国際情報資料サービス
 

国際情報資料10 

(1998年4月発行)より



1998年3・1ビキニデー関連資料より

 
  パラオ再訪:たたかいは終わっていない
     (『パシフィック・ニュース・ブレティン』)
 

『パシフィック・ニュース・ブレティン』(太平洋問題資料センター)
1997年1月号
 (部分のみ)



 11月(1996年)に、イサベラ・スマングとシータ・モレイは、暴力、虐待、女性の市民権を考える国際会議に参加し、その後イギリスのイングランドとウェールズ地方を遊説し、パラオ国民のたたかいについて語った。以下は、ゾール・デ・イシュター記者の報告である。

 「自由連合協定」は、アメリカが、パラオを植民地化し、核・軍事基地とするために結ばれたものです。( 1996年 イサベラ・スマング談) 
 
 1979年、パラオ(ベラウ)国民は、世界に先駆けて非核憲法を創った。しかし、これは米国の描く軍事的計画と矛盾するものとなり、1994年、15年におよぶたたかいの末に、アメリカは自由連合協定のパラオ国民への押しつけに成功した。自由連合協定は、パラオを永続的な軍事的植民地のまま残しておくことを保証しつつ、パラオ国民に名ばかりの「独立」を与えた。
 

長期の暴力の歴史をもつ協定

 私たちが「ノー」と10回言っても、彼らは「ノー」を回答としては受け入れません。ところが、1回「イエス」と言ったとたん、彼らはそれを答えとして受け入れます。国民は投票で「イエス」の答えを、少なくとも10回出すべきではないでしょうか。これは公平ではありません。これは、民主主義ではありません。(1996年 イサベラ・スマング談) 

 1946年、世界の国々は、パラオ(その他のミクロネシア諸国とともに)を戦略信託統治国としてアメリカの施政下においた。アメリカは、その国民と領土、水域を防衛し、独立に導くという義務を負っていた。しかし、彼らはミクロネシアを永久に前哨基地としてその支配下におこうとした。1994年に自由連合協定が施行されるまで、パラオは強まる経済的政治的圧力に抗して持ちこたえてきた。「独立」のしるしとして宣伝された協定は、主権国家に固有のいくつかの基本的な権利をパラオ人から奪うものであった。
 協定には長い歴史がある。イサベラ・スマングによると、アメリカは、独立への恐れをかきたてるため、経済の依存と政治的強制の政策をおこなった。

 1960年代、ケネディ米大統領は、ミクロネシア諸島の支配を維持する方法を見出すため、同地域にチームを派遣しました。ソロモン報告は、「先住民」が「依然としてかなり自立的で充足感を持っていることを発見した。これを破壊するために、彼らに決して十分ではない額の金を与えるべきだ」と述べています。私たちの自立を破壊できるだけの金を与えておけば、自由連合協定を結ぶ時、私たちは不安で独立できないだろうというわけです。

 南太平洋の非植民地化がすすむ時代になると、アメリカはさまざまな政治的選択肢をミクロネシア諸国に提示しはじめた。パラオ国民は、これを約束された独立への一歩だとみなしたが、アメリカは違うことを計画していた。戦略的に重要なこれらの島々をより安全に支配下におこうとしていた。アメリカの意図に気付かぬパラオ国民は、非核条項を盛りこんだ憲法を起草した。イサベラ・スマングによると、それは、まさに「悪夢」の始まりであった。

 アメリカはパラオに、そんなことはお前たちはできない、アメリカの計画と矛盾するという内容のテレックスを送ってきました。しかし、国民はやはり非核を望んだので、1981年、憲法は発効しました。そして、1983年に(核兵器と軍事基地を容認する)協定がはじめて導入されました。私たちは、それに反対の投票をしました。反対の投票を10回もおこないました。しかし、最後の11回目の投票で、協定は承認されたのです。

 11回目の投票は、恐怖が支配するなかで1987年におこなわれた。イサベラ・スマングは回想する。

 協定が承認されるには、下院で3分の2、上院で3分の2の得票が必要でした。それは一度も実現しませんでした。しかし、パラオの大統領は協定を批准し、それはレーガン大統領に送られ批准されました。その後、米国議会に送られました。パラオの女性は、大統領が憲法に違反して協定を批准したということに対し、大統領を相手どって訴訟を起こしました。
 これに対し、政府は公務員を解雇し、水道と電気を止め、「協定賛成の票を投じなければ、こういうことが起こるんだ」と脅かしました。公務員数人は、(訴訟を起こした)女性の家に来て、訴訟を取り下げなければ殺すと脅迫しました。彼らのほとんどが酒に酔い、顔に(塗料を)塗っていました。彼らは銃を手にし、行く先々で発砲しました。「9月8日、安らかに眠れ」と書かれた看板を掲げたりもしました。彼女らの中のある女性の父親は撃たれ、殺されました。家々が放火され、家に爆弾が投げられたこともありました。灯りは消され、すべてが一度に起こりました。警察も女性たちの家に行き、訴訟をやめるようたのみました。
 ついに、2人の女性が裁判所におもむき、女性たちは訴訟を取り下げると告げました。アメリカ人の裁判官が裁判所の外に出てみると、銃を手にした男達がまわりを取り囲んでいました。それで、裁判官は、この訴訟は取り下げられたが、女性達はいつでもその訴訟を再提出できますよと言いました。一年後、私たちは再度訴訟を起こし、協定は無効だと宣言されました。
 私たちは、とても喜びましたが、その勝利は短命に終わりました。というのも、私たちはくりかえし投票を強制されたからです。アメリカは、協定を変更したから、憲法で定められた75%ではなく単純過半数の51%だけで可決できるはずだと主張しました。これまで、私たちは、75%に代わって、51%が適用されることなど考えたことは一度もありませんでした。その頃、法廷には違う裁判官が座っており、彼らは私たちに非常に敵対的でした。

 1994年、女性たちは、島を守るために最後の試みをおこなった。イサベラに、政府を相手取った別の訴訟を起こすよう指示したのだった。

 その試みがどうして失敗したか、イサベラは語る。
 1994年、私たちはもっとたくさんの訴訟を起こしましたが、私たちが雇った弁護士がとても悪かったのです。私たちにはお金がなかったのでパラオで引き受ける人はいませんでした。私たちを弁護することには非常に消極的でした。それは安全が脅かされる危険があったからです。ですから、私たちは、アメリカの弁護士にたのみました。彼は、一度も私たちと相談することなく、私たちが知らないあいだに提訴しました。訴訟の前日、私が彼に会いにいくと、彼は泳いでいました。彼が協定についてあまり知らず、準備もできていないのは分かっていました。私は「何の仕事もせずに、私たちをどうやって弁護するつもりなのですか? なぜ準備ができてないのですか?」と聞きました。すると、彼は、「明日はおもしろいショーを見せてあげますよ」と答えました。
 けれども、私たちが望んだのは、「おもしろいショー」ではなく、裁判に勝つことでした。私たちは、勝つことはできず、負けてしまいました。彼は裏で、何か取引をしていました。彼は、今回の結果は問題ではない、ホノルルでは勝つだろうと言いました。でも、ホノルルの裁判に向けても彼は仕事をしませんでした。それで私たちは、彼を首にし、これまで訴訟をハワイに持ちこむために私たちに随分協力してくれた別の弁護士を雇いました。けれども、残された日数は少なく、彼女は訴訟を引き継ぐことはできませんでした。「何もありません。なんの準備もされていません。これではお手伝いできません。」と言われました。私たちは、訴訟を取り下げるほかなく、協定は成立しました。まったく、ひどいと思いました。私たちが、ベストを尽くし、法廷に敵視された結果ならまだ分かります。でも、私たちは、彼がやるべき仕事をしなかったがために負けたのです。

 そして、1994年10月、協定は施行された。

私たちの土地をアメリカは核のため、軍のため、取り上げることができる
 今、アメリカはこう言っています。――お前たちが食物のために耕したこの土地を、いつでも好きなときに取り上げることができるのだ。――いつでも好きなときに、好きなだけの広さを、軍事であれ、核であれ、好きな目的のために(1996年 イサベラ・スマング談) 

 協定は、パラオ政府の権限を限定している。アメリカには外交政策上の拒否権を与え、排他的経済水域をベラウ周辺の12マイルに設定し(そのため群島は分割された)、米軍にパラオ領土の軍事的選択権を与えている。イサベラ・スマングによると:

 アメリカは、60日前の通告をもって、どの土地でも収容する権限を持っています。アメリカは与えられた土地を変更し、軍事基地を置き、核搭載可能艦船を寄港させることができます。アメリカは、十分注意を払い、パラオとアメリカの環境政策や規制に従うと約束しました。けれども、肝心のところになると、アメリカの大統領は何事も棚上げすることができるのです。アメリカが土地を使い終わったときには、その土地を元の状態に戻す義務もありません。その見返りに、アメリカはパラオに、向こう50年間、4億5千万ドルの経済援助をおこないます。この協定は、パラオのみの希望で打ちきることはできません。破棄するには相互の合意が必要です。つまり、永久的な協定になりうるということです。もし、アメリカが終らせたくなければ、協定は永久に有効なのです。
 

すべてのパラオ国民に影響を与えた協定

 国民の土地をとらないでください。地球上から一民族を消さないでください。パラオ人はパラオ人でいさせてください。他の土地では、私たちは決してパラオ人になれないのです。(1996年 シータ・モレイ談)
 
 協定が施行されて以来、それは、パラオの経済、社会、文化、政治に影響を与え始めた。イサベラ・スマングによると:

 私たちの島は、急速に変化しています。というのも、「独立」とは大企業を守るということを意味するからです。日本人、中国人、韓国人がやってきて、大きなホテルや工場、会社をつくりました。パラオ人はそういった仕事になれていないので、彼らは自分たちで労働者を連れてきます。外国人労働者が流入し、多くの問題を引き起こしています。協定が実施されていらい、たくさんの人がやってきて、たくさんのビルが建ちました。コロールでは、私たちが熱帯の小さな宝石の上に住んでいるなんて、とても信じられない状況です。

 外国人労働者の移民のせいで、パラオ国民に対する社会的な圧力は強まったとシータ・モレイは語っている。

 国民は困っています。外国人雇用者は外国人労働者を雇いたがるため、外国人の労働者や建設労働者の雇用は増え続けています。彼らは雇用されますが、パラオの青年は雇用されません。これが多くの問題を引き起こしています。私たちは、パラオ人を雇うよう雇用者にかけあっていますが、ごくわずかな人しか聞き入れてくれません。

