さすらい人幻想曲
第9章:ベナレス Varanasi
中国、成都での待ち時間のお陰で遠藤周作著の「深い川」を読み終えることができた。その背景はインドのベナレスである。心の準備ができた気がした。ガンジス川の夕暮れ、夜明けはどんなだろうとずっと心はベナレスへと馳せていた。ここで二泊するはずだったのが、カトマンズからの飛行機がキャンセルになったため、たった一泊になってしまった。カトマンズで病に倒れた私の回復には良かったが、本当に束の間の滞在だった。
カトマンズではいつもヒマラヤから運ばれてくる風が冷たくて心地よかった。そのため、夏の暑さもさほど気にならなかった。
ベナレスの空港はそうはいかない。飛行機を降りたとたん40度の熱気が体を包み込んだ。着ていた厚手のジーンズが突然まわりの熱を含みだして、お腹のまわりにジトっと汗が湧いてくる。暑さだけではない。このものすごい湿気。思わず皆だまりこんで、ただただため息をつくばかりだ。小さいエアポートの中は、もちろん冷房などなく、天井にプロペラ式の扇風機が意味なく回っているだけだ。
パスポートを持った外国人と暑苦しそうにサリーを引きずるインドの女性達がまったく秩序のない列を作って我先に手続きを終わろうと、カウンターの所でひしめき合っている。立っているだけで頭がボーっと霞んでくる。ねっとりと肌にまとわりつく空気の中、まわりから息がつまるような汗の匂いが漂ってくる。これがインドの暑さなのだ。
空港を出ると、冷房の利いたバスが待っていた。文明の利器にすっかり慣れている私達は思わず歓声をあげる。
スピリチュアルな国、インド。昔からなぜかなつかしい語尾を含んだ神秘の国、インド。やっと来たのだと感慨にふける。通り雨。ところどころ陽が照っているので周りの新緑がいっそう輝いて見える。サリーをまとった女性達が頭の上に大きなカゴを乗せてゆっくりと歩いている。土色の壁の貧しい家。のたりのたりと練り歩く牛の群れ。バスの窓から外を見ながら、ラサ入りした時と同じ感動を味わう。
ホテルに落ち着く間もなくグループで何台かのタクシーに乗りガンジス川へ向かう。インドでは高級なタクシーらしいが、冷房もなく中はボロボロだ。窓の外からは、絶えず熱気と埃と排気ガスが入ってきて思わずハンカチを口にあてる。道の真ん中を行く牛、ひしめき合う車やリクシャーの数を見て混沌とはこのことなんだと思う。
タクシーを降りると人ごみを逃れて、細いくねくねとした足場の悪い道を渡り歩いた。あちらこちら水びたしになっている場所をよけながら上がったり下がったりするゴツゴツした道を歩く。
私は黙々と前を歩くロスの頑丈そうなトレッキングシューズを見ながら必死で小走りに彼の歩いたとおりの所をなぞるようにしてついていった。少しでも遅れると、どこからともなく現われる物乞い達にあっという間に囲まれてしまう。そしてその多くが目を覆いたくなるようなレプラに侵されている。突然私の顔の前に半分溶けてなくなった手が右から左から伸びてくるのである。道端のあちらこちらにボロのように見える人がうずくまっている。聖なるガンジス川で死ぬためにやって来て精も根もつき果てた老人や病人なのだろうか。その哀れな人達と対照的な威厳に満ちた顔で瞑想している黄色の衣をまとったサードゥー達。体は痩せ細って骨が浮き出て目がくぼんでいる。苦行を続けているからだろうか。なんのために、私から見ればいかにも理不尽な苦行を続け、そしてまたどうしてこんな薄汚ない裏道の湿った石の上で瞑想をする気になるのだろう。
古い寺院の階段を登ると、突然これまでの喧騒が嘘のように静まり、目の前に夕暮れのガンジス川がその姿を現わした。キラキラと光る広大な川がゆったりと流れる両岸にヒンズーの寺院が立ち並んでいる。何人もの人影がその静かな川の中へと入って行く。遠くで陽が沈み、雲が茜色に輝く。川はますます金色を帯び、空気の中に霊的なエネルギーが漂う。
