さすらい人幻想曲

第8章:アン ギランド    Anne Gilland

「アン、僕はゲイだったんだ。」
 結婚14年目にしてジョーの口から出た突然の言葉に最初私はなんと答えればいいのかわからなかった。あまりに唐突だったので、悪い冗談を言っているのだと思った。

 私の人生にとってもっとも高い魂のレベルにおける経験があるとすれば、それは「結婚」と「離婚」である。なぜなら良くも悪くもこの二つの経験は人間としての私を内側から大きく変えてくれたからだ。
 ジョーとは William College 時代に知り合った。彼はとても繊細な絵を描く美術科の学生だった。一目見た時から私は彼に夢中になった。恋愛経験がほとんどなかった私にとって彼は理想的な王子様だった。
 母を満足させるためだけに英文学科にいた私は彼の影響で美術科に移った。私達は良きライバル同士だった。休みの日には、二人で絵筆とスケッチブックを持ってスモーキーマウンテンに車を走らせた。
 両親共英文学の教授である保守的なテネシーの家庭に育った私は、ジョーといる時は、いちいち話す言葉を選ばなくても良かった。
「アン、はしたないことを。あなたはなんてことを言うの!」
「今の言葉を治して欲しいわ。」
 母は私をレディーに育てあげるのに人生を費やした。彼女の前で弱音を吐いてもいけなかった。彼女の理想とするレディーはジェイン・エアのように保守的で、毅然としていてプライドが高い。
 デリケートでいつも泣いてばかりいる弟のダンの前でいつも私は男まさりで頼り甲斐のある姉を演じて育った。
ジョーは何でも私の話を聞いてくれた。今まで誰にも話したことがなかった心の中の秘密や赤面するような事でも彼は興味を持って聞いてくれた。
 秋たけなわのスモーキーマウンテンの金色にそよぐ草原の真ん中で、私達はふざけて衣服をほとんど脱ぎ捨てたお互いをスケッチした。

 両親は寛大にジョーを家族の一員として受け入れてくれた。プライドの高い母はジョーの繊細さと上品さを絶賛して、「さすが私のアンが選んだ男だわ。」と得意がっていた。
 物心ついた頃から特に男の子に好かれた経験のなかったウブな私は、彼の存在が生活のすべてだった。そして彼がこうして私を愛してくれることに感謝さえも感じていた。あまりの幸せに私の幼少の頃か、あるいは前世で、きっと何か良いことをしたに違いないと信じていた。
 卒業後、私達は結婚式を挙げた。ジョーは友達の紹介で彼の故郷であるオハイオ州のコロンバスにある広告会社への採用が決まり、式のすぐ後にコロンバスの郊外へ引っ越した。私は市の図書館で働くことになった。3年目にパトリックが生まれ、私達の人生はスムーズに流れて行っているように思えた。

 パトリックが小学校に入った頃からジョーは外出がちになった。実際パトリックが生まれて以来、彼の仕事はとてもはかどっていた。彼が仕事一筋に日々を費やすのに私は何の疑問も抱かなかった。二人だけの親密な時をなかなか持つことができなかったが、私は小さいパトリックの育児と仕事との両立で精一杯だった。もう一人子供が欲しいと思ったこともあった。でもそれはかなえられなかった。
 時がたつにつれて私とジョーの間に少しずつ何か深刻な問題が起こっていることに気がついた。それが何なのかはわからなかった。考えようとすると漠然とした恐怖を感じた。私はそれを黙殺しようとした。決して話題にも出さなかった。それを言ってしまうことでジョーを失いたくなかった。結婚生活などというものはそんなものだろうと思うことで私はその恐怖感から逃れようとした。
 私は買ったばかりの家を毎日磨き上げ、キッチンをいつもおいしいごちそうの匂いで満たすことに専念した。そして私は常に疲れていた。仕事から戻って、ソファに横たわると、母の声が頭の中に響いた。
「アン!レディーはそんな所で寝ないのよ。さあ、キッチンに入って、おいしい物を作らなければ。」
 私は常に完璧な妻を目指していた。ジョーにとって、いつまでも尊敬できる慎ましやかな妻でいたかった。

