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被爆者援護連帯資料保管庫反核平和運動反核リンク出版刊行物もどる?
 

○おしらせ○

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「核兵器はどこにあったのか」
  ロバート・S・ノリス、ウィリアム・M・アーキン、ウィリアム・バー(ブレティン・オブ・アトミック・サイエンティスツ 1999年11/12号より)
米極東軍の核兵器管理にかんする解禁文書: 1956年11月「原子兵器配備書」
「日本はどこまで知っていたか」
  ロバート・ノリスほか(ブレティン・オブ・ジ・アトミック・サイエンティスツ 2000年1・2月号より)


「核兵器はどこにあったのか」
ロバート・S・ノリス、ウィリアム・M・アーキン、ウィリアム・バー
『ブレティン・オブ・アトミック・サイエンティスツ』1999年11/12号より



 <編集者注:この記事が掲載された「ブレティン」の発行後に、著者らによる調査および米政府解禁文書により、核兵器配備国(地)名が新たに判明しました。付録Bでは訂正(略)を入れてありますが、記事本文は原文のままです。>

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 核兵器に向けられた関心の大きさを考えると、アメリカが核兵器を他国の、どこに、いつ、どのような状況で配備していたのかということについて、私たちは今まで断片的な情報しか持っていなかったことは、ほとんどの人にとって驚くべきことかもしれない。
 しかし今、情報公開法にもとづく要求にたいして、重要な歴史的文書が筆者に届けられた。「核兵器の管理と配備の歴史:1945年7月‐1977年9月」〔以下『歴史』―訳注〕と題する文書は、アメリカの核兵器庫の増強を記録した図表や付録の備わった長編の物語である。(1)  その中には、今まで、アメリカ政府がもっとも厳密に守ってきたいくつかの秘密、すなわち、日本、グリーンランド、アイスランド、台湾など機密扱いの核兵器の配備についても記述されている。
 この文書全体は、冷戦を研究している歴史家にとっては、貴重な情報源である。しかし、紙面の制約から、この文中では「国別の配備年表1951‐1977」と題するひとつの章である付録Bをとりあげる。付録Bには、アメリカが核兵器を配備していた地名のアルファベット順のリスト、配備された兵器の種類、その配備と撤去の日付などが収められている。(P89参照)詳細な解禁の検討を経て、ペンタゴンは爆弾が配備された9カ所の地名を明らかにした。それは、アラスカ、キューバ、グアム、ハワイ、ジョンストン島、ミッドウェー、プエルトリコ、イギリス、西ドイツだった。その他18カ所の地名は、黒で塗りつぶされていた。しかし、リストはアルファベット順で並べられていたので、カナダとキューバの間にある、ひとつの謎の国を除いて、地名を推測することはそんなにむずかしいことではなかった。
 
最初の配備と保管の問題
 以前のいくつかの公式な史実からは、どのような状況のもとでアメリカの核爆弾が外国に配備されたかについての情報が限られていた。外国配備の問題は、『歴史』の別のテーマである、民間管理対軍事管理という問題と密接にからみあっている。
 1950年6月11日、ハリー・トルーマン大統領は、イギリスに駐留している戦略空軍司令部(SAC)の爆撃機を支援するため、89組の核以外の構成部分(爆弾の梱包や組み立て部品)をイギリスに配備することを承認した。(付録Bでは、これらの核以外の構成部分は、「非核爆弾」と呼ばれている。)この配備の論理は、より大きいより重い組み立て部品を事前に配備することによって、ソ連と戦争になっても、完成された爆弾をより容易に、迅速に運搬することができるという判断であった。7月の末までに、これら最初の核以外の構成部分は配備された。
 当時の爆弾の設計技術では、核の「カプセル」(プルトニウム核、および、あるいは、ウラン核、あるいはピット)は、核以外の構成部分とは切り離して置くことになっていた。文民の原子力委員会(AEC)は、引き渡しを大統領が承認するまでカプセルの物理的な管理を担当した。戦争の際、カプセルは、急いで基地に運ばれ、爆撃機に積み込まれる。離陸してソ連の標的に向かう途中で、組み立てられ、完全な爆弾ができる。どういうわけか、この最初の配備は、付録Bのリストには載っていない。
 1950年6月25日の朝鮮戦争の勃発は、外国への配備を加速させた。アメリカの高官たちは、北朝鮮の侵攻は、ソ連の西ヨーロッパ侵攻の単なる牽制にすぎないと感じた。7月1日、トルーマンは、より広い分散とより全面的な軍による管理に向けて新たな措置をとり、いくつかの核以外の構成部分をグアムに配備し、さらに15組の核以外の部品を、地中海に向っていた空母コーラルシーに保管することを承認した。(4)
 核以外の構成部品のグアムへの運搬の間、アメリカの兵器庫の分散についてワシントンに強い懸念をもたらしたにちがいない劇的な事故が起こった。8月5日の夜、第9爆撃航空団のB29は、核以外の構成部分の一部を搭載して、(ハワイのヒッカム空軍基地を経由して)アンダーソン空軍基地〔グアム島―訳注〕に向っていた。カリフォルニアのフェアフィールド・スイサン(現在のトラビス空軍基地)を離陸して、5分後に墜落し、炎上した。乗っていた20人の乗組員と乗客のうち、ロバート・F・トラビス准将を含め、12人が死亡した。
 48台のハウストレーラーと20台の車が、損傷を受け、あるいは破壊された。全部で19人が死亡し、58人が入院した。事故調査の報告によると、「墜落から間もなく、炎上している飛行機のそばにトラックが到着し、火を消し始めたところ、爆発が起きた。消化設備は役に立たなくなり、火を消していた隊員たちは、負傷した。燃えているガソリンや爆発の残骸が、約2平方マイルにわたって広がり、散乱した。5,000ポンド近くの高性能爆薬の爆発は、30マイル離れたところでも感じられた。もちろん、当時は、核兵器をともなっていたことには言及がなかった。空軍のカバーストーリーでは、10個の500ポンド通常爆弾がすべて同時に爆発したいうことだった。
 同時に、1950年7月と8月の核以外の構成部分のカナダへの輸送という別の秘密作戦がからんでいた。SACは多くの核以外のマークIV組み立て部品を、ラブラドールのグースベイに配備し、ソ連の標的に近い北部に、爆撃機3機と2つの給油飛行隊を配備することへの許可を求めた。
 アリゾナのデイビスモンサン空軍基地所属の第43爆撃航空団のB50A爆撃機は、AECのキリーン基地(サイト・ベイカー)近くのグレイ空軍基地に着陸した。そこは、当時、核兵器が貯蔵されている3つの国家貯蔵所のひとつであり、グース(SACが同基地をそう呼んだ)へ配送するための爆弾組み立て部品を受けとるところだった。(7)  第一陣のこれらの部品は、8月26日に到着した。15の組み立て部品が、爆撃機43機が配備された飛行場から約4マイル離れた森の中に貯蔵された。カナダのルイ・サン・ローラン首相が、6週間の起源での配備を許可した。カナダ政府では、この措置について知る人はほとんどいなかった。
 期限が切れ、爆撃機は9月にデイビスモンサンに戻ったが、組み立て部品は11月まで残された。マークIVのひとつを11月10日にアメリカにもどす輸送中、B50爆撃機にカナダ領土の上空でトラブルが発生した。まず、エンジンのひとつが動かなくなり、そして、第2のエンジンがバックファイアー(逆火)を起こし始めた。米軍基地までたどり着く望みはほとんどなかったので、標準手続きにより、爆弾の組み立て部品を水上に投下する必要があった。起爆装置は2,500フィートの高さで爆発するように設定され、ケベック州のリビエール・デュ・ルーから遠くない、幅が12マイルあるセント・ローレンス川の中央に、爆弾は落とされた。
 マークIVの5,000ポンド近い、高性能化学爆薬の爆発は、住民を驚かせ、川の上流、下流の住宅の窓枠はガタガタ揺れた。空軍はこの爆発を説明するために、カバーストーリーを使い、40年後まで、事実は明るみに出なかった。

