さすらい人幻想曲

第4章:ドクター ボンナムと私     Dr. Bonham & Me

 「南アジアの聖地を巡る旅」の話を私は去年の夏、ピアノセミナーが行われていたマサチューセッツ大学のカフェテリアでドクター・ボンナムから聞いた。彼はミッショナリーだった両親の間に北インドで生まれ育った師だった。テネシーの人里離れた山に自力でログハウスを建てて、教養豊かな妻と一匹の猫と共に質素な生活をしていた。  William College でピアノを専攻していた私は、紺碧の海のように澄んだ青い目と黒髪を持つ彼に脅威すら感じていた。デリケートで物静かにピアノの真髄を教えるドクター・ボンナムは私にとって神のような存在だった。
 しかし若かった私は大学生活の最初の2年間、日本の窮屈な寺の娘が突然自由の国アメリカに羽ばたいたのをいいことに、遊び暮らしていた。勉強も落第しない程度にやった。かなり要領のいい留学生だった。
 音楽の素質が私のどこかにあるだろうことは自分でもわかっていた。無類のクラッシック音楽好きだった父の影響で、常に音楽が流れる中で育ったからだ。戦争で、跡継ぎ候補だった兄を二人も亡くした父は寺の住職になることを余儀なくされた。
 しかし音楽への情熱を捨て切れず、夜な夜な寺中に響くようなかなりの音量で、チャイコフスキーやマーラーを聞いていた。私達兄弟が寝る時、となりの部屋で天井の電気が震えるくらいの音量で音楽が流れているのはいつものことであった。
 そのせいもあって、私がピアノを勉強するからという理由でアメリカ留学したいと言った時も父は驚きはしたものの、さほど反対はしなかったのである。
 ろくに練習もせずに大学の友人達と遊び惚けていた私は、2年目の終わりの夏、スモーキーマウンテンに泳ぎに行こうとして車に乗り、車ごと何回転もするという大事故にあった。命は助かったものの、右腕がアスファルトに接触してズタズタになり、右手の小指を骨折した。幸い重傷はまぬがれたが、指は複雑骨折をしており、神経までやられているという理由で、複数の医者から専攻を変えたほうがいいと言われた。ピアノはもう不可能だと。小指を切断する事態にならなかっただけでも運が良かったと、レントゲン写真を指差して医者達は丁寧に説明してくれた。
私は泣きながらドクター・ボンナムのスタジオに入り、医者の宣告を報告し、専攻を変える決心をしたことと、これまでの礼を言った。彼は「フンフン」と小さくうなずくと、まるでこれまでの話に関心はないという顔で立ち上がり、ほとんど右の小指を使ってメロディーを出さなければならないショパンの「別れの曲」を持ってきてピアノの上に開いた。そして私にこう言ったのである。
「これが君の次の曲だよ。Good Luck !」
 練習室に入り包帯をしたままの指で恐る恐る鍵盤を押してみた。ほとんど痛みは感じなかった。私の指はいつのまにか治っていたのである。それより始めから故障などしていなかった。わずかに変形して寒い時や湿気がある時にキリキリと鈍い痛みを感じるぐらいだ。もちろんドクター・ボンナムはそれに対して何の反応も示さなかった。それから卒業するまでピアノをがむしゃらに練習した。
「君が事故にあったのは偶然じゃなく天のお計らいだ。起こるべくして起こったんだよ。」
と彼はたびたび言った。

 それから順調にテキサス州の大学院へ進み、卒業後、William College 時代から一緒だった、パイプオルガニストであるアメリカ人の夫と結婚した。彼の長年の夢であったヨーロッパでの勉強の資金を稼ぐため2年間、生まれ故郷の仙台でインド料理店のマネージャーとして働いた。ボンベイ出身のインド人である上司のお陰でインドやヒンズー教の事をずいぶん学んだ。しかしその頃の私はインドなどという国はきっと自分にはまったく縁がない所だと思っていた。夫は日本語を学びながら英語教師として働いた。そうしてまたしだいに私のピアノ熱は冷めていってしまった。
 パリで1年、ドイツで2年生活した。特にピアノに未練はなかった。夫のパイプオルガニストとしての才能は私よりはるかに優れていると確信していたし、彼は私とは比べ物にならないくらい努力家だ。彼のヨーロッパでの修行にとことん協力するつもりだった。
 ヨーロッパでの生活は夢のように過ぎた。まるで毎日がハネムーンのようだと思った。苦学生ではあったが私達はひまさえあれば、日本人の絵描きから買ったポンコツのフィアットに乗って旅に出た。天気が悪い日は美術館巡りをしたり、めずらしい映画を見た。フランス語学校の友人達とパリの待ち角にあるカフェでコーヒーをすすったり、ルクセンブルグ公園でスケッチをしながら、こんなに美しい所に連れてきてくれた夫に感謝した。
 春たけなわの頃につわりで苦しんだ。妊娠5ヶ月目にパリを去ってドイツ、フライブルグの音学院へ試験を受けに行った。パリのアパルトマンを引き払って家財道具のすべてをフィアットに詰め込み、国境越えをした。すでに修士号があり、パリでも勉強してきた夫がドイツの音学院で「ゾリスデン ディプローム」という最高過程に受かるチャンスはあまりなかった。試験場のロビーで私は目立ちはじめたお腹をかかえて待っていた。夫は奇跡的に試験に成功し、フライブルグのかわいらしい古い農家を改造した家を借りられることになった。12月に娘が生まれた。二人で飽きずに可愛らしい我が子を眺め、裏の「黒い森」で乳母車を押しながら毎日をすごした。まるで幸せを絵に描いたようだった。
 しかし1年目の終わりに私達の蓄えが底をついてしまった。思案にくれていると友人から日本での音楽国際コンクールの話を聞いた。パイプオルガンの部門で1位になれば賞金は100万円以上になるという。9ヶ月の娘を抱いて私達は日本へ一時帰国した。ギャンブルのようなものだった。夫は運良く優勝した。その時の縁でドイツの音学院を卒業後、日本の大学で講師として仕事をすることになった。日本へ帰国した年に息子が生まれ、私はますます主婦業と母親業にどっぷりと漬かっていった。

