪邸がたくさん見られる。
しかし高い堀に囲まれた豊かな住宅地の周りに貧しい人々の小屋がひしめき合って建っている光景は実に異様だ。彼らは高級住宅のまわりに住み、裕福な人達の雑用をやって生計を立てているのだ。小屋から出てきて街路樹の下で涼んでいる貧しい人々を尻目に、金持ちの高級車が門を通り抜けて行く。
「インドの国の混沌と矛盾のすべてが凝縮されたのがデリーだ。」と聞いたことがある。
都会的に設計された街並みでも交通状態は殺気立っていて、四方からありとあらゆる乗り物が鉄砲玉のように飛んで来る。街路樹の周りはハリジャン達の寝蔵になり、力なく座り込んでいる男や女が「バクシーシ」と言って手を差し出してくる。整然とした街角には高級レストランも軒を連ねているが、カーストの低い人は、その近くによることさえも禁じられている。
広い大通りを曲がると、昔懐かしいようなマーケットが軒を連ねている。リクシャーが行き交い、衣類、宝石、日用品などを売る店が果てしなく並ぶ通りを、たくさんの群衆がひしめき合っている。まるでインド中から集まって来たような人ごみだ。ここには観光客からいかにしてお金を取ろうかと狙っている悪質な商売人や泥棒が多いので油断ができない。店先でテイラーが旧式のミシンを踏みながら「旅の思い出にインド服を仕立てないかね?」と呼びかける。
金持ちの住宅街や商社のビル街を通り抜けると、貧困の匂いが漂うオールド・デリーの鄙びた街に入る。バスの窓から、布切れと板だけで作ったハリジャン達の住まいが見える。
その鄙びた庶民の街に巨大なモスクや寺院の塔がそびえ建ち、かつてムガル帝国のパワーを誇った赤砂岩の巨大な城、「ラール・キラー」も、街のはずれを流れるヤムナー河のほとりで未だ堂々たる姿を見せている。
私とロスは、もはや一時も離れられない存在になっていた。仏教の寺院の中でも、イスラムのモスクの中でも、私達は二人で歩き、いつ果てることもない会話を続けた。私達の耳には、もうガイドの説明さえも聞こえない。グループから離れてヤムナー河のほとりに建つ「ラール・キラー」の、上から下まで装飾が施された石の柱に寄りかかってお互いの人生の話に夢中になる。まるで、やっと再会できた愛する者同士が、これまでのいきさつを順を追って説明するようにお互いの人生への飽くなき好奇心をぶつけ合った。マザー・ジョディの言葉が真実だとすれば、私達は何百年分も話していることになるのだろう。
寄り添って赤い城壁にもたれかかり、ヤムナー河を見下ろす。私達の後ろの広場を子供達が歓声を上げながら走り回り、とても賑やかだ。遠く河が枝別れした所に二つの大きい岩が突き出しているのが見えた。
「もしあのふたつの岩が日本にあったら結婚させられているわ。日本にはロマンチックな風習があって、あんな風に並んで立っている岩や木を恋人同士の化身だと考えて聖なる綱でつないで結婚させちゃうのよ。」
「ノリコ、君が白人と結婚したいと言った時、日本の仏教の僧侶である父親は反対しなかったのかい?」
「とてもショックを受けたわ。私の大学院の卒業演奏会のために渡米して来た両親に日本語も話せなくて、学生の身分の青年が突然たった一言覚えた日本語で『ノリコとケコさせて下さい。』と言ったんだもの。父がどうやって食べていくんだと聞いたら、何とかなるでしょう。愛し合っているんだからって、、。そんな夫に父は条件を出したの。一度私を日本に連れて帰って、離れている4ヵ月の間に夫が日本語をマスターしなかったら断わるって・・・。義理の息子とコミュニケーションもできないなんてまっぴらごめんだってね。」
「それで、彼はテストに成功した?」
「3ヵ月目で、私の父に悪くない日本語で国際電話をかけてよこしたわ。」
「Wow !」
黒いサングラスをかけたロスは、ヤムナー河を見つめたまま信じられないというように首を横に振った。私は身を寄せて彼の広い肩の上に頭を乗せた。太陽に光る彼の金色の巻き毛の先が汗で濡れていた。