 増え続ける失業と、急増する人口からのパラオの限られた経済基盤と天然資源に対する需要は、パラオの生活水準に影響を与え始めた。この状態は、連邦諸制度の打ち切りでアメリカからの基金が減ったことで、さらに悪化した。シータ・モレイは、多くのパラオ国民は「何百万ドル」の約束に惑わされていたと語る。
 協定は、私たちに4億5千万ドル与えていますが、これは、パラオがアメリカ領だった頃に得ていた額にくらべて極めて少ないものです。「何百万ドル」と聞けば、大金だと思うでしょうが、50年分としてみれば、何もないに等しい額です。おまけに、アメリカは、連邦諸制度を打ちきりました。老人福祉は打ち切られ、アルコール中毒への対策資金は75%減らされました。高校への援助も打ち切られました。連邦非常事態管理局(FEMA)の援助も打ち切られました。この制度の下で、地域の団体に、食べ物を買って人々に分けるための援助金が与えられていました。最近、ある非常事態が発生したのですが、FEMAの援助が打ち切られているため、アメリカは米軍に援助するよう要請しました。これは米軍にとってはよい宣伝となりました。脱塩機(海水から淡水を作る機械)を持ってきて、「米軍の水」と大きく表示しました。これで軍のイメージはよくなりますが、国民は苦しむのです。

 イサベラによると、協定を後押ししたパラオの国会議員でさえ、その基金の少なさに不満を抱いているとのことだ。

 パラオ政府は、金欲しさにアメリカのかいらい政権になりましたが、協定はその正反対のものでした。以前は、私たちは貸付や基金や援助を受けることができました。協定が発効したとたん、財政援助は途絶えはじめました。今では、国会議員たちが「協定の金は充分な額ではない」と言っています。

 彼らは気がつくのが遅かったのだ。

(以下略)

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1998年3・1ビキニデー関連資料より
 

 フィリピン:別名を冠した米軍地位協定(SOFA)
 概観と突出した特徴
(非核フィリピン連合声明)

ローランド・シンブラン
フィリピン大学教授
(部分のみ)




 フィリピンの民族主権と領土保全に重大な意味と制約とをもたらす協定が、とりわけ、ラモス政権が、短命に終わったフィリピンの独立100周年祝賀準備をしている今、フィリピン国民に押し付けられようとしている。彼らは、軍寄港協定(Visiting Forces Agreement = VISFA)とオブラートでくるんだ公式名で、地位協定(SOFA)をわれわれにつかませようとしているのである。これは、この100周年の年に、新しい形、新しい手法をとった帝国主義とのたたかいに決着をつける機会にふたたび身を捧げることができるかという、われわれにたいする挑戦である。これはあらたな反帝国主義的団結と連帯のための機会である。これは、とりわけ、われわれが1896年の革命と独立のたたかいが掲げた理想に誠実であろうとすれば、最大かつ緊急に注意を払うべき問題である。これは、政治的、宗教的、イデオロギー的帰属や信条を超えて、憂慮するフィリピン国民のまさに広範な戦線を必要とする問題である。
 
 地位協定の条項は、わが国におけるかつての米軍基地存続権の規定を焼き直したものにすぎない。この地位協定は、1947年の軍事基地協定、さらに1959年と1965年のボロ隠しの修正、さらに1991年にフィリピン上院が拒否した友好協力安全保障条約などの、厄介でもっとも不快な特徴点の多くを復活させ、生き返らせたものである。これらの条項の多くは、ほとんど逐語的に、一語一語、かつての廃止された文書や協定から復活させられているものである。こうして、提唱されている地位協定は、「片足をドアの内側に突っ込」み、その後、わが国の領土を国内的、地域的、世界的介入にふたたび活用するためにずかずかと入り込もうとする、アメリカ軍の姑息なたくらみである。
 
 アメリカとであれ、他のいかなる外国とであれ、外国軍にフィリピン領土のどの地点であれ上陸権や停泊権、治外法権などの特権を与える軍事アクセス協定や地位協定をでっち上げることは、フィリピンの一部高官たちが、いまだにアジアで最初の独立共和国の100周年を記念する資格をもっていないことを示している。概してこれらの高官たちは、アメリカの植民地部隊とかれらの庇護の下で、植民地状態の継続を記念するほうがお似合いであることを示している。むしろ彼らはみずからにふさわしく、売国的将軍からかいらい将軍への100年を記念しているのである。そしてこれが、アメリカ帝国主義が世界的強国としてあらわれ、アジアで最初の地上戦をたたかい、最初のフィリピン共和国を圧殺した出来事の100周年でもあることを、われわれは忘れてはならない。
 
 実際、この地位協定のでっち上げは、米軍が当地への軍事的復活を計画し、フィリピンにおけるきわめて活発な軍事的プレゼンスを準備しているのではないかという懸念を裏付けている。軍事演習あるいは寄港などで訪問してくる米軍のための地位協定などというものは、アメリカがフィリピンへの極めて活発かつ定期的な軍事プレゼンスを計画していない限り、必要ではないし、要求されるべきものでもない。以前に、比米相互防衛委員会によって準備された物品役務相互提供協定(ACSA)案の策動が1994年に挫かれたが、それは米国国際開発局(USAID)の基金によりジェネラル・サントス市とミンダナオ島のサラガニ湾につくられるプロジェクトといった、フィリピンの港や空港に、アメリカの物資や武器を事前に配置し、貯蔵するという米国防総省の計画を全面的に暴露するものであった。これは、フィリピン共和国憲法そのものに対する謀略である。

 しかし、この地位協定は、1991年にフィリピン上院によって退けられた友好協力安全保障条約の条項をはじめとする、以前の各種基地協定よりもさらに悪質なものである。以下、地位協定の突出した特徴について述べてみよう。

1. フィリピン領土に入域するすべての合衆国軍隊の構成員(以下、米軍の構成員)は、犯罪の遂行時にその構成員が公務中であるか、もしくは米軍司令官により正式公務証書(ODC)の発行を受けているかぎり、実際上フィリピン領土における犯罪についての刑事訴訟から保護される。

2. 公務についていない間およびフィリピン裁判所の管轄権の下において米軍の構成員によって遂行された凶悪犯罪を含むすべての犯罪に関しては、裁判中およびすべての訴訟手続き中の米軍の構成員の身柄は、米軍当局が拘束する。

3. 米軍の構成員は、米軍のための輸入および装置その他の財産を現地で取得する場合は、ほとんど全体的かつ全面的な免税措置を与えられる。

4. フィリピン領土を出入する米軍航空機、船舶および自動車は、着・上陸または港湾手数料、航行または上空通過料金の支払を免除される。

5. この協定は、核兵器の制約なしの入域を許し、フィリピン憲法上の核兵器禁止を事実上解除するものである。なぜなら、核武装および核搭載能力を有する米国船舶と航空機は、フィリピン当局にたいし、フィリピン領土へ核兵器を持込んでいるか否かを証明する公式文書なしで、たんに到着を通告すればよいとの義務を負うにすぎないからである。地位協定のとりきめは、このことについて沈黙することによって、憲法が核兵器を禁止していることをまったく無視している。
 

基地設置の権利のためだけの地位協定

 もう一度つぎの点を繰り返そう。

1. 軍寄港協定(VISFA)もしくは類似する地位協定の必要はない。なぜなら、このような司法権、免税、関税および入国手続きの権利放棄などをおおい隠す治外法権的協定は、米軍基地または米軍施設の受け入れ国のみが与えるものである。フィリピンには1992年以降、このような基地復活が計画されていないかぎり、米軍基地はもう存在しないのである。米軍の構成員が、一時的または短期滞在を目的にフィリピンを訪問するのであれば、彼らは、フィリピンの法律を完全に遵守せねばならない他の旅行者や訪問者と同様に扱われるべきである。そうすれば、彼らがいかなる法律違反を犯しても、わが国の法律と裁判所の管轄の対象とされる。これが、すべての主権国家および独立国を特徴づけるものである。わたしたちの領土で犯される、いかなる者にたいするどんな犯罪も、被害者がわが国の国民であれ外国人であれ、それは、わが国の法に反するものであり、その者はわが国の裁判所に身柄を拘束されるのである。アメリカが主張するように、アメリカが、すでに基地の存在しない他国においてこの種の協定をうまく結ぶことができたとしても、私たちが他国から敬意を受けたいと望むのであれば、私たちは、わが国の領土において、アメリカとそのような協定を結ぶ国と同じ様に扱われることをよしとするべきではない。地位協定または軍寄港協定案の条項は、そのほとんどが、1991年にフィリピン上院が退けた旧基地協定をそのまま引き写したものであり、これらの条項の履行を容認するような国は、すでに基地や米軍施設が存在しないとしても、それは、アメリカの事実上の植民地もしくは信託統治領でしかない。いまだに米軍基地を受け入れている日本と沖縄では、地位協定または軍寄港協定の条項がまさに、国民の反対にあい異議を唱えられているのである。

2. 軍寄港協定は、わが国の憲法の核兵器禁止条項をあざ笑うものとなる。この条項に従うためには、寄港するいかなる外国軍船舶または航空機も、税関申告と同様に、われわれの領土もしくは領水への入域にあたり、いかなる核兵器まはたは部品も搭載していない旨を公式に宣言しなければならない。軍寄港協定は、この点を完全に無視しかつ沈黙している。

3. 環境および生態学的観点からすると、この協定が批准されれば、わが国の全領土は、外国軍の大演習、射撃演習、爆撃および戦闘訓練に使われる広大な野戦場となり、したがって、残されたわずかな森林と野生生物生息地さえもさらなる破壊をうけることとなる。これに加え、この協定が成立すれば、これを模範かつ前例として、ほかの外国軍が類似の環境破壊的な協定を結ぶことに道を開くことになるであろう。アメリカ政府はまた、すでに確認されている、元基地使用地の有害物質汚染問題に照らしても、汚染除去の責任から放免されてはならない。フィリピン国民は今回、この有害物質汚染が、ACSAと地位協定の適用候補地と目されている全国22の港湾に拡大されることを認めるのだろうか?

4. フィリピンの軍事構成員にたいしては、アメリカから同様の特権が与えられたり、免罪の特権が与えられるといった互恵的関係はない。なぜなら、われわれの軍隊は、米軍と同じように何千人もの規模でアメリカを訪問するようなことはないからである。最近、大統領府が、この文書が今度は批准のため上院に提出されなければならないことを認めたにもかかわらず、われわれは、「条約」のかわりに「協定」という名称が使われていることに留意している。こうすることによって、この文書をフィリピン上院が批准したとしても、アメリカ政府の方は、これを「条約」として、批准手続きのために自国の上院に提出するという、相当する行為をとることを拒否できるからである。わが国の憲法は、フィリピン領土上に外国軍プレゼンスが「承認される」まえに、相手国の批准手続きにおいてこのような相互性が確保されるべきことを必要としている。

5. フィリピン内に入国が認められる米軍部隊の数も、フィリピン領土における米軍部隊の滞在期間にも上限はもうけられていない。また、協定の存続期間そのものにも制限がないため、この協定は無期限なのである。

(以下略)


フィリピン共和国政府とアメリカ合衆国政府との間の合衆国軍隊のフィリピン訪問時の待遇に関する協定(全文)


前文

 フィリピン共和国政府とアメリカ合衆国政府は、

 国際連合憲章の目的と原則への誓約ならびに太平洋地域における国際的かつ地域的安全を強化するとの両者の希望を再確認し、

 合衆国軍隊の構成員が、フィリピン共和国を時おり訪問できることに注目し、

 フィリピン共和国と合衆国との協力が、両国の共通の安全保障の利益を促進することを考慮し、

 フィリピン共和国を訪問中の合衆国の要員の待遇を明示することが望ましいとの認識に立ち、

 次のように合意した。
 

第一条【定義】

 この協定において使用されているように、「アメリカ合衆国の要員」とは、フィリピン政府により承認された活動に関連して、一時的にフィリピンに滞在する合衆国軍の構成員および軍属をいう。