現実の核クラブにおける高まる配備
 核の構成部品(カプセル)の最初の海外への移送は1951年におこなわれた。中国軍が朝鮮に大攻勢をかけたあとの1951年4月6日、トルーマン大統領は、核カプセルのグアムへの運搬を承認した。トルーマンは、空軍参謀長で統合参謀本部事務局長のホイット・S・ヴァンデンバーグを、兵器を管理する大統領の名代に任命した。9つの核カプセルが6月下旬グアムに到着した。(10)
 1952年1月、トルーマン大統領は、フランス領モロッコのベン・ゲリール、ヌアサール、シディ・スリマンの3つのSAC基地に、核以外の構成部品を貯蔵することを承認した。これらの基地には、アメリカのB36、B47爆撃機が配備されていた。フランス政府は、この移動を知らされていなかった。付録Bによると、核以外の構成部品は、実際には、1953年7月に到着し、12年間そこで貯蔵された。
 大統領は1954年4月、イギリスとモロッコに完成兵器を配備することを承認し、核と核以外の構成部品の貯蔵は6月に承認された。1954年5月、完成核爆弾が、モロッコに、1954年9月には、イギリスに配備された。ほとんどの学者の想定に反して、完成核兵器が、イギリスに配備される以前にモロッコに配備されたのは、注目に値する。核以外の構成部品のフランスへの配備も承認され、1958年8月に配備された。
 1950年代のおわり、兵器の設計者たちは、分裂芯(あるいはカプセル)を爆弾のケーシングの中に組み込んだ爆弾の設計を始め、爆弾をすべてひとつの単一のものにした。これらは「木づくり爆弾」あるいは「封印配置」兵器と呼ばれた。軍は、その時までに、兵器庫の管理について、完全ではないが、より大きい権限をもっていた。しかしながら、『歴史』は、原子力委員会がかなり長いあいだ、取り外し可能なカプセルつきのいくつかの型の爆弾をつくり続けたことを明らかにしている。取り外しのきくカプセル付の爆弾が供給できるということは、明らかに、政治的に有利な点であり、それが、フランスや日本の同盟国が神経過敏になっていることを考慮したものである。最後に残った核以外の構成部品が、1967年6月、アラスカと沖縄から、1971年6月にカナダから、1978年にグアムから、撤去された。

ヨーロッパへの配備
 付録Bは、1954年から63年にかけて、アメリカがNATO加盟8カ国へ核兵器を持ち込んでいたことに関する詳しい情報である。さまざま種類の分裂・融合爆弾やその他の核兵器が、1954年9月イギリスに、1955年3月西ドイツ、1957年4月イタリア、1958年8月フランス、1959年2月トルコ、1960年4月オランダ、1960年10月ギリシャ、1963年11月ベルギーに持ち込まれた。
 1955年から現在まで、21種類のアメリカの弾頭が領土内に配備された、冷戦時代の前線国家ドイツは、飛びぬけて多くの核兵器を受け入れていた。(11) NATOの核兵器が7,000以上とピークに達した時、ドイツはその約半分を貯蔵していた。太平洋のアメリカの領土であるグアムには、20種類の弾頭が配備されていたが、ドイツと比べると、その数ははるかに少なかった。日本の沖縄には、1954年から72年、19種類の核兵器が持ち込まれていた。しかし、1,000以上もの弾頭が配備されたことはなかった。
 『歴史』には、さまざまなカテゴリーの核兵器の数を示す図が掲載されている。核兵器の数を示す縦軸の数字は、墨で塗りつぶされているが、その数字は何であるか適切に推測し、その数字が時を経てどう変わったかを測定するのに十分な補足的情報が存在する。上記の図が示すように、1955年にNATOへの兵器の持ち込みが始まり、1960年までに、ほとんど3,000へとその数は増加した。この数は1965年までには2倍の6,000になった。ヨーロッパのNATOにおけるアメリカの核兵器の数は、1971年にピークに達し、約7,300になった。
 ヨーロッパのNATO加盟国に核政策とその立案においてより重要な役割を与えるために、1950年代末、アメリカは、アメリカ以外のNATO軍に核兵器と運搬システムを提供するメカニズムを確立し始めた。のちに協力プログラム(POCs)として知られる、大統領が承認した一連の協定は、国防省が、核兵器訓練、支援、認証を外国と運搬部隊に与えることを承認した。米軍は、爆弾と弾頭を特別な場所で、きびしい管理のもとに貯蔵しているとされるが、ドワイト・アイゼンハワー大統領のもとでつくられた最初の計画は、驚くほどいいかげんなものだった。たとえば、西ドイツのルフトワッフェ戦闘爆撃機のパイロットたちは、警戒態勢の時には、事実上の爆弾に対する指揮権を握っていた。ヨーロッパで核兵器の管理をきびしくするために、ジョン・F・ケネディ大統領は、作動許可リンク(ロッキング・メカニズム)の使用を決定した。
 1960年代から1970年代初期にかけて、ヨーロッパに配備されたすべての核兵器の約35%から40%が、アメリカ以外のNATO軍のために確保されていた。POCsは、もちろん、今日まで続いている。ヨーロッパに現在配備されている150の核兵器の約半分は、ベルギー、ドイツ、ギリシャ、イタリア、オランダ、トルコのNATO加盟6カ国に分散されている。