「ロス、それが情熱というものなのよ。情熱さえあれば何でもできるのよ。でも、それがずっと長続きするわけではない。男と女の間に死ぬまで続く情熱なんて有りえないのよ。日本にこんな古い詩の一節があるわ。『行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にはあらず。』
この頃つくづく思うの。世の中のあらゆる事がすべて移り変わるようにできているんだって。人の感情は、とりわけ早く変わるわ。時が移り変わればもう二度と、同じ川の水に足を入れることはできないのよ。あなたの思いだって離れてしまえばそのうち消えるわ。」
「Yes, Madame Butterfly ! でも僕はやっぱりそうは思わない。どうせいつかは死ぬのだからと言って人生を過ごしたくはない。ノリコ、僕が今恋をしている最大の素晴しさは、情熱が僕に信じる行為をやらせてくれていることなんだ。またいつか君に会いたい。どんな状態でもいいから会いたい。会って再び今と同じ情熱を分かち合いたい。だからきっと会える。そう徹底的に信じることができるんだよ。少なくとも僕の場合は、、。この世の中で死の恐怖に打ち勝つことができるのは、愛を信じる力しかない。」
「Ross, あなたって本当に、、。」
言葉が涙で掻き消された。乾いた赤砂岩の上に涙がポタポタと落ちた。
「Why are you crying ?」
ロスの黒いサングラスに私の歪んだ顔が写った。彼の乾いた手が私の涙を拭った。
私とロスは、偶然同じ旅行のグループで一緒だった。私は日本から、彼はコロラドからやって来た。そして私が彼を見つけ、彼も私を見つけた。彼は20人という旅のグループの中にたまたまいた異性にすぎなかった。だからそんなことは大したことではないのだと時々私は自分に言い聞かせてきたつもりだった。
しかし、なぜ彼がこの世に生を受けて私の前に姿を現わしたのだろう?何故私達は突然お互いの人生の中に入り込んだのだろう?何の目的で?もしこの出会いが偶然だったのなら、一体何がその偶然を作り上げたのだろう?
私はロスの真撃でひたむきな情熱に、生きることのすばらしさを改めて教えられたような気がした。それは私の魂に響き、こぼれ落ちる涙は、私の心の中にくすぶっていた人生への迷いを静かに洗い流していった。
とてつもなく広い国立博物館の中庭にあるカフェで、疲れた体を休める。まだ博物館の3分の1も見ていないのだが、デリーの暑さと旅の疲れのせいで、何を見てもただため息ばかりついてしまう。足が鉛のように重く感じた。カフェのあちらこちらの白いテーブルに仲間達がすわり、茶を飲みながらそれぞれ感慨にふけっている。
私とロスだけが相変わらず話に夢中になっていた。私達のテーブルにドクター・ボンナムがゆっくりと歩いて来た。
「May I sit here ?」
「Yes, of course !」ロスが慌てて彼のためにイスを引く。
ドクター・ボンナムは持って来た紅茶のカップをテーブルの上に置いて座ると、私の目を見て言った。
「ノリコ、帰国してから、君が抱えている結婚の問題をどう解決するつもりだい?」
私は彼のストレートな問いに、一瞬どう答えていいのかわからなかった。ロスの前で、私と夫のことを口に出すということは、よほどロスが私の私生活を知っていると仮定してのことに違いない。
「私は、子供達の幸せが何よりも大切だと思っています。どんなことがあってもあの子達を不安にさせることだけは避けるつもりでいます。」
ドクター・ボンナムはいつものようにしばらく考えるような顔をすると、ゆっくりと紅茶を一口飲みこんでから言った。
「ノリコ、君の幸せがまず第一だよ。君が自分が幸せだと思うことが子供の幸せでもあるんだ。」
ロスが私の横で、大きく首を振って頷いた。彼は持っていたミネラルウォーターを宙に高く上げて飲み干すと、立ち上がって言った。