 この定義で、
 1.「合衆国軍隊の構成員」とは、アメリカ合衆国の陸軍、海軍、海兵隊、空軍、および湾岸警備隊の人員をいう。
 
 2.「軍属」とは、通常フィリピンに居住するフィリピン国民でなく合衆国軍隊に雇用されているもの、または、アメリカ赤十字や合衆国サービス機構(United Service Organization)に雇用されるもののように、合衆国軍隊に随伴するものをいう。
 

第二条【法令の尊重】

 フィリピン共和国の法令を尊重し、この協定の精神と矛盾するいかなる活動も、とくにフィリピン国内における政治的活動を慎むことは、合衆国の要員の義務である。合衆国政府はこれを保証するため、その権限の範囲においてあらゆる措置をとるものとする。
 

第三条【出入国】

 1.フィリピン政府は、この協定に含まれる活動に関連して、合衆国の要員のフィリピン入国および出国の手続を簡素化するものとする。

 2.合衆国軍隊の構成員は、フィリピンへの入国に当たって、旅券および査証に関する(フィリピン)法令の規定から除外されるものとする。

 3.合衆国軍隊の構成員は、フィリピンへの入国に当たって、次の文書を携帯しなければならない。
 (a)適切な合衆国当局が発給した、氏名、生年月日、階級および番号(もしあれば)軍の区分ならびに写真の示された身分証明書、および
 (b)適切な合衆国当局が発給した、旅行あるいは訪問を命令し、その個人または集団が合衆国軍隊の構成員として有する地位を証明する、個別的または集団的文書。
  (c)軍用航空機もしくは船舶の司令官は、健康証明書を提出しなければならず、審理権を有するフィリピン政府の代表に要求される時は、検疫をおこないその航空機あるいは船舶が検疫を必要とする疾病がないことを証明しなければならない。合衆国の航空機、船舶およびその積み荷の立入検疫は、合衆国の司令官によって、世界保健機関が発布した国際的保健諸規則および相互に合意された手続きにしたがって実施されるものとする。

 4.合衆国軍隊の軍属は、フィリピンへの入国または出国に当たって、査証に関する規定の適用から除外される。ただし、要請があれば、有効な旅券を提示しなければならない。

 5.フィリピン政府が合衆国の要員のフィリピンの領域からの退去を要請したときは、合衆国の当局は、その者を自国の領域内に受け入れるか、でなければその者をフィリピン領域外に配置しなければならない。
 

第四条【運転と車両登録】

 1.フィリピンの当局は、合衆国当局が合衆国の要員にたいして発給した軍用もしくは公用車両を運転するための許可証もしくは免許証を、運転者試験または手数料を課さないで、有効なものとして承認する。

  2.合衆国政府が所有する車両は、登録の必要はないが適切な表示をつけるものとする。
 

第五条【刑事裁判権】

 1.この条の規定に従うことを条件として、
 (a)フィリピンの当局は、合衆国の要員にたいし、フィリピン内で犯す罪で、フィリピンの法令によって罰することができるものについて裁判権を有する。
 (b)合衆国の軍当局は、合衆国の軍法に服するフィリピン内の合衆国の要員にたいし、合衆国の法令により与えられたすべての刑事裁判権および懲戒の裁判権をフィリピンにおいて行使する権利を有する。

  2.(a)フィリピンの当局は、合衆国の要員にたいし、フィリピンの法令によって罰することができる罪で合衆国の法令によっては罰することができないもの(フィリピンの安全に関する罪を含む)について、専属的裁判権を有する。
  (b)合衆国の当局は、合衆国の要員にたいし、合衆国の法令によって罰することができる罪でフィリピンの法令によって罰することができないもの(合衆国の安全に関する罪をふくむ。)について、専属的裁判権を有する。
  (c)この条の2および3の規定の適用上、安全に関する罪とは、次のものを意味する。
(1).当該国にたいする反逆罪
(2).妨害行為(サボタージュ)、ちょう報行為または国防に関する法令の違反

 3.裁判権を行使する権利が競合する場合には、次の規定が適用される。
  (a)フィリピンの当局は、この条文の1(b)、2(b)、3(b)で規定される場合を除き、合衆国の要員が犯したすべての罪にたいし、第一次の裁判権を有する。
  (b)合衆国の軍当局は、次の罪については、合衆国の軍法に服する合衆国の要員にたいし裁判権を行使する第一次の権利を有する。
 (1)もっぱら合衆国の財産もしくは安全のみにたいする罪またはもっぱら合衆国の要員の個人財産のみにたいする罪、および
 (2)公務執行中の行為から生ずる罪
  (c)いずれかの政府の当局は、もう一方の政府の当局にたいし、個々の事例においてその第一次裁判権の行使を放棄するよう要請することができる。
  (d)合衆国の軍当局が軍隊内の秩序と規範を保つ責任を有するとの認識にたち、フィリピンの当局は、合衆国の要請があれば、フィリピンにとって特に重要となる事例を除いて、その裁判権を第一次に行使する権利を放棄する。フィリピン政府がその事例を特に重要であると認めた場合は、合衆国からの要請をフィリピンの当局が受け取ってから20日以内に合衆国の当局にその旨を通告しなければならない。
  (e)フィリピンの当局により説示された罪が、合衆国の要員が公務執行中に作為又は不作為から生じた罪であると合衆国が判断した場合は、司令官は、その判断を説明する証明書を発給する。この証明書は、フィリピンの適切な当局に届けられ、この条の3(b)(2)に掲げられた公務執行(に該当すること)を充分に証明するものとなる。フィリピン政府が、事件内容が公務証明書の見直しを要すると信じる場合は、合衆国の軍当局とフィリピンの当局は直ちに協議しなければならない。その際、フィリピン当局の最高機関は、その有効性にかんする情報を提示することができる。合衆国の軍当局は、フィリピンの主張を全面的に考慮に入れるものとする。合衆国の軍当局は、適切な場合において、公務執行中における犯罪者に懲戒もしくは処置を課し、その課された処分についてフィリピンの当局に報告する。
  (f)第一次の裁判権を有する政府がその権利を行使しない場合は、できる限りすみやかに他方の政府の当局にその旨を報告しなければならない。
  (g)フィリピンの当局および合衆国の当局は、裁判権を行使する権利が競合するすべての事件の処理について、相互に通告しなければならない。

 4.それぞれの法的権能の範囲内において、フィリピンの当局と合衆国の当局は、フィリピンの領域内における合衆国の要員の逮捕およびこの条文の規定に従って裁判権を行使すべき当局へのそれらの者の引き渡しについて、相互に援助しなければならない。

 5.合衆国の軍当局は、第一次もしくは専属的裁判権をフィリピンが有する合衆国の要員を逮捕または拘留したときは、フィリピンの当局に報告しなければならない。フィリピンの当局は、いかなる合衆国の要員を逮捕もしくは拘留したときも、合衆国の軍当局に報告しなければならない。

 6.合衆国の軍当局が要請すれば、フィリピンが裁判権を行使すべき合衆国の要員の身柄は、その罪を犯してからすべての法的手続きが完了するまで、直ちに合衆国の軍当局に拘束されるものとする。合衆国の軍当局は、フィリピンの当局による正式通告があった時は遅滞なく、その被疑者の罪に関する捜査もしくは法的手続に間に合うように、その者を当該当局に面会させるようにしなければならない。特別の事例においては、フィリピン政府は、拘禁に関する見解を合衆国政府に示さなければならず、合衆国政府は、その見解を全面的に考慮しなければならない。フィリピンの法的手続きが一年以内に終了しない場合は、合衆国はこの項に掲げる義務を免除される。ただし、この一年の期間には、上訴に必要な期間は含まれない。また、この一年の期間には、被告人の出頭を手配するようにとのフィリピン政府による時宜をえた通告の後、合衆国がそうしなかったために予定裁判手続き間におこった遅れの時間は含まれない。

 7.法的権能の範囲内において、合衆国の当局およびフィリピンの当局は、当該犯罪の必要なすべての捜査において相互に援助しなければならず、また証人の出廷を準備および証拠の収集と提出(犯罪に関連する物件の押収および適切な場合にはその引渡しを含む)において協力しなければならない。

  8.合衆国の要員がこの条文の規定に従って裁判をうけた場合において、刑罰が軽減または猶予されたとき、もしくは赦免されたときは、フィリピンの領域内においてその者は同一の犯罪について再度裁判にかけられることはない。ただし、この項の規定は、合衆国の軍当局が合衆国の要員を、その者がフィリピンの当局により裁判を受けた犯罪を構成した作為または不作為から生ずる軍規違反について、裁判することを妨げるものではない。

 9.合衆国の要員がフィリピンの当局により拘留もしくは監禁または起訴されたときは、それらの者には、フィリピンの法令が定めるすべての訴訟手続上の保障条項が適用されなければならない。少なくとも、合衆国の要員は、次の権利を与えられなければならない。
  (a)遅滞なく迅速な裁判を受ける権利、
  (b)公判前に自己にたいする具体的な訴因の通知を受け、弁護の準備に必要な妥当な時間をえる権利、
  (c)自己の弁護のために証拠を提出し、強制的手続により証人を求める権利、
  (d)費用を要しないで、また費用の補助を受けて自己の選択する弁護人をもつ権利、
  (e)有能な通訳を用いる権利、
  (f)合衆国の当局と迅速に連絡しまた定期的に訪問を受ける権利およびすべての法的手続にその当局を立ち会わせる権利。これらの手続きは、法廷がフィリピンの法令に従って手続きに無関係の者を排除しない限り、公開とする。

 10.フィリピンの当局による合衆国の要員の監禁もしくは拘留は、フィリピンの当局と合衆国の当局による合意に基づく適当な施設においておこなわなけれなければならない。フィリピンで服役中の合衆国の要員は、訪問と物質的援助を受ける権利を有する。

 11.合衆国の要員は、通常の裁判権を有するフィリピンの裁判所においてのみ裁判の対象とされ、フィリピンの軍事もしくは宗教裁判所の裁判権の対象とはならない。
 

第六条【請求権】

 1.契約上の取極(合衆国外国軍用販売申込書および受領書、また軍用品の賃貸契約書を含む)を除いて、両政府は、この協定が適用される活動から生ずる相互の軍隊の資産にたいする損害、損失または破壊にたいし、もしくは軍隊の構成員および軍属の死もしくは傷害にたいし、他方にたいするいかなる、またすべての請求権も放棄する。

  2.契約上の請求および1項が適用される請求以外は、合衆国にたいする請求については、合衆国政府は、合衆国の要員の作為もしくは不作為または合衆国軍隊の非軍事活動に伴って生ずる損害、損失、人体への傷害もしくは死にたいする損害賠償請求の解決において、外国の請求に関する合衆国の法令に従って正当かつ妥当な賠償金を支払わなければならない。
 