 その夜、私は数日後やって来るハロウィーンのために、キッチンのテーブルの上で、中味をくりぬいた大きなカボチャに小刀をあて、丁寧に目や口の部分を切り出していた。幸いなことにパトリックは仲の良い友達の家にコスチューム作りにでかけ、遅くなったのでその夜は泊まると電話をしてきた。あの時もしパトリックが家にいたらと思うと今でも背筋が冷たくなる。
 疲れたような顔で出張先のボストンから帰ったジョーは、私の手作業を見ながらキッチンのイスに座ってボーっとした顔でワインを飲んでいた。
「アン、僕はゲイだったんだ。君をもう愛することができない。別れてくれ。僕はもう疲れた。君との生活に疲れたんだよ。許してくれ。」
 ジョーが発した場違いのようなとっさの言葉にジョーは私をからかっているのだと思った。
「やめてよ!ジョー。そんなことを言うのはまだ何か月も先よ。エイプリルフールまで待って。それにしてもいやなジョークだわ。」

 


とたんにジョーは顔をしかめて大粒の涙をこぼし、まるでオオカミの遠吠えのような声で泣いた。
 私は手に小刀を持ったままイスから静かに立ち上がり、何度もまばたきをして彼を見た。しばらく何が起こっているのか理解できなかった。頭の中が混乱して呼吸がしだいに速くなった。小刀を持つ手がブルブルと震えた。
「あなた、今、ゲイって言った?」
 私は小さな震える声で聞いた。彼は必死で頷くと両手で顔を覆って泣いた。
「パトリックはどうなるの、、?」
 彼は絶望に満ちた顔でわからないというように頭を振った。
「パトリックに何と言って謝るの?」
 私は小刀を力の限り振りあげて、カボチャをグサグサと刺した。
「パトリックになんと言えばいいの!!」
「パトリックになんと言えばいいの!!」
「パトリックになんと言えばいいのーーーーーーーーーーー!!」
全身から狂気が飛び出したように目をむき出して叫んだ。私は小刀を振り続けた。
 テーブルの上でカボチャの目も鼻も口も次第に原形を失い、オレンジ色の厚い皮が砕けて床にボロボロと落ちて行った。最後に振り降ろした小刀が固いテーブルにあたり、鈍い音と共に先が折れて飛んだ。はっと我にかえった私は、かがんで床に散らばったカボチャの屑を拾い始めた。ジョーが立ち上がって私のとなりにしゃがみ、悲痛な顔で肩を抱こうとした。私は彼の手を振り払い、自分でも驚くほどの憎しみを込めた声で言った。
「今私に触ったら、私はあなたを刺すかもしれない、、。」

 それから離婚が成立するまでの1年間は、私の人生における大きな転換期だったにちがいない。これだけ強い苦痛と歓喜を同時に味わったことは今だかつてなかった。
 呪われた永い期間ではあったが、その節々にまるで黒雲のすき間から陽がさすように現われる喜びのひとときは何よりも美しかった。深い悲しみにうちひしがれながら道端の可憐な花を見つけた時でさえも、それがまるで神からのプレゼントのように私の心を喜びで満たした。友人達からのささやかな思いやりが嬉しくて私は涙をこぼした。
 まわりの誰もが私達の離婚にショックを受けた。母は娘の敗北に嘆き悲しみ、ひたすらそれを自分の育て方のせいにした。彼女の焦燥ぶりは私よりひどかった。私の離婚は彼女にとっても人生を見つめ直す学びの時となったようだった。でもその頃の私には、離婚の根本的な理由を言うことができなかった。ジョーが同性愛者であるということを私はセラピスト以外の人にひたすら隠していた。まるでそれが世の中で一番醜いことででもあるように、、。