「僕はガンダーラの仏像を見に行こうと思う。Please excuse me.」
ドクター・ボンナムはにっこりと会釈して、離れて行くロスを目で追い、もう一度私を見て「Well
?」と言った。
「私は一体どんな状態になれば、自分が幸せなのか、まだわかっていないんです。夫との事もどうすればいいのか、、。彼と一緒にいれば幸せなのか、離れた方が幸せなのか、、。自分の幸せの条件が何なのかがわからないんです。」
「ノリコ、君は逆に考えてはいないかい?」
「逆?」
「健康でいれば幸せだ。金があれば幸せだ。結婚すれば、家があれば、仕事があれば、愛があれば幸せだ。そう考えていたら幸せはいつまでたっても君には来ない。童話の『青い鳥』みたいにね。論法がまるで逆さまだからだよ。」
彼はあくまで、柔らかい口調を変えずに言うと、また考えこむような顔をした。
「本当の論法はこうなんだよ。まず自分は幸せだと考えるんだ。原点に幸せな自分がいる。二つ目に行動だ。幸せな自分が直感的にいいと思った行動を起こす。君が今、一番自然だと思っている事を素直な気持ちでやってみるんだ。そうするといつかは、君が一番求めていた何かが知らないうちに手の中にあると気がつくはずだ。要するにこういうことだ。自分がいつも幸せだと感じていれば、自然に人間は自分に一番必要なことに気がついて、行動を起こすことができる。そしてそれに必要な物がついてくるようになっているんだ。 ノリコ、人生は心の持ちようだ。そんなにむずかしい事ではない。君らしく生きていけばいい。自分自身を決して偽ることなく、あくまで君らしくね。天は時々トラブルを通して君に語りかけてくるということも忘れずにいることだ。」
私の人生の師であるドクター・ボンナムと、旅の間に二人だけでじっくりと話すことができたのは、この日が最初で最後だった。それなのに彼は私が長い間考え、悩み、探し求めていた人生への問いの答えを旅の終わりにあたって、私に明かしてくれたのだった。
ホテル・コンノートへのバスの中で、ロスは国立博物館で手に入れた黒大理石の仏像を見せてくれた。どっしりと重い釈迦の像はアーグラーから運ばれて来た物だった。彼はその仏像をたいそう気に入っていた。
彼は重い仏像を惚れ惚れとした顔でいつまでも眺めていた。私の彼への好奇心がまた頭をもたげる。
「ロス、もうひとつ知りたい事があるの。あなたは、いつもどんな音楽を聞いているの?」
ロスは、子供のような笑顔で大事に仏像を布の袋の中にしまうと、リュックからウォークマンを取り出して私の耳にかけてくれた。聞こえてきたのは、モーツァルトの四重奏曲だった。
「あなたがモーツァルトを聞くなんて本当に意外だわ!もっと違う音楽を聞くのかと思ってた。たとえばジャズとかソウルとか、、。」
「僕は日本の次にニューオーリンズに住んだから、その影響でジャズも聞くよ。でもモーツァルトがいなかったらきっとこの世の中は砂漠のように殺伐としていただろうと思うんだ。モーツァルトは西洋の音楽なのに東洋の地で聞いてもまったく違和感がない。特に彼の短調の曲が好きだ。軽くて明るい彼の雰囲気から一変して苦悩のような切なさを感じるメロディを聞いて、彼は一体人生のどんな物語を語りたかったんだろうと想像するんだ。モーツァルトの音楽は砂漠の中にオアシスを見つけたような気持ちにさせてくれる。」
「そう!音楽の中には宝がたくさん隠されているのよ。人間のありとあらゆる感情が隠されているの。音楽を聞く楽しみは宝探しのように作曲家の感情のドラマを探っていくことだと思うわ。ロス、あなたは何か楽器を弾くの?」
「残念ながら僕の体の中には音楽的才能という骨が一本もないんだ。聞く才能だけさ。音楽ほど自由に人間や自然を表現できるアートはないと思っている。僕はいつかピアノを弾く君の横で、ゆっくりくつろいでみたい。」
「またいつか会う日まで、モーツァルトの短調の曲を練習しておくわ。」