第七条【輸出入】

 1.この協定が適用される活動との関連において、合衆国軍隊のためにフィリピン国内に輸入もしくはフィリピン国内で取得された合衆国政府の資材、供給品およびその他の財産は、すべてのフィリピンの関税、租税およびその他同様の課徴金を免除される。この節で与えられる免除は、フィリピンへの輸入またはフィリピン国内での取得の際にそうした財産に適用されるはずの関税、税金およびその他同様の課徴金にもおよぶものとする。そのような財産は、そのような財産にたいして適用される租税と関税の免除資格を持たない人または物にフィリピンの領域内において譲渡される場合には、そのような租税と関税を支払い、またフィリピン政府の事前の承認を得るのであれば、フィリピンから送出またはフィリピン国内で処分することができる。

 2.合衆国の要員の私用のための個人手荷物、個人動産物件およびその他の財産は、フィリピンにおける一時的滞在の期間、すべての関税、租税および同様の課徴金を支払うことなくフィリピンに輸入し使用することができる。フィリピン領域内における、輸入特権を持たない人もしくは物への譲渡は(受け取る側による、フィリピンの法令により課される関税と租税の支払いも含み)、フィリピンの適当な当局による承認を事前に得た場合にのみおこなうことができる。
 

第八条【船舶および航空機の移動】

 1.合衆国軍隊によって、もしくは合衆国軍隊のために運航される航空機は、取極の実施を規定した手続きに従い、フィリピン政府の承認を受けて、フィリピンに入国することができる。
 
  2.合衆国軍隊によって、もしくは合衆国軍隊のために運航される船舶は、フィリピン政府の承認を受けてフィリピンに入国することができる。船舶の移動は、それらの船舶を統治する国際的慣習と慣例および必要である場合に合意された実施取極にしたがわなければならない。

 3.合衆国軍隊によってもしくは合衆国軍隊のために運航される車両、船舶および航空機は、フィリピン滞在中に、荷揚げ料または港湾使用料、航行または陸路通行料、もしくは使用料またはその他の課徴金(上陸税ならびに入港税を含む)を課されない。合衆国軍隊によってもしくは合衆国軍隊のために運航される航空機は、フィリピンにいる間は、その土地の航空交通管制法規を守らなければならない。合衆国によって所有または運航される船舶で合衆国の非商業事業にのみ従事するものは、フィリピンの港においては、強制水先を免除される。
 

第九条【継続期間と終了】

  この協定は、両締約国が外交的手段を通じ、効力発生のための憲法上の規定を満たした旨の文書を交換した日より効力を生ずる。この協定は、いずれかの締約国が他方の締約国にたいしこの協定を終了させる意志を文書で通告した日から180日が終了するまで有効とする。

  以上の証拠として、下名は、各々の政府により正当に委任を受けて、この協定に署名した。

 1998年2月10日にフィリピンのマニラで、本書2通を作成した。

(署名)ドミンゴ L.シアソン二世       (署名)トマス C.ハッバード

* * * * * * * * * * * * * * * * * *  * * *
 
 

(参考)フィリピン共和国1987年憲法の外国軍事基地に関する条項

第2条8項
 フィリピンは、その国益に一致するものとして、その領域内において非核兵器政策を採用し、追求する。

第18条25項
 フィリピン共和国とアメリカ合衆国との間の軍事基地に関する協定が1991年に期限切れとなった後には、上院においてあらたな条約が正式に承認され、そして議会が要求する場合には、その目的のためにおこなわれる国民投票において投票の過半数によって承認され、相手国によって条約として承認される場合を除いて、外国の軍事基地、軍隊もしくは施設は、フィリピン国内において許されない。
 


 

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1998年3・1ビキニデー関連資料より
  

  核実験――機密にされた軍の文書館
フランスが決して告白しようとしなかったこと

ヴァンサン・ジョーヴェール

『ル・ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール』1998年2月5日〜11日号
(部分のみ)




 30年以上もフランスの核問題担当局はウソをついてきた。60年代の原爆実験は完全に清潔で、ムルロア近辺の住民のいる島は一つも汚染されなかったし、サハラ砂漠の召集兵は誰も核の火にさらされなかった、と当局はつねに言い張ってきた。これはウソだ。ヴァンサン・ジョーヴェールは、ちょっとだけ開かれ、突然また閉じられた軍の文書によって、爆弾の魔法使いの弟子たちが、いかにして民間人や軍人を強力な放射線にさらしたかを語る。

*    *      *     *     *

 1966年7月2日、仏領ポリネシア・マンガレーヴァ島にて。西からのそよ風がココ椰子に吹き、子どもたちはいつものようにおもてで、ほとんど裸で遊んでいた。軍人たちは子どもたちが走ったり、転んだり、砂まみれになったりするのを眺めていて、何も言わなかった。しかし彼らは知っていたのだ。数時間前から強い放射能を帯びた粒子が風で運ばれて来ていて、土はすでに汚染されており、この子どもたちが危険な状態におかれていることを知っていた。しかし子どもたちの親に警告することは、太平洋でフランス最初の核実験が住民のいる島を汚染していると、世界に発表することになる。そこでこれらの軍人は、将校や医師までもが口をつぐんだ。国家的理由で。
 
 この秘密の話は、軍の文書から復元したもので、(囲み記事参照)、ムルロアでおこなわれた最初の実験以前の1965年にさかのぼる。この年、ド・ゴールはふたたび衝撃的発言をおこなった。実戦用核戦力を緊急に要求したのである。彼にとって原子はフランスの栄光の回復を意味するものであった。爆弾によって、彼の発言力は二つの大国と同じくらい遠くまでとどき、強力になるのだ。爆弾によって彼はNATOを最終的に脱退し、国の独立と誇りを完全に実現することができるのだ。したがってこの絶対の兵器に向かって決められた歩みは、何ものにも阻害されてはならないのだ。何ものにも。なかでも核兵器反対運動などは、すべてを遅滞させるおそれがあるので、あってはならない。こうして1965年、太平洋に配置されたばかりの軍部とCEA(フランス原子力委員会)は、原爆実験が住民にとって完全に「無害」であると証言した。これはウソだ。爆弾の関係者たちはすでにそれを知っていた。彼らの秘密の会議で、1966年と67年の実験はとくに「汚染度が強」く、なかでも、はしけからの発射では、爆弾は水面のすぐ上の空中で爆発し、発生した放射能を帯びた雲が、爆心地付近の住民が住んでいる島を汚染する危険がある、と繰り返し述べていた。しかし公的には一言も知らされなかった。
 
 レアオ、ツレイア、プカルア、なかでも一番人口の多いマンガレーヴァ(人口600人)など4つの島と1200人の人びとが、放射性降下物の危険にさらされていた。この呪われた珊瑚礁の島々をどうすればよいのか。最初の実験の数週間前、原子爆弾の製作者たちはこの問題に悩まされていた。最上の解決策は全ての住民をそれぞれの実験前に移住させ、放射線の防護について彼らに説明することだった。しかし核爆弾関係者はこの根本的な措置を拒否した。このような作戦は、たとえ秘密裏におこなわれようとも、すばやくマスコミに知られるだろう。それは問題外だ。結論――「移住の仮定は、政治的、心理的理由により、排除される」。
 
 ところが医学上の理由については、詳細に釈明されることになる。軍放射線安全対策機関(SMSR)の専門家は、ポリネシア人が放射線から極度に影響を受けやすいことを知っていた。彼らの書くところによれば「ここの住民は特別な性質を示している…孤立していること、15歳以下の者、妊産婦または子どもを産む年齢の者、高齢者などが多い、同一グループ内結婚の頻度が高い」。 したがって「同じ位の数で比較すれば、遺伝的危険性はヨーロッパ人より高い」。 言いかえれば、ヨーロッパ人にとっては弱い被ばく水準であっても、これらの島の住民にとっては危険だということだ。そこで強度な汚染については……こんなに脆弱な女性や子どもを、どうやって守るか。「放射性降下物の危険があるようなら、爆発の前にこの人たちを集めてすぐシェルターに入れろ」。 だが、どのシェルターへ? 「教会に入れろ。そこは初期段階で、強度の放射線に対して優れた遮蔽物になるから」ということであった。 爆弾に教会とは……。
 
 恐ろしい事故は避けられない。核爆発の実行者たちはポリネシアの気象についても、はしけ上の爆発についても、なにも知っていない。彼らは何の経験も、根拠も持っていない。彼らの同盟国であるアメリカは、これらの非常に汚れた実験を20年前のビキニでおこなったが、その被害をどう防ぐかについては説明を拒否した。ホワイトハウスは大気圏内実験禁止条約に調印した。ド・ゴールはそれについて話されるのを好まなかった。彼が「かわいい爆弾」とうまくやろうとしていたとき、ワシントンではこう言っていた。陸軍省はSDECE(フランス情報局)と情報機関に、太平洋周辺でこの種の発射についての情報を収集するよう命じたが、(コラム参照)原爆スパイたちは、たいしたことを報告してこなかった。そこで、これはけっして公表されなかったが、当てずっぽうか、それに近いやり方で実験されることになった。太平洋での最初の実験はアルデバランでおこなわれることになる。これが最初の事故である。
 
 (広島型よりやや大きい)15から20キロトンの威力の爆弾は、1966年7月2日、ムルロア環礁で爆発した。16時ごろ最初の警報の電報が巡洋艦「ド・グラス」の作戦司令部にとどいた。放射能雲は予期したよりも集中していて、その高度は予想より低かった。低層の風がこの雲をマンガレーヴァ住民の住む島の方へ運んでいった。23時にはもう疑いはなかった。マンガレーヴァ治安責任者の電報にはこう書かれている。「大臣に通報。放射能は無視できない。土壌汚染。汚染除去と食料についての指示を要請する」。 何をなすべきか。保安指令の適用か。住民に知らせ、教会に集合させるか。ノン。核実験作戦団長ロラン副提督は、「ド・グラス」から唯一被害調査のため科学調査船「ラ・コキーユ」の派遣を命じた。極秘任務である。
 
 「ラ・コキーユ」の医師フィリップ・ミロン博士は秘密報告の中で、それについての詳細を述べているが、そこには二つの例しか存在していない。この報告書の中では、ウソ、軽蔑的態度、不条理など、そのすべてがあきらかになっている。ミロンは述べている。「『ラ・コキーユ』は(マンガレーヴァ)近海に、7月5日(すなわち爆発から3日後)に到着した。(放射能の)最初の具体的影響はプランクトンや魚に現れている」。 翌日、船は島で一番大きな村リキテア港に入った。「その時、土地の消費物資の計測が始まっていた」。 結果は「洗ってないサラダ菜――1グラム当たり18000ピコキュリー」であった。これは事故当日のチェルノブイリ原発周辺のレタスの汚染水準に相当する。8日、「12時間の激しい雨の後…排水溝から取った土壌のサンプルは1グラム当たり1400ピコキュリーを計測された」。これもまた非常に重大な汚染度である。しかし「いかなる禁止措置」も取られなかった。とくに誰も不安がらせたりはしない。それが何であるか警告してはならない。