 気が遠くなるような長い騒動の中、母が突然、病に倒れた。検査の結果、彼女は癌に侵されており、もう手の施しようがないことがわかった。
 それまで、二人の娘達にも恵まれて幸せな結婚生活を営んでいた弟のダンが母の死の宣告を受けたショックから精神療養所へ入院することになった。少しでも目を離すと、繊細な彼は自分を傷つけたり自殺を図ろうとした。厳格だった母は死んで行き、頼もしかった姉は離婚の苦しみにうちひしがれている。ダンの人生はこの二人の女性達によって、こんなにもコントロールされてきたのかと思うと、胸が押し潰されそうだった。
 離婚成立の2ヵ月前、母がこの世を去った。私は最後まで離婚の理由を言うことができなかった。それに言う必要もなかった。彼女は私の将来を思い煩い、療養所にいるダンを気にかけながら、それでも眠るように息を引きとった。
「アン、これから、あなたは自分の意志で生きていくのよ。」
 それが、まだ意識があった時、母が私に残した最後の言葉だった。私にとって母の死と離婚は、永い間「忍耐」という二文字でつながれていた私の魂が「自由」に向かって解き放たれた瞬間だった。私とジョーが一年間戦い続けた「恥」や「責任転嫁」などの醜い課題からもやっと解放された時だった。
 私達は一度も法廷に立たなかった。パトリックの親権のことも家のことも、まるで長年の友達同士のように平和に話し合うことができた。もう「夫」と呼べない男と、15年分のすべてを平等に分けようとする気が遠くなるようなプロセスに、私は二人の縁の重み、不思議ささえ感じていた。

 その日、私は久しぶりに故郷の スモーキーマウンテンにあるドクター・ボンナムのログハウスを訪れていた。大学時代、彼から「建築美術」を学んだ時から彼の持つ神秘的な人間性に魅かれた私は、卒業後もずっと彼と親睦を深め続けた。ジョーとの離婚の時、他の誰よりも私の慰めになってくれたのは、口数は少ないが適切に物を言うドクター・ボンナムだった。
 彼は、恋人のスザンヌがテネシー州に移り住んでくることで幸せいっぱいの様子だった。私が羨ましいと言うと、
「アン、僕はスザンヌを探すのに10年かかったんだよ、彼女は僕を探すのに20年もかかった。」
と彼らしい返事が返ってきた。
 私は、ログハウスの片隅にある古いロッキングチェアを揺すりながら、離婚してからの私とパトリックの近況について話した。
「思っていたほど、つらくはないんです。むしろ人生ってこんなにも自由だったのかと思うくらい。弟のダンが今だに入退院を繰り返していることを除けば本当に問題はないんです。パトリックとジョーの関係もうまくいっているし、、。ただ、、。」
 黙って聞いていたドクター・ボンナムは私の顔が曇るのを見ると首をかしげた。
「ただ?」
「まだ婚約指輪と結婚指輪が手元にあるんです。売ることもできないし、わざわざ溶かして別な物に作り替える気にもならない。誰かにあげることもできないし、かと言ってもうそばに置いておくのもいやなんです。これがある限り、私は本当の意味でジョーから離れることはできないんじゃないかって、、。」
 いつもの癖でしばらく顔の前に両手を組んで、考えるような顔をすると彼はひらめいたように言った。
「風船の糸の先にくくりつけて空へ飛ばす方法もあるし、、ガンジス川へ流すという手もある。」
 彼は数ヵ月先に予定してある「南アジアの聖地を巡る旅」の話をした。私にはどこか、はるか遠くにあるおとぎ話のような世界のように聞こえた。彼が「カトマンズ」の話をした時、遠い昔、母が読んでくれたベッドタイムストーリーの記憶のような懐かしさを感じた。コロンバスの自宅に戻った後、居ても立ってもいられなくなった私はドクター・ボンナムに電話した。なんとしてでも彼のグループと旅に出たかったが資金が充分になかった。数秒の沈黙の後、彼は言った。
「フランクに話してみよう。彼がリーダーなんだ。そう、ドクター・ヴァン・アールスト、歴史の教授だった男だよ。」
 1ヵ月後、フランクから連絡があり、ドクター・ボンナムのはからいで、私に旅費の半額近くが援助金として出ることになったと言った。日本から参加することになった女性と分けるらしい。天の恵みにちがいないと思った。私は結婚指輪をデスクの引き出しから出し、丁寧に小さなジュエリー袋の中に入れた。