 子供達がまだ幼い頃、一家でアメリカを尋ねた。William College にも訪れ、ドクター・ボンナムに会った。彼はその頃離婚したばかりで、いささか人生に疲れを感じているようだった。あたりさわりのない会話が続いた後、急に真顔になったドクター・ボンナムが突然私に痛いことを言った。
「ノリコ、いったい子供達が何歳になったら君は再びピアノに向かうんだい?」
 その言葉がナイフのように私の心につき刺さった。マサチューセッツで開催されるピアノセミナーの誘いを受けたのはこの日だった。自分で不可能だと思いながら、「そのうちぜひ」などとごまかしてその場を逃れた。

 しかし、公園の砂場で子供が無邪気に遊ぶのをぼーっと眺めながら私の心の焦りは深まっていくばかりだった。自分のアイデンティティーがなくなって、そのうち消えてなくなるような気がした。
「心の中で厚い灰をかぶった木炭がブスブスとくすぶっている。」
 その頃の私は自分が陥った状態をそう表現していた。
「突然風が吹いたり誰かがフーっと息を吹きかけたらきっとメラメラとまた燃え出すのよ。」
 その風、もしくは誰かが息を吹きかけるのを私はひたすら待っているような気がした。夫はますます大学講師として多忙な日々を過ごし、オルガニストとしての名声を確立していった。

 息子が5歳になった夏、私の焦燥を痛いほど感じていた夫がピアノセミナー行きを勧めてくれた。嬉しいのと怖いのとで頭が混乱した。それに子供と離れるのも始めてだった。
「今これをやらなければ、ずっと不可能になるかもしれない。」
と夫に言われた。あわてて昔弾いた曲を引っぱり出してきて、いつも子供の手を握っていた自分の手が妙に空っぽになったのを感じながら独りアメリカ行きの飛行機に乗り込んだ。
 ドクター・ボンナムと肩を並べて、忘れかけていたピアノを再び勉強するなんて、その頃の私にとっては夢のような出来事だった。
 セミナーでの2週間はまたたく間に過ぎていった。世界中からのピアニスト達が、プロやアマチュアにかかわらず同じ情熱を同じ空間で分かち合った。長い間、固まっていた指に油をさすような毎日だったが充実していた。ここで何年ぶりかで私は私自身に戻ったのである。誰かの妻でもなければ母親でもない。

 ドクター・ボンナムがかなり精神世界に入っていることも何年かぶりで知った。昔からそうだったのだろうが、彼にとって、そんなことを友達として安心して話すことのできる大人の女性に私は成長していたのである。私達は日々、色々な会話を楽しんだ。彼の離婚の理由もこの時初めてゆっくりと聞くことができた。私はこの夏のセミナーに3年連続で参加することになった。
 2年目のセミナーで、ドクター・ボンナムから13世紀に生きた「聖ジュメイン」という人物とのチャネリングをする、ある壮年の女性の話を聞いた。さほどこれといった教育も受けていないある農家の主婦が突然トランス状態になり、「聖ジュメイン」と名のる中世の僧侶の言葉で話をするようになった。彼の霊が彼女の体から去ると、その記憶はまったくないので録音して字に起こさなければならない。ドクター・ボンナムは定期的に彼女に会いに行くらしい。 何しろドクター・ボンナムと精神世界の話をする時は、自分の頭からアンテナを10メートルぐらい延ばさなければならないような気分になるのだ。
 チャネリングのことは、以前からよく聞いていたしそれに関する本も読んだことがある。どれも昔存在した、ある偉大な人の魂が突然ある人間の体に入り、その人間の声を借りて話し始めるというものだ。しかしその霊達はどうやって乗り移る人間を決めるのだろう?それも何のことわりもなしに、、。ドクター・ボンナムの言うには、聖ジュメインは会ったこともない人物のことも教えてくれるらしい。そんなことがあるのだろうか? 半信半疑で私は言った。
「私の事をぜひ聞いて下さい。私のこのわけのわからない焦燥感の原因を、、。」
 実際、ピアノセミナーで自信をつけて少しは成長した人間として帰国したつもりだった。ピアノや英語の生徒もいたし、私の生活は少しづつ忙しくなっていた。地元の音楽好きな友人達とサロンコンサートをやる会を結成してピアニストとしての自信もついていった。
 それなのに心の中の焦りはつのるばかりだった。夫に小さなことで注意されても簡単に自己嫌悪に陥った。結婚生活をしていて中年にさしかかるあたりで誰もが陥る可能性がある「倦怠期」にさしかかっていたのだと気づいたのはごく最近である。
 毎日毎日のごく現実的な雑用に追われていても常に心の中で何かが爆発しそうだった。私がここで生きて息をしているんだという証が欲しかった。夫の仕事ももはや、あのヨーロッパ時代のように二人で協力してやっているという感じではなかった。日本の企業も大学も配偶者はほとんど無視されている世界なのに気がついた。パーティーや食事会も同伴で招かれるということはない。夫は必然的に日本の形を取っていった。私も気の合う友達と出かけては、心のすき間を埋めようと空しい作業を繰り返した。
 3年目のピアノセミナーで、ドクターボンナムから「聖ジュメイン」との交信の記録である1枚の紙を受け取った。その時の会話がそのまま字におこしてあった。私に関する短い文章だった。