聖なる川、ガンジス、そしてこの聖なる地、ベナレス。人々はここで死に、ここで体を焼かれ、すばらしい来世のために己れの灰をここで撒き散らされることを願って集まってくる。ガンジス川はすべての人々の悲しみや苦しみを飲み込んで流れていく。この川と共にゆったりと流れるインドの時間。インドの人々にとってガンジス川はまさに母なる川なのである。
川のほとりの寺にはガンジスを象徴する女神である「ガンガー神」が祭ってある。
人々はそれにちなんでガンジス川を「ガンガー」と呼ぶ。汽車に乗り、バスに乗り、お金のない人は自分の足で歩き、あるいは死体となって運ばれて、三千年以上も古いシヴァ神の聖都、ベナレスにあるこのガンガーにたどり着く。巡礼の旅の果てに人々はこの永遠なるガンガーに身を浸し、より良い来世を願うのである。
「ノリコ、ガンジス川は私にとってとても大切な子供の頃の思い出なの。小さい頃から亡くなった父によく話をしてもらったわ。父はインドが大好きだったのよ。私のベッドタイムストーリーは父が読んでくれるインドのお伽話だったのよ。だからガンジス川に辿り着いたら私をビデオに写してね。私がここに来られることなんて一生に一度の事なんだから。今だってなんだか夢を見ているみたいよ。」
生まれも育ちもテネシー州だと言ったリバが、ベナレスの空港から乗ったバスの中でそう言っていた。彼女は赤毛で顔中薄いそばかすがあり、いかにも気の強そうな、てきぱきとした行動をとる女性だった。よく話をする反面、自分でもテネシー特有の強い南部なまりを気にしているようすだった。私は鼻っ柱が強く、いささか冷たい感じがする彼女の外見を語尾の柔らかい南部なまりが、かえって親しみを加えてくれているようで好感を持っていた。
私のルームメイトのエリザベスに負けないくらい彼女は買い物が好きだった。特に彼女が夢中になったのは、パンジャビスーツである。ディナーには毎日違う、目の覚めるような色とりどりのパンジャビを着て披露してくれた。それと対照的に昼間はいつも野球帽にスリムな体にぴったりのシャツとジーパンという質素な装いでいた。
ベナレスの古い寺院の屋根の手すりに頬ずえをつきながらガンジス川を見下ろすリバの顔にビデオカメラを向けて彼女の名を呼んだ。夕陽に照らされてオレンジ色に光る髪を彼女は一瞬かきあげて私をちらりと見ると、顔を隠すように下を向いた。そこに背後からゆっくりとロスが近づき彼女の肩に手をかけて慰めるように顔を覗いていた。彼女はそこで静かに涙を流していたのである。
その寺院の屋上で、フランクの友人である裕福なインドの家族が私達のために貸切りで雇ったインド舞踊の踊子や太鼓奏者達によるショーを見せてくれた。月明りの下で相変わらず漂ってくるお香の香りを嗅ぎながら私達はエキゾチックなショーを楽しんだ。エリザベスがカメラを手に忙しくそこら中を走り回る。あちらこちらでシャッターの音がして暗闇の中をフラッシュが光った。
そのインドの家族と共に会食中、ルームメイトのアンが突然倒れた。私はそのアンを庇いながらホテルへ向かって夜のベナレスをタクシーで再び通り抜けた。アンは、以外にケロリとして、しかし疲労が隠せないという顔で私に寄りかかっていた。彼女の体温が私の体に伝わり、汗が頬を濡らし喉の方まで伝わり落ちた。薄暗い道の両脇に、はだか電球が吊り下がり、たくさんの人々や、リクシャー、牛がひしめき合って、まるで川のように流れていく。 その流れに乗るようにタクシーもジグザグに進んでいく。暑い土埃の中にボーっと光る灯りを通して、幽霊のように浮かびあがるたくさんの人影を見ながら、私は思わずアンの肩を抱く手に力を込めた。
混沌としていた同じ道を、翌朝まだ陽が登らない時刻に再びガンジス川に向かって走った。道はウソのように静かだった。気候があまりに暑いせいか、道端の固いベッドのような物の上に寝ている半裸体の男達が目につく。