 それは続く。ミロン医師は冷静に、次のように述べている。「住民は…まったく自覚しておらず、不安をいだいておらず、なんの興味も示していない。(島の精神的リーダー)ダニエル神父は放射性降下物とは何かも知らない。その他の『ポパたち』(ヨーロッパ人)、島の定住者たち(看護婦、農民)などは、全然不安がっておらず、何の質問もしない」。 汚染のことに通じている軍人たちも、「明らかに大多数は実際の数値は知らない」。 当然である。最後に「ド・グラス」に警告を出した治安司令官は「完璧に反応した」。 つまり彼は秘密を守った。少なくとも「彼は住民に対して率直な政策がとられていないことを不満に思っており、それが彼の居心地を悪くしている」。 もっと正確には、「彼は正直なので、村の子どもたちが土の上をはだしで歩き、遊んでいるので心配している」。 どうやら、彼だけがただひとり、心配しているのだ。
 
 作戦に続いて、ミロン医師は何を提案しているか。質問者や妨害者たちに取り囲まれるのを避けるために。「好ましからざるヨーロッパ人の教師夫妻を(マンガレーヴァから)断固として遠ざける」必要があると、彼は書いている。しかし、「心配していない」住民については、退避はまだ日程に上っていない。医師はたんにシェルターの建設を示唆しただけだ。彼は9月か10月にさらにいっそう強力なはしけからの実験が計画されていることを知っていた。
 
 その8月、マンガレーヴァにこっそりと避難所が作られた、ツレイアやレアオにも。それはコンクリートブロックの小屋や、「亀の子」――サハラ砂漠の実験で軍隊が使用した一種の格納庫――のことである。この作業は住民を不安にさせた。レアオの軍司令官は書いている。「原住民の中には『亀の子』が住民を閉じ込めるわなで、爆発実験の後、彼らがそこで殺されると言う者がいる」。 実際、軍の不条理の極みだが、この大急ぎで作られたシェルターは、大部分が使用されないか、貧弱な防御物であることが暴露されることになる。ツレイアに派遣された放射線保安将校が、世界でまたとないほど真面目ぶって説明するところでは「珊瑚礁の潟のそばにあるブロック小屋は、気密上問題がある。中に入って明りを消し、ドアをしめると、ブロックのすきまから日光が入ってくるのが見える」とのことであった。困ったことに、「一晩雨が降れば、地面の半分はひどい水たまりになる」という。
 
 ところで汚染された雨のことだが、ツレイアに、ついでマンガレーヴァにも9月26日にはもう降っている。保安部隊司令官の報告書によれば、それは「放射能にひどく汚染された降雨」とさえ言われている。この人は、2日前にはしけ上からおこなわれた2回目の実験での、リゲルの降下物について説明している。実験は250キロトン、広島型の20倍の爆発力である。マンガレーヴァの雨水の放射能はひじょうに懸念されるものであった。1リットルあたり10万ベクレル、これはチェルノブイリ事故後の地下水汚染の最高水準に相当する。そしてフランス軍部の反応は、ウクライナ原発爆発当時のソ連官僚と同じように、まったく馬鹿げていて、腹立たしい。つまりここでも「住民をシェルター近辺に集結させる以外は、いかなる措置もとられなかった」とマンガレーヴァ保安将校は書いている。しかし彼は住民がシェルターに入るよう勧告しなかった。それは、またしても、事実を隠さなければならなかったからである。その将校は説明している。「放射性降雨はそれまでにとられていた機密保持の強化を必要とした」。 小さな島ツレイアで、軍責任者は、爆発の瞬間には女性や子どもたちに隙間だらけのブロック小屋に入っているように要求した。しかし放射性の雨が降っても、彼は何も言わなかった。民間人や現地軍やその部下にも。「土壌汚染の調査は、要員を脅かさないように、系統的にはおこなわれなかった」とまで彼は告白している。馬鹿げていて、憤激にあたいする。
 
(以下略)


命令:「部隊には知らせないこと」
サハラ:「緑の跳びネズミ」のモルモットたち

ヴァンサン・ジョーヴェール

『ル・ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール』1998年2月5日〜11日号
(部分のみ)
 

 1961年4月25日、アルジェリアで195人の兵士がフランス軍の最高機密の原爆演習に参加した。そのなぞがやっと解かれた。

 それは、フランスの核の歴史でもっとも不思議な実験であった。このサハラでの最後の大気圏爆発(コード名―「緑の跳びネズミ」)についてわれわれはほとんどなにも知らない。ただわかっていることは、1961年4月25日、つまり現地反乱軍の「混成部隊」が依然としてアルジェで権力を握っているときに、この実験は大急ぎでおこなわれたということだけである。つまり、ド・ゴールは反乱側の将軍たちが原爆を奪い取ろうとするのを恐れていたのであり、彼はできるだけ早く原爆を爆発させることを命令したのである。しかし、それ以外のことはまったく不明である。軍は37年間にわたって秘密を固守してきた。

 実際のところ、1961年4月25日に参謀本部はこのサハラでの最後の大気圏爆発を核戦争の模擬演習に利用したのである。爆発の直後、爆心地の近くで演習(戦車のみならず、徒歩で)がおこなわれた。目的は? 軍の資料によれば、防護資材のテストをすること、そしてとくに、きわめて放射能の高い状況での兵士の反応を知ることにあった。言いかえると召集兵たちは、原爆の魔法使いの弟子たちのためのモルモットに使われたのである。

 この195人の兵隊たちは偶然に選ばれたのではなかった。まず、彼らは赤軍とNATOとの戦線、つまり核戦争が起こる可能性のもっとも高い場所で軍務に服している兵士たちであり、ドイツに駐留していた第13機甲旅団から選ばれた。次に、彼らは軍事上の安全、つまり彼らの過去および対人関係で機密を守ることができることを確かめて選別された。1961年3月初めに旅団の将校たちは、選抜された兵士たちに一時的に配属を変更するむねを知らせた。ただし、それ以上はなにも言わなかった。

 ついで、「心理的準備」が始まり、これは引き続きドイツでおこなわれた。別の将校が兵士たちに「まったく違う気象条件のもとで新しい機材の実験に参加する」と説明した。場所は? 詳しい説明はなんら与えられなかった。自分が見たり、おこなったりすることを決してもらしてはならない、ということだけが述べられた。兵士を恐慌状態に陥れないために、「作戦は、かつて旅団がおこなった演習の名に似せて『緑の海馬』と名付ける」と任務説明書で述べられた。しかし、現実にはこの195人の兵士たちは以後、戦術的実験グループ、もちろん核実験のそれ、となる。

 サハラの実験地レガヌに到着すると、モルモットたちは特殊兵器の指導員の指揮下におかれた。指導員は少しづつ本当のことを教えた…原爆を爆発させること、汚染地域で演習をすること…彼らを安心させるために、実験に関する映画を195人の兵士に上映した。だが、これはまずい考えだった。ドキュメント映画は兵隊たちにショックを与えた。部隊の報告書は次のように述べている。「映画『核兵器の効果』は近く実験に参加する部隊には有害である」。

 兵士たちは不安であった。将校たちは「兵士が受け取る特殊器具の効用を確信させる」よう努力した(マスク、ポリエチレンの外套、手袋、長靴)。また将校たちは兵士の愛国精神を高揚させようと努める。「この『緑の海馬』実験はフランス軍の未来にとって決定的な意義をもつものである」と。若い軍人たちは胸をたたいて見せた、しかし、彼らは無言のうちに放射能が「健康」、とくに「男性の機能」を損なわないかと危惧していた。

 実験日の4月25日に、編成されたばかりの戦術実験部隊はゼロ地点から3キロメートルに待避壕を堀り、195人は予定時刻Hを待った。壕の少し前に山羊を柱に縛りつけた。山羊は最初に被爆することとなる。プルトニウム爆弾が高さ50メートルの塔の頂上におかれた。H時に爆弾が炸裂し、地面が揺れたが、待避壕はなんとか維持した。爆発音は強烈で、「10メートルのところで105ミリ砲を発射したのに等しい」ものであった。また、兵士たちは「両腕を組んで目をかくしていた」が、ほとんどすべての者が核の閃光を認めた。原爆演習が開始された。
 

(以下略)

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ヨーロッパの「核家族」

ミゲル・マリン−ボッシュ
『ブレティン・オブ・アトミック・サイエンティスツ』1998年1月2月号
(部分のみ)
 
 

わずかな例外を除き、欧州連合加盟は、
NATOの好核姿勢受け入れを意味するようになってきた。

 ブリュッセルにいる欧州連合の官僚たちに核兵器の話をもちだせば、たぶん困惑した顔をするだろう。表目には、欧州連合と核兵器は何の関係もないように見える。しかし、少し深く調べてみれば、そこには関連があることが分かる。これを欧州連合の「核化」と呼ぶことができるかもしれない。
 
 加盟国がより統一化を強めるにつれて、奇妙なことが起こりつつある。統一の努力のうちもっとも目立つのは、単一通貨導入を急ごうとする動きである。移民政策も少しは論議を呼んでいる。これとは対照的に、核兵器の合法化についてのコンセンサスが形成されつつあることは、まったく話題になっていないのである。
 
 欧州連合について多くの人びとが問題にするのは、ほとんどの場合、経済統合と巨大な単一市場である。しかしそれは1992年以前のこと、もと欧州経済共同体がマーストリヒトにおいてより完全な連合へと姿を変える前のことである。この連合は、いくつかの社会的・政治的問題、そして安全保障、防衛、外交問題について共通の政策をともなう連合であった。そこに核兵器が登場するのである。
 
 1940年初頭に原子兵器が始めて開発されたとき、多くの科学者と政治家たちは、一時的に倫理的懸念を脇においやり、原爆を、恐るべき戦争が背景にある状況においては必要悪だとし受け入れたのである。しかし、1945年に最初の原爆が使用されていらい、アメリカでも他の国々でも、世論はがらりと変った。信じられないようなことだが、核兵器は多くの国々の指導者にとって受容可能なものとなったのである。冷戦は、この道義的問題をいっそう見えにくくしてしまった。
 
 道理もわきまえ、一般的には人間性もある人びとが、この大量破壊兵器の取得、使用の可能性、開発の継続をなぜ正当化できるのか、理解するのは難しい。このような兵器を合法とするあるいは道義的に正当化する根拠はないのだと、長いあいだ主張してきた人びともいる。
 
 ヨーロッパでは数十年のあいだ、意見は分かれたままであった。NATO加盟諸国は核兵器の合法性を擁護したが、それはほとんどの場合核抑止力論に依拠した議論だった。他の者たちは、核兵器は違法であり、廃絶せねばならないと強く主張した。
 
 後者の見解は、1996年7月の国際司法裁判所の勧告的意見により強められた。この判断は、核兵器の威嚇・使用、さらにはその保有をも問うための、新たな法的根拠をあたえるものであった。
 
 

バチカンでさえも

 国際司法裁判所の意見は、欧州連合諸国政府に目に見える形で影響をおよぼしてはいない。NATOの星は、東欧でも西欧でも昇りつつある。ロシアを除き、NATOの東方拡大が良いことかどうかに疑問をはさむものはいない。これはすでに決着済みのことなのだ。同様に、NATOの政策立案者らがフルダ・ギャップを越えてソ連軍が侵攻してくると想像していた時代の遺物である、NATOの先制核使用態勢を、本気で問題にするものもいない。また、冷戦後の時代のNATOの役割の定義を気に懸けるものも、潜在敵国を定義しようとするものもいないのである。
 