またいつか会う日まで、、。私はとっさにそう口走った自分に驚いた。いつか会う日まで、、。それが実現したらどんなにすばらしいだろう。実現できて、いつかまた同じ情熱を彼と分かち合えたら、、。
でも私には、やはり彼のようにその日が来る事を信じられる力がなかった。夫と子供と地球の裏側に住んでいる私との再会をひたすら信じられる彼の若さが羨ましかった。
香港は雨だった。前日まで付近を荒らした台風が過ぎ去ったばかりらしい。エアポートからのバスの窓から、暴風で折れてしまった街路樹の枝が道路に転がっているのが見える。強い中国語のアクセントのため、なかなか英語が聞き取れないガイドが、香港のすばらしさを説明しているのだが、夜中にデリーを発って一晩かけて飛んできた私達は疲労のためなかなか反応することができない。
「私の話はつまらないですか?」と言うガイドに、
「私達のエネルギーがないのは、インドから徹夜で飛行機に乗って来たからよ。気にしないで下さいね。」とバスの一番前に座ったジャネットが弱々しい口調で言い訳をする。
何よりも私達は、香港の整然としたハイウェイや、超高層ビルの林や、横を走る新国際エアポートからの21世紀を象徴するような形のモノレールにカルチャーショックを受けていたのだ。インドの混沌とした世界にどっぷりと漬かっていた私達にとって、香港のモダンな街並みは奇妙にさえ見えた。
ヴィクトリア・ピークは雨で視界が悪いため、水上生活者達のボートが並ぶアバディーン湾へ行く。香港で、最も古い漁村の船の中で一生を送る人々がそこに住む。
彼らが住む質素な船が湾内にひしめき合って浮かび、その向こうに、いかにも中国らしい龍宮城のような形のきらびやかな水上レストランが並んでいる。まだ小雨が降る桟橋に立ってアバディーン湾を見渡す。インドの煮えたぎるような暑さの後の、程よい気温と湿気が肌に心地よい。周りの小高い丘の上で小雨に煙る中国様式の深緑色の屋根も、まるで水墨画の中の幻想の世界のように見える。
私とロスは真っ赤にペンキを塗った桟橋の柱に寄りかかって沖へ出て行く小船の群れを見つめていた。日本の梅雨のような湿気が漂う湾の上をすべるように進んでいく質素な船が、やけに頼りなく見えた。
まるで行くあてもない船が広い海の上を漂流しているようで、貝殻のような形の帆に心細さが漂う。ロスがポツリと言った。
「明日の今ごろ君はトウキョウに着くね。本当に日本は近い。」
「そうね。そしてアメリカは遠いわ。」
祭りの終わりにふさわしい風景だと思った。雨雲が立ちこめる空に精一杯帆を張って、灰色の海水に浮かぶ頼りない小船は、いつ風向きが変わるとも知れない人生の風にあおられながら、それに抵抗もせずにひたすら流れて行く私自身の姿だった。
一体いつになったら陸が見えるのだろうと惑いながら、、。
「二人ともそのまま振り向いて。」
後でエリザベスがカメラを構えて言った。彼女は2回程自分のカメラのシャッターを押し、私のカメラを受け取ってもう一度私達にレンズを向けた。恋をしている私とロスがフィルムのひとコマに焼き付けられた。
エリザベスと一緒に湾内のミニクルーズを楽しむ。
「マークは?」
「疲れてバスの中で昼寝中よ。リバもアンも。せっかくの香港なのに。」
彼女は沖に向かう小船にカメラを向けた。ロスは来なかった。小雨の中、桟橋の上でだんだん小さくなる彼を私は胸が張り裂けるような思いで見つめた。私達のボートが離れるのを見届けてから、くるりと向きを変えて歩いて行く白いTシャツの背中が溢れ出る涙で霞んでいった。やがて来る彼との本当の別れの練習をするように、日本語で「さようなら、ロス」とつぶやいた。
エリザベスが私の背中をやさしくさすって言った。
「実は朝一番に日本へ帰るあなたのために私とリバとアンが今夜プレゼントを上げる予定なの。」
「何のプレゼント?」
「内緒よ。ナイトクルーズの後にあなたの部屋で見つけて。」