ノリコについて;
 彼女の魂は古く、マヤ帝国にまで及ぶ。その後はポンペイである。彼女はこれまで幻想というモヤの中をひたすらさまよいながらも潜りぬけて来た。それだけでもかなりの手柄である。彼女の人生は火山活動に深く結び付いている。だが現在は毎日の生活に追われて、その事実を忘れようとしている。彼女はパワーを持つことをひたすら恐れる。今、彼女は火山の噴火口の上に座って噴火しないように封じようとしている。火山の中で何が起こっているのか彼女は知らないし、恐ろしくて知ろうともしない。しかし火山の中ではすでに圧力がたまっている。それが噴火する時のパワーは想像を絶するものになる。彼女は火山という自然世界の女神であるはずなのに日常生活というゲームの中に閉じ込められて、その事実を忘れてしまっただけではなく、それがただの夢か幻想に過ぎなかったと自分に思いこませている。つまり魂とエゴとの戦いの狭間に彼女はいるのだ。

 一瞬ハっとさせられたが、文章そのものはかなり漠然としていると私は思った。どう解釈すればいいのかわからないし、反対にどんな解釈も可能になるような文章だ。これを私と同年代の主婦に見せれば、恐らく半分ぐらいは「私そのものよ。」などと言うのではなかろうか?

 その頃から私は、家族を離れて自分の世界でパーソナルな経験をすることにとても魅力を感じていた。独りでいる時、私は自分の可能性を感じた。だからドクターボンナムから「南アジアの聖地を巡る旅」の話しを聞いた時、とてつもない興味が湧いた。その上に彼と一緒の旅である。これ以上理想的な旅は思い浮かばなかった。
 そんな思いはきっと結婚生活にも悪い影響を与えるにちがいない。帰国したとたん、夫との間に危機が迫った。私達はそれぞれの心の中に溢れる情熱を、もはやお互いにぶつけることができず、どこか他のところで表現せざるをえない状態になっていたのである。二人の接点は子供以外にはないように思えた。それが、どこにでもあるごくありふれた夫婦の形なのだろうが、私達には耐えられなかった。ヨーロッパにいた頃二人で共有した夢や希望を失ってしまったように思えた。夫にとって私はまったく不可解で異質な存在になろうとしていたのである。
 そんな擦れ違いの状態が何か月も続いた。春になったころ私はその時の不安定な状態から「南アジアの旅」は不可能と判断してドクターボンナムに金銭上を理由に今年の旅行はあきらめたという電子メールを送った。
 それからさらに2〜3ヶ月が過ぎた。夫と朝食をとっていた私にドクター・フランク・ヴァン・アールストという男性から国際電話がかかってきた。話はこうであった。William College にいつも莫大な寄付をしているある資産家が今回の旅に参加するはずだったのが、健康を害しドクターストップがかかって断念せざるをえなくなった。すでに全額払っていた彼はその旅費を奨学金として他にまわすように言ってきた。それだけではなく同行を希望する学生達にも、論文を書くことを条件に宗教学科からも奨学金が寄付されることになった。旅行を断念した人物が寄付した金額を二人で分けることにして、その対象人を考えていたところ、ドクターボンナムからぜひ日本にいる私にチャンスを与えてくれとの依頼があった。
「君が負担する分は1000ドルということになる。3000ドルが君のために奨学金として支払われるのだがどうだい?」
 私の決心が固まるのにそう時間はかからなかった。出発日もちょうど子供達が夏休みに入る7月20日である。まるですべてが同時に動いているような気がした。それからはひたすら中国、ネパール、インドのビザを取るために走り回った。夫もこまめに電子メールでフランクと連絡をとってくれた。
 出発する日、子供達と駅まで見送ってくれた夫が私に言った。
「3週間離れている間、僕達のこれからのことをよく考えてみよう。」

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