 旧ソ連ブロックのうち数カ国が、これほど熱心に、かつては自らの敵の象徴であった組織に加盟したいのはなぜなのか、いったいどう説明すればよいのだろうか。バチカンですら、「NATO急行」に乗り込んでしまっているかのように見える。昨年6月ポーランドを訪問したパウロU世は、中欧・東欧7カ国の大統領らと会談した。NATOと欧州連合について法王は、この地域のどの国も「現在形成されつつある連合体から取り残されてはならない」と述べた。ロシアでさえ、──あるいは少なくともエリツィン政権は、NATOの拡大を受け入れるようになっている。しかし、ロシアもまた、核兵器先制使用政策を採用している。
 
 このような事態の進展は、ワルシャワ条約機構の解体のあとでは、理にかなったことのように映るかもしれない。たとえば国連では、ボスニア・ヘルツェゴビナにおける国連PKOをNATO軍が指揮していることについて眉をひそめるものはほとんどいない。また、NATOが欧州連合に対する影響力を強めていることについても、まったくといっていいほど反対の声は上がっていない。結局のところ、欧州連合の全加盟国15カ国のうち11カ国がNATOにも加盟しているのである。そしてそのうちフランスとイギリスの二カ国は、核保有国でもある。
 
 NATOのドクトリンは長らく、欧州連合内で議論される多くの軍縮問題において、これら11カ国の立場を決定づけてきた。いっぽうで、そのことは欧州連合の残り4カ国(オーストリア、フィンランド、アイルランド、スウェーデン)が伝統的にとってきた核兵器や核軍縮などの諸問題に対する積極的中立政策を、修正させる方向へといっそう変化させてきた。
 
 欧州連合の外交・防衛政策の「NATO化」の強まりは、ジュネーブ軍縮会議、NPT再検討会議、国連総会など、数々の場で表面に現れている。
 

合意の問題

 最近筆者は、国連総会の開催第一日目から1997年9月までに採択された3262本の決議を分析した。このうち431本が核軍縮に関わるものである。これら核軍縮決議への投票を見ると、欧州連合の各加盟国が、それぞれの問題について、どの時点で態度を変えたのか特定することができる。
 
 筆者の分析は、各投票に関して主観的な疑問をなげかけるものではなかった。ある国の賛成・反対あるいは棄権の投票が、どの程度、他の国の投票態度と一致しているかあるいは食い違っているかのみを調べたものである。そこには合意があったのか、なかったのか?
 
 国連総会の全決議への各国の投票態度を分析してみると、加盟国間の意見の一致は、1980年終わり頃まで増加が続き、そのあと減少し始めることがわかる。これと対照的に、欧州連合加盟国の間での一致は、近年増加している。
 
 国連総会のなかで、立場や投票態度の足並みを揃えるよう調整をはかっているグループは、欧州連合だけではない。これは、77カ国グループや非同盟運動として知られている組織を通じて、発展途上諸国が数十年間にわたって続けてきたことである。
 
 東欧諸国は過去において、ほとんどすべての採決で一致した態度をとってきた。これは、この国々がソ連主導のワルシャワ条約機構のもとに団結していたことからすれば驚くにあたらない。NATO加盟諸国も、一定の軍事・軍縮問題決議については、共通した態度をとってきた。
 
 環境問題の分野では、たとえば、経済協力開発機構(OECD)は、つねに統一した見解を打ち出している。ほかにも名をあげることのできる国々のグループがある。北欧諸国、アラブ諸国など、より非公式な集まりである。
 
 しかし、欧州連合がほかと違っているのは、その共同社会的意志と、加盟諸国の意見をつねに調和させようという努力である。国連総会では、欧州連合スポークスマンが、多くの議題について、一般演説をおこなっている。
 
 1980年代のなかばまでは、欧州連合加盟国間の意見の一致のレベルには、ほとんど変化がなかった。もっとも意見が分かれていたのは、南部アフリカ問題と非植民化問題であり、1970年代初頭には、中東問題もそうであった。しかし1980年後半になると急速に、核軍縮問題もふくめこれまで対立のあった多くの問題について、意見が一致するようになる。もっとも驚くべきことは、この傾向が好核の立場に非常に強く偏っていることである。

(以下、「NATO中核部分の拡大」、「第二の拡大」略)

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ベローナ報告

トマス・ニールセン、イゴール・クドリック、アレキサンドル・ニキーチン共著

第8章 ロシア北方艦隊核潜水艦事故
(部分のみ)

<目次>
核潜水艦事故
8.1沈没した核潜水艦
8.2原子炉事故
8.3死亡者をだした火災(略)
8.4事故の原因(略)
章末の注(略)
 

原子力潜水艦事故

 1961年から現在までのあいだ、ソ連ないしロシアの原子力潜水艦が関連する事故やその他の事件が多数発生した。この間、潜水艦事故で少なくとも507名が死亡している。もっとも重大な事故は、火災によって引き起こされ潜水艦の沈没という結果にいたったもの、炉心の過熱から原子炉の重度の損傷にいたったことによるもの(冷却剤喪失事故)、放射能漏れをまねいたより小規模の多数の事故によるものなどである。事故の影響をうけた艦船のほとんどが、ロシア北方艦隊に所属している。この章では、死亡または放射能漏れ、あるいはその両方をまねいた事故のみをとり扱う。
そのほかにも、北方艦隊潜水艦が関わった事件は多数存在する。このなかには、他の潜水艦との衝突、海軍基地・造船所での火事、潜水艦がはえ縄を切断した事故、潜水艦発射ミサイルの発射実験中の事故、流氷との衝突などがある。
 

8.1原子力潜水艦の沈没

 事故または広範囲の損傷のいずれかにより、現在6隻の原子力潜水艦が海底に横たわっている。2隻は、アメリカのもの(USSスレッシャーとUSSスコーピオン)で、4隻はソ連のもの(K-8、K−219、K−278コムソモーレッツとK-27)である。アメリカの潜水艦2隻とソ連の潜水艦3隻は事故によって沈没した。残るソ連の1隻は、修理は不可能で廃船には多大な費用がかかる、との責任当局の判断により、船底に穴をあけられ、カラ海に沈められた。ソ連の潜水艦4隻はいずれも北方艦隊に所属していた。
事故がおこった時間と場所は、それぞれすべてが異なるが、ソ連潜水艦の事故は、いずれも似たようなパターンをたどった。
 1.パトロールからもどるさいの潜水中の火災。
 2.潜水艦の浮上中。潜水中および浮上した位置の両方において、潜水艦救出がこころみられた。浮上したときはすでに、船は動力および外部との接触能力を失っていた。
 3.外部からの船体内への浸水。
 4.潜水艦の基本システムにたいする司令部のコントロール喪失。
 5.浮力および航行の安定の喪失。
 6.転覆および沈没。

 これら潜水艦の沈没の原因は、かならずしもすべて原子炉に関係する事故であったわけではない。沈没したソ連艦船の場合、そのすべてで、原子炉の閉鎖メカニズムが作動していた。特別の安全措置として、手動で制御棒が最底部までおろされたが、これは、生命を実際に危険にさらすほどの重大な被ばくの危険をともなう作業であった。
北方艦船の原子炉が関連したもので、深刻な結果におわった事故は数多い。たとえば、乗員の死亡または過度(許容量以上)の放射線被ばくとともに、潜水艦の大規模な被害をまねいた事故がある。被害の規模は、修理に高額の費用がかかり困難なものであった。被害があまりにも複雑なため使用不可能となったものもある。

 以下では、ソ連の原潜事故のなかで、もっとも深刻なケースとなった3つの事故について述べる。米国の2隻の潜水艦事故については、巻末付録で明らかにした。
 

8.1.1 K-8

 最初のソ連の原子力潜水艦事故は、プロジェクト627A-ノベンバー級の艦船K-8の事故であり、この潜水艦は、1970年4月8日、演習「オケアン(OKEAN)」を終えて帰る途中に沈没した。第3(中央)、第8区画の二ヵ所で、同時に火災が発生した。潜水艦は浮上したが、船員たちは火を消すことができなかった。炉心非常システムが作動したため、潜水艦は、事実上動力を失った状態となった。予備のディーゼル発電機も作動しなかった。管制室と隣接するすべての区画には、火災による煙が充満した。船を沈没させまいと、最後尾の主要バラストタンクに、空気がポンプ注入された。4月10日には、空気タンクは空になり、第7、第8区画が浸水し始めた。4月10日夕方、護衛船が一部の乗組員を避難させた。4月11日午前6時20分、潜水艦は、ピッチの安定性を失った結果、水深4680メートル点に沈没した。船長をふくむ52人が死亡した。事故の詳細は、1991年まで秘密とされていた。
 

8.1.2  K-219

 1986年10月、戦略原子力潜水艦K−219(プロジェクト667A−ヤンキー級)は、ミサイルチューブ内部で爆発が起こり、大西洋のバーミューダ島北の海域で弾道ミサイルを積載したまま沈没した。爆発は、第4区画(ミサイルの区画)でリークを引き起こした。ミサイル燃料からの蒸気と煙が破損したミサイルチューブから流出し始めた。爆発の際、同艦の二基の原子炉のうち一基のみが稼動していた。艦は浮上し、もう一基の原子炉が起動された。水が入りはじめたにもかかわらず、第4区画で火災が発生した。電気系統のショートが、同艦の非常システムの一つを作動させた。必死に制御棒を下げるなかで一人の命が失われた。なお海上にとどまっていたが、海水が主要バラストタンクに流れ込むと潜水艦の浮力はしだいに失われていった。第二の原子炉が停止したとき乗組員は救助船に移された。艦長と9人の乗組員が司令塔に残ったが、へさきが沈みはじめたので彼らも船を見捨てざるを得なくなった。10月6日11時03分、潜水艦は沈み、4名の命が失われた。

 ミサイルチューブ内の爆発の理由は明らかではない。どのように事故が起こったかについて、二つの推論がある。ミサイルチューブそのものの欠陥か、あるいは、アメリカ潜水艦との衝突に続く火災の発生かである。潜水艦は二基の原子炉を備え、16発の核ミサイルを積載していた。
 

8.1.3 K-278(コムソモーレッツ)

 1989年4月、原子力潜水艦K−278、コムソモーレッツ(プロジェクト685−マイク級)が、火災のためノルウェー海に沈没した。コムソモーレッツは、チタン船体をもつ独特な潜水艦であり、水深1000メートルまで潜水が可能であった。1989年4月7日の朝、船は、ベア島の南180キロ地点を水深160メートルで、その拠点であるザパドナヤ・リトサへの帰路についていた。11時3分、第7区画でおこった火災により警報機が作動した。船は、火災発生から11分後に浮上。しかし、火により電気システムがショートしたため、原子炉緊急システムが作動した。猛烈な勢いの火により、圧搾空気システムから漏れが生じ、その結果火が広がった。船員らは消火にあたったがなすすべもなかった。潜水艦は動力を失い、ついには圧搾空気も底をついた。17:00には、空気の漏出は悪化し、潜水艦は浮力と安定を失った。船員らは、救命ボートで避難をはじめたが、ボートの数は足りなかった。救命ボートはおろされたものの、乗組員から距離がありすぎた。17:08、潜水艦は、水深1685メートル地点に沈没し、司令官と41人が死亡した。81分後、アレクサンドル・クロビストソフ号が救出にあらわれ、生存者25名および死者5名を収容した。この火災の正確な原因は不明である。推測のひとつとして、第7区画の酸素濃度が高すぎたため、電気システムのショートが引き起こされた、という見方がある。