太平洋への配備
 朝鮮戦争の勃発にもかかわらず、太平洋における米軍の核の存在は、トルーマン政権のほとんどの時期を通じて相対的に控えめなものであった。しかし、1952年の半ば、統合参謀本部は、核以外の構成部分を、アメリカの指揮下にあるアラスカ、グアム、ハワイ、沖縄の基地に追加的に配備することを、トルーマン大統領が承認するよう提案した。核、および核以外の構成部分を「前方」に配備することは、戦争勃発のさい、戦闘に不可欠なものであると考えられた。軍の指導者たちは、通信の遮断が、緊急の運搬を、不可能とまではいかなくても困難にするかもしれないと考えた。
 完成兵器と構成部品の配備がおこなわれた時期は、1954年から55年にかけた、台湾をめぐる米中の危機と一致する。アイゼンハワー政権は、中国軍が、沖合いの金門島や馬祖、あるいは台湾自体まで攻めてくるかもしれないと憂慮し、核の脅迫をおこない、中国に核兵器を使用するための有事計画を発展させた。完成された核兵器は、1954年12月沖縄に配備された。その同じ月、核武装した米空母ミッドウェーが、台湾の水域に展開した。
 異例の事態となったのは、1954年12月、アイゼンハワー政権が、核以外の構成部品の在日米軍基地への移送を承認したことであった。戦争の際日本は、中国やソ連に対する核作戦に使用されるだろう。(14) 『歴史』は、核以外の部品が、1965年6月まで、日本に置かれていたことを明らかにしている。アメリカ政府は、日米関係におけるこの問題の機密性を考え、決してその存在を認めなかった。15
 1956年から、多様な核兵器や運搬システムが、太平洋地域に到着し始めた。陸軍、空軍、海軍の核兵器は、グアム、沖縄、ハワイに配備された。1957年から58年まで、韓国、台湾、フィリピンは、アイゼンハワー大統領の核兵器分散政策の新しい配備国となった。1958年の1月に始まり、アメリカの核装備マタドール巡航ミサイルが、中国本土から200マイルも離れていない台湾に配備された。また、1958年はじめ、アメリカは、韓国に、原子砲、オネストジョンミサイル、爆弾、原爆破壊用火薬を配備した。マタドール・ミサイルもまた韓国に送られたが、この進展は、『歴史』の編集者が誤って見落としていた。
 アイゼンハワー政権の末期に、太平洋諸国、すなわち、沖縄、グアム、フィリピン、韓国、台湾(ハワイは除く)へのアメリカの核の地上配備によって、全体で、約1,700の兵器が配備されるに至った。台湾には12、フィリピンには60、グアムには225、韓国には600の兵器が配備された。一番大きい分け前は、SACの戦略爆撃機が駐留する沖縄の嘉手納空軍基地への800発近い兵器の配備だった。
 太平洋地域への新たな分散が、ケネディ政権の発足とともに始まった。1963年の初めまでに、グアム、沖縄、フィリピン、台湾への地上配備は、約2,400に増大し、1961年水準から66%も増加した。太平洋の地上配備では、1967年半ばにピークに達し、約3,200の兵器が貯蔵されていた。そのうち、2,600は韓国と沖縄に配備されていた。
 いくつかの異例の配備は、まだ十分解明されていないが、1960年代半ばに起こった。1963年から66年まで、米陸軍は、W50の核弾頭を備えた、ナイキゼウス対弾道ミサイルシステムを、マーシャル諸島のクワジェリン環礁に配備した。また、1964年から71年まで、核装備のソアー中距離弾道ミサイルは、ジョンストン島の対衛星システムである「プログラム437」支援用として、同島に配備された。
 1967年より、太平洋への地上配備は、減り始めた。1974年のニクソン政権のおわりまでに、全体数は3,200から1,200へとピーク時の水準の半分へと削減された。政治的に微妙な影響をおよぼす可能性のあった弾頭が、日本から撤去され、フィリピンは事実上秘密裏に非核化された。SACは太平洋の駐留規模を削減し、アメリカの弾頭は沖縄が1972年に日本に返還されるとすぐ、沖縄から撤去された。1970年代の末までに、唯一、韓国だけが、アメリカの核兵器の前進基地として残された。(最後の兵器は、1991年に韓国から撤去された。)
 
 
尺度が変化する秘密主義

 機密の解除は、不可解なプロセスであるといえる。その証拠として、『核兵器の保管と配備の歴史』の機密解除文書版から、グリーンランド(およびその他2、3の核兵器配備地)の箇所を削除するという、国防総省長官室(OSD)の決定がある。
 国防総省局によると、この情報がアメリカの国家安全保障に損害を与えるか、もしくは他国との関係を傷つけうることが「合理的に予想される」ため削除は必要であったという。
 一見この主張は妥当に思える。『歴史』には、冷戦中にアメリカの核兵器が配備された、いくつかの問題の場所についての情報が載っている。しかし、削除された情報のほとんど(とくにグリーンランドに関連する部分)は、すでに別の解禁文書で明らかになっている。この5年間、1950年代と60年代におけるグリーンランドへのアメリカ核兵器配備のかなりの詳細が入手できるようなった。『歴史』からグリーンランドの箇所が削除されたことは、最近のこうした動きとかみあっていないし、はっきりと理解できる目的にもかなっていない。
 1993年と1994年、空軍の解禁記録により、核兵器を搭載したアメリカの爆撃機が1960年代、定期的にグリーンランド上空を通過していたことを、はじめて文書で証明することが可能となった。この事実が明らかにされて、デンマーク政府は、核兵器の地上配備にかんする通知をアメリカから受けとった。通知には、1958年から1965年までのあいだ、アメリカがグリーンランドにあるトューレ空軍基地に貯蔵していたことが明らかにされていた。
 デンマーク政府のこの情報公表は、デンマークの一大政治スキャンダルとなった。スキャンダルは最終的に、準独立機関的調査委員会の設立へとつながった。制約をかかえていたとはいえ、調査委員会は、トューレ空軍基地における核兵器の配備にかんする多くの情報を提出した。デンマーク人が「トューレゲート〔ウォーターゲート事件をもじった、トューレ不正行為の意―訳注〕」と呼んだ事件の全容の解明は4年続いた。
 『歴史』公開からわずか一カ月後の7月、空軍は、戦略空軍司令部(SAC)の1958年の歴史を公表した。ここには、1958年におけるSACによる核兵器配備の完全なリストが入っていた。この戦略空軍司令部の歴史では、トューレ空軍基地を含め、核兵器が配備されていた、世界7個所にある15の基地が特定されている。また、それぞれの基地に貯蔵されていた核兵器の明確な種類も明らかにし、冷戦初期における核兵器配備の最初の完全なリストを提供している。
 デンマークでの「トュールゲート」発覚と空軍の歴史的文書により、アメリカによるグリーンランドへの核兵器配備の非常に多くの詳細が明らかになっているため、なぜ国防長官室が『歴史』からこの場所を黒く塗りつぶしたのか理解に苦しむ。グリーンランドにかんする情報を公開する気がある空軍と、その気がない国防長官室との矛盾は、両部門とも同じ法を執行する立場にあることから考えると、とくに際立っている。しかし、空軍関係者から聞いたところによると、部局により文書の再検討の仕方は異なっており、公表されるべきものとそうでないものの是非を決定するのは、公開の要請を受け、調査分析をおこなう個人の手に最終的にかかっているという。
 空軍は正しい決定をしたと思う。30年以上もたったいま、グリーンランドの核の歴史に触れた情報の公開を差し控えることで守られてきた、国家安全保障上妥当な利益のすべては、もう消えてなくなった。国防長官室は、核兵器配備の歴史をもっと国民に知らせることを優先するべきであった。そうせずに、国防長官室は、すたれた、衝動的秘密主義に屈したのだった。より深いレベルで言うと、この削除問題は、「情報公開法」のもとで、情報を公開しない理由として政府機関が使う弁明の事由に問題を投げかけている。
 クリントン政権は、非常に多くの機会に、情報公開を奨励するための「新」指針を発表してきている。しかし、『歴史』における法外な削除行為は、まだこの道のりが長いことを示している。                     
(ハンス・M・クリステンセン)
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 ハンス・M・クリステンセン:カリフォルニア州バークレーのノーチラス研究所準会員で、15年以上にわたり核政策を研究している。1997年デンマーク防衛委員会のメンバー。

問題の領域
 『歴史』には、政治的に微妙な2、3の核兵器配備と撤去についての詳細も書き足されているが、とくに日本、グリーンランド、アイスランド、台湾のものがそうである。

 日本 アメリカは、最初の配備から10年以上たった1965年の半ば、日本から核以外の構成部分を撤退させた。この撤退をめぐる正確な状況はいまも機密扱いである。1950年代後半、米国防総省は、進行中の日本領土への核兵器配備を日本が受け入れるようにするために、日本人の「核アレルギー」を治すことに期待をかけていた。しかし、国防総省関係者は、すでに1965年までに、このアレルギーは治療するには困難すぎるとの結論に達していたようである。いずれにせよ、アメリカの爆撃機と艦艇は、核兵器の定期的な通過のため、日本の基地と港湾施設の使用をつづけていた。これは、1960年の日米安全保障条約のさい結ばれた秘密追加条項で容認されたものである。

