01. 勝ち負け  ―或いは、絶対的敗北について―



 固着観念、という言葉がある。
 簡潔にいうと、ある特定の思考や捕らえ方に支配され、これによって行動が決定される場合を言う。まぁ意味合いとしては、一般に固定観念と呼ばれるものに近いかもしれない。心理学用語であるfixed ideasの訳語として当てられるのがこれで、類語として過価観念や優格観念(prevalent ideas)などがある。因みにこれが病的と自覚され、或いは人格に不適合である場合においては、強迫観念となる。
 ……などという、かつて習得した知識が脳裏で復唱される。そもそもこんな古い情報が海馬から引っ張り出された原因はすべて、今し方背にしたばかりの我が研究室での出来事によるものだ。


「自分、なんか、ヘンや!」
 単語区切りの叫びともに、突きつけられた白い指先。それは紛うことなく真っ直ぐに、この自分の胸元を示している。
 噛み締めるようにカップの底辺に残ったコーヒーを呷り、眼前で仁王立ちしている小娘をゆっくりと眺める。――嗚呼、また始まったのだ。前提のない、突拍子もない、ついでにいうとオチすらない、いつもの有村鞠明講釈が。
「……悪いが、今はお前の相手をしてられないから」
 溜め息一つとともに席を立ち、椅子の背に掛けていた上着を羽織る。適当な筆記用具とファイルを手にして、カップは……まぁ置いておくか。
 勿論、いくら大学助教授などという世間からすれば聖職に就いていようとも、この俺だって俗人だ。まだまだ清い仲とはいえ、思いの通じた相手の話を聞くのが苦痛とは言わない。寧ろ興味深い面の方が多いし、何より俺に伝える為だけに、この十一も年下の彼女が懸命に言葉を選択しているという事実は、堪らなく心地がいいことだ。
 だがしかし問題は、これから下らない、くそ長い、挙句結論の出ないという3K会議が予定されている現実だ。只でさえ精神的疲労も甚だしい事柄が控えているのだから、ここでいらぬ気力の消耗を避けたいと思うのは、けして不条理なことではないだろう。
「帰ってから遊んでやるから、大人しくしとけ」
 そんな暇があればな、とは心中で付け加えて、擦れ違い様に麦藁色の頭に軽く手を置く。この柔らかな温もりと滑らかな感触が、最近クセになりつつある。
「ちょ、ちょっと待ってや。人の話聞かんかい」
「だからそれは後で……って、おい」
 腕を掴まれ、振り向かされた先には不機嫌そうな、というより拗ねたような、年相応以下の顔。そして再び向けられる、右手の人差し指。
「ネクタイ、曲がってる」
「そりゃ、どうも」
 学内会議だから、そんなに気にしなくてもいいだけどな。そう呟きつつ、それでも折角の忠告にお座なりながら手をかける。
「やっぱり、絶対、ヘン」
 眼下でそう堅い声が響いたかと思うと、突如、タイの結び目に先程まで主張に専念していた指先が重なる。
「鞠明?」
 お前な、思いっきり引っ張るなよ。頚骨に響いたぞ、この馬鹿。
「なぁ先生、自分どういう結び方してるん?」
「どうって、別に普通だが?」
「だって、これ、絶対普通やない」
 上目遣いで睨みながら、彼女はネクタイ片手に唇を尖らせる。
「……俺はずっとこの結び方だったぞ」
「そやから変に曲がったり歪んだりするんやん。――ほら、結び直してあげるからじっとしてて!」
 自分としては別にどうでも良かったのだが、特に逆らう理由もまた無いので、素直に彼女に任せる。それにしても、背丈の問題でどうしてもこちらが半端な中腰にならざるを得ないのが……まぁなんというか、いまひとつ締まらない格好ではあるな。大体、こいつこそネクタイの結び方なんて知ってるのか?
「顎、邪魔。もうちょい上向きなさい」
 はい、スイマセン。叱責に従いつつ僅かながら盗み見た眼は真剣で、子どものそれのような手指が存外手際よく動いている。……というか、こんな複雑なことするのかよ?
「はい、完成ー」
 よし、とばかりに首肯する彼女を横目に、そっと結び目を触れてみる。今までより幾重分かの重量感は否めないが、確かに格段に整っている感があった。試しに洗面台の鏡に向かうと、まるで見本のように首元に鎮座した結び目に出合う。