イラストの解説(イラスト自体は略)
 原子力潜水艦コムソモーレッツは、1989年4月7日、ベア島の南のノルウェー海域に沈没した。この潜水艦は、原子炉と核弾頭二発を搭載したまま沈没し、現在、水深1685メートルに横たわっている。

また、事故の原因のもうひとつの推測として、事故発生の直前に、この潜水艦は航海に不適との検査結果がでていた、との主張もある。そのほか、K−278の乗組員らがコムソモーレッツを操作する資格をもっていなかったとする説もある。
 

8.2 原子炉の事故

 放射能放出をまねくもっとも深刻な事故は、潜水艦に搭載された原子炉の炉心溶解である。これは、核事故とよばれる。軍艦原子炉に関連する大規模および小規模事故は、数多く発生してきた。こうした事故は、その程度に応じて2つに分類できる。
1. 核事故
2. 原子炉事故
 

8.2 核事故

 核事故は、制御のきかない連鎖反応が起こりうる「制御の喪失」(調節の喪失)事故、または、「冷却剤喪失事故」のいずれかに分類される。ソ連原子力潜水艦が就航していた時期全体を通し、10件の核事故が発生した。一つは、1970年にチャーリーI級のK−329建設中におこった。燃料補給作業中だったK−11およびK−431でも事故が発生、造船所での軍艦原子炉の補修中に1件(K−314)、潜水艦の改良中に1件(K−222)、海上で4件、炉心閉鎖中に一件(K−314)起きている。太平洋艦隊潜水艦の事故が2件、北方艦隊が7件、残る一件は、ニジニ・ノブゴルドにある造船所で起こったものである。

K−19
 ロシア潜水艦の最初の事故は、北方艦隊の弾道ミサイル潜水艦K−19(プロジェクト658−ホテル級)で起こった。1961年7月4日、北大西洋での演習中、K−19の一次冷却循環系統の立ち入り不能個所で漏出が発生した。漏出は一次冷却循環系内の圧力を調整するパイプで起こっていることが突き止められた。漏れは、圧力を急激に引き下げ、原子炉非常システムを作動させた。

 炉の過熱を防ぐためは過剰な熱を取り去らなければならず、これは、炉の中に冷却材を継続的に循環させることによっておこなわれる。一次循環系に冷却材を供給するためのシステムは内蔵されておらず、連鎖反応の制御かきかなくなる恐れがあった。炉に冷却剤を供給する急場しのぎのシステムが工夫された。それには、一次循環系の漏れに対処するさい、将校、見習い将校などが原子炉区画内のなるべく離れた、放射線に満ちた条件の下で長時間にわたり働かなければならなかった。この場合、放射線は毒ガスや蒸気からくる。乗組員全員が大量の放射線にさらされ、8名が50ないし60シーベルト(5000ないし6000レム)の放射線を浴び、急性放射線障害で死亡した。乗組員は、ディーゼル機関の潜水艦に避難し、K−19はコラ半島に曳航されて帰還した。

K−11
 第二の核事故は、1965年2月、潜水艦K−11(プロジェクト627―ノベンバー級)の艦内で起こった。潜水艦は、セベロドビンスク海軍造船所のドックにおかれており、炉心を取り出す作業がおこなわれていた(作戦1号)。2月6日、原子炉の蓋が開けられ、翌日、さきに制御棒を固定しないまま蓋が持ち上げられた。放射能を含む蒸気の漏れが探知され、状況は急激に悪化した。放射線監視装置の針は目盛りを振り切り、要員全員が退避した。続く5日間、専門家が問題の原因を突き止めようとする間、潜水艦ではいっさいの作業が中断された。間違った結論が出され、2月12日、ふたたび原子炉の蓋を持ち上げる試みがおこなわれた。このときもまたまた制御棒を固定しなかった。炉の蓋があげられると、蒸気が噴出し、火災が発生した。放射能汚染のレベルや人員の被ばくのデータは存在しない。結局、炉は廃棄となり、交換された。

K−27
 1968年5月24日、原子力潜水艦K−27(プロジェクト645)は、航海中であった。海上試運転の間、原子炉は、出力を抑えて運転されていたが、5月24日、原因は不明だが出力が不意に低下した。乗組員は出力を回復させようとあれこれ試みたがうまくいかなかった。同時に、原子炉のおかれた区画ではガンマ放射線が毎時150ラド(150R/h)まで上昇した。放射性ガスが安全緩衝タンクから原子炉の区画に漏れ、潜水艦内の放射線が上昇した。炉は止められ、燃料部品のおよそ20パーセントが破損した。事故は、炉心冷却上の問題によって生じたものであった。1981年、潜水艦そのものがカラ海に沈められた。

K−140
 1968年8月、原子力潜水艦K−140(プロジェクト667−ヤンキー級)がセベロドビンスク海軍造船所に修理のため停泊した。8月27日、船の性能向上の作業の後、炉の出力が制御がきかずに上昇した。制御棒の一つが高い位置に引き上げられたとき、炉の一つが自動的に始動した。出力は通常の18倍に上がり、炉内の圧力と温度は通常の4倍に上昇した。炉の自動的始動は、制御棒の電気系ケーブルの配線が間違っていたことと操作者のミスとによって起こったものであった。艦内の放射線レベルは上昇した。

K−429
 1970年、最新鋭とされた潜水艦K−329(プロジェクト670―チャーリー級)がニジニ・ノブゴロドのクラスノエ・ソルモボ造船所で停泊していたとき、同艦の原子炉が始動し、制御がきかなくなった。これは火災と放射能漏れ発生へといたった。

K−222
 1980年9月30日、原子力潜水艦K−222は、原子炉の総点検のためセベロドビンスクの工場に停泊していた。作業のあいだ、同艦乗組員は工場の要員を艦内に残して昼食に出かけた。適切な取り扱い上の指示を守る点で違反があった結果、制御措置を取らないまま安全対策制御機構(Safety Rod Mechanism)に通電された。自動装置が作動しないまま、制御棒が引き上げられ、原子炉が制御に始動した。この結果、炉心が破損した。

K−123
 1982年8月8日、バレンツ海で航海中、潜水艦K−123(プロジェクト705−アルファ級)の原子炉から、液体金属冷却剤が漏れた。この事故の原因は、蒸気発電機からの漏れにあった。およそ2トンの合金が原子炉のある区画に流れ込み、原子炉に修復の余地のないほどの損害をあたえた。この潜水艦は、修復に9年の歳月を要した。

K−314
 1985年8月10日、潜水艦K−314(プロジェクト671−ビクター級)は、ウラジオストク外側のチャズマ湾の海軍造船所内にいた。この潜水艦の原子炉は、燃料補給中に臨界に達したが、これは、原子炉の蓋が持ち上げられた際に制御棒がまちがって外されたからであった。その結果起こった爆発により大量の放射線が放出し、ショトヴォ半島から6キロの範囲および海軍構内外側の海が汚染された。破壊した原子炉があった区画室は、いまだにその核燃料を含んでいる。

K−431
 1985年12月、原子力潜水艦K−431(プロジェクト675エコーU級)は、ウラジオストクの外側にある基地にもどる途中、原子炉が過熱状態となった。この潜水艦は、現在パブロフスクの海軍基地のドックに収容されている。

K−192(もとK−131)
 1989年6月25日、コラ半島ガジィエヴォにある基地に帰る途中、潜水艦K−192(プロジェクト675−エコーU級)は、搭載する原子炉2基のうちの一つに事故をおこした。事故発生時、潜水艦は、ノルウェー海の、トロムセーはセーニャから北西におよそ100キロメートル、およびベア島の南およそ350キロメートル地点にいた。主要回路での漏洩が見つかったため、潜水艦は即時浮上した。この漏れにより主要回路の冷却材レベルが低下し、乗員たちは、潜水艦の真水タンクから水の取り込みをおこなった。原子炉は、即刻閉鎖されなかった。この漏洩により汚染した水は、ポンプで海に捨てられた。この水の放射線濃度については何の情報もない。潜水艦の真水が底をつきると、ソ連の貨物船コンスタンチン・ユオンにホースがつながれ、原子炉の冷却剤の補充レベルの維持がはかられた。その後原子炉は閉鎖され、コラ半島に面したフィンマルク沿岸のあたりでディーゼルエンジンが停止した。6月26日の朝の時点で冷却材の温度は摂氏150度、同日の夕方には、120度、6月27日には、108度であった。
この潜水艦の近辺において放射性ヨウ素が検出され、その後、フィンマルクのヴァルデにある監視所でも放射性ヨウ素が確認された。おなじくK-192の救助に現れた北方艦船の補修船であり、船内に液体放射性廃棄物処理装置をもつアムール号には、放射性汚染冷却材が移された。6月26日、K−192の乗員たちによる、冷却システムのパイプから漏れを塞ぐ作業の途中、アムール号からの冷却剤の補充が止められてしまった。この供給停止の時間はどれだけか定かではない。しかし、冷却材補充の監視責任者が、夕食をとりに席を外した際、補充再開を「忘れた」のであった。この人物はのちに、自分は忘れたのではなく再開の命令を待っていたのである、と主張した。こうした命令は、夕食の前に発令されなかったのである。

 冷却材の喪失により、原子炉の温度が上昇し警報装置が作動した。ふたたび冷却剤の補充スイッチが入れられたが、すでに遅すぎた。冷却剤が補充されたために、過熱した燃料組み立て部に亀裂が生じ、水とウラニウム燃料の接触にいたったのである。この高度に汚染された水がアムール号へポンプで送られたことで、アムール号の処理装置に破損が生じた。その結果、海から直接海水をくみあげそれをまた海に捨てるという方法が採られた。K−192から海に投棄された汚染した水の放射線濃度および量は知られていない。この時点で船は、ノース・ケープとコラ沿岸のあいだの国際水域にあった。6月28日、K-192は、沿岸から12海里の場所にあるガジィエヴォの海軍基地に所属するアラ湾補給基地に到着した。この基地で、冷却剤の汚染濃度は、1リットルあたり0.3キューリー、全体で74TBq、2000キューリーと推測された。潜水艦の乗員は、最高で40ミリシーベルトの放射線をあびた。
 
 K‐192は、その後、アラ湾の基地内施設に収容されていたが、1994年、シュクバルの海軍第10造船所に移送された。浮力を維持するために、圧縮空気が船体にポンプ注入された。破損した原子炉の燃料部品は、通常のやり方では取り出すことはできない。