 「パトリックとの絆を深めるチャンスだ。」と言って、ジョーは快くパトリックを引き受けてくれた。空港のゲートで最後まで並んで私を見送る二人を見ると、あの悪夢のような一年が夢だったようにまで感じた。でももう二度と後戻りができないことを三人共知っていた。
 私は、ドクター・ボンナムを通して天が与えてくれたこの旅を真の新しい自己への脱皮の旅にしようと思った。
あまりの楽しさに旅の最中は、インドに着くまで指輪のことを忘れていた。離婚と母の死という人生のドラマを経験して以来、私にとって久しぶりに訪れた楽しみだった。日本からやってきたルームメイトのノリコは大学時代、義理妹のコリーンのピアノ科での友人だったことがわかった。彼女もドクター・ボンナムの導きでこの旅に参加していた。彼女はいつも背筋がピーンと伸びていた。
「ブッディストのお寺で育って禅の修行をさせられると、どうしても背中が曲げられなくなっちゃうのよ。」
彼女がアジアン・アクセントでしゃべるユーモアは、いつも私達を笑わせた。
 一日中ラサで寺院巡りをした後、彼女はベッドに疲れた体を投げ出して言った。
「きっと今夜は夢の中でブッダの大群に襲われるわよ。」
私はとなりのベッドに倒れこんで、お腹を抱えて笑った。

 ベナレスのホテルで私はスーツケースの片隅にしまっておいたジュエリー袋を出し、ウエストポーチに入れた。皆で夕暮れのガンジス川までタクシーを走らせ、くねくねとした細い道を川へ向かって歩いた。夕暮れのガンジス川は想像以上に雄大だった。私達は、現地の案内人の後について赤土色の石の寺院の階段を登った。夕闇が赤紫色に染まる空が頭上に見える屋上で、昼間の暑さをまだ存分に吸った暖かい石の手すりに身を乗り出すと、満々と水を湛え、ゆっくりと流れる聖なるガンジス川が視界に広がった。そのあまりに神秘的な風景にグループの皆は手すりに並んだまま、一言も発しなかった。黄昏色の川のあちらこちらに船が浮かび、川岸では数人の男や女が川に向かって合掌しては、いくつもの影が重なるようにその母なる水の中へゆっくりと入って行った。川岸に立ち並ぶ壊れかけたような寺院からお香の匂いが漂い、どこからともなくマントラを唱える声が生暖かい風に乗って聞こえ
てくる。
 私は放心したようにキラキラと光る夕暮れの水面と、黒い手漕ぎ船の影を眺めていた。幼い頃からの自分の人生が、次々と頭の中に浮かんだ。幼少の頃に意地悪だった近所の子の顔まで、浮かんでは消えた。どういうわけかそれらのイメージは悲しい思い出ばかりだった。
 ああ、なんて人生とはつらいものなんだろう。私は思わず腕を組んで、自分の両肩を抱きしめた。大粒の涙が次々と頬をつたって落ちた。それを拭う気にもならなかった。ふと気がつくと、近くで川を見下ろしていたエリザベスのルームメイトのリバが顔中グシャグシャにして泣いていた。

 すっかり日が暮れた川のほとりの寺院の上で、インド舞踊を堪能した。月夜の暑い湿った空気の中、太鼓と歌に合わせて踊子達が汗で体中を光らせながらステージの上でエキゾチックな舞を見せている間も私はパウチの中にしまった指輪を川面に落とす瞬間を想像していた。時々目の前をカメラを手にしたエリザベスの影が横切り
、フラッシュの光りが踊子の額の汗と黒く光る目を一瞬異様に浮かびあがらせた。
 明日は夜明け前に再びここへ戻って、手漕ぎ船に乗ることになっていた。夜明けのガンジス川に指輪を葬ろう。それで本当に私は独りになる。私はまったく新しい自分に出会うんだ。そう思うと心臓が激しく鳴った。もう久しく指にはめたことがなかったこの指輪のために、なぜこんなにも胸が高鳴るのかわからなかった。
 インド舞踊が終わると、私達はふたたび案内人について寺院の階下にグループのために特別に用意された宴の席で食事をした。
 ベナレスに住むフランクの友人である恰幅の良さそうなインドの財閥が、インド舞踊も食事も取り計らってくれた。各テーブルに彼の家族のメンバーが一人ずつ座り、流暢な英語で教養豊かな話題に花を咲かせた。私のテーブルには、藤色の絞りのパンジャビスーツがとてもセクシーな若い女性が座った。彼女は話す時、しきりにその か細い両手を黄金色のエキゾチックな顔の前で動かした。私は手書きのレースのような模様が描いてある彼女の両手が蝶々のようにヒラヒラと動くのをぼんやりと見ていた。暑さのせいなのか指輪をめぐる興奮のせいなのか、私の心臓は相変わらず激しく波打っていた。神秘の光りに包まれているような薄暗い石作りの建物を見回すと、呼吸はさらに激しくなった。頭の中がグルグルと回り、額に汗がにじんだ。藤色のパンジャビの女性が話を中断して驚いた表情で私を見上げるのと同時に私はイスから立ち上がると、前かがみになって両手を自分の口にあてて嘔吐した。頭の中に霧がかかったようになり、私は意識を失った。

