――ねぇ、その眼に映るそれは正しいの?

4.

「……でもまさか、学校を自主早退するなんて思わなかったよ」
 指定鞄を手にそう(うそぶ)いた僕に、ノウはニヤリと顔を歪めた。
「だから、あたし独りでいいと言ったんだ」
「僕の従兄妹という繋がりで逢えるのに、僕がいなけりゃ意味がないだろ」
 今更ながら、僕は従兄妹から聞いた例の「傷つきやすい子」の話をノウにしたことを悔やんでいた。彼女にとって己の興味や関心は何よりの優先事項で、その為になら規範だろうが慣習だろうが平気で破り捨てる性分なのは、もう十二分に理解していた筈なのに。
「話を聞かせてもらうんだから、相手の都合に合わせるのは当然だ。況してや相手は小学生だから、夕方よりも早い時間でないと親御さんが心配するだろ」
 そうすました顔で言い遣る様は、いっそ憎たらしいほど浮かれている。自分の好奇心が満たされることに対してもあろうが、何より僕を苛めて楽しんでいるのだろう。おまけに彼女がサボった教科は生物で、文系の故にあまり重視されないらしい。まったく、受験科目の日本史だったこっちの身にもなれよな。
「そういえば、ノウはどこの大学を受けるの?」
 進路について訊いたことは今までになかったけれど、知りたがり調べたがりの彼女が進学を選ばない筈がない。そういう確信から発した問いは、僕には珍しく当初から具体性を孕んでいた。学区が違う所為でよくは知らないが、ノウが通っているのは割とレベルの高い公立校らしい。きっと大学の選択肢も、それなりに広いだろう。偏差値と睨み合って私学を専願した僕としては、羨ましい限りだ。
「……さぁ?」
「さぁ、って志望とかないのかい?」
 てっきり綿密な計画を立てているだろうと思っていたので、完全に肩透かしを食らった僕は、半ば呆れて頭ひとつ低い位置の彼女を見下ろした。
「どうしても行きたくない、反志望校ならあるけどな。――そんなことより、待ち合わせはここでいいのか?」
 従兄妹から指定された公園は、僕が想像していたそれよりもずっと広いものだった。元々は広大な溜池だった場所を埋め立てて造られたそうで、正面にちょっとしたグラウンド風の広場があり、その周囲には季節の草花が咲き誇る植え込みに沿って化粧煉瓦の遊歩道がある。そこを歩いていくと東西二箇所に遊具が設置されており、東側には小学生向けのアスレチックが、西側にはブランコや滑り台といった幼児向けのものが置かれていた。
「西側の、ブランコの近くのベンチとか言ってたから……多分こっちでいいと思うよ」
 まだ出来て間もなく、管理もされているからか、園内は整然としていた。猫避けだろう、滑り台の下に敷かれた砂場には青いビニールが被さっている。
「ふん、所謂造られた公園だな」
 ぐるりと周囲を見渡して、ノウがそう宣った。利用することよりも造ることを目的とされた、俗にいうハコモノ公共事業の産物だと貶したいのだろう。
「でもお陰であまり人もいないし、ゆっくり出来るじゃないか」
 肝心の相手は、まだ来ていないらしい。取り敢えず待つことにしてベンチに腰を落ち着かせた僕とは反対に、ノウは幼子のように周囲を観察し回っていた。彼女が動く度にぱたぱたとブルーのタータンチェックのスカートが舞い、胸元で同色のリボンが跳ねる。普段から黒や紺など、まったく飾り気どころか可愛げもないシャツと細身のジーンズぐらいしか身につけない彼女からすれば、そんな眼前の姿はとても目新しく見える。
「ああしてると、本当に普通の女子高生なんだけどなぁ」
 いやに大きな造りのトイレを覗きに行った背を眺め、ぽつりと漏らす。そのまま視線を上げると、不自然なほど晴れ渡った空が眼に焼きついた。ああ、このまま昼寝でも出来たら最高だろうに。
 こんなふうに、学校をサボってまでノウの調査や実験に付き合うのは、実のところそう珍しい事ではない。担任や各教科担当に目をつけられないほどの頻度で、自分でいうのもなんだが割と巧くやっていると思う。皆勤賞は諦めざるをえないが、ノウと過ごす経験はそれ以上の価値があると確信している所為もある。
 とはいえ、世間一般が期待するような……そう俗にいう特別な目で、僕がノウを見ているかという問いには、きっぱりと断われる。友情という言葉で括るには聊か疑問が残るけれど、少なくとも僕らにはそんな味は一切なかった。第一、ノウの通常思考は恋愛と呼ばれるものとは程遠く、仮に僕という対象を外したとしても、彼女が感情一義のものに溺れるとは到底思えない。……それにまぁ、僕だって好みというものがあるわけで。贅沢を言うなら、もう少し可愛くて愛想のいいコがいいよな。
「――お前ら、何をしている!」
 あまりの心地よさに瞼を下ろしかけた刹那、半分飛びかけていた意識を引っ張り込むように、周囲にノウの怒声が響き渡った。