K−8
 1960年10月13日、北方艦船に所属する潜水艦で、海軍用原子炉が関係するもっとも深刻な事故のひとつが発生した。事故は、原子炉の冷却剤がなくなったことが原因で、この事故は、この原因に応じて分類されている。潜水艦K−8(プロジェクト627−ノベンバー級)は、バレンツ海で演習中、蒸気発電機と補償器の接受部につながるパイプ内で漏れが発生した。これらの漏れを食い止める装置も損傷を受けたため、乗員たち自身が、漏れを塞ぐ作業を始めたのである。彼らは、原子炉の冷却を確保するための原子炉へ水を供給する暫定システムをとりつけ、原子炉の炉心融解の危険の回避につとめた。大量の放射性ガスが漏れ、潜水艦全体が汚染された。計測器はある一定のレベルまでしか計測できないため、放射性ガスの濃度は確定できない。3名の乗員が、目に見える放射線障害を受けたが、モスクワの放射線専門家らによれば、ある乗員たちは、1.8から2シーベルト(180−200レム)の放射線に被曝したという。

(以下略)

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2000年再検討会議とその準備委員会会議に関する
非同盟諸国運動参加国および核不拡散条約締約国の見解
(1997年4月)
(部分のみ)


I. 実質的な問題

一般的見解
1. 核兵器の不拡散に関する条約(NPT)締約国の2000年再検討会議にむけた準備委員会の今度の会議は、同条約の前文と条項の目的が全体として実現され、同条約締約国の1995年再検討延長会議でなされた誓約が果たされるように、私たちがひき続きおこなっている同条約の実践過程の見直し強化の努力において、新しい時代の先駈けとなるだろう。

2. 1995年再検討延長会議の決定と決議は、全体の一部分として肝要な共通の保証となっている。この**不可欠性**は維持され、尊重されるべきである。

3. この条約は、核兵器の垂直・水平拡散を停止する重要な協定である。国際社会は、核兵器の完全廃絶を達成するという観点から、核保有国と非保有国との間の相互義務および責任の公平な均衡にむけて努力すべきである。

4. カルタヘナ首脳会議において、NPT締約国かつ非同盟諸国運動に参加する国あるいは政府の首脳は、1995年再検討会議で採択された決定と決議に沿って、すべての国とりわけ核保有国にたいし、自分たちがおこなった誓約とりわけ以下の誓約を完全に果たすよう求めた。
(a)条約の普遍性の達成
(b)核兵器の使用・使用威嚇からの非核保有国の保護を保証する法的拘束力をもつ協定の締結
(c)兵器目的のための分裂性物質とその他の核装置の禁止
(d)一致した優先課題とされねばならない、核兵器とその他の大量破壊兵器の廃絶
(e)非核地帯の設置
(f)例外なくすべての締約国にたいする、平和目的のための核技術の制限されないかつ無差別な譲渡

5. 近年、軍縮において重要な前進が成し遂げられた。とりわけ、化学兵器の開発、生産、貯蔵、使用の禁止とその廃棄に関する条約の締結と発効、包括的核実験禁止条約履行のための準備プロセスの採用と開始、過度に傷害を与えまたは無差別に効果を及ぼすことがあると認められる通常兵器の使用の禁止または制限に関する条約の修正議定書IIと議定書IVの採択、東南アジア(バンコク条約)およびアフリカ(ペリンダバ条約)非核兵器地帯の設置に関する条約の締結である。これは、事実上、南半球全体が非核兵器地帯で占められることを意味する。また、核兵器の威嚇および使用の合法性に関する国際司法裁判所の勧告的意見があげられる。しかしながら、非同盟諸国運動は、今も目前に多くの重要な課題、とくに核軍縮のための将来の議題を具体化する課題が残されていると考えている。

6. きたる準備委員会会議の目的は、NPTの条項の全面的な実施および全般的遵守を促進する方法を考究し、2000年再検討会議に勧告をおこなうこととなるだろう。準備委員会会議は、再検討会議が同条約条項の全面的な実現と効果的な実施を評価し、将来さらなる前進が追求されるべき分野を明らかにできるように、1995年の「再検討過程の強化」および「原則と目的」に関する決定で考慮された「実質的な貢献」をするべきである。

7. 2000年再検討会議にむけた準備は、同条約に記された目的を実現する機会を与えるものである。再検討会議の成功にむけ、準備委員会は、会議の検討のために提出されることになる、最終文書の基礎としてのローリングテキスト(回覧草案)作成のために、実質的な準備をおこなうべきである。この点から、非同盟諸国運動は、以下の予備的見解を述べるものである。

普遍性
8. NPT締約国は、同条約の普遍性を達成する緊急性と重要性を強調する。
9. 準備委員会会議と再検討会議は、とりわけ核能力を有する諸国の条約早期加盟によってこの条約の普遍性を達成する方法と手段を考究するべきである。

不拡散
10. この条約は、核兵器の不拡散をあらゆる面で維持するという点で、重要な役割を担っている。国際社会は、締約国による核エネルギーの平和利用を妨げることなく、核兵器とその他の核爆発装置の拡散を防止するための可能なあらゆる努力をおこなうべきである。

核軍縮
11. 締約国は、核軍縮の段階的プログラムに関する交渉開始と核兵器条約を含む期限を区切った核兵器完全廃絶のための核軍縮特別小委員会を、優先課題として設置するよう、軍縮会議に対し勧告をおこなうことに合意すべきである。すべての締約国を核兵器完全廃絶および、核兵器とその他核爆発装置用の核分裂性物質の生産・貯蔵を禁止する条約の交渉開始に関与させる、普遍的で法的拘束力のある多国間協定が締結されるべきである。この核軍縮に関する特別小委員会は、軍縮会議の21カ国グループに属する28カ国が提出した核兵器廃絶のための行動計画提案およびこの点における他の既存の諸提案や将来のイニシアチブを検討する。この中で、核兵器保有国は、条約第6条に述べられている、核軍縮に関する効果的な措置につき誠実に交渉をおこなうという自らの誓約に配慮し、柔軟なアプローチを採用すべきである。

12. 核兵器保有国は、核の脅威の段階的な削減と、核兵器の漸進的で大幅な削減の段階的プログラムを実施し、核兵器完全廃絶をめざす効果的な核軍縮措置を実行するという誓約を表明すべきである。

安全保障の確証
13. 核兵器の完全な廃絶は、すべての非核兵器保有国を核兵器の使用・使用脅迫から守る唯一の真の保証である。その目標が達成されるまでは、非核兵器保有国が核兵器の使用・使用脅迫から守られる安全保障を確実なものとする、法的拘束力のある消極的安全保障確証体制が、緊急に決定されなければならない。この点については、非核兵器保有国を核兵器の使用・使用脅迫から確実に保護するような国際的に法的拘束力のある措置を講ずるという考えに対して、原則として、軍縮会議および国連総会において反対意見は存在しない。よって、締約国は、2000年条約再検討会議にむけた準備委員会の中で、非核兵器保有国を核兵器の使用・使用脅迫から確実に守る法的措置をNPTの付属議定書として設けることに関する交渉をおこなうことに、合意すべきである。

核分裂性物質
14. 締結国は、軍縮会議の中で、核兵器とその他核爆発装置用核分裂性物質の生産・貯蔵禁止条約を締結することを支持している。そのような条約が、無差別的で、検証の実効性があり、普遍的に適用されるものであれば、それは核軍縮と不拡散に重要な貢献をなすものとなるだろう。

保障措置
15. 国際原子力機関(IAEA)の保障措置は、各国が条約第3条の誓約を遵守していることを保証するうえで不可欠の要素である。第3条で必要とされる保障措置協定をまだ締結していないすべての締約国は、速やかにこれをおこなうべきである。

16. NPT締約国である非同盟運動参加国は、原料物質もしくは特殊核分裂性物質または特殊核分裂性物質の処理、使用もしくは生産のために特に設計されもしくは作成された設備もしくは資材の、非核兵器保有国への移転のために、新たな供給取り決めを結ぶ際には、必要な前提条件として、全面的な保障措置の受け入れがなされねばならないと信ずる。

17. 軍事利用目的から平和活動目的に移転された核物質は、IAEAの保障措置のもとに置かれねばならない。

核エネルギーの平和的利用
18. 無差別に、平和的目的の核エネルギーの研究、生産、利用に参加するという、NPT全締約国の奪い得ない権利は、核兵器保有国、非保有国にかかわらずすべての締約国によって等しく再確認されねばならない。また、平和的目的の核技術の、全締約国への無差別の移転が、完全に保証されることが不可欠である。締約国は、条約第6条の実施についての自らの誓約を再確認すべきである。

19. 当条約で必要とされた保障措置を越えて一方的に強制された制限的措置で、平和的な核開発を妨げるものは、撤廃されるべきである。

20. 核エネルギーの平和的利用を促進するためのすべての活動においては、とくに開発途上国のもつ必要性を考慮して、条約締約国である非核兵器保有国に対して特恵的な待遇が与えられるべきである。

非核兵器地帯
21. NPT第6条および非核兵器地帯設置に関する1995年再検討延長会議の諸決定を考慮し、締約国は、締約国が一国あるいは集団でおこなう非核兵器地帯条約締結のための措置に支持を表明すべきである。そして、それらが存在しない世界の他の地域において、当該地域諸国間で自発的に達成された合意に基づく、核不拡散体制強化と核軍縮の目的実現にむけた措置としての、そのような地帯を設置する提案を、支持すべきである。締約国は、中央アジアにおいて地域諸国間に自発的に合意された非核兵器地帯設置のイニシアチブを歓迎すべきである。

22. 締約国および、トラテロルコ、ラロトンガ、バンコク、ペリンダバ各条約の調印国は、これらの条約に展望された共通の目標を促進し、核兵器のない南半球および近隣地域の地位の強化などを含む、協力にむけたさらなる方法および措置を探求し実施すべきである。

中東に関する決議
23. 1995年再検討延長会議で採択された中東に関する決議の実施においては、なんら進展が得られなかったことに留意せねばならない。準備委員会会議は、この面で達成される進展に関して再検討会議に報告をおこなうために、この決議の諸項目の実施について後追いをすべきである。

24. この決議の採択以来、中東においては、NPT遵守に関して新たな状況が生れている。アラブ首長国連邦、ジブチ、オマーンが最近NPTに加盟したことにより、イスラエルを除くすべての中東諸国がNPT加盟国であるというのが、現状である。

25. 非同盟諸国運動は、条約の普遍性と不拡散体制全体を強化するという観点から、この決議が、できる限り早く実施に移されるべきであると確信する。この点において準備委員会は、最近、当条約への加盟が相次いだことを歓迎し、イスラエルに対し、これ以上の遅滞なく条約に加盟し、その核施設をIAEAの全面的な保障措置のもとに置くよう呼びかけるべきである。

26. さらに、準備委員会は、直接当事国すべてが、中東地域諸国間で自発的に合意されるべき非核兵器地帯設置のために必要とされる実質的かつ緊急な諸措置の開始に真剣な取り組みをおこなうための方法および手段を勧告すべきである。

27. 核兵器の不拡散に関する条約の寄託国は、1995年再検討延長会議に採択のために提出した決議案の共同提案国として、またこの採択された決議が、3つの決定および当決議から成る同会議の、一括した結論の不可欠の部分であることからして、この点において特別な責任を負う。

(「II. 組織問題」以下略)
 

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