 私の突然の醜態にグループがあわてたのは言うまでもない。特にルームメイトのノリコは心配して、ホテルに戻ってからも何かしら気を使ってくれた。彼女の一番の心配は、カトマンズで彼女を寝込ませたウイルスが私にうつったのではないか、ということだった。
「ノリコ、どうして私があんなふうになったかというのは私が一番良く知っているの。ウイルスでも何でもないのよ。かえって悪いものをみんな吐いたので気分がとてもいいくらいよ。皆に迷惑をかたけどね。」
「それだといいんだけど、、。きっと疲れとあのヒートのせいかもね。」
彼女はまだ半ば心配そうな顔で言った。

 翌朝、まだ陽が登らないうちに起きて再びガンジス川へもどった。川にたどり着くと、あたり一面濃い霧がかかっている。真っ白いモヤの中で足元を気にしながら手漕ぎ船に乗った。あたりはこの世の物とは思えない不思議な光景だった。夜が白々と明けるにつれ、「ガート」と呼ぶ川岸の石段から男も女もミルク紅茶のような川にゆっくりと身を沈めていく。洗濯をする者、顔を洗う者、髪を洗う女もいる。川岸に並ぶ古い建物やヒンズーの寺、死体を焼く場所のとなりに山積みにされた薪。
 そしてどこからともなく漂うお香の煙。遠くにこだまするマントラの響き。
その時私は、指輪を川に葬る絶好のチャンスをうかがっていた。おかしなことに私の想像の中で、葬られた婚約指輪と結婚指輪は川面に浮いた。それを私達の船のまわりにボートに乗って集まってくる売り子達の一人が手ですくった。
 半ばそうなればいいと思った。そうしたら指輪から取れる少しばかりの金が、貧しい売り子の生活をあと何日かは潤してくれるかもしれない。
 船の真ん中に座ったガイドの男性がマントラを唱え始めた。それに合わせて何人かが途中で買ってきたバナナの葉と花でできた小さな灯篭に火をつけた。風があるので、皆苦労していた。私のとなりでノリコが身を乗り出して、火をつけたばかりの灯篭を静かに川へと流した。赤や黄色が鮮やかな花の上に光る白いろうそくがミル
ク色のモヤの中へゆっくりと消えていった。彼女は感慨深そうにそれを見届けると、手を合わせて目をつぶった。
 私は手の中にあった指輪を握ったまま川の上に手を伸ばすと、静かにその手を開いた。二本の指輪はスルリと私の手の平をすべると、音もせずに川底へと落ちていった。
 15年という月日の果てに私が営んだ私だけの儀式は、あっと言う間に終わってしまった。私はその時の自分自身の心理状態をひたすら客観視しようとしていた。しかしその時の感情はおよそ想像していたものとはかけ離れていた。特にセンチメンタルにもならなければ、涙も出なかった。しばらく指輪などつけたことがなかったのに、突然左手の薬指が空になってしまったような妙な感覚にとまどったくらいだった。それよりもやっと旅の目的が果たせたワクワクとした満足感が胸の中を満たした。心の中が急に軽くなったような気がした。私はドクター・ボンナムと目が合うと晴ればれとした顔で彼に向かって微笑んだ。彼はなんのことかわからないという顔をして肩をすくめて見せた。
 最後にこう思った。ジョーにもしこのことを話したら、彼はどう思うだろう?私はひさしぶりにこの小さな儀式のことを誰かに話したいと思った。

 ホテルの部屋で、ルームサービスで頼んだミルクティーを飲みながら私はノリコに私の離婚のいきさつと「指輪ストーリー」の話をした。私が途中まで話すと彼女はそれを中断させて言った。
「待って、アン、テープレコーダーを持ってくるからその一部始終を話してちょうだい。こんないい話し滅多にないもの。日本に着いたらぜひその話を本にしたいわ。さあ、インタビューの始まりよ!」
 私は大声で笑って、またベッドの上に身を投げ出した。

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