映画「慕情」の舞台になったという白い砂浜のビーチがパラダイスのように美しかった。そのレパルス湾を見下ろすレストランでゆっくりと飲茶を満喫してホテルへ向かう。最後の夜のナイトクルーズのためにゆっくり充電する必要があったからだ。
地上30階のヨーロッパ調の豪華なホテルに着く。窓一杯に香港の高層ビルの林が広がるゆったりとした部屋で昼寝をする。
突然ワープしたように東京に帰ってしまった自分の夢を見た。夫が私を出迎える。
大きく両腕を広げて笑顔で私を向かえる夫に、やっと故郷に戻ったような安堵を覚える。しかし突然私は狼狽する。驚いて私を見る夫の前で取り乱して叫ぶ。
「まだ彼にお別れの言葉も言っていないのよ!私、戻らなければ!まだお別れもしていないのよ!」
夫は愕然として手で顔を覆う。
「もう僕は君を信じられない。すべてが終わりだ。終わりだ。」
目を覚ました私は、しばらく自分がどこにいるのかわからなかった。心臓がまだドキドキしている。となりで熟睡しているアンを起こさないように静かに着替えて部屋を出た。
小さな店やブティックが軒を連ねる雨上がりのマーケット通りを歩く。頭上に連なるカラフルな看板に書かれた漢字に懐かしいような親しみを感じるが、ほとんどが私には意味不明だ。狭いマーケット通りを過ぎて大通りに出ると、広い道路の両側に近代的なデパートやブランド品の店が並んでいた。デザインも色使いも洗練されたショーウィンドウを眺めながら歩く。道行くキャリアウーマン達のミニスカートやスーツやハイヒールに今さらながら驚いて、ただ呆然として立ちすくんでしまう。
インドの女性達の、あのエレガントなサリーやパンジャビスーツ。お香の香りと貧困の匂いが混ざり合ったマーケットの喧騒と混雑。あたりのヒンズーの寺から聞こえるマントラと鐘の響き。そのすべてが、夢の中か、まるで幻覚でも見ていたような錯覚に囚われてしまう。
ルイ・ヴィトンやシャネルのマネキン人形が並ぶ、眩しいくらいに明るいショーウィンドウの前で、私はまちがいなくカルチャーショックを煩っていた。
庶民的なマーケット通りにあった小さなブティックで、体にフィットするシンプルな黒のサマードレスとマザーパールの髪飾りを買った。最後の夜のクルーズでそれを着ようと思った。ドレスを鏡の前であてて見ながら、誰かとの夜のためにドレスを選ぶのは何年ぶりの事だろうと思った。
アクシデントが起こった。ナイトクルーズの船が出るハーバーまで、ホテルから歩いて20分程の距離なのだが、旅の疲れのためフランクやジャネットを含めたメンバーがタクシーを利用した。歩いてハーバーに向かった私達より先に到着して船に乗り込んでいるはずの彼らがいない。しばらく右往左往したあげく、彼らの乗ったタクシーがまったく違う所にあるハーバーに向かったことがわかった。気がついて戻って来たとしても、船が出る時間には到底間に合わない。旅の間いつも雑用をやってくれたエリックとジェリーが犠牲になり、彼らを待つために船に乗らずにハーバーに残ることになった。残り数人を乗せて船はハーバーを出た。フランク達には気の毒なのだが、心のどこかでホっとしてしまう感情を偽ることができない。ロスとの最後の夜のクルーザーのカクテルパーティーで仲間達と騒ぐ気持ちにはどうしてもなれなかったからだ。
船はゆっくりと香港の夜をすべった。暗い船内のベンチで、グラスを傾けながら愛を語り合うエリザベスとマーク、ドクター・ボンナムとスザンヌの姿が見えた。私は船の欄干に立って、顔にあたるさわやかな潮風の匂いを嗅いだ。
マザーパールの髪飾りで髪を上げたうなじに海からの柔らかい風がまとわりつく。
なめらかな夜の世界にあふれる色とりどりのイルミネーション。黒い海に反射してキラキラと宝石のようにきらめく町の光。カクテルグラスを手に暗い船の欄干に寄りかかる。水際の超高層ビルの林が放つ電光のスパークは、まるで万華鏡のような美しさだ。
「Do you know you are beautiful ?」