 グリーンランドとデンマーク 核兵器を配備するさい、特別のあつかいを要したのは、日本だけではない。デンマークは、領土内に核兵器を配備しない政策をとっていた。1960年代には、核武装をしたアメリカの爆撃機がデンマークの北極地方の領土であるグリーンランドの上空を定期的に飛行しているとは考えられていたが、宣言したこの不配備政策は、グリーンランドも含むものであった。1994年、デンマークの研究者たちは、この上空飛行を裏付ける重要な新情報を入手した。
 デンマーク国内で報道されたこの情報は、デンマーク、アメリカの両国政府をおおいに困惑させ、この事態にどう対処するかをめぐって交渉をせざる得ない状況へと追い込んだ。1995年6月29日、デンマーク政府は、4ページの歴史報告書を国会に提出した。報告の中で政府は、核武装した飛行機がグリーンランド上空を通過していたことを認めたが、アメリカは誠意をもって行動していたと結論づけている。1957年におこなわれた最高機密とされた討議の場で、公式の注釈が産み出されていた。アメリカ政府は、核兵器が配備されているかどうかを事前に通知して欲しいかどうかデンマーク政府に尋ねたのである。デンマーク政府の回答は、「その質問は決してしないように」という的確ながらも言質を与えないものであった。聞かざる、語らざる、というわけだ。しかし1968年、4発の核爆弾を積んだB‐52爆撃機が、グリーンランドの氷原に墜落した。この事件以降、非核の誓約は明確におこなわれるようになった。(とはいえ、これらの誓約は、核搭載艦船の寄港まではおよばず、両政府とも無視をつづけていた。)
 デンマークの研究者たちがもたらしたこの危機は、1995年7月、デンマーク外相のニールス・ヘルベグ・ペーターセンと、あのデンマーク政府報告が公表された時デンマークを公式訪問していた、当時のアメリカ国防総省長官ウィリアム・ペリーが出席した記者会見を経て新たな段階に発展した。ペーターセン外相は、上空通過はおこなわれているが、地上に核兵器が配備されたことは一度もないとの保証を受けていると述べた。しかしその10日あと、突発事件が起こった。ペリー長官がデンマーク政府に渡した秘密書簡に、実際核兵器はこれまで地上に貯蔵されてきており、その中には地対空ミサイルのナイキ・ハーキュリーズ地対空ミサイル用の陸軍の対空弾頭も含まれていた、と述べてあったのである。アメリカ政府はデンマーク側に、この情報を秘密にするよう求めたが、ペーターセンは公表を決めた。委員会が設立され、調査がおこなわれ、ほこりをかぶった公文書の紐が解かれ、包括的な報告が発表された。
 ペリー秘密書簡によれば、グリーンランドのトューレ米空軍基地に4発の核爆弾が貯蔵されていたという。そうであれば、付録Bの中で、キューバとグアムのあいだで削除されていたのはグリーンランドであることは間違いない。〔アルファベット順に並べると、グリーンランド(Greenland)は、キューバ(Cuba)とグアム(Guam)のあいだに入る―訳注〕この項目は、「爆弾、58年2月搬入、58年10〜12月撤去」となっている。そのほかの公式資料から、同年1月15日から12月1日まで、第11航空補給飛行隊がトューレ基地に駐留していたこともわかっている。まさに、この核保管部隊にとって最適の任務である。さらにこのあと、国内でこの問題を最初に明るみに出したデンマークの研究者ハンス・M・クリステンセンは、あの4つの核爆弾がマーク36モード1sであったことを裏づける政府文書を入手した。マーク36とは、重量17,500ポンドの巨大な熱核兵器である。その爆発力は9ないし10メガトン級で、1956年から1962年まで貯蔵されていた。これらの文書は、トューレの名を挙げ、15発のマーク6爆弾用の核以外の構成部分も貯蔵されていたと述べている。これは、付録Bには示されていなかった事実である。
 デンマークでも、自国の核の歴史について、さらに徹底的でより全面的な調査がおこなわれているが、多くは不完全なままである。一般に、核の歴史ではまだまだ知られていないことがある。とくに、一国の非核政策が放棄された場合やパートナーの大国に順応するために知らぬ存ぜぬを決め込んだ国の場合はそうである。

 アイスランド アイスランドは、核の歴史が完全にあきらかになっていない「非核」国である。付録Bでは、あきらかにアイスランドは、ハワイの次、ジョンストン島の前に黒く塗りつぶされていた国の最初の一国である。ケフラビクの米軍基地では、核以外の構成部分が1956年2月から1966年6月まで10年にわたって貯蔵され、1956年9月から1959年9〜12月まで完全な核爆弾が配備されていた。
 これは、重要な新事実である。アイスランドは、デンマークと同様、強い非核の伝統を持ち、少なくとも公的にはNATO同盟の多くの核問題における見地や政策に反対してきた。アイスランドの核配備については、米空軍の海外基地について記述された公的文書からさらに裏づけとなる証拠を得ることができる。そこには、ケフラビクにおける作戦力の大きな変化に含まれるのは、「SAC(米戦略空軍司令部)の短期滞在機の1955〜1956年の滞在、…SAC(基地借用者)活動の廃止は、1959〜1960年におこなわれた」と記述されている。これは、付録Bに記述された核兵器の存在と完全に一致する。

 台湾 台湾にかつて2種類のアメリカの核兵器があったと聞くと、大抵のアメリカ人は驚く。マタドール巡航ミサイルは、1958年に初めて台湾に配備され、1962年半ばに撤去された。2番目の種類は、台南空軍基地に貯蔵されていた核爆弾である。米空軍は、1958年以来、台湾を通じて核搭載可能F-100戦闘爆撃機を交替させており、核爆弾が危機への対応を容易にするために配備されていたことは間違いない。1960年代には、空軍はF-4戦闘爆撃機を台湾に配備し、後に2〜4機を24時間即応警戒態勢に置いた21。また、戦闘爆撃機とその搭載兵器は、単一統合作戦計画(Single Integrated Operational Plan)として知られるアメリカの核戦争計画のもとでの攻撃任務を与えられた。
 1970年代にアメリカ政府が中国政府との関係を改善させるために、台湾から核兵器を撤去したことは明らかだ。中国訪問中またはその後で、リチャード・ニクソン米大統領は、台湾から核兵器を撤去すると誓約した。新しい関係の象徴として、ニクソンの訪問直後に、国防長官は台湾の核爆弾数の削減を命じ、作動解除リンクなどの物理的安全保障措置をとった。
 台湾は、冷戦初期からの同盟国であり国内政治における支持基盤の重要な媒体でもあったので、ニクソンが約束したことが広く知られていたならば、問題を引き起こしていたかもしれない。台湾からの核兵器撤去が持つ戦略的政策的な意味は、閣僚レベルで検討されるに至った。『歴史』は、ウィリアム・ロジャーズ国務長官とメルビン・レアード国防長官が1972年11月にニクソンに提出した覚書の文面を収録している。
 ロジャーズとレアードの覚書は、かなり削除されているものの、その大意は、貯蔵設備としての台湾を失うことは、外交政策上の大きな問題ではなかった、というものである。損失は、「前方貯蔵の選択肢が縮小される」という意味で不都合ではあった。しかし、戦闘爆撃機に課されていた中国本土に対する攻撃任務は、B-52か潜水艦発射弾道弾ミサイル(SLBM)によって加えることが可能だ。実際、1年後にヘンリー・キッシンジャー国家安全保障担当補佐官は、特別研究では、爆撃機とSLBMのポセイドンだけで、「アメリカが(中国を)むこう10〜15年のあいだは先制できるだろう」ことが示されたと述べた。23
 しかし、ロジャーズとレアードは、台湾国民党が、絶望感から兵器の強奪を試みるかもしれないと懸念していた。そこで、ニクソン政権が中国政府との約束にしたがい1974年に最後の爆弾を撤去した時、国防長官のジェームズ・シュレジンジャーは、F-4機より先に核爆弾を撤去するよう命じたのである。核爆弾より先に爆撃機が撤去されれば、国民党は急きょ何かをするかもしれないと懸念し、シュレジンジャーは「われわれは(国民党に)誘惑や機会を与えるべきではない」と見ていたのである。