一面にモヤが漂うガンジス川で大きい手漕ぎ船に乗る。この川はモーターのついている物はいっさい禁止なのだ。かつては真っ白だったのだろう薄汚れた衣服を着て頭にターバンを巻いた船頭が私の背後に立ってその節くれだった手でゆっくりと船を漕いだ。何年も何年もここでこうして船を漕いでいるのだろう。カメラを向けて、その鋭い目と年輪の刻まれた半ば怒ったような顔を写真に写した。彼はにこりともせずに手を差し出して「バクシーシ」と言ってお金を催促した。
近くで相変わらず憂いに満ちた沈んだ目で、あたりを見ているリバが気になる。バスの中で、まだ見ぬガンジス川への思いを語りながらはしゃいでいた気の強そうな彼女を思い出した。いったい彼女の父親とはどんな人で、彼女にどのような影響を及ぼしてこの世を去って行ったのだろう。ふと気がつくと目の前にエリザベスが立ち、不安定な足元に気を使いながら真剣な顔で船頭に向かってカメラを向け、シャッターを切った。私の首の横から茶褐色の手が伸びてきて、背後で「バクシーシ」という低いしわがれた声がした。
インドの物売り達はどんな手段も選ばない。小さなボートに乗り、右から左から近寄って来ては次々と安っぽい品物を差し出す。とてつもなく大柄で人の良いロバートが薄っぺらな絵葉書のセットを男の子から買うと、「もっと買ってあげたいけど、もう小銭がないんだよ。」
と、その太った肩をすくめて申し訳なさそうに言った。彼は子供の物売達を見ると、いつも口癖のように
「Bless his heart! (あの子にお恵みを!)」と言っていた。
川の両岸のところどころに、そこで遺体を焼くのだという石の建物があった。その近くには薪が山積みになっていた。船の真ん中に座ったインド人のガイドが言った。
「ここには電気仕掛けの再新式の火葬場も一箇所だけあるのですが、そこは今だに誰も使いたがらないのです。」
あたりの風景は、まるで三千年も前から時が止まってしまったかのように見える。ここでの時の流れはガンガーの川と共に果てしない輪廻の渦を巻いて流れている。
この水に身を浸せばすべての罪は消え去り、遺灰を流せば輪廻からの解脱を得られるとヒンズー教の人々は強く信じてやってくる。それはヒンズーの人々にとって最高の幸せなのである。
おびただしい人の中には、ここで死ぬことだけが目的でやって来る者もいる。運悪く川にたどり着けなかった人は、途中の路地で倒れ、「ガンガー、ガンガー」とつぶやきながら息を引き取ると言う。ここにはこんなヒンズーの人々の信仰のパワーが渦巻いているのである。
「ガンジス川を見ると、目からウロコですよ。」
成都で助けてもらった鶴見さんの言葉が頭に浮かんだ。彼はここへ来て、何を思ったのだろうか。そして今回の旅でも彼はガンガーへ戻って来るのだろうか?彼らは今、どこにいて、何を見て、どんなことを思っているのだろうか。
そして日本にいる夫は?彼ははたして遠くインドのガンガーに浮かぶ船の上で深く感慨にふけっている私を恋しがっているのだろうか?子供達は?
私の胸の中に急に日本にいる家族への思いが広がった。子供達のなつかしい顔を思い浮かべると、目頭が熱くなった。私は心の中で彼らを強く抱きしめた。
船の真ん中で、ヒンズー教徒であるガイドがマントラを唱えはじめた。それを合図に私達は、手に持っていたバナナの葉の中に無数の花びらが盛られた灯篭に火をつけてそっと川に流した。
色とりどりの花びらの中から顔を出したろうそくの光りが次第にモヤの中に消えていくのを見届けながら、私は目をつぶり手を合わせて日本へ向かって祈りを捧げた。
川面を染めて登ってきた真紅の太陽が少しずつあたりのモヤを吸い取っていった。
始めも終わりもなく永遠に輪廻を続けるガンガーは、キラキラとした朝の太陽の中で、ガートを降りて川の中へ身を沈めていく人々のすべての営みを飲み込むようにひたすら流れ続けた。