さすらい人幻想曲
第6章:エリザベス ギラム Elizabeth Gillum
朝4時半に起きてまだ薄暗い中、バスに乗り込み空港へ向かった。私の隣にグループのフォトグラファーとしてナッシュビルから来たエリザベスが座る。成都の空港で出会った時、彼女はとてもチャーミングな笑顔で話しかけてきた。
「私、あなたと同じ頃に College にいたと思うわ。なんとなく覚えているのよ。私はソプラノを専攻していたの。覚えてる?私のこと。」
私はどうしても彼女を思い出せなかった。
「ノリコは何年の卒業生?」
との問いにもすぐには答えられなかった。私のカレッジ時代は早くも遠い昔に過ぎ去っていて逆算するのに一苦労した。時の流れはなんと残酷なんだろうと思った。
彼女はひらめいたように言った。
「思い出したわ。私がドクターボンナムのスタジオでピアノのレッスンを受けていた時、あなたが入ってきたことがあった。」
「私、卒業してもドクターボンナムにたびたび会いに行ったからきっとその時よ。テキサスの大学院からはるばるコンサートをやりに訪れたこともあったわ。」
なんと希望に燃えていた日々だったろう。エリザベスとの会話で、すべてがタイムスリップしたように感じた。あの頃は半ば無鉄砲とも言える若さがあった。人生へのはかない夢を信じていた。そして人生に裏切られてもバネのように跳ね返る力があった。
ラサ空港へ向かう夜明けのバスの中で、エリザベスは時々窓ごしにカメラを向けてファインダーを通した薄暗い風景を見ていた。
「私も長い間、ソプラノ一筋だったわ。でも自分自身の体を楽器として使うことの過酷さに耐えられなかったの。結局ソプラノをやる為に生まれたんじゃ無かったのよ。ちょっと不摂生をすればすぐ声の不調として出てくる。でも若かったから不摂生ばかり。音楽も宗教と同じよ。その中に陶酔できるもの、信じられるものがあるから続けられる。それが苦しみや自己嫌悪になるんじゃ駄目なのよ。」
「それでフォトグラフィーを選んだってわけ?」
「フォトグラフィーにたどり着くまでずいぶん寄り道したわ。法律学校にも行ったわ。今考えるとバカみたい。私が法律だなんて。9時から5時までというガラでもないのよ。旅をするのが大好きで、スチュワーデス養成学校に行った事もあったわ。スチュワーデスには成らなかったけど、今でも冬にはメキシコとかヴェネズエラで過ごすのよ。私の前世は南アメリカ人だったって信じてるの。ヴェネズエラにいる友達のところである日、フォトグラフィーの雑誌を見ているうちに、それに目が釘付けになったのよ。30年間生きてきて、どうして気がつかなかったのだろう?私に備わった才能というのは音楽でも法律でもない。とてもビジュアルな世界なんだって。ひらめきって言うのかしら?それから2年間カリフォルニアのフォトグラフィースクールへ行ったわ。あれから5年たって35歳になって今だに独身よ。これだけ人生の旅人をやってたら結婚するヒマもないのよ。もちろんたくさん恋も経験したわ。でも何時も間違った男を選んでしまうみたい。最後につきあってやっと別れた男も、どうしようもないアルコホーリックだったわ。最悪でしょ?だからますますフォトグラフィーに没頭したのよ。本当に日毎にフォトグラフィーの世界が深くなっていくの。ナッシュビルの田舎に自分の家を買ったのもすべてそのためよ。自分だけのスタジオや暗室が欲しかったの。独身の私が家を買って後悔したのは、そこへ引っ越して最初の晩を過ごした時よ。たった一人であの古い家にね。怖くて寂しくて涙が出たわ。そうなの。いつも思いつきで何でもやっちゃうのよ。だからいつも借金だらけ。でも払えないんじゃないかって心配した事なんてないわ。もちろん自分の才能に限界も感じるし、落ち込むこともあるわ。特に生活のために来る日も来る日も結婚式や銀婚式の写真ばかり取っている時。もちろん仕事も好きよ。一番好きなことをやってると思うわ。でもそればかりでいそがしくて芸術的なことに目が行かないのよ。だから、この旅の話を聞いた時、これが私のチャンスだと思ったわ。グループの専属フォトグラファーとして行かないかとフランクに誘われた時は、やっと神が微笑んでくれたと思った。ドクター・ボンナムがフランクに私の名前を推薦してくれたのよ。彼らの期待に答えられるような私らしい写真を取りまくるつもりでフィルムを何百本も持って来たわ。」
エリザベスは旅行中、5台のカメラとたくさんのフィルムを持ち運ぶのに苦労していた。その上彼女は無制限に物を買った。カーペットでもベッドカバーでも荷物が増えることをまったく配慮せずに購入しては、持ち運びに苦労していた。
「苦労するけど不可能ではないのよ。家に持って帰ってこのすばらしいカシミールシルクのカーペットを広げる瞬間が目に浮かぶの。きっとその時、ああ、苦労して良かった!と感動すると思うわ。手伝うはめになっちゃうグループの男の子達にはいい迷惑よね。」
エリザベスは、このビジュアルな感動にいつも酔いしれていた。そんな彼女の、無茶なまでの情熱は私の心を熱くした。彼女はよくコロコロと笑った。彼女が笑うと表情が幼い子供のように純粋に見えた。無邪気な笑い声は、いつも心地よい音楽のように私の心の中に響きわたった。
突然バスが止まって、ガイドがマリアンとエリザベスに手まねきをした。マリアンは10年程前に亡くなった両親の灰をチベットの雄大なヤルツァンポ川に流すべく遠くアメリカから大事に持ってきたのだ。チベットへ行くのは両親の長年の夢だったらしい。
いつかはチベットの自然の中へ夫婦仲良く帰してあげようと、ここへ来るチャンスを待っていたのだ。とても個人的な儀式なのでガイドとフォトグラファーであるエリザベスが付き添うことになった。バスの中は無言だった。皆それぞれ感慨深くマリアンの旅の事情を感じていたのだろう。
敬虔なるクリスチャンであるマリアンが親の灰をチベットの川へ流す行為を私はどうしても理解することができなかった。
しばらくしてエリザベスは潤んだ目でバスに乗り込んできた。
「こういう時、フォトグラファーで良かったと神に感謝するわ。あたりはまだ薄暗かったけど、夜が明けたばかりの淡いオレンジ色の光が顔にあたって、腕を高く上げて遺灰をまくマリアンの表情がとても良かった。ファインダーを通して見ていて涙がこぼれたわ。」
「ファインダーから覗いたあなたの目はクリスチャンだった?それともブッディスト?あなたは何か信じるものがある?」
私は意地悪な質問をした。
「ノリコ、きっと私ぐらい信じるものを求めてきた人はいないわ。バプティストも、メソディストも、カトリックも、クリスチャンの宗派はすべて経験してみたわ。入らなかったのは、怪しいカルトぐらいなものよ。カトリックはセレモニーのやり方が神秘的で好きだったわ。特にコミュニオンが好き。あれは東洋的な雰囲気じゃない?神父のローブやマリアのとても慈悲深い顔や、、。」
フワフワとした彼女の宗教談に私は思わず笑った。
「あなたって本当に何でもビジュアルに物を考える人ね。それで、今のあなたはカトリック?」
「今の私は、、、エリザベスよ。」
エリザベスの楽しいおしゃべりのおかげで、空港への2時間があっという間に過ぎた。到着した私達はキラキラと輝く朝日の中、バスガイドとお別れをした。