「どう? こっちの方がええ感じやろ」
 嬉しそうに、まるで褒めて褒めてとばかりの仔犬のように寄って来た彼女に、取り敢えず頷き返した。
「それな、ウインザー・ノットっていう結び方やねん。先生がさっきまでやったんはプレーン・ノットで、別に間違いやないねんけど、普通のシャツには合わへんよ。カラーがもっと短いタイプのヤツに、合わせるもんやから」
 これくらい社会人としての常識やで――と言われ、そういえば成人式の時に似たようなことを聞いた覚えが無きにしも非ずで。まぁあの時はその場しのぎみたいなものだったから、すっかり忘れていた。……いや、今はそんなことより、
「鞠明、お前ネクタイの結び方なんて、なんで知ってるんだ?」
 そう、知識だけなら妙なところで博識の彼女からすれば、なんらおかしいことではない。だがあの手つきからしても、相当手馴れているといって過言ではないだろう。実家は自営業らしいし、一体どこで習得して来たんだか。
「ああ、高校の時の制服がブレザーでネクタイやってん。あたし、結構上手いやろ? いろんな人の結んであげててんで」
 お礼にちゅうとかされちゃったしー、などと満面の笑みを浮かべる。
「でも先生も出来へんとはなー、今度きちっと鞠明ちゃんが教えてしんぜよう」
「……そりゃどうも」
 視界の端に映る時計の文字盤、会議まであと五分。いくら身内での会議とはいえ、遅れるのは流石に不味いだろう。いや、それは単なる自分に対する言い訳か。
――確かこいつ、公立高校出身だったよな。それに『先生も』って。
 どうせ同性相手の話だろうし、万が一異性とであっても、可愛い過去じゃないか。馬鹿馬鹿しい、まったくもって無駄な邪推だ。大体、俺自身の過去を思えば、彼女がどういう付き合いをしてたって言える義理じゃない。
 しかしそう考えれば、鞠明だって成りはああでも、二十歳の女だ。知識は無論のこと、経験だって……いやでも、キスだけであの反応だったし。まてよ、演技ってことはないよな。まぁそこまで器用じゃないだろう。しかしあいつの人懐こいというのはアレだ、人によって自分を巧く適合させることが自然と出来るからで。ということはなんだ、もしかしたら知らず知らず俺に適合させているだけで、今まで見せてた反応やらはそこから生まれたものに過ぎないという可能性もありうるんじゃあ。
「先生、時間大丈夫なん?」
「ああ、うん、行って来る」
 とにかく、この問題は後で熟考することにしよう。そうでなければ、到底3K会議を乗り越えられそうにない。
 いつしか握り締めていたファイルを手に、ドアへ向かう。畜生、なんでこうも背後の気配に動揺しなきゃなんねぇんだ。
「せーんせ」
 回り込まれ、再び走る頚骨の痛みと――口唇にふわりと重なった弾力。
「ひとつ、あたしの出身校の男子制服は学ランです」
 ごく間近で悪戯に煌く、琥珀色の水晶体。
「ひとつ、お礼のちゅうはほっぺまで」
 そして吐息とともに、耳元で解かれる(そぼ)った熱。
「最後にひとつ、鞠明ちゃんがネクタイを結んであげた男性は現時点で一名限り」
「……鞠明」
 掴まえようとした腕からあどけない仔猫のように擦り抜け、その延長でついとドアを開ける。
「いってらっしゃい、英彦」


 なんなのだ、なんなのだ、なんだったんだ。
 冷えた廊下の壁に身を預けて、先刻に眼前で展開された光景を思い起こす。――それは、かつて彼女を力で捻じ伏せようとした時に感じた、凄艶なまでの無色の光背。
 固着観念に囚われていたのは、果たしてなんだったのか。
「……完全に、降参だ」
 ずるずると、なすがままその場に屈みこむ。底知れない、それでいてひどく甘やかな敗北感だけが、虚しくその身を吹き荒んだ。

 ややあって、漸く立ち上がるだけの気力を搾り出した緋川英彦助教授が、本来の目的である会議室へと幾分覚束ないながらも足を向けたのは、完全に定刻を回った後のことだった。


2003.10.26




参考文献

・ 岩波心理学小事典  宮城音弥 編 1979 岩波書房


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