最後まで機密にされる問題
 なぜ、ペンタゴンが配備地点の名称を一部は公表しながらほかを控えたのかは、いささか不可解である。なぜ、たとえば、核兵器がドイツに配備されていると認めながら、イタリアや韓国にあると認めるのは拒否したのか。 
 おそらく、これらの諸国は(何年も前に核兵器が撤去された国も含めて)、国土への核兵器配備に関する機密事項の公開と情報普及の権限をもっているということがある。『歴史』を解禁、普及させる過程は、時間のかかる複雑なものだった。明らかに、海外の政権を当惑させずにおくにはどの部分なら公開できるのかを決定するために、多くの省庁をたらい回しにされ、国務省では部局レベルまでおこなったかもしれず、おそらく在外大使館まで回されたことだろう。(25)
 核兵器配備の政治的経過は軍の歴史ほどにも知られておらず、冷戦時代の重要な白紙の章として残されている。核兵器の存在は、アメリカの外交政策の実行をしばしば阻み、かつもしくは問題となった。これは、とくに核兵器が特別な状況下(もっとも特別な場合、受入国は、存在するかどうか、どこにあるのか、いくつあるのか、を知らされていなかった)で配備された場合にあてはまる。
 配備についての話は、これで終わらない。1999年4月、NATOは最新の「戦略概念」で、核部隊は、「核、非核の両用航空機と少数のイギリスのトライデント核弾頭」で編成されていると宣言した。両用航空機の核の部分は、ヨーロッパの7カ国にある10の基地に残されたB61爆弾である。これらは、公式には認知されておらず、秘密のベールに隠されたままだ。これらの核弾頭は、NATOによる「恒常的な平時核有事計画」を廃止し、「もう核部隊は、どの国をも攻撃目標にしていない」という宣言とは裏腹に、国境の外に配備された5大核保有国の最後の核兵器である。(26) 
 核兵器とその配備は、今ではアメリカの軍事戦略では、相対的に二義的な役割を果たしているが、終わってからも長期にわたって保たれてきた配備に関する大きな機密性は、核兵器がいまだに国際政治において機密に属する問題であることを示している。この文書は、核の機密性の厚いベールの奥をほんの少し垣間見たにすぎない。アメリカの核配備の全容が語られるまでには数十年を要するかもしれない。言いかえれば、多くの歴史は、まだ解明されていないのである。 

脚注〔本文を補う項のみ訳出〕
 1.『歴史』は、国防長官(原子力担当)補佐官室によって作成され、1978年2月付となっている。執筆者の1人が1978年に最初の開示請求をおこない、1985年に大幅に削除された182ページ版を受けとった。1994年に、より注意深い、一語一句までの見なおしを求める訴えを、米国防総省に提出した。この長い作業過程の結果が、150ページ増えた現在の332ページ版である。最初の請求への回答として、国防総省は、合計114ページとなる36ページ分の文献一覧および9つの付録を含めないことを選択していたが、これは明白に情報公開法(FOIA)の規定に反する行為である。  
 4.解禁担当者の論理は時に不可解である。『歴史』では空母コーラルシーにかんする史実が削除されている一方で、ウェインシュタイン他著の『The Evolution of U.S. Strategic Command and Control and Warning, 1945-1973』とコンディット著の『The Test of War』では出版されている。
 7.ほかの2つとは、(A地点の)ニューメキシコ州カートランド空軍基地内にあるマンサーノ基地と(C地点の)ケンタッキー州フォート・キャンベルのクラークスビル基地である。
 10.グアムは、ワシントンD.C.の約三倍の面積を持つアメリカ領で、ホノルルの西南西3,700マイル(約6,000km)に位置している。1950年から1980年代まで、約20種類の核兵器があった。アガナの北東13マイル(約21km)に位置するアンダーソン空軍基地は、ほぼ40年にわたってSACの重要基地となっていた。第3空域補給飛行大隊は、151年5月にそれらの核兵器に責任を追うため到着した。1年前の当初の配備は、10発分の組み立て部品を含んでいたと思われる。1950年8月5日の墜落以後は、9カプセルのみが届けられた。これらのカプセルは、9発分の組み立て用だった可能性もある。
 11.ドイツには、1970年代初期から1998年3月まで、イギリスの核兵器も配備されていた。それ以前は、イギリス空軍はアメリカの兵器を使用していた。
 14.日本の核基地については、ヘイズ他著の『アメリカン・レイク(American Lake)』76ページを参照。ヘイズと同僚らは、日本には、完全な兵器ではないが構成部分が貯蔵されていたと正しく推断している。
 15.初期の配備は、国防総省によって1992年に初めて開示された。
 21.1969年に、南シナ海域において展開中の偵察隊を守るため、戦闘爆撃機が、「発進準備体制」(strip alert)に置かれた。
 23.キッシンジャーによると、ミニットマンミサイルは、ソビエト領空を飛ばなければならないため対中国使用はできなかった。
 25.もうひとつの理由は、外国人による放射線や他の物質への被ばくに起因する健康問題についての国防省の責任と訴訟に対する懸念に関係しているかもしれない。
 26.核の緊急事態計画は、疑いなく未だに存在する。そこには、他の基地に核弾頭を分散させること、今は核兵器を受け入れていない国に核弾頭を配置すること、さらに航空機を飛来させること、警戒態勢と作戦中に戦略爆撃機と潜水艦を海外地点に「復帰」させること、海外領空を核を搭載して偵察飛行すること、そして、状況に正当な根拠があれば、トマホーク核巡航ミサイルを洋上艦や潜水艦に搭載しなおすこと、などの計画を含んでいるかもしれない。


米極東軍の核兵器管理にかんする解禁文書

1956年11月「原子兵器配備書」





 以下の解禁文書に、核兵器または核物質だけを外した核兵器の貯蔵基地、もしくは緊急時の核兵器持ち込み基地になっていた日本国内13の基地が示されている。

APPENDIX I TO ANNEX D
to FEC SOP NO.
原子兵器配備書
氏名 通し番号 配備番号 場所
1.AFFE   
トマス・F・ブレイディ大尉 O-1560008  1-7124 池子弾薬庫、逗子、日本
ロナルド・W・モーアー大尉  O-1559945 Alternate A/C Off 同上
クエンティン・V・
マクローリン上級准将
W-2141377 R-6019 RYCOM、楚辺、沖縄
ジェームズ・W・ アンダーソン大尉  O-1575953  Alternate A/C Off 同上
2.極東空軍 
ドナルド・F・ルーケンズ大尉 AO-590419 AFB 5271 第7戦術兵たん部、嘉手納空軍基地、沖縄
アーサー・W・ストルート大尉 AO-1553183 AFB 5271 同上
*ヘンリー・L・ グリーンフィールド大尉  AO-532330  AFB 5271 同上
*ジョン・ハル中尉  AO-2227837 AFB 5271 同上
*ヒュー・チャルマーズ少尉  AO-3046204 AFB 5271 同上
ロバート・J・フランクス中尉  AO-3019841 AFB 5268 第7戦術兵たん部、#1、中央航空基地、硫黄島
リチャード・V・レプコウスキー少尉  AO-3051025 AFB 5268 第7戦術兵たん部、#1、中央航空基地、硫黄島
ラロン・C・アンドレス大尉 AO-772253 AFB 5230 第3整備補給航空群、ジョ ンソン空軍基地、日本
ジェームズ・J・コール中尉  AO-3028170  AFB 5270 第12戦闘爆撃機飛行隊、嘉手納空軍基地、沖縄
ロバート・E・マッキニー大尉  AO-787829 AFB 5207 第80戦闘爆撃機飛行隊、 板付航空基地、日本
ウォルター・W・パーカー大尉  AO-740536 AFB 5205  第8戦闘爆撃機飛行隊、三沢航空基地、日本
オーガスティン・G・ゲーディ・Jr. 少尉  AO-3008687 AFB 5205 第8戦闘爆撃機飛行隊、三沢航空基地、日本
ウィリアム・M・スタウツ中尉 AO-3020645 AFB 5204  第9戦闘爆撃機飛行隊、小牧航空基地、日本
3.極東海軍
エドウィン・H・ エガートン中佐  146809 海軍弾薬施設、佐世保、日本
パトリック・C・ドーシー中佐  124815  那覇海軍航空基地、沖縄
ロバート・V・グレーン少佐  275184  海軍弾薬施設、横須賀、日本
ハロルド・R・トゥルーズデール少佐  397657 岩国海軍基地、日本
カルヴィン・L・グリフィス上級准尉  430716 岩国海軍航空基地、日本
チャールズ・A・ベトリオン少佐  310288  厚木海軍航空基地、日本

*核部分のみ受け取り。



 
 

核兵器はどこにあったのか
「日本はどこまで知っていたか」

ロバート・ノリス、ウィリアム・アーキン、ウィリアム・バー
「ブレティン・オブ・アトミック・サイエンティスツ」2000年1・2月号より



 人は誤りから学ぶものだ、と言われている。

 1999年11月・12月号の本誌で、われわれは米国防総省が最近解禁した極秘の核兵器海外配備の歴史文書「核兵器の管理と配備の歴史:1945年7月〜1977年11月」について論じた。この報告の付録Bは、1950年から1977年のあいだ、アメリカの核兵器がどこに配備されていたかをアルファベット順に記した一覧が含まれていた。しかし、この文書が解禁される前に多くの場所名は黒く塗りつぶされていた。

 入手できる限りの最善の情報、歴史的文書からの類推、状況証拠などに基づき、われわれは塗りつぶされた27箇所のうち25箇所までの正しい場所をつきとめた。「I」ではじまる核兵器保管場所となった国名をわれわれは間違ってアイスランドとしていた。

 ブレティンが発行された後、アメリカ政府は、自らの核兵器についての「肯定も否定もしない」政策を破る例外的な行動に出た。10月26日、AP通信社にたいし、このリストで塗りつぶされていた「I」のついた国はアイスランドではない、と述べたのである。

 誰でも謎解きが大好きだが、今や謎は2つになった。カナダとキューバのあいだにリストされた「C」のつく場所は謎のままだったのだ。アイスランドでないならば、本当の「I」のつく場所はどこなのか?

 世界各地から電子メールや電話が殺到した。スリランカの記者は「C」はセイロンではないか、と言い、チャゴス列島(ディエゴ・ガルシア)だろうと言う者もいた。チリ、クリスマス島、パナマ運河地帯、コロンビアなど、Cではじまるその他多くの場所が挙げられた。

 しかし10月23日に、われわれは東京都立大学の社会言語学者のダニエル・ロング氏から、「C」のつく場所は、1946年から1968年までアメリカに占領されていた日本の父島ではないか、との電子メールを受け取った。それから10月27日に、非常に見識の高い日本のある人物から、父島に間違いないという証拠を得、さらに、核兵器が硫黄島にも配備されていたとの証拠も得た。

 こうしてわれわれは、「C」と「I」のつく場所が、父島と硫黄島であるという結論に達した。国立公文書館、米海軍公文書館での調査、専門家との電子メールのやり取り、この2つの島に赴任あるいは訪問した退役軍人などにたいするインタビューを経て、われわれは、ペンタゴンが40年以上にわたって守り続けた秘密について語れるようになったのである。

*  *  *  *

 新たに判明した事実をもってすると、「非核の国」と偽られてきた日本の姿はずいぶんと違ったものに映る。日本は日本としての原則を持っているのだろうが、ペンタゴンは自らの核戦争計画を持ち、許容範囲ぎりぎりまでそれを押し広げてきたのだ。父島と硫黄島に核兵器を置き、大量でさまざまな核兵器を沖縄に持ち込み、核爆弾(分裂物質部分を除いて)を本土の三沢や板付空軍基地(そしておそらくは厚木、岩国、ジョンソン、小牧空軍基地にも)に貯蔵し、核兵器を積載した米海軍艦船が佐世保と横須賀に配備されていた。極東司令部の「1956‐1957年核兵器作戦のための常時運用手続き(Standing Operating Procedures for Atomic Operations)」によると、日本国内で全部で13個所に核兵器あるいはその構成部分が置かれていた、あるいは危機や戦争の場合には核兵器を受け入れる準備がなされていた。

 核戦争計画者たちは完全な形での核兵器を本土に貯蔵する権利を手にしたことは一度もなかった。そして国務省は、この問題に関する対立や秘密の取り決めについての情報の漏洩が、アメリカ追従の与党自民党の没落を招くことは避けられないことを恐れ、決定的な対決をつねに避けていた。日本はそれでも広範な核兵器支援施設を受け入れていた。ピーク時には、その規模は他のどのアメリカの同盟国よりも大きかった。

 父島、硫黄島、沖縄がアメリカの占領下にあったこと、そして本土に貯蔵された核兵器がプルトニウムあるいはウラニウムの分裂物質部分を欠いていたことは事実であり、核兵器を積載した艦船は日本の国土からわずか2、3センチ離れて合法さを保っていた。全体として、この念入りな術策が、アメリカが「日本国内に」核兵器を置いていないという名目を維持したのである。

 核兵器による攻撃を受けた唯一の国として、日本は非核の政策を採用したが、それはひとつには、将来核攻撃の標的となることを避けるため、あるいはそうできると考えたからであった。しかし1950年代の初め頃から、ペンタゴンは、核戦争のさいには、日本と沖縄の米軍基地はすぐに破壊されると考えはじめた。このため、核戦争立案者たちは、父島と硫黄島に隠れ家を確保したかったのである。2つの島は、潜水艦と爆撃機の秘密の「形勢立て直しと再装備」のための基地となり、島に撤退しても、新たに攻撃を続けることができることになる。

 レーガン時代には、長期的核戦争遂行という概念が悪評をとったが、この計画は、核の時代の始まりからあったのである。

*  *  *  *

 日本本土から南東に500マイル、そしてアメリカが領有するグアムから北に850マイルのところに父島(英名はPeel Island)がある。小笠原群島 (Bonin) のなかで唯一人が住む島である。

 19世紀初め、英国が小笠原諸島の領有を主張し、1830年、在ハワイ英国領事が父島へ遠征隊を派遣した。団に加わったアメリカ人(マサチューセッツ出身の青年ナサニエル・セイボリーも含まれていた)など他の植民者たちは、父島に定住した。日本が1876年にこの島の領有権を得て以降も、西洋人たちは島に残った。第二次世界大戦開始のころには、人口は約4300人に増えていた(初期の移住者の多くは日本人と結婚していた)。

 日本による父島の要塞化は第二次世界大戦の約20年前に始まった。1951年に初めて島を訪れた当時の米太平洋軍司令官アーサー・ラドフォード提督は、地下に、コンクリートで内装され換気設備もある洞窟に、砲床、機械工場、燃料保管庫、弾薬庫などがあったと書き残している。ラドフォードは自伝「パールハーバーからベトナムへ」に、「地下のトンネルと洞窟が複雑に組み合わさって作られていた」と述べた。日本は父島を「太平洋のジブラルタル(堅固な要塞)だ」と豪語していた。

 父島から120マイル、そして東京から南南東に760マイル離れたところに硫黄島がある。(8マイル四方にある)3つの島からなる硫黄列島のうち最大の島である。日本軍は1944年に硫黄島を軍事的要塞とすることを決定した。硫黄島のレーダー施設はサイパンとテニアンから飛来するB-29米軍機を探知し、警戒警報を本土に中継した。3つの空港が建設され、硫黄島から出撃した日本の攻撃機は日本へ向かうあるいは日本から戻る爆撃機を悩ませただけでなく、マリアナ諸島のアメリカ軍基地を攻撃することもあった。

 参謀本部は硫黄島の攻落が必須であると決定した。1945年2月19日、米海兵隊の3個師団が島に上陸し、第二次世界大戦でももっとも悲惨なたたかいとなった、36日間にわたる激しい戦闘を開始した。3月26日には戦闘は正式には終結し、硫黄島はアメリカの支配下に落ちた。

 硫黄島の核兵器とのつながりは早い時期に始まった――広島・長崎への原爆投下にあたって緊急事態の際に使用されることになっていたのである。海軍はこの島に予備の爆弾積み込み用の作業所を建設した。もしエノラ・ゲイかボックス・カーのうちどちらかがテニアン島を離陸後にトラブルが発生したら、硫黄島に着陸して、待機させている別のB-29に原爆を積み替えて日本への飛行を続けることになっていた。

*  *  *  *

 1951年、米軍による日本占領の終わりが近づいたとき、両国は、「日本国内と周辺に」米国の陸海空軍を駐留させる広範な権利を米軍に与える安全保障条約に調印した。戦前日本の領土だった場所すべてに、完全な主権が認められたわけではなかった。アメリカは、沖縄、小笠原諸島、硫黄列島について、日本の「残留的主権」を認めていたにもかかわらず、ひきつづきこれらの島々はアメリカの支配下に置かれた。

 戦後、父島に移住していた西欧移民の子孫100人以上が、戦時中移住させられていていた日本本土から父島に戻ってきた。硫黄島の方はこれまでどおり無人であった。父島に住むアメリカ人の子孫は、米国市民権を求めてラドフォード提督に請願をおこなった。彼らはまた、小笠原諸島をこれからも米国の管理下に置くことを願ったのである。1952年3月1日、米国海軍は、父島の行政をおこなうため、小規模の駐留所を設立した。

 父島は潜水艦の寄港地となり、硫黄島は極東空軍の前哨地点となった。1950年代中頃、アイゼンハワー大統領が太平洋への広範な核配備を承認すると、父島と硫黄島は核基地となった。1955年、国防長官チャールズ・E・ウィルソンは、国務長官ジョン・フォスター・ダレス宛ての書簡の中で、少数の原子兵器を小笠原諸島と硫黄列島に分散する話を持ち出している。これにたいしダレスは、11月18日、異論なしと返答したうえで、これらの場所への原子兵器貯蔵は、今後の小笠原諸島への住民の帰還をさまたげない、と付け加えている。

 のち統合参謀本部の議長となったラドフォード提督宛ての解禁覚書によると、「1956年2月6日、海軍作戦の参謀[アーレイ・A・バーク提督]は、核部分を装着した兵器ひとつが、父島の貯蔵庫に置かれたと述べた」。この日付は、「56年2月」を「最初の持ち込み」の日と記載している付録Bの「爆弾」持ち込みの日付と完全に一致する。

 これと同じ月、「非核爆弾(ファットマンの設計をもつMk6にもっとも類似したもので、分裂物質の芯の部分がない)が硫黄島に送られた。こうして父島の洞窟と硫黄島の中央航空基地は、ソ連の日本本土侵略や攻撃に備えた、万が一の核陣地となったのである。

 われわれは、父島にどれだけの爆弾が配備されたのか、また、1956年5月それらがなぜ急に撤去されたのかは知らない。おそらく、数個の核爆弾は、まだ島に到着していなかったミサイルの替え玉だったのだろう。3月、海軍のレグルスミサイル用のW5核弾頭が、父島に持ち込まれた。その後の8年間、レグルス弾頭(とおそらくミサイル)は、父島の洞窟に隠されていた。

*  *  *  *

 レグルス兵器システムは、構想と実行において奇想天外であり、見た目もそう良いわけではなかった。ある乗員は、米艦グレイバックを初めて見たときの印象を「これまで見た中で最もぶかっこうな潜水艦」と記している。500マイルの射程をもつミサイルが、潜水艦上部にある、大きい、耐水性の吊手に取りつけられており、まるで横になった穀物倉庫が2つ並んでいるようであった。潜水艦は、長さ42フィートのミサイルを発射するためには浮上しなければならなかった。ターボジェットを装着した巡航ミサイルを吊手からはずし、レール発射台に載せ、位置を揚げてから発射された。

 レグルスは最初、1955年に、巡洋艦ロサンジェルスと空母ハンコックに配備されたが、核戦争立案者たちに、比較的攻撃にさらされにくい砲座からソ連の標的を威嚇する能力を与えたのは、レグルスの潜水艦配備であった。5つのレグルス搭載潜水艦―タニー、バルベロ、グレイバック、グラウラー、ハリバット―は、1959年から1964年までのあいだ北太平洋で41回の核巡視行動をおこなった。当初120キロトン級のW5核弾頭を装着していたこれらのミサイルは、その後1958年の秋から、2メガトン級のW27熱核弾頭を装着したものに強化された。

 グレイバックとグラウラーはそれぞれ4発、タニーとバルベロは2発つづ、原子力潜水艦の米艦ハリバットは5発のミサイルを塔載していた。ディーゼル潜水艦の場合、一回90日間の巡視行動のなかで、作戦の地域により、ミッドウェー諸島かアラスカのエイダック島のどちらかに補給のための寄港をする必要があった。

 ミサイルの通称であった「ブルー・バード」を発射するには、潜水艦は浮上して、標的の範囲内に位置していなければならなかっただけではない。これらの潜水艦には、攻撃潜水艦が随行しており、誘導指令発信のためミサイルの飛行ルートにそって動くこれら攻撃潜水艦との調整もおこなわなくてはならなかった。

 海軍では、最低4発のレグルスミサイルの常時配置を要件としていた。これは、2隻のミサイル塔載艦船をいっしょに配備するか、それぞれ独自に配備するかを意味していた。きびしいスケジュールを守るため、お多くの潜水艦は、真珠湾に戻るよりは、エイダック島から「連続」で巡視行動をおこなった。

 レグルス潜水艦の元艦長で、太平洋艦隊の核戦争立案者であった人物は、父島は「戦略的作戦において、搭載ミサイルの発射後また別の攻撃にも参加できるレグルス潜水艦の『再装填地点』であった」。これは、真珠湾、グアム、エイダックの基地とならんで、主要な在日米軍基地が核戦争において破壊されることを想定したものである。小さな基地である父島は、このような惨害をのがれ、生き残った潜水艦が再装填をおこなう安全港となる、と企画者らは考えた。潜水艦の予備部品と食料も洞窟に保管された。

 硫黄島も、核戦争作戦において同様の役割を果たした。第7戦術弾薬飛行隊第1分遣隊は、中央航空基地に核格納庫を設置し、1956年9月、核部分が装着された完備状態の爆弾が持ち込まれた(これらの爆弾は、1959年12月まで硫黄島に置かれた)。非核爆弾(分裂物質の芯部分をともなわない爆弾)は、1956年2月に持ち込まれ、1966年6月まで置かれた。
 硫黄島での任務についていた元空軍将校によれば、硫黄島は、グアムと沖縄という大規模で使用頻度もより高い米軍基地から離れていて人目につかない場所にあり、戦闘機部隊も爆撃機部隊も所属しておらず、復旧施設として機能していたという。爆撃機は、ソ連または中国の標的に爆弾を投下した後、二回目の一斉投下を準備する補給、再装填、再準備をするため、硫黄島に飛ぶことになっていた。

*  *  *  *

 1960年、ポラリスミサイルとポラリス潜水艦が導入されると、レグルスの時代は終わりに近づいた。1964年12月26日、米艦ダニエル・ブーンが、16発のポラリスA-3で武装し、最初の太平洋巡視行動に向けグアムを出港した。7月14日にハリバットが真珠湾に入港し、レグルスの時代に終わりを告げてからわずか5カ月後のことであった。

 1964年の10月から12月のあいだに、最後のレグルス弾頭が父島から撤去された。核戦争作戦におけるレグルスの役割は終わろうとしていた(ただし、1964年10月から、海軍の地対空ミサイル、タロス用の核弾頭W30が15ヵ月にわたり配備されたという不可解な時期がある)。小笠原諸島と硫黄列島の日本返還を求める新たな圧力が強まっていた。

 潜水艦の戦力の増強と多弾頭ミサイルの導入により、長距離の射程をもつ兵器の数がすさまじく増加したことで、前方基地の必要はますます小さくなっていた。それでも、戦争立案者たちは、この2つの島を手放すつもりはなかった。国務省が東京にある米国大使館に宛てた1964年の電報では、2つの島の重要性が強調されている。「現在、父島には使用中の海軍施設がある。小笠原諸島は、特別兵器格納庫、SAC(戦略空軍司令部)の牽制作戦・補給基地、潜水艦の前進基地、訓練場、NSA(国家安全保障局)とCIA(中央情報局)活動など、追加的な軍事機能のために必要である」。

 軍部の主張はあったが、ジョンソン政権は、より重要な沖縄の基地の復帰を事前に食い止めるために、父島と硫黄島は返還せねばならないとの認識を深めていった。ジョンソン大統領はまた、東南アジアにおける米軍の作戦にたいする日本の暗黙の支持が欲しかった。1967年11月14日と15日におこなわれた佐藤栄作首相との首脳会談の際、ジョンソンは、小笠原諸島と硫黄列島の日本政府への「早期返還」にかんする会談をおこなうことに合意した。

 国務長官ディーン・ラスクは、日本の外相との会談の場で、硫黄島を維持する権利を主張していた。中国政府もしくはソ連政府が、「アメリカは西太平洋から撤退しようとしている」という「誤算」をしないようにするためというものだった。日本側は、2島を維持するという米国側の考えを拒否したが、最終的には、佐藤首相は、返還合意は米国の安全保障上の利害を考慮したものとすることに合意した。

 この利害とは具体的に何であり、米国が日本側に求めたものは何だったのだろうか。海軍は、緊急時の核兵器貯蔵のために父島の使用権を強く求めていた。ジョンソン・佐藤会談の何日か前、統合参謀らは国務省にたいし、小笠原諸島にかんする合意はどんなものであっても、「将来敵の潜水艦の威嚇があり、」沖縄とグアムの「核格納庫が利用できない状態にそなえて、対潜水艦兵器を貯蔵する緊急の必要性」を考慮に入れたものでなくてはならない、と伝えている。1967年12月、会談のあいだ、米国の駐日大使U・アレクシス・ジョンソンは国務省にたいし、緊急時における核の問題について、「日本の後任政権が、米国の見解について承知するようにするため」日本側からなにか書面で誓約を得るよう試みると告げている。

 この交渉の最終的な結果は、明確といえるものからは程遠い。すでに佐藤首相と三木武夫外相は日本の国会にたいし、小笠原諸島の返還に核兵器は何ら関係していない、と述べていた。三木は、密約が漏れることにより、沖縄の核の役割が国内では公然である琉球諸島の返還が、さらに困難になることを恐れていたのである。

 最終合意には、秘密の付属文書が含まれたが、そこで使われている正確な用語はいまだ機密扱いである。日本の米国大使館から送信された1968年12月30日付けの電報の表題は、「小笠原諸島合意核貯蔵」となっているが、(米国)国立公文書館には、これに添えられた東京からの1968年4月10日付の「小笠原諸島合意―秘密付属文書」と題する電報のかわりに「引出し票」が、同じファイルにはさまれている。われわれは、アメリカと日本が「核貯蔵合意」に1968年4月10日に調印したと考えている。

 おそらく、ここでの了解が、軍事的緊急事態における核兵器貯蔵の権利をもとめる国防総省の最低限の要求を満たすものとなったのだろう。ただ、ここにそれ以外の何かが含まれていたかどうかは、まだ明らかではない。1968年6月、小笠原諸島と硫黄列島は日本に返還され、東京都の小笠原村の一部となった。

*  *  *  *

 「核アレルギー」をもつ国があるとすれば、それは日本である。第二次世界大戦の敗北と米国による占領は、1947年につくられた憲法の第9条に結びつき、そのなかで日本は、戦争と「陸海空軍」の保持を放棄した。日本の国会は、第9条を、国家の安全保障に必要と思われる軍事同盟を容認するものと解釈してきたが、その場合でも、核兵器を拒絶する道を逸脱しないことを選んでいる。この拒絶のかなめが「持たず、つくらず、持ち込ませず」という非核三原則である。これらの原則は、1956年に岸信介首相が、日本は核兵器の開発もおこなわないし、領土への持ち込みも許可しないと述べたことに端を発している。
 しかし、三原則が宣言されたときすでに日本の領土は、文言上はともかく、その精神において完全に侵害されていたのである。実際の核兵器は硫黄島からは1959年末に撤去されたが、硫黄島と同じ法的地位にあった父島には、1965年まで核物質部分付き弾頭が置かれていた。そしてもちろん沖縄には、1972年まであらゆる型の核兵器が満載されていた。在日米海軍の基地に停泊した核武装艦船をはじめとする船が、日本の港湾に自由に寄港していたのである。

 しかし、いかに踏みにじられていたとはいえ、日本の非核政策はまったく架空の話であったわけではない。国防総省は決して日本本土への核貯蔵の権利を握ったことはなかったし、沖縄からは1972年に核兵器を撤去しなくてはならなかった。

 歴史的状況により、アメリカ政府は、いくつかの誓約を受け入れざるを得なかった。第一に、広島と長崎の衝撃的な経験から、日本国民は核兵器にたいし強い感情を抱くようになり、日米両国のどの政権もこの感情に適応しなくてはならなかった。第二に、日本政府は、自国を超大国間の核戦争がもたらす影響から免れさせたかった。あの冷戦中にそのような目標を提案することはどの国でも難しいことであった。日本国民と日本の指導者にとって、この手の込んだ術策が、核からの純潔という幻想を維持させてきたのである。日本の政界の指導者たちは、すべてを否定することも、知らなかったと抗弁することもできなかった。

 米国政府との妥協は、あの暗い冷戦時代における日本の安全保障にとって必要だと、日本の支配層が考えていたことは疑いない。とはいえ、最初から最後まで、「非核の日本」は感情的な志向ではあったが、現実ではなかったのである。

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著者略歴:
 ロバート・S・ノリスは、ワシントンの天然資源保護協議会の上級研究分析員で、現在レズリー・R・グローブズ将軍の伝記を執筆中。ウィリアム・M・アーキンは、"Nuclear Battlefields (1985)"の共同執筆者である。この本はアメリカの核兵器の国外配備状況を記録した初めての出版物であった。ウィリアム・バーは全米安全保障文書館の上級分析員であり、アメリカ核の歴史ドキュメンテーションプロジェクトの責任者である。



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