 勢い込んで見たその光景に、僕は思わず息を呑んだ。
「犯罪だな、これは」
 冷やかなノウの言葉は、しかし瞬間後に大袈裟だと思った。
 確かに、その子は酷い状態だった。いくら管理されているとはいえ、土足で入る公共便所の床に顔をつけて伏せているのはどう見てもおかしい。更に彼女の服のあちこちには、軽く蹴るくらいでは到底付かないほど明瞭な靴跡が幾つもあり、剥き出しの腕や膝には数え切れないほどの擦過傷が走っていた。
「暴行、いや傷害罪だ」
 明らかな被害者を周りいるのは、おそらく同年齢であろう少女たちだった。誰が見ても歴然とした――いじめの状況だ。
「ユウ、警察に連絡しろ」
 ノウの細身から算段して、突き飛ばして逃げようとした一人が、腕をねじ伏せられて悲鳴を上げる。それを機に、一斉に全員が出口を塞いでいる僕に掴みかかろうとしたが、後方の幾人かはノウに絞められ、残りはなんとか押さえきった。けして剛強ではない僕が倒されなかったのは、全員の背丈がノウくらいしかなかったからだ。
「ケイタイを持ってるんだろ、早く電話するんだ!」
 痺れを切らしたように、ノウが僕に叫んだ。
「でも、この子たちはどう見ても小学生だよ。学校に連絡する方がいいんじゃ……」
「馬鹿か。小学生だろうが、なんだろうが、多勢で一人を嬲るのは犯罪だ。たとえ法的裁きを受けずとも、警察という社会に関わることで制裁を受けるべきだろうが!」
 学校では内々に納められてしまうのがオチだ――そう言い捨てるノウは、僕の脇下を潜りぬけようとしていた一人の首根っこを掴んで引き倒した。
「いじめの構造なんざ、単純だ。自分が感じた抑圧を正しい対象に当てずに、確実に自分より弱い存在に委譲する。――どうせ、ガキどものことだ。親だの教師だのから感じた圧力を、都合よく対象を見繕ってぶつけてたんだろうさ」
 汚いものでも見るかのように加害者たちを一瞥すると、ノウは徐に制服のブレザーを脱いで、漸く起き上がった被害者の肩にかけてやった。
「そういうヤツは、基本的に自分が悪いと思っていない。寧ろ、自分は抑圧に対する被害者だと言いやがる。……ふざけるなっ。てめぇの義務の始末も出来ねぇガキが、権利を叫ぶんじゃねぇよ」
 お前の気がすすまないんなら、あたしが警察に電話する――そう言って携帯電話を取り出した彼女を、下から伸びたか細い手が遮った。受話口を押さえるその甲には、赤い筋がいくつも走っている。
「やめて……やめて、下さい。わたし、私は大丈夫ですから」
 必死の様相で阻止しようとする、本来なら守ってやらなければならない手を、しかし、ノウは無情にも振り払った。
「別に、あんたの為にやろうとしてるんじゃない。あたしがそうしたいから、そうすべきだ思うからするんだ。――それに、あんたが鞘当に選ばれたのだって、何らかの原因があるんだろ?」
「ノウ! いい加減にしろ」
 最早、意固地になっているとしか思えないノウに、僕は堪らず携帯電話を奪おうと進み――不意に後ろから袖を引かれ、振り返った。そこで肩口で髪を切り揃えた、小学校中学年くらいのおとなしそうな女の子と目が合う。
 少女は驚いたように僕を見、ノウを見、そして茫然と座り込んだままの被害者の子を見て……小さく、悲鳴のように呟いた。
「――尚ちゃん!?」




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