黒いドレスに手を回して強く引き寄せながら、ロスが囁く。彼の手首の菩提樹の数珠が私のウエストに食い込む。私の耳にそっと唇を押しあてて彼はもう一度囁く。
「Do you know you are beautiful ?」
もう言葉はいらなかった。この3日の間に、私達は語りたいことをすべて語りつくしていた。あとは、宝石箱をぶちまけたような香港の夜の中で、ほとばしるお互いの情熱を永遠に心の中に焼き付けるだけだ。
潮風になびく彼の金色の髪にネオンの光が写り、青や赤に輝いて見えた。
「ロス、私は今、最高に幸せよ。あなたの事は一生忘れないわ。もう本当に何も思い残すことはないの。ロス、あなたに会えて本当に良かった。」
あなたにに会えて良かった、、。もう二度と彼に会うことはないだろうと思った。
私には戻って行くべきかけがえのない家族がいる。そして彼にはこれから羽ばたいて行く人生がある。さまざまな可能性がたくさん詰まっている彼の人生は彼だけの物だ。私はここで、ロスという名の自由な鳥を再び飛び立たせてあげなければいけない。
何百年もかけて求め合っていただろうお互いの魂は、このアジアの片隅で再び会うことができた。あなたに会えて良かった、、。私は今ここで、色とりどりの光が揺れる香港の黒い海に身を投げても悔いはないだろうと思った。
ハーバーからホテルへと歩く。もう真夜中だ。数人がホテルのパブで私のためのパーティーをやり直そうという案を出した。私はすっかり困惑していた。もうすぐロスにさようならを言わなければいけない。もうすべての祭りは終わったのだ。明日の今ごろは日本にいるはずの自分が信じられなかった。
角を曲がった所で、突然ロスは私の腕をつかんで脇のビル街の中に入った。仲間から離れて水際の公園の方へ早足で歩きながら手を絡め合う。
「皆には悪いけど、今君を誘拐しなかったら、もう君と二人だけでいることができない。」
「ロス、ロス!あなたって最高の悪党だわ!」
ビル風が通り抜ける広場の噴水の飛沫を浴びながら、彼の首に手を回して唇を重ねる。
虹色のイリュミネーションが反射する水際の公園をひたすら歩いた。対岸の町の光が一望できる真夜中の公園は恋を語り合う男と女でいっぱいだ。歩きながら私達は絶望的な気持ちで、二人だけで愛を交し合える場所を捜していた。ガスライトの青白い灯りの下で波の音を聞きながらお互いの体を抱きしめ合う。
私を見つめるロスの潤んだ瞳に香港の夜の色がにじむ。
「君に恋をした瞬間は、マザー・ジョディのあの夜の礼拝の時、立ち上がって小屋を出る時だった。ひたすら目を閉じて火の向こうに座っている君の金色の肌が、火の光を浴びて何とも言えず美しかった。それがまるで烙印のように焼き付いて頭から離れなかった。」
「私もあなたに恋をした瞬間は、同じ場所で同じ時だったわ。マザー・ジョディに促されて小屋の中に座って、火の向こうで深く瞑想しているあなたの顔を見た時、なんとも言えない愛しさを感じて胸が激しく高鳴ったわ。」
「やっぱり彼女の魔法だったのかな?」
「それともマザー・ジョディは、お互いに捜し求めていた二つの魂の派動を、本当に感じることができる人だったのかも知れない。」
時はまたたく間に過ぎていった。夜も更けた道を私達は無言でホテルに向かって歩いた。しっかりと絡み合った手だけが最後の私達の存在の印だった。まるですべてが短縮されてしまったように時は残酷に過ぎていった。
エレベーターに乗り込む。閉まろうとするドアを押し開けて、酔った日本の男達が数人、慌てて乗り込んで来た。大きい声で冗談を言い合いながらビジネスマンらしい中年の男達が好奇心を隠せないという顔で私達を見ている。 あとわずかで、永遠に彼と別れるかもしれないこの時に突然私達に向けられた、何の遠慮もない男達の視線とムっとする酒の匂いに、いたたまれない苦痛を感じた。私は悲痛な思いで顔を上げて、25階の数字が光るのを待った。
ドアに封筒がはさんであった。封筒の中から香港の夜景の絵葉書に書かれたメッセージが出て来た。
「Dear Noriko 明日の朝、あなたは朝早く支度をしなければならないので、起こされたくないアンはリバの部屋に移りました。しかたがないので、エリザベスはマークと部屋を取りました。悪く思わないで。ゆっくりと香港の夜の眺めを楽しんで下さい。恐らく二人で。これが私達からのプレゼントです。電子メールを楽しみにしています。 Anne, Reba, & Elizabeth」
ドアを開けた私達の目の前いっぱいに100万ドルの香港の夜景が広がった。窓際に立って感動で満たされた胸をいっぱいにして深呼吸する。夜が更けたビルの林のかなたにあるビクトリア湾の光のラインはダイアモンドのようにキラキラと瞬いていた。
もはやすべての言葉がいらない世界だった。彼は窓際の淡い光の中に立つ私を抱きしめて、黒いドレスの背中のジッパーをゆっくりと降ろしていった。激しく舌を絡ませながら二人は情熱の炎と化した。
窓からこぼれる虹色の光りの中に横たわる彼の肉体はギリシャの彫刻のように美しかった。シーツの上のひき締まった体から逞しい2本の腕が伸び、私の体を捕えて放さない。火の玉のように熱い彼の重さの下で、決して私を忘れないでと言いたいのを必死にこらえる。
頭の芯までしびれて体中が溶けるような甘い感覚が、まるで波のうねりのように私の全身を包んでいった。
「ノリコ」
子供のように私の胸に顔を埋めて、かすれた声で彼はつぶやいた。
「僕はしばらく命をかけたロッククライミングはできないかもしれない。」
「どうして?」
「君を抱いていて、初めて死への恐怖が湧いた。今、僕は死が恐ろしい。こんな気持ちで岩を登ったら、今度は本当に死ぬかもしれない。」
私は彼を全身で抱きしめた。
「ロス、ぜったいに死なないで。もう岩山には行かないで。地球のどこかであなたが生きていると信じて私も生きるのだから。」
白々と夜が明けた。私達は無言のまま身支度をした。バスルームから出て来るとロスが私のスーツケースを頑丈に閉めてドアの所に運んでいた。タクシー乗り場まで送ると言うロスの口に手をあてて言った。
「ロス、このままお別れしましょう。あなたがこの部屋から出るのを見届けてから私は出発するわ。」
彼は頷くと、私を力一杯抱きしめた。
「帰国してから2週間、アラスカの山へ行く。父と約束しているんだ。魚を取りながらアラスカの山奥でキャンプ生活をするんだ。秋が終わる頃にはワイオミングの山を独りで登山する予定でいる。」
「ロス、くれぐれも危険なことはしないで。」
彼は苦笑して、「Yes, Mama」と言った。
「きっといつか君に会えるよ。それまで君も元気で。夫がいる君でもお互いに無事でいることぐらい連絡し合えるだろう?」
「ロス、私はもし夫が私達の事を知ってもしかたがないと思っているわ。きっといつかは彼が知る日が来ると思っているの。でもそうしたら何年かけてでもわかってもらうしかないわ。」
彼は大きく頷くと潤んだ目で私を見つめた。乾いた指先で私の顔の輪郭をなぞり、もう一度私を抱きしめると、後も振り返らずにそのまま部屋から出て行った。
残酷な音と共にドアが閉まって、いたたまれない沈黙があたりを包んだ。
「さよなら、ロス」
固く閉じられたドアは無言のままだった。
「さよなら、ロス!」
涙が頬を伝わって次から次へとこぼれ落ちた。私は涙を拭かなかった。流れ落ちる涙と一緒に悲しみのすべてを洗い流し、旅の思い出を心の中に包みこんで、これから私らしく精一杯生きていこうと思った。いつも周りに愛を感じて、幸せを出発点として、どんなことでも希望を持って進んで行こうと。
いつか私が死ぬ時にああ、幸せだったと言えるような悔いのない人生を送ろうと思った。
「神はトラブルを通して大切な人生に気づかせてくれる時もある。」
ベッドに座って、ベルボーイを頼むために電話に伸ばした手を止めた。これぐらいの荷物は自分で運んで